2019年12月10日火曜日

Parecer (2)

前回、『現代スペイン辞典』と『スペイン語大辞典』における parecer のヘンテコな記述について議論した。その後すぐに、そのヘンテコ性の原因は分かったのだが、記事にする時間が取れなかった。ちょっと間があいて間が抜けた感じではあるが、報告しておく。

その原因は María Moliner だ。

Moliner (1981: s. v. parecer) の2番目の語義:
Tener una cosa el mismo aspecto que otra que se expresa, *parecerse a ella: ’Tienen una casa que parece un palacio’. ⦿ Tener una cosa cierta apariencia con la que *engaña haciendo creer que es otra o de otra manera: ’Con los espejos, la tienda parece mucho más grande. Con esa cara parece una santita’. ⦿ («a»). En la frase proverbial ’el que [quien] a los suyos parece honra merece’, «parecer» equivale a «parecerse».
で、明示的に parecerse を使って説明している。これを見て「似ている」という語義をつけてしまったのだろう。例文を見ても、ここを参照しているのは確実だ。

ちなみに * 印は «Indica que le artículo encabezado por la palabra a que afecta contiene un catálogo de palabras afines y relacionadas (Moliner 1981: tomo 1, LV)» で、この場合 parecerse の項目中に関連語彙が集められている。最初の方だけ挙げておくと:
Tener [Darse] un aire, aproximarse, asemejar[se], asimilar[se], evocar, estar hablando –hablar–, igualar, imitar, inclinarse, madrear, darse la mano, oler a, padrear, correr parejas, rayar en, recordar, rozarse, oler a, salir a, semblar, semejar[se], sugerir, tirar a (s. v. parecerse)
という具合だ (oler a が2回出てくるのはご愛敬)。これらの語を見て分かるように、星印は必ずしも同義関係を表すわけではない。しかし、上の parecer に出てくる parecerse は直接の語義説明だし、しかも注意を引く印がついている。まあ、これに引きずられたのだろうな。

なお、第1版には parecer とは別に parecerse という見出しがあり、上の関連語彙はその中にあるが、第2版では parecerse は独立した見出しではなく、parecer の中で再帰動詞の用法が説明されている。だとすると、見出し語ではない parecerse に * はつかないはずだが、第2版でも第3版でも * は取れていない (oler a の重複もそのまま)。

さて、María Moliner の辞書は大変評価の高い優れたものだが、もちろん完璧な辞書は存在しない。ここで parecer の意味を parecerse で説明するのは不適切だ。彼女が parecerse の意味で parecer が使われているとして挙げている諺の例は、むしろこの2つが少なくとも現代のスペイン語では意味が異なることの傍証になる。試しに el que a los suyos parece で検索すると約3,420件、el que a los suyos se parece だと約25,800件で、現代スペイン語としては parecerse を使った方が落ち着くようだ。

というわけで、かつては parecer が「似ている」で使われることがあったにせよ、今のスペイン語の記述としては、特に学習者向けの辞典においては、parecer と parecerse が別物だということが明確に示すべきだ。Moliner に遠慮することはない。と言うか、批判すべきところを批判するのが著者に対する礼儀だろう。

あ、それから前回「ゴリラに似ている」は parecerse で言えそうだと言った。これは特定のゴリラではなくてカテゴリーが対象になっている場合の話で、実際そういう例を見つけたからそう書いたのだが、2人のネイティブに聞いたら、どうも難しいようだ。1人は、自分は絶対そういう言い方はしないと言い、もう1人は「あの人何に似てる?」みたいな質問に対してなら言えるだろうけど普通言わない、と答えてくれた。2人はイベリア半島のスペイン語を喋る人たちで、見つけた例は中南米のスペイン語のようなので、もしかしたら地域差があるかもしれないが、個人差や別の要因が絡んでいるのかもしれない。

というわけで、とりあえず parecerse は特定の個体に似ている場合に限って使うのが無難みたいだ。


  • 宮城昇ほか (編), 1999, 『現代スペイン語辞典』改訂版, 白水社 (iOS版, LogoVista 電子辞典 2013-204, ロゴヴィスタ).
  • Moliner, María, 1981, Diccionario de uso del español, reimpresión, Gredos (primera edición 1966-67).
  • Moliner, María, 1998, Diccionario de uso del español, 2.ª edición, Gredos.
  • Moliner, María, 2007, Diccionario de uso del español, 3.ª edición, Gredos.
  • 山田善郎ほか (監修), 2015, 『スペイン語大辞典』, 白水社 (iOS版, LogoVista 電子辞典 2017-2018, ロゴヴィスタ).

2019年10月27日日曜日

Parecer

授業で「似ている」という日本語をスペイン語にするのに parecerse が使えるという説明をしたら、se のない parecer にも「似ている」という意味があると辞書に載っているがどう違うのか、という質問があった。驚いたのだが、「似ている」は parecerse であって、少なくとも僕の感覚では parecer は「似ている」にはならないと答えた。

あとで『現代スペイン語辞典』を見てみたら、確かに「・・・に似ている」という語義が載っている。迂闊にも見逃していたのだった。だが、この語義説明は良くない。その例文は「似ている」で訳せないものばかりだ。

  1. pareces española con este traje. 君はその服を着るとスペイン人みたいだ。
  2. Tienen una casa que parece un palacio. 彼らは宮殿のような家を持っている。
  3. Procura que parezca un libro. 彼はそれを本に見せかけようとしている

服装のせいでスペイン人みたいに見える人がいるとして、その人をスペイン人に似ているとは言わない。まるで宮殿のような家を宮殿に似ているとは言わない。本のように見える何かを本に似ていると言うことはあるかもしれないが、上の例はそれに当てはまらない。だから、これらの例文の日本語訳に「似ている」は使われていない。語義と例文がまるで呼応していないのだ。なんでこんなヘンテコな記述になっているのか良く分からない。

君がスペイン人みたいに見えるときには、別に特定のスペイン人が想起されているわけではない (española が無冠詞であることにも注意)。それに対して、AがBに似ていると言えるためには、特定のBが存在する必要がある (ただし後述参照)。同じ辞書の parecerse 「[+aに/互いに] 似ている」の例文は以下の通り。

  1. No se parece nada a su madre. 彼女は母親にまったく似ていない。
  2. Vosotros dos os parecéis mucho (en algo). 君たちは瓜二つだ (どこか似ている)

似ている・いない対象が、母親だったり君たちのうちのお互いだったり、確かに存在するわけだ (parecerse mucho は「瓜二つ」と言うほどは似ていないと思うが)。

例文1から3は、実際そうではないもののように見えるということで「まるで・・・のようだ」みたいな語義説明を入れれば良いと思うのだが、「・・・に似ている」としたことによって、例文4と5のような parecerse との違いが前置詞句を要求するかどうかの違いでしかないというような誤解を与える可能性を生み、学習者を混乱させることになる。しかし parecer (1-3) と parecerse (4-5) は意味が異なるのだから、その意味の違いが理解できるような形で語義を与えるべきなのだ。

『現代スペイン語辞典』は学習者に人気のある、広く使われている辞典で、僕も学生に勧める辞書のリストに入れているが、それだけに事態は深刻だ。それをボーッと放置してきた僕らの責任も重い。さらに憂鬱になるのは、この記述を『スペイン語大辞典』が踏襲してしまっていることだ。語義は「・・・に似ている」で、例文も良く似ている。

  1. pareces español con ese bigote. 君がそんな口ひげをしているとスペイン人みたいだ。
  2. No pa-rece (sic) usted en esta foto. この写真はあなたみたいではない。
  3. Tienen una casa que parece un palacio. 彼らは宮殿のような家を持っている。

iOS版の『大辞典』は所々行末じゃない語中にハイフンが入るという特別仕様なのだが、それは措くとして、例文7は写真 (に写っている人) があなたに似ていない、という意味ではない。この写真の中のあなたがあなた自身に見えないということであるはずだ。だから、ここの語義が「そうでないものがそのように見える」なのであれば、相応しい例文とは言えないだろう (編者がこの語義を立てた基準は分からないので見当外れかもしれないが)。

話はずれるが、口ひげのせいでスペイン人に見えるという例文は、ちょっとな。口ひげを生やしたスペイン人なんてあんまりいない、というかほとんどいないという印象を僕は持っているが、どうだろうか。顎ひげ barba のある人はそれより多いと思うが (barba があれば bigote もあるのが普通だろうけれど)、それでもそんなに沢山いるようには思えない。なので、ひげを生やすとスペイン人に見える非スペイン人というのをちょっと想像できないのだ。

さて、AがBに似ていると言えるためには特定のBの存在が必要だと書いたが、そう見えない場合もある。「に似た」で検索してみると、「ハリケーンに似た暴風雨」「統合失調症に似た症状を呈する病気」「結核に似た他の感染症」「キジムシロに似た花」「オーボエに似たベッケルフォーン」「山菜に似た有毒植物」「ゴリラに似た人」などが見つかる。最後の例は、例えば「太郎は上野動物園のナナ (2019年2月20日に死亡が確認された) に似ている」というようなことではなく、つまり特定のゴリラ1個体が問題になっているのではなく、ゴリラというカテゴリー (にまつわるステレオタイプ) が問題になっていると考えられる。他の例も「ハリケーン」などの範疇に属さないけれども同じような特徴を持つと解釈できる。つまり、特定の個体ではなくて特定のカテゴリーが「似」の対象ということになる。この場合、「ゴリラみたいな人」でも言っていることは変わらないような気がするのだが、この辺が、もしかしたら混乱の原因になっているのかもしれない。

ちなみに「ゴリラに似ている」のスペイン語訳は «se parece a un gorila» で良さそうだ。一方 «cuervo que parece un gorila» で検索してもらうと、日本で撮られたという動画を見ることができるが、これはやはり「似ている」ではなくて「ゴリラのように見える」だろう。


  • 宮城昇ほか (編), 1999, 『現代スペイン語辞典』改訂版, 白水社 (iOS版, LogoVista 電子辞典 2013-204, ロゴヴィスタ).
  • 山田善郎ほか (監修), 2015, 『スペイン語大辞典』, 白水社 (iOS版, LogoVista 電子辞典 2017-2018, ロゴヴィスタ).

2019年10月6日日曜日

Poblet

前回、poblet に見られるような -bl- [bbl] について「ッ」を使わなくて良いだろうと書いた。書いた後に、不正確な記述があることに気づいたので、訂正しながら補足したい。

Batlló [bǝʎ'ʎo] と allò [ǝ'ʎɔ] に見られる -tll- [ʎʎ] と -ll- [ʎ] の違いは綴りだけのものではなく、発音の違いを反映している。この発音の違いは、個人的なものとか周りの音によるものではない。音韻的な違いだ。カナ表記で原語の音韻的差異を全て表現しようというのは非現実的 (例えば l と r) だが、この場合は「ッ」の使用で簡単に実現できる。

一方、poblet [pub'blɛt] の [bbl] は、この音環境で自動的に現れる発音で、[bl] との音韻的対立がないので、音声あるいは聴覚印象に合わせて「ポッブレット」と書く必要はなく、「ポブレット」で十分だろう、というのが前回書いたことなのだが、事態はそれほど単純でないということが分かった。

Institut d’Estudis Catalans (2018: §2.3.4) によれば:
En la major part dels parlars orientals i nord-occidentals, la consonant oclusiva dels grups /bl/ i /ɡl/ pot presentar geminació de la consonant oclusiva quan es troben darrere de vocal accentuada en posició final del radical, tant si van seguits d’una marca flexiva (cobla, reblar [bbl]; arreglen, regla [ɡɡl]) com d’una vocal de suport (doble, poble [bbl]; regle, segle [ɡɡl]). Els derivats d’aquests mots i les seves formes flexionades es comporten de la mateixa manera, encara que aquest grup no es trobi immediatament després de l’accent: coblaire, publicar, poblet, doblarem [bbl]; arreglessin, reglament [ɡɡl].
ということで、説明と例が合っていないやつがあるけれども、基本的には /bl/ や /gl/ が語根末にあってアクセントのある母音の後だと長子音化が起き (poble ['pɔbblǝ])、そういう語の変化形や派生語でアクセントが移動しても起こる (poblet [pub'blɛt]) というわけだ。逆に言えば、同じ母音間の -bl-, -gl- であっても、長子音にならない例がある:
No hi ha, en general, geminació ni ensordiment de la consonant oclusiva en altres contextos, això és, en posició pretònica, quan no es tracta de formes derivades dels mots que fan geminació i quan el grup no es troba en el límit del morfema: oblidar, ablació; negligir, aglà. (ibid)

結局、[bbl] や [ggl] の出現は純粋に音環境 (母音間) によって起こるのではなく、形態論的あるいは語彙的な条件が関わっているということだ。この点が前回不正解だったところ。自動的な音声現象ではないので、publicar [pubbli'ka] vs. sublimar [suβli'ma] のような音韻対立ありげなペアを見つけることもできる (ただし、今の音韻論がここに対立を見るかどうか、/pubbl/ vs. /subl/ という音素連続を措定するかどうかは分からない)。

なので「ポッブレット」には音韻的支えがある程度あることになる。さらに、「ポッブレット」は pobulet とか pobret という綴りではないことを示すことができるというメリットもある。

とは言え、この [bbl] と [bl] の違いは綴りに反映されないから、bl を見たら「ッ」を入れろ、というわけにはいかない。入れるかどうかを知るには、どの語が長子音でどの語が短子音かを見極める必要がある。また、長子音化はカタルニャ語圏全体で起こる現象ではない。
Aquests processos no es donen en la part més meridional de l’oriental i del nord-occidental ni en valencià, en què la /b/ i la /ɡ/ es pronuncien com a aproximants ([β] i [ɣ], respectivament). (ibid)

だとすると、ルールとしては -bl-, -gl- には「ッ」を入れないとする方が無難だろう。個人的には、「ポッブレット」という字面はカタルニャ語っぽい気がして好きだけれども。


  • Bruguera i Talleda, Jordi, 1990, Diccionari ortogràfic i de pronúncia, Enciclopèdia Catalana.
  • Institut d’Estudis Catalans, 2018, Gramàtica essencial de la llengua catalana, https://geiec.iec.cat/

2019年10月5日土曜日

Batlló

カタルニャ語の固有名詞をカナ表記するのに「ー」は無くても困らないが、「ッ」はあった方が良いと思う。使える場面はだいたい次の3つだろうか。

  1. 長子音
  2. 母音間の破擦音
  3. 語末の閉鎖音・破擦音

今回は長子音 (重子音) を見てみたい。固有名詞で例が思いつかない場合が多いので、そういうときは普通名詞その他を使って説明することにする。なお、発音表記は、特に断らない限り Bruguera 1990 に従う (ただし、強勢の表記の仕方は変えてある。Bruguera は母音の上にアクセントを書いているが、この記事では音節初頭に ' を置いている。従って、音節境界の解釈が Bruguera と異なっている可能性がある)。ということで、音声表記は東部式、カナは5段式ということになる。

カタルニャ語の長子音は、同じ文字が並んでいて一目瞭然なものと、文字の組み合わせと発音についての知識が必要なものに分かれる。それから、「ッ」で表すのが適当なものとそうでないものという分類もできる。例えば Emma ['ɛmmǝ] の mm は一目瞭然、setmana [sǝm'manǝ] の tm は知識が必要だが、どちらも「ッ」ではなくて「ン」を使うのが無難だ (「エンマ」「センマナ」)。

一目瞭然で「ッ」の出番がありそうなのは vil·la ['billǝ] とかに出てくる l·l [ll] だ。厳密には同じ文字が並んでいるわけではないが ll が [ʎ] を表すので、区別のために点が間に入っている。これは「ビッラ」で良いんじゃなかろうか。

さて、一目瞭然じゃない方は、例えばタイトルに挙げた Batlló がそうだ。Bruguera 1990 に Batlló は項目として拾われていないが、bitllet [biʎ'ʎɛt] に見られるように、tll が [tʎ] ではなくて [ʎʎ] と発音されるということは広く知られている。Institut d’Estudis Catalans (2018: §2.3.7) によれば «El procés [d’assimilació] explica que en posició interior de mot resultin forçades les seqüències d’oclusiva seguida de nasal o lateral amb un lloc d’articulació diferent: atles, atlàntic [ll], ètnic, vietnamita [nn], ritme, setmana [mm], bitllet, butlletí [ʎʎ]» で、必ずそうなるとは言っていないのだが、なるのが自然だと読める。

その知識を使えば Casa Batlló が ['kazǝ βǝʎ'ʎo] になることは見当がつく。なので「カサ・バトリョ」と書かれることもあるあれは「カザ・バッリョ」になる。ちなみに Wikipedia では「カサ・バトリョとはスペイン語 (カスティーリャ語) 発音による[要出典]」となっていて、僕もぜひ出典が知りたいと思う。無理やり t と ll を発音しようとするカスティリャ語話者がいてもおかしくないが、上手くできるかどうか。ちなみに山田ほか (2015) には Batlle y Ordóñez という項目があり、発音は ['baʎe] という短子音表記になっている (カナ書きでは「バッジェ」)。

さて、setmana の [mm] も Batlló の [ʎʎ] も、同化によって長子音が生じる (そして t を発音しない) ことが綴りから分かる。Batlló [bǝʎ'ʎo] 「バッリョ」の長子音と allò [ǝ'ʎɔ] 「アリョ」の短子音の違いも見て分かる。

それに対して -bl-, -gl- が [bbl], [ɡɡl] と発音される現象もよく知られているが、同化による長子音ではない。例えば poblet [pub'blɛt] に見られる [bb] は、短子音との対立がない。なので、これは律儀に「ポッブレット」にしなくても良いのではないか。Monestir de Poblet に対してウェブ上で「ポブレー修道院」という表記が見られて、最後の -t は表記すべきだが、「ポブレット修道院」で十分な気がする。

  • Bruguera i Talleda, Jordi, 1990, Diccionari ortogràfic i de pronúncia, Enciclopèdia Catalana.
  • Institut d’Estudis Catalans, 2018, Gramàtica essencial de la llengua catalana, https://geiec.iec.cat/
  • 山田善郎ほか (監修), 2015, 『スペイン語大辞典』, 白水社, iOs版 ver. 1.0.2.

2019年9月29日日曜日

You are not evil

国連の Climate Action Summit における Greta Thunberg (グレタ・トゥ(ー)ンベリ) のスピーチが評判になっているので僕も聞いてみた。

いやあ、すごいなあ、と思ったのだが、僕がこのブログで取り上げるからには言語的な話題だ。でも «how dare you» の話ではない。僕が興味を引かれたのは、英語が持つ「反実仮想」という文法的な仕掛けだ。

学校英文法で今でも「仮定法過去」と言ってるのかどうか分からないが、だいたいそれのこと。スペイン語の学習文法書では、接続法過去 (過去完了) と直説法過去未来 (過去未来完了) が登場する「非現実的条件文」とかその応用みたいに扱われるあれだ。とりあえず「反実仮想」という、まあそれなりに使われているんじゃないかと思う用語で呼んでおくことにする。現代日本語には、文法的な仕組みとして反実仮想を示す手段がない。もちろん、反実仮想を言い表すことはできるが、文法的にそれが明確に表示されないので、文脈や語彙的な手段に頼ることになる。スペイン語文法の授業で「非現実的条件文」を日本語に訳すのに「もし・・・だったら・・・なのに」のようなパタンを使うのは、「はい、私はこの文が非現実的条件文だということが分かっています」という表明をしてもらうという以上の意味はほとんどない。

英語からでもスペイン語からでも、反実仮想をすっきり日本語に訳すのは難しい。しかし、上手く訳せようが訳せまいが、反実仮想の内容をちゃんと理解できることが学習者にとっては重要な課題だし、教える側は丁寧に取り組む必要がある (実際には取り組めていないので反省しなければいけない、という部分を言わなくても、「必要がある」の活用形で示すことができるのが英語やスペイン語なのだが)。

さて、グレタのスピーチにおける反実仮想をちょっと見てみよう。司会者の «What’s your message to world leaders today?» を受けて «My message is that we’ll be watching you» という言葉でスピーチを始め、そのすぐ後:
This is all wrong. I shouldn’t be up here. I should be back in school on the other side of the ocean.
ここで2回出てくる should が反実仮想の標識だ。と言うと意外に思う人もいるだろう。現代英語の should の使い方は色々あって、反実仮想じゃない例の方が多いのかもしれない。しかし、もともとは shall の過去形で、それが助動詞として使われて現在のことを指す用法の起源は明らかに「仮定法過去」と繋がりがある。手元の辞書は «In statements of duty, obligation, or propriety (orig. as applicable to hypothetical conditions not regarded as real), and in statements of expectation, likelihood, prediction, etc. (OUP 2007: s. v. shall, 15)» という風に、もとは現実と見なされない仮定的な条件について使われていたと説明している。

まあ、この例は反実仮想を持ち出さなくても、「夏休みが終わったので学校に行かなきゃいけない」のような解釈をする人はいないと思うが、実際にはニューヨークにいるわけで、大西洋の向こうで学校に通っているのが本来あるべき状態なのにそうなっていない、という当為と現実の乖離が反実仮想ということになる。

そして、反実仮想表現が興味深いのは、仮想と現実の2つを1度に簡潔に言うことができるだけでなく、仮想と現実の乖離がなぜ起きているのかの問いを聞き手・読み手に提起できる点だ。ここでは例えば、world leaders がちゃんと仕事していればここに来る必要もなかった、みたいな読みが喚起されたりする。レトリックの観点からすれば、たいそう便利な道具だと言えるし、対応する仕掛けがない言語に翻訳するのに骨が折れるのは当然だ。

次の例は、文法の教科書に出てきてもおかしくないような条件文。
You say you hear us and that you understand the urgency. But no matter how sad and angry I am, I do not want to believe that. Because if you really understood the situation and still kept on failing to act, then you would be evil. And that I refuse to believe.
あなたたちは私たちの声が届いていて事態の緊急性を理解していると言うけれど、私はそれを信じたくない、つまり、理解してないと思いたい、ということだろう。そして、あなたたちが事態を理解していないということを現実として措定することで、次の「仮定法過去」が可能になる。本当に理解した上でなお行動しないままなのであれば、という条件節は、実際には「事態を理解して」の部分だけが現実と乖離していて「行動しない」は現実だという解釈になるのだろうけれど、仮想的条件が設定された中での話なので、ひっくるめて「仮定法過去」で表現されている。そして、その (現実には成立していない) 条件が成立するならば、あなたたちは「邪悪」だということになる、というわけだ。僕の英語力では evil の語感がよく分からないので、ネット上に出回っている訳を借りてきたが、この帰結節の would は「だろう」と訳してはいけない。あくまで、現実と乖離した条件が成立したらそうなる、ということを表しているに過ぎない。仮想世界における論理的帰結だ。

そしてグレタは、そのこと、つまりあなたたちが事態を理解しつつ問題を放置している邪悪な連中であることを信じるのを決然と拒否する。議論の筋としては、理解しているとあなたたちが言う、しかし私は理解していないと思いたい、なぜならもし理解しているのならあなたたちは邪悪だということになるが、あなたたちが邪悪な存在だとは絶対に信じない、だからあなたたちが理解していないと考えざるを得ない、という感じだろうか。引用の最後の文は believe の目的語の that が前に出ているところがカッコいいと個人的には思うが、大事なのは refuse だろう。ここで断固として拒否されているのは、あなたたちを邪悪な存在として措定することだ。もしかしたら、彼女自身 world leaders が邪悪な存在に思えるぐらい深く悲しみ怒っているのかもしれない。しかし、にもかかわらず (no matter how sad and angry I am)、そういう世界観には立たない決意をしたのだろう。ただし、これは邪悪じゃない人たちみんなで仲良く頑張ろうねという話ではなくて、邪悪じゃないからには事態を理解してすべきことをせよ、それをしないなら・・・、という展開になる。これは彼女がそうだと決めた「現実世界」での話だから、終わり近くの «if you choose to fail us, I say we will never forgive you» が「仮定法過去」ではない現実的な条件文なのはよく分かる。

問題の反実仮想の条件文は、(彼女にとって) 存在する矛盾の要素を仮想世界と現実世界に分けて、見かけ上矛盾を解消することを通じて実際の矛盾の解消を求めるという、けっこう高度なレトリックの一部をなす。反実仮想というのは、非現実を談話の中に導入するのだけれども、実は徹底的に理詰めな表現なのだと言える (理詰めでなければ現実と仮想の乖離を明瞭に示すことはできない)。もちろん、彼女の世界認識を共有しない人はいるだろう。議論の文章なのだから、それは織り込み済みのはずだ。だから、批判や反論が出るのは当然だが、それらも理詰めで行われることが要求されるわけだ。

反実仮想は、日常生活に欠かせない婉曲表現と結びつく一方で、議論の筋を作るのに重要な働きをする。特に、スペイン語で言えば過去未来形、英語なら would の部分が、話し手・書き手の主張を表していない場合が多いのだが、学習者がそれを読み取れなかったりする。教える側がちゃんと対応しなければいけないと思うのだが、そもそも、そういうレベルの文章を読むところまで進めないことが多い。けっこう大きな問題だと思うのだが。

なお、ネット上でざっと見たところ、スウェーデン語の反実仮想条件文は英語のそれと似たやり方で作れるようだ。英語の if にあたる om に導かれる節内では動詞を過去形にする。帰結節では、英語の would に相当する skulle を使う。現代スウェーデン語では接続法はほぼ使われなくなっているが、英語の be にあたる vara の接続法過去形 vore が om 節内で使われるようだ (if I were の were がやはり接続法過去形だ)。


  • Oxford University Press, 2007, Shorter Oxford English Dictionary, MSDict Viewer Version 10.0.17.169 (iOS app)

2019年9月21日土曜日

Vocal àtona

前回までカスティリャ語のカナ表記について書いてきたが、もとはと言えばカタルニャ語の固有名詞をどう表記するかという話をしていたのだった。今回は Montsalvatge (3) で論じたことを補足して、先に進む準備をしたい。

カタルニャ語の無強勢母音体系は、大きく西部 (5母音体系) と東部 (3母音体系) に分かれる。バルセロナの方言は東部に属するので、伝統的に後者の体系が標準的と見なされてきた。その体系を単純にカナに対応させた3段式に従えば、Barcelona は「バルサロナ」となる。一方、綴りも考慮に入れた5段式では「バルセロナ」になる。5段式は西部の体系の素直な転写と重なるが、西部式ということではなくて、綴りを考慮した汎カタルニャ語圏的な方式だということは確認しておきたい。

木村 (1989: 193) は「原語のスペリングがわかるような書き方」が「スペイン語よりもむしろ英語、ポルトガル語のような母音弱化の著しい言語の表記において問題になる。たとえばポルトガル語の川の名 Douro の語末の -o は弱化して [u] と発音されるが、だからと言ってこれを「ドウル」と表記するよりは、スペリングを尊重して「ドウロ」と書いた方が、実用的である」と言う。ここで実用的というのは、元の綴りが分かって便利だということだろうか。なお、彌永 (2005) は「o (/u/, /o/, /ɔ/) は一律に「オ」と表記するという原則に立つ (167)」という点で木村と一致するが、「かつての二重母音 /ow/ は、短母音 /o/ に置き換わり、現代の標準的な発音では姿を消しました。[...] しかしながら、二重母音を保っている方言もあり、注意深い発音では、二重母音で発音することもあります (35)」と述べ、「無強勢の ou には「オ」、「オー」あるいは「オウ」、強勢のある ou には「オー」をあてる表記がよいと思われます (172)」としていて、それに従えば Douro は「ドーロ」になる。

彌永 (2005: 166) の「先人が行ってきた方法は、 [...] ポルトガル語の語を可能なかぎりローマ字表記された日本語と見立てて翻字してしまう方法と言って良いでしょう。原音を離れるかもしれませんが、この方法によって、ポルトガル語の方言的変異をはじめ、さまざまなポルトガル語のありかたを排除したカタカナ表記が可能になり、元のポルトガル語がすぐに頭に浮かぶ表記が行われてきました」という観察は興味深い。音声学・音韻論を知っているからこそ出来る、「原音」離れに対する評価かもしれない。

話が少しずれた。木村が英語やポルトガル語について言っていることがカタルニャ語にも当てはまることは今更説明する必要もない。元綴りの復元可能性については、特にウ段の使用が事をややこしくする。例えば Coromines を3段式で「クルミナス」と書いたとしよう。元の綴りを知らない人にとっては「クル」が coro なのか curu なのか、coru なのか curo なのか、あるいは cro なのか cru なのか、はたまた cor なのか cur なのか分からない。

また少しばかり脱線するが、ここで思い出すのはフランス語の ou に対応するカナ表記が「ウー」であることだ。僕は長年、例えば「ブールヴァール」に2個も「ー」が出てきて間延びするなぁと思っていたのだが、綴りの復元性から意味のある「ー」だということに気づいた。元綴りは boulevard だが、「ブー」が少なくとも b や be ではないことが分かるのだ。もちろん、真似してカタルニャ語で「クールーミナス」と書けば良いと思う人はいないだろうけど。

話を戻すと、綴りを考慮するやり方は伝統的に特に珍しいわけではなく、「原音」を重視した表記より劣っているとも言えない。

ここで、3段式と「原音」の関係に触れておこう。Montsalvatge (3) で僕は「[u] についてはオ段の可能性もあり、日本語話者がカナ表記を発音した時により元の音に近くなる場合も考えられる」と書いた。つまり「クルミナス」よりも「コロミナス」の方が Coromines の音声により近くなるかもしれない (かどうか本当は分からないが) ということだ。また「カタルーニャ語の [ǝ] は僕の耳にはアに聞こえることが多い」と書いたが、実際にはアに聞こえないこともある。例えば Generalitat が僕の耳に綺麗に「ジャナラリタッ」に聞こえることはまずなくて、最初の音節が「ジェ」に近い発音は珍しくない。もちろん、僕の耳が綴りに引きずられている可能性はある。しかし、[ǝ] は日本語のアイウエオのどれとも異なるということは確認しておく必要がある。結局、3段式の表記は東部方言無強勢母音の3母音体系を3段のカナに対応させた音韻体系の翻訳なのであって、音声の転写ではないのだ。だから、3段式と5段式の違いは、音声と綴りという単純な対立には解消できない。少なくとも、3段式が「発音に忠実」みたいな思い込みはなくしていきたい。

次回以降、カタルニャ語の話をするときは5段式で「コロミナス」とか「ジェネラリタット」とか「モンサルバッジェ」みたいな書き方をすることにしたい。これは単なる実験で、提案とか主張とかの意図はない。まあ3段式が主流っぽいので、別のやり方もあるということを示す意味はあるかもしれない。


  • 彌永史郎, 2005, 『ポルトガル語発音ハンドブック』, 大学書林.
  • 木村琢也, 1989, 「フアンとマリーア –スペイン語固有名詞のカタカナ表記に関する二つの問題点–」,『吉沢典夫教授追悼論文集』, 191-199.

2019年9月18日水曜日

Ll / y

前回の記事で原ほかが Valladolid を「バヤドリー」と書いているのに対して僕は「バリャドリッド」等と書いた。この点について説明しておこう。

スペイン語の ll という綴りは、伝統的に音素 /ʎ/ に対応する。それに対して y が /ʝ/ を表す。例えば callar の単純過去3人称単数形 calló と caer の単純過去3人称単数形 cayó に見られる綴りの違いは、異なる発音を表す。
calló [ka'ʎo] vs. cayó [ka'ʝo]
/ʎ/ はカタルニャ語の ll (millor)、ポルトガル語の lh (melhor)、イタリア語の gli (meglio) に対応する音でもあり、伝統的にリャ行で表記される。それに対して y に対してはヤ行が使われる。

しかし現在では /ʎ/ と /ʝ/ の区別を保っている話者は少数派で、calló も cayó も同じ発音になる人の方が多い: «El más extendido en el español actual es el subsistema no distinguidor entre /ʎ/ y /ʝ/ (RAE & ASALE 2011: §6.2a)»。僕も自然な発話で区別を保っている人の喋りを聞いたのは本当に数えるほどだ。区別をしない人の発音は、ll が y に合流する形になるので、この現象を yeísmo と呼ぶ (y の発音自体は地域によって [j, ʝ, ʒ, ʃ] など色々なのだが)。

この yeísmo が一般化した状況を踏まえて、原ほか (1982: vi) は次のようなルールを立てる。
ll, y はヤ行のカタカナで表記する。lli, yi は「ジ」とする。ただし、19世紀までの人名などについては、ll + 母音はリャ、リ、リュ、リェ、リョとする
Castilla カスティーヤ、Viscaya ビスカーヤ、Lazarillo de Tormes ラサリーリョ・デ・トルメス
このルールにしたがって ll と y をヤ行で表記する人はそれなりの数いるのだが、実は僕はこの方法は嫌いだ。理由は、ヤ行の響きがスペイン語の ll/y に対して緩すぎると感じるからで、特に「ー」と併用されると全身から力が抜けていくような気さえする。個人的な感覚だから、全然そう思わない人がいても不思議ではないのだが、音声学的には、少なくとも僕が聞きなれているスペイン語においては ll/y の発音の子音性は日本語のヤ行のそれよりも高い。摩擦的噪音がほぼ聞こえないとしても、狭めの度合いは明らかに大きい (つまり狭い)。実際にはより狭めのゆるい [j] や音節副音母音 [i̯] が現れる地域もある (メキシコの一部など –RAE & ASALE 2011: §6.4h) ので、そういう発音に慣れた人は脱力したりしないのだろうけれど。

20世紀前半のスペインの発音に関して Navarro Tomás (1985: §120) は «la forma más frecuente en la pronunciación correcta, por lo que se refiere a la posición de la lengua, es suficientemente cerrada para que no haya duda en considerarla como consonante fricativa. La articulación de la y normal española es, en efecto, algo más cerrada que la que se observa en al. ja, jung; fr. hier, piller; ingl. yes, young» と言っている。ドイツ語やフランス語や英語の [j] の音と一緒にしてはいけないのだ。

僕は授業で ll/y の発音を「ヤとジャの中間」と説明することが多い。そういう音なので、カナ表記の候補としてヤ行の他にジャ行が考えられる。現に原ほかは lli, yi には「ジ」をあてている。ジャ行子音の方がヤ行子音よりも子音らしい子音だということは言うまでもない。また、「ヤ、ジ、ユ、イェ、ヨ」という一貫しない表記法はヤ行の弱点のひとつだが、ジャ行ならその問題もない。さらに、ジャ行なら [ʒ] の発音もカバーできる。断然ジャ行の方が有利だと思うのだが、やはり y の文字はヤ行という伝統が強かったのだろうか。

聴覚印象と言語学的根拠に基づいてジャ行を優先させたのは石橋 (2006) だ。
「y」「ll」はなるべくジャ行音に統一する。 ただし、筆者が現地の発音を聴いた経験上あえて「ヤ」行音を採用した場合もある (【例】Puerto Cabello プエルトカベージョ、Guayana グアヤナ) (石橋 2006: 20)。
場合によって使い分けているということだが、
いずれにせよ、「ジャ行音表記」「ヤ行音表記」のどちらが「正しいか」という議論はまったく無意味である。なぜならスペイン語にはこの両者の音韻上の区別が存在しないからである (ibid.)
という指摘は重要だ。正確には「スペイン語にはこの両者 (=日本語の「ジャ行音」と「ヤ行音」) の区別に相当する音韻上の区別が存在しない」ということだろうけど、言っていることは間違っていない。スペイン語の /ʝ/ の音声的実現領域が日本語の /y/ と /zy/ の音声的実現領域にまたがっているので、スペイン語人が日本語の「ヤ」と「ジャ」の区別が苦手だという現象が起きる (日本語人が l と r の区別が下手なのと同じメカニズムだ)。裏を返せば、日本語で「プエルトカベージョ」と言っても「プエルトカベーヨ」と言ってもスペイン語人の耳には大して違わないと予想できるということだ (実験で確かめたら予想を裏切る結果になる可能性はあるけれども)。その上で、石橋が基本的にはジャ行を使うことにしたのは、彼の耳にはジャ行の方がしっくり来るということだったに違いない。

さて、僕も、ll と y を区別せず表記するならジャ行が良いと思う。しかし、正直に言うと、「ジュカタン半島のマジャ遺跡」とか「ジェペスが弾いたファジャの曲」とか書く勇気が出ない。現実には、フラメンコ関係のものを書くときはジャ行で表記している (「セビージャ (Sevilla)」「バジェホ (Vallejo)」「シギリージャ (siguiriya)」「アマジャ (Amaya)」など) が、それ以外では ll と y をリャ行とヤ行で書き分ける保守的な表記を使っている。だから前回の記事で「バリャドリッド」と書いたわけだ。

一方、「イェペス (Yepes) が弾いたファリャ (Falla) の曲」的な表記は「原語のスペリングがわかるような書き方 (木村 1989: 193)」なので、それなりのメリットはある。少数派ではあるが、実際に区別して発音している人たちもいるので、音声的な現実の支えもある。従って、リャ・ヤ方式を排除する理由は特にない。

まあ、でも、折角だからジャ行で統一する実験をやってみようかな。ちょっと考えます。

  • 原誠ほか (編), 1982, 『スペイン ハンドブック』, 三省堂.
  • 石橋純, 2006, 『太鼓歌に耳をかせ –カリブの港町の「黒人」文化運動とベネズエラ民主政治』, 松籟社.
  • 木村琢也, 1989, 「フアンとマリーア –スペイン語固有名詞のカタカナ表記に関する二つの問題点–」,『吉沢典夫教授追悼論文集』, 191-199.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • RAE & ASALE, 2011, Nueva gramática de la lengua española. Fonética y fonología, Espasa Libros.

2019年9月14日土曜日

Consonante final

前々回予告した、「ッ」の使い道について考えてみたい。

原ほか (1982: vii) は「語末の -d, -t は表記しない」として「Valladolid バヤドリー、Ortega y Gasset オルテーガ・イ・ガセー」という例を挙げている。しかし、これらを表記しない理由の説明はない。スペイン語を勉強したことのある人なら、語末の -d は発音しなくて良いと習ったかも知れないので特に不思議に思わないかも知れないが、規範として -d や -t を発音しないことになっている訳ではない。なので、これらをカナ表記で無視するというのは原ほかの判断による。

まず -d についてアカデミアの記述を見てみよう。

Fuera del imperativo, la pérdida de -d es hoy general en español, incluso entre las personas instruidas (paré, usté, verdá), sobre todo ante pausa, aunque muy frecuentemente se repone en el plural (paredes, ustedes, verdades). La ausencia de la /d/ en el plural, en realizaciones como parés o verdás, suele estar estigmatizada, a diferencia de las formas de singular, que se consideran coloquiales. La pronunciación cuidada recupera el alófono oclusivo o el aproximante, [la.βeɾ.'ðad] ~ [la.βeɾ.'ðað] la verdad, o un alófono aproximante relajado y ensordecido [ð̥], [la.βeɾ.'ðað̥], aunque en el área leonesa y en el centro y norte de Castilla (España), especialmente en las ciudades de León y Madrid, es muy frecuente la solución interdental: [pa'ɾeθ] ~ [pa'ɾeθ] pared (RAE & ASALE 2011: §4.7ñ).

語末の -d はそれなりの教育を受けた人でも落とすことが多い (vosotros/as に対する命令形では落とさない)。だから、授業で usté で構わないと教えるのは正当化される。しかし、それは話し言葉的な特徴であり、注意深い発音では -d が保たれる (保たれ方にはいくつか種類 –異音- がある)。この記述からは、語末の -d を表記する方が穏当のように思えるが、原ほかは一般的に見られる口語的特徴を拾ったわけだ。まあ、それはそれで一つの態度ではある。

一方、現代のスペイン語では:

Los segmentos consonánticos que aparecen en esta posición son coronales, fundamentalmente dentales y alveolares: /d/, /l/, /n/, /ɾ/, /s/ en el subsistema seseante y /d/, /l/, /n/, /ɾ/, /s/, /θ/ en el subsistema distinguidor (RAE & ASALE 2011: §8.7a)

で、語末の -t は外来語にしか現れない。そして、語末の /p/, /b/, /t/, /k/, /g/ については、発音される場合もあるし、されない場合もあり、時には子音を保った上で -e を付け加える場合もあるという (idem: §8.7c)。

興味深いのは、次の観察だ。

Existe, además, algunas voces en las que el uso ha generalizado la forma adaptada sin consonante final, como cabaré, carné o parqué, del francés cabaret, carnet y parquet, respectivamente. Este es el modo tradicional de adaptación de los préstamos que poseen la consonante /t/ en posición final de palabra: bidé, del francés bidet; caché, del francés cachet; corsé, del francés corset; chaqué, del francés jaquette. A pesar de ello, se pueden encontrar también pronunciaciones con conservación de la consonante final en algunas de estas voces (idem: §8.7c)

伝統的には -t を持つ外来語の -t を落として取り入れていた、というのだが、jaquette を除けば皆フランス語でも最後の -t は発音しない。だから、アカデミアのこの記述は、音と綴りを見事に混同した、ごくごく初歩的な誤りを含む。今の議論に即して言えば、むしろ、元の言語で発音していなかった -t を発音することさえあるという点が重要だ。発音されたりされなかったりなので、どちらかに決めれば良いということになる。原ほかの扱いは -d と同じで一貫性がある。僕は、書いてあるなら表記する方が無難だろうと思う。

原ほかが挙げている例は Valladolid と Ortega y Gasset、それから Ganivet だ (Madrid は原則通りなら -d を表記しないはずだが、慣用に従って「マドリード」を採っている)。試しに YouTube で聞いてみると、少ない例だが、これら4例の語末子音はだいたい発音されている印象だ (Gavinivet の -t を発音していない明らかな例が一つあったが)。ただ、日本語話者の耳にはその子音が聞こえないことが多いかもしれない。つまり舌先が歯に届いているけれども、その後の解放・破裂が (ほぼ) ない発音だ。

子音はあるのだが日本語人には聞こえにくい、この聴覚印象を尊重して、表記しないというのは理解できる態度だが、確かにそこにあるので、僕は特に「オルテーガ・イ・ガセー」はちょっとな、と思うのだ。

では、表記するとしたらどうするか。いくつか方法がある。

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Valladolidバリャドリドバリャドリードバリャドリッド
Madridマドリドマドリードマドリッド
Gassetガセトガセートガセット
Ganivetガニベトガニベートガニベット

上に挙げたオプションのうち、ガニベート以外はネット上で使用が確認できる (「ガニベート」も検索すると出てくるのだが、原ページに行くと見つからない)。どれも聴覚印象や原語音から距離があるが、それはもう、子音終わりの語を表記するのであれば避けられない。語中だって「マドリー madorii」の o をどうしてくれる、という話になる。だから、どれが元の音に近いかを考える必要はないだろう。

そこで、記号の機能に注目すると、「ッ」の有用性が明らかになる。スペイン語の場合、閉鎖子音で終わる語に限って「ッ」を使えば、直後の「ド」や「ト」が do や to ではなく d や t であることを示すことが出来る。木村 (1989: 193) の「原語のスペリングがわかるような書き方をする」に沿ったやり方になるわけだ。

僕は普段「マドリード」と書く。喋るときは「マドリー」と言うこともある (スペイン語を喋るときには -d を落とすことは多分ないが)。「マドリッド」は一番馴染みのない形だが、メリットがあることが分かった。これからこれを使うようになるかもしれない。Ortega y Gasset は「オルテガ・イ・ガセット」が落ち着く。

「ッ」に子音終わりを示す機能を持たせた、別の表記法を考えることも出来る。僕の知り合いに David という名前の男がいて、彼の名刺には「ダビッ」と書いてある。これは「ダビッド」よりもオリジナルの聴覚印象に近い。悪くない方法だと思うが、難点は、どの子音で終わるかが明示されないこと。「オルテガ・イ・ガセッ」とか「アラルコス・リョラッ (Alarcos Llorach –これは k の音)」とかと区別がつかなくなる。とは言え、「マドリッド」と「バリャドリッド」の「ドリ」だって全然違う2種の発音を区別していないわけだから、大した問題ではないのかもしれない。選択肢のひとつにはなるだろう。

  • 原誠ほか (編), 1982, 『スペイン ハンドブック』, 三省堂.
  • 木村琢也, 1989, 「フアンとマリーア –スペイン語固有名詞のカタカナ表記に関する二つの問題点–」,『吉沢典夫教授追悼論文集』, 191-199.
  • RAE & ASALE, 2011, Nueva gramática de la lengua española. Fonética y fonología, Espasa Libros.

2019年9月12日木曜日

Consonante larga vs. vocal larga

前の記事にいつくかコメントをもらった。予定を変えて「ッ」対「ー」の話を続けることにしたい。

僕を含めて、大学でスペイン語を専攻したあげくスペイン語で糊口をしのぐようになった人たちというのは、スペイン語の響きに対するイメージが身体感覚としてあって、それに基づいた美意識を持っている。その美意識に合わないものを受け入れるのは難しい。もちろん、イメージや美意識には個人差があるから、「ー」を多用してスペイン語の強勢のイメージをカナ書きにマッピングしたい人もいるし、僕みたいに「ー」は自分の頭の中で響いているスペイン語と似ていないことが多いからカッコ悪いと思う人もいる。

こういうイメージや美意識は、決してスペイン語そのものに内在しているのではなくて、我々が受けた教育に大きく影響を受けている。僕らの業界内での「ッ」に対する拒否反応は、僕ら自身が思っているほど客観的な事実に基づくものではない、というのが前の記事で言ったこと。正直に告白すると、僕は「オッホ」とか「セビッチェ」とかいう表記を見ると「ああ、素人さん」と思ってしまう。この感想は、スペイン語学の専門家に「ッ」を使う人はまずいない、という社会言語学的事実の反映ではあるけれども、そのように聞いてそのように表記する人がいるという言語学的事実に向き合うことを妨げる偏見でもある。今回、この年になってようやくそのことに気づいたので、反省を込めて前の記事を書いたという側面がある。

「オッホ」と「オーホ」と「オホ」がスペイン語話者にどう聞こえるかを誰か精密に研究してくれないかなと思っているところだ。

さて、そういう経緯があるので、前回の記事は少し「ッ」に肩入れした書き方をしたかなと思う。そこで、今回は「ー」派に有利にな情報を少し書いておこう。

まず、スペイン語の強勢母音が長くない、しかも日本語話者に長く聞こえないというデータは、スペイン人の、語単独の発音に基づくものだ。Navarro Tomás の本に出ている数値は元の論文 (Navarro 1916) を見ると自分自身が単語を区切って発音していたことが分かる。安富 (1992) は明示的に説明していないが、使った録音が出版物の付属テープということで、それは僕も見た (聞いた) ことがある。多分、語単独の発音の部分を使ったのだろうと思う。

スペインのスペイン語は母音が短いというのは多くの人が持っているイメージだろう。Troya Déniz (2008-2009: 309) は、カナリアスの母音はイベリア半島のより長く、プエルトリコのより短いと述べている (それでも長母音と言えるほど長くはないと言ってはいるが)。

また、語単独の発音ではなく、実際の喋りや文の読み上げでは、イントネーションや強調などの影響を受けて、母音の長さも変わり得る。«Digo la palabra ...» みたいなのの読み上げも含めて、単純に単独の語だけではない発音を材料にした研究で、強勢母音が無強勢母音より長いという報告をしているのは、Marín (1994-1995)、Cuenca (1996-1997)、García (2016)。この最後の García は、ペル (!) のアマゾン流域の方がリマよりも母音が長いとも言っている。また、語単独の発音だが、Krohn (2019) がコスタリカの発音について強勢母音が無強勢母音より長いと報告している。

ちょっとgoogleaっただけで見つかった論文がこういう結果を出していて、なあんだ、という感じではあるが、あくまで無強勢母音よりちょっと長いという話。「ー」を使いたくなるかどうかは、やはり人によるだろう。

というわけで、「ー」も「ッ」も現実をある程度反映していると言えるだろう。各自 (使うのであれば) 好きな方を使えば良いと思う。

あと、気持ちが入った発話だと臨時的に母音が長くなるという現象もある。ただし、これは強勢母音だけではなく、最後の無強勢母音が長くなることが多い。表記にもそれは反映されていて、ちょっと検索してみると «qué riiico» が81,900件、«qué ricooo» が895,000件、«qué riiicooo» が35,900件と、表記の点では最後の母音だけ伸ばすのが圧倒的だ。ちなみに «qué riiicccooo» は247件。

子音を長くするのは、僕の印象だと語頭で起こることがある。検索すると、こんなのが見つかった (セサル・アイラの Cómo me hice monja)。母音の引き伸ばしの例もふんだんにあるので、ちょっと長めに引用するが、子音のは最後の行に出てくる。

–Dingan “sí señorita”.
–¡Sí, señorita!
–¡Más fuerte!
–¡¡Síí seeñooriitaa!
–Digan “ñi sisorita”.
–¡Ri soñonita!
–¡Más fuerte!
–¡¡Ñoorriiñeesiireetiitaa!!
–¡Mááás fueeerteee!!
–¡¡Ñiiitiiiseetaaasaaañoooteeeriiitaaa!!
–Mmmuy bien, mmmuybien.


  • Cuenca, Mary Hely, 1996-1997, «Análisis instrumental de la duración de las vocales en español», Philologia hispalensis, 11, 295-307.
  • García, Miguel, 2016, «Sobre la duración vocálica y la entonación en el español amazónico peruano», Lengua y sociedad 14.2 (2014), 5-29.
  • Krohn, Haakon S., 2019, «Duración vocálica en el español de la gran área metropolitana de Costa Rica», Filología y lingüística de la Universidad de Costa Rica, 45.1, 215-224.
  • Marín Gálvez, Rafael, 1994-1995, «La duración vocálica en español», Estudios de lingüística de la Universidad de Alicante, 10, 213-226.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1916, «Cantidad de las vocales acentuadas», Revista de filología española, III, 387-408.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • Troya Déniz, Magnolia, 2008-2009, «La duración de las vocales tónicas en la norma culta de las Palmas de Gran Canaria», Philologica canariensia, 14-15, 297-312.
  • 安富雄平, 1992, 「スペイン語の母音の持続時間: 日本語の長音との比較において」,『ロマンス語研究』, 25, 81-86.

2019年9月9日月曜日

Consonante larga

長母音と対になる概念が長子音だ。とは言え、聞きなれない人が多いかもしれない。別の言い方に重子音というのがあって、そっちなら「あああれね」と思う人も多いだろう。日本語だと小さい「ッ」(促音) が音声的には長子音 (の前半部分)に当たる。それと「ン」(撥音) の後にナ行・マ行が続く時。国際音声記号で書く場合は、長いことを表す [ː] を使う (「行った」[itːa]) か、子音の文字を2つ書く ([itta])。

さて、カスティリャ語固有名詞のカナ表記についての提案の中に、「ッ」について興味を引くものがある。

  • 〔原則1〕スペイン語音についての音声学的観察結果を尊重する。
  • 〔原則2〕日本語のカタカナで表わしうるかぎり、なるべく日本人の耳に聞こえるとおりに表記する。ただし、日本人はスペイン語の発音に日本語の促音的なものを聞きがちであるが、スペイン語はそれを極端に嫌うので、この場合は原則1を優先させ、促音表記は用いない。 (原ほか 1982: vii)

この「促音表記は用いない」つまり小さい「ッ」を使わないというのは、我々の業界では割と浸透していて、これに従っている人は多いだろう。特にスペイン語学をやっている人はまず「ッ」は使わないんじゃないだろうか。

しかし、「日本人はスペイン語の発音に日本語の促音的なものを聞きがち」という観察から期待される通り、「聞こえるように」書いたであろう例がネット上で色々見つかる。順不同、思いつくままに固有名詞普通名詞取り混ぜて紹介すると: オッホ (ojo)、オルッホ (orujo)、バジェッホ (Vallejo)、アレッホ (Alejo);ケッソ (queso)、ベッソ (beso)、バルドッサ (baldosa);サラゴッサ (Zaragoza)、イビッサ (Ibiza)、チョリッソ (chorizo);ヒラッファ (jirafa);アレキッパ (Arequipa)、アレッパ (arepa)、グアッパ (guapa);アヤクッチョ (Ayacucho)、セビッチェ (ceviche)、シロッコ (siroco)。また、「リッコ」はイタリア語の ricco を写したものが多いが、スペイン語の rico に当たる例も見える。それから、スペイン語として意識されているかどうかは別として、マッチョ (macho) やチュッパチャプス (Chupa Chups) も入れておこうか。

これらの例ににおける「ッ」は音声学的に子音の長さを反映しているのかもしれない: «En posición intervocálica, inmediatamente detrás de la vocal acentuada, paso, pala, las consonantes son más largas que en ninguna otra posición (Navarro Tomás 1985: §179)。つまり、「ッ」が入っているところの子音は強勢母音の直後にあって、「長子音」と呼べるほどではないにしても、他の環境より長目なのだ。まあ、それに合わない例を挙げなかっただけの話ではあるが、パッと思いつくのはだいたいこのパタンだ (合わない例として今思いつくのは「カッシェロ (Casillero)」ぐらいで、これには別の要因が考えられる)。

というわけで、「ッ」の使い方も「ー」のそれと同じくらい合理的だということが分かった。しかし、スペイン語の専門家たちは「ッ」に対して冷淡だ。その理由を、引用では「スペイン語はそれを極端に嫌う」からとしているのだが、これは意味不明だ。日本語におけるカナ表記なのだから、聞こえるように書くということなら促音を拒否する理由はない。仮に、スペイン語としても受け入れられるような日本語表記を目指すということだとしても、日本語話者がスペイン語を喋っていて「オッホ」と言っても、生き物ではないスペイン語が「それ嫌い」とか言うはずもない。

もう少し真面目に言うならば、「スペイン語はそれを極端に嫌う」を定義してもらわないと、コメントのしようがない。ちなみに、日本語話者が「オッホ」と「オーホ」と「オホ」と言ったうちのどれが、スペイン語話者の耳に一番 ojo に近く聞こえるかという実証的研究があるという話を聞いたことがないので、僕はスペイン語話者による評価についても何も言えない。

もちろん、ああいう表現が出てきた背景を想像することはできる。スペイン語には母音の長短の区別がないのと同様、子音の長短の区別がない。そして、同じ子音が続くのは、単語の中ではごく少ない (innato, obvio...)。また、単語の連続によって同じ子音が隣り合う場合、子音1つ分しか発音されないこともある (tres salas ['tɾe.'salas], RAE & ASALE 2011: §8.8j)。つまり、同じ子音の連続を長子音としてではなく短子音で実現するというプロセスが存在する。なので、スペイン語の音韻構造には長子音を避ける傾向があるとは言えるだろう。しかし、短子音化は義務的ではない。「極端に嫌う」の根拠としてはまだまだ弱い。

原ほか (1982: viii) は、「最後から2番目の音節に強勢のある語では、その音節が開音節なら長音表記」というルールを立てている (例は「バルセローナ (Barcelona)」) ので、ojo は「オーホ」になるはずだ。でも、この表記は僕には「オッホ」とどっこいどっこいに見える (「オホ」が一番良い)。

彼らの原則1「スペイン語音についての音声学的観察結果を尊重する」に従うならば、スペイン語の強勢母音が必ずしも長くないという事実 (前の記事参照) は、上の「ー」の使用ルールを正当化しない。また、日本人学習者の耳にはスペイン語の強勢母音が長く聞こえない傾向がある (これも前の記事参照) のだから、原則2の「日本人の耳に聞こえるとおり」も「ー」の多用を支持しない。一方、「ッ」の使用は、もしかしたら Navarro の観察を繊細に拾い上げている可能性があるので原則1から外れていないかも知れないし、「促音的なものを聞きがち」な「日本人の耳に聞こえるとおり」である点で原則2に合っているかも知れない。となると、どっこいどっこいどころか「ッ」の方が良いということになりはしまいか。

正直に言えば、僕は「ッ」を使った表記はピンとこない。だが、これも恐らく慣れの問題だろう。まあ、「ー」を使わない実験中で、当然「ッ」も使わない派だから、「ッ」に慣れる機会があるかどうか分からないが。あ、でも、「ッ」には「ー」にはない使い道が考えられるので、その検討を次回することにしたい。


  • 原誠ほか (編), 1982, 『スペイン ハンドブック』, 三省堂.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • RAE & ASALE, 2011, Nueva gramática de la lengua española. Fonética y fonología, Espasa Libros.

2019年7月14日日曜日

Vocal larga

カスティリャ語固有名詞のカナ表記で音引き「ー」を使わない実験を続けている (実は今、「カスティーリャ」と書いたことに気づいて後から「ー」を消した)。さすがに幾つかは「ー」を入れたほうが断然良いと感じられるのだが、もう少し続けてみたい。

さて、カスティリャ語やカタルニャ語には母音の長短の区別がない。したがって、カナ表記で長母音を表す「ー」を使う必要は、原則として、ないはずだ。しかし、実際には「ー」が多用されている。なぜだろうか。

一番分かりやすい理由は「そう聞こえるから」というものだろう。実際、そう感じている人は多いかもしれないが、実は音声学的データは必ずしもそれを裏付けてくれない。

安富 (1992) は、日本人学習者がカスティリャ語の単語を聞いて「聞こえた通りに片仮名で書く (82)」という実験をしている。その結果を見ると、「ー」を使わない例が多い。同じ単語でも人によって「ー」を使う使わないの揺れが見られるものがあるが、使わない方が多い。11人のうち、例えば tapa は全員が「タパ」、caro は「カロ」が9人、「カーロ」が2人、という具合だ。唯一「ー」派の方が多かったのが vino で「ビーノ」が8人だった。この実験はカスティリャ語を大学で専門に勉強している3・4年生の学生が対象なので、その学習歴が結果に影響した可能性はあるが、長くは聞こえないという傾向があるとは言えるだろう。

また、木村 (1989) はカスティリャ語固有名詞のカナ表記について提案をしているのだが、そこでナバロ・トマスの有名な本のデータを紹介している。木村の言い方によれば「強勢母音の長さと、その音節タイプ・語内での位置との関係 (196)」だ。

  1. 長い:
    • Aguda の語 (n, l で終わる語を除く) papá, matar
  2. 半長:
    • Aguda の語で n, l で終わる語 sultán
    • Llana の語で、開音節 pasa
  3. 短い:
    • Llana の語で、閉音節 pardo
    • Esdrújula の語 páramo

ここで aguda は最後の音節にアクセントがある語、llana は最後から2番目の音節、esdrújula は最後から3番目の音節にアクセントのある語のこと。つまり、アクセントのある音節の母音と言っても、単語のどの位置にあるか、開音節か閉音節かによって長さが異なるわけだ。また、母音の長さを単語内部の位置と強勢の有無で分類したデータ (同じナバロ・トマスの本からのもの) も紹介している。

無強勢・語頭音節64ms
無強勢・語中・強勢より前58ms
強勢106ms
無強勢・語中・強勢より後50ms
無強勢・語末音節114ms

木村は「強勢音節の母音と語末音節の母音が長く、他が短いというはっきりした特徴が見られる。その長さの比率はほぼ2対1である (196)」と言っていて、確かにその通りなのだが、語末の無強勢母音が一番長いという点に注意が必要だ (木村はこの点には何故か言及していない)。だから、それに従えば Castilla は「カスティーリャー」と書いてもいいんじゃないか、ということになる (もちろん誰もそんな主張はしていない)。

これらのデータを踏まえて、木村は「語末・強勢・開音節は長音で表記する (196)」という規則を立てる。つまり、安心して長いと言えるのは最後の音節にアクセントがあってしかも母音で終わっているとき、ということだ。これに従えば Panamá, Perú は「パナマー」「ペルー」ということになる。確かに「ペル」は僕も書きたくない。

木村の提案の特色は、しかし、カスティリャ語の母音の長さと日本語表記における「ー」の使用をある意味で切り離す点にある。彼が依拠するのは、日本語における外来語のアクセントパタンだ。大雑把言うと、これらの語では終わりから3番目の拍にアクセント核があるという傾向がある。「アクセント核」というのは日本語の音韻論で使われる用語だが、大雑把に言うと、これがある拍までは高く発音され、その後は低くなる。この傾向に合わせて「言語の強勢音節の核母音を含む拍が、終わりから3拍目に来るように (198)」長音のしるしを入れるというのが彼の提案だ。

例えば Gómez は「ゴメス」で「ゴ」が高くその後下がる「ゴ↓メス」になる (アクセント核の直後、下がり目に「↓」を入れて示す)。一方 Felipe を「フェリペ」と書くと「フェ↓リペ」と読む人が続出することが予想されるが、「フェリーぺ」にすると「フェリ↓ーぺ」と発音してもらえるだろう。「ー」を入れることで「リ」を終わりから3拍目にした効果だ。

木村の提案はより詳細で、具体例に対応するための細則もあるので、興味のある人は現物を見て欲しい。僕は、これを見たときは巧みだと思って随分感心したのだが、今では基本的な考え方を共有していない。つまり、日本語なのだから「フェ↓リペ」で構わないと思っている (僕自身は「フェリ↓ペ」と発音するが、異なるアクセントパタンが問題になるとは思えない)。木村は「日本人がスペインの首都の名前を言っているのに、それを聞いたスペイン人が一体どこの話なのだろうなどと考えこむようでは困るのだ (193)」と言うのだが、日本語なんだから構わないのではないだろうか。木村は「マ↓ドリ」を念頭においているようだが、「マドリ↓ード」でも他の言い方でも、日本語ではこう言うのだと学び、慣れてもらえば良いだけのことだ。

もう1つ問題なのは、日本語のアクセント核とカスティリャ語の強勢を同じようなものと考えて良いのかということだ。日本語のアクセントは下降によって表現される。そして、最後に高いところを核と呼んでいるので、そこが「強い」ように思えるかもしれないが、それが果たしてカスティリャ語の強勢のように強く発音されているのか、おそらく検証されたことはない。僕は、日本人学生のカスティリャ語発音を聞いていて、アクセントのあるところを高く発音していても、それが必ずしも強く聞こえないという印象を持っているが、カスティリャ語のネイティブがどう感じるのか、興味のあるところだ。

石橋 (2006: 19) は「スペイン語のアクセント付音節は英語のそれとは異なり、(他の音節と比べて) つねに「長く、高いピッチで」発音されるとは限らない」と述べて、「ー」の使い方について独自のルールを用いている。常に長く高く発音されるとは限らないというのは英語でもそうだから、その点は修正する必要があるけれども、特にアクセントのあるところが周りの音節より低いことがあるという指摘は重要だ。単語単独の発音だと、平叙文の、最初のアクセントで上がり、最後のアクセントで下がるというイントネーションに近いパタンになる。アクセントが1箇所しかないので、そこで上がって後は下がるということになり、たまたま強勢音節が1番高くなるというだけの話だ。

さらに、木村も認める通り、「ー」の使用が全てを「解決」する訳でもない。例えば「ペルー」は「ペ↓ルー」になり、アクセント核は「ルー」とは一致しない。こういう場合、「ぺ」の高さと「ルー」の長さのどちらがカスティリャ語ネイティブのアクセント知覚に寄与するか、調べる価値はあるかもしれない。

というわけで、「ー」によってアクセント核・下降の位置をコントロールすることでカスティリャ語の単語のアクセントを「再現」する試みは、それほど有意義だとは思えない。もちろん、日本語の表記として無理がなく、カスティリャ語の発音に近いものが得られるのならば、「ー」の使用を妨げる理由もないのだが。

  • 石橋純, 2006, 『太鼓歌に耳をかせ –カリブの港町の「黒人」文化運動とベネズエラ民主政治』, 松籟社.
  • 木村琢也, 1989, 「フアンとマリーア –スペイン語固有名詞のカタカナ表記に関する二つの問題点–」,『吉沢典夫教授追悼論文集』, 191-199.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • 安富雄平, 1992, 「スペイン語の母音の持続時間: 日本語の長音との比較において」,『ロマンス語研究』, 25, 81-86.

2019年6月4日火曜日

Calamares

先日、某ファミリーレストランで食事をした時に、メニューに「カラマリフリット」というのがあるのに気づいた。イカを輪切りにしたのを揚げたやつのことだが、イタリア語で calamari は calamaro の複数形、fritto は単数形なので、輪切りにされた複数のそれのうち1つだけが揚げてあるのだろうかという議論になった。申し訳ないことに、この仮説を検証することはしなかったが、期待が裏切られて calamari fritti が出て来る可能性が高い。

だが、本当の問題は、この複数形は何の複数なのかということだ。スペイン語でも calamares fritos と複数形で言うので、これ以降 calamar / calamares の話にする (イタリア語の複数形とスペイン語の複数形が同じ理由で表れているとは限らないので)。さっきは、輪切りになった「それ」の複数形だというような書き方をしたが、実際そうだという保証はない。もしそうならば、その輪っかを1つつまんで un calamar とか、2つ食べて me he comido dos calamares と言えておかしくないはずだが、どうなんだろうか、という問題だ。ネット上の画像で見ると、calamar と単数形で言っているのは輪切りになっていないやつだ。

複数形というのは、単純なようでいて実は難しい。ネイティブには当たり前に思えるらしく、具体的で詳しい研究が見当たらない。Calamares fritos は何となく複数っぽい感じがするけれど、輪切りとは別のところに理由がないと断定はできない。あるいは puré de patatas とかはどうだろうか。直接見えるわけではないが、材料に複数のジャガイモを使っているのだろうか。それとも何か別の要因があるのだろうか。幸い、この辺りのことを調べている人がいるので、僕は何もしなくて良さそうだ。その人の研究成果が美味しい論文になるまでお腹を空かせて待つことにしたい。

2019年6月2日日曜日

Pasión

Pasión さて、『情熱でたどるスペイン史』の話も、そろそろ終わりにしたい。なので、最後を飾るに相応しいテーマが欲しい。導入として、フラメンコの歌について語ったこれなんかはどうだろうか。

愁訴(しゅうそ)するようなしゃがれ声、エネルギッシュに押し出される言葉。最初ごく小さく音節が長くのばされたうめき声が、やがて耳をつんざく悲嘆の声へと増大し、ついで急速なテンポに押しせまってきます。しかし最後には臆病風(おくびょうかぜ)にとらわれたかのようにおとろえ、くずれていくのです。怒りと憤懣(ふんまん)が悲哀とあきらめに交替し、荒涼たる悲しげな感情が歌い手をつらぬいていきます。(池上 2019: 184-185)

いやはや、想像力の豊かなこと。僕はカンテを聞いてこんな感想を持ったことはない。まあ、踊りの中には前半ゆっくりで後半テンポが上がる構成になっているものがあるので、それを拾っている部分があるのかもしれない。だが、最後の臆病風や悲哀とあきらめはどこから来たのだろうか???

前にも書いたが、フラメンコの歌詞の内容は多様だ。悲嘆と怒りと憤懣と悲哀とあきらめと荒涼たる悲しげな感情みたいな単純な分類に収まったりはしない。「ジプシーの魂のさけびのようなほの暗いカンテ形式 (池上 2019: 186)」と形容されたりするシギリジャでさえ、こんな歌詞で歌われることがある。

Delante de mi mare
no me digas na,
porque me dice muy malitas cosas,
cuando tú te vas.

「お母さんの前では話しかけないで。あなたが行った後ひどいこと言うんだから」ぐらいの意味だと思うが、母親が自分の恋人を気に入っていない時の魂の叫びなのだろう。こんな歌詞が、例えば「俺は今誰にも看取られずに病院で死んでいく」みたいな歌詞と同じメロディーで歌われるのが、フラメンコの面白いところ。カンテを味わうには形式だけ分かってもだめ、歌詞だけ分かってもだめ、ということなんだけど、それを悲嘆とか叫びとか臆病風とかで纏めないで欲しいと切に願う次第だ。

さて、今回のテーマはフラメンコではない。次の例を見るためにこの本の冒頭に戻る。

皆さんは、スペイン人というとどんなイメージを思い浮かべるでしょうか? 何と言っても情熱的な民族ということではないでしょうか。のんびりと悠長(ゆうちょう)で質素な生活をしている人たちが、ある時、いきなり情念のとりことなって大それた行動に走るのを目にすると、だれもが一驚(いっきょう)してしまいます。(池上 2019: iii)

僕はこの文章を見て一驚した。前半の「情熱的な民族」というステレオタイプが出てくるところは、一般的にそうなのかもしれないので良いとして、「のんびりと」以下は何の話をしているのか全然見当もつかない。そういう人を見たら誰もが一驚するのかもしれないが、これってスペイン人のことなのか??? こんな人いたっけ???

もちろん、多くない僕の知り合いの中に普段は悠長で質素な生活を送っているのに突然情念の虜になって大それたことをしでかすようなスペイン人がいないことは、そういうスペイン人が存在しないことを意味しない。しかし、著者はこのスペイン人像を本の冒頭に置いたわけだから、それなりに広く受け入れられたイメージだと考えているはずだが、僕はイメージのレベルでもこういうのには馴染みがない。

さっきの臆病風にせよ、この大それた行動に走る人にせよ、僕にとってかなり不思議なスペイン像は、「スペインとスペイン人を創っていった歴史は、フラメンコや闘牛に表れた情熱だけではなく、より深い意味での情熱の生成とともにあった (池上 2019: v)」という著者の考えに基づくものであるわけだが、その種明かしが本の最後の方にある。

それはサルバドール・デ・マダリアーガという現代スペインの作家・外交官が唱えている特性に近いものです。彼は『情熱の構造』(1929年) という書物で、フランス人が「思考の人」、イギリス人が「行動の人」であるのに対し、スペイン人の最大の特徴が「情熱の人」であるところにあるとしています。そしてその情熱とは、興奮を覚えながらも自分たちの内部を通り過ぎるままに放置する「生の流れと一致した感情」です。(池上 2019: 232)

なるほど、というわけでマダリアガの本を探した。勤め先の図書館には、池上が参照した邦訳版はなかったが、スペイン語版 (Ingleses, franceses, españoles) があったのでそれを借りて読んだ。僕の読んだ版は1969年にブエノス・アイレスで出たものだが、もともと1928年に英語で出版され、翌1929年にスペイン語版が出たのだそうだ (Wikipediaによる)。で、引用にある通り、イギリス人は hombre de acción フランス人は hombre de pensamiento そしてスペイン人は hombre de pasión という話なのだが、ここでの pasión は acción と対比的に用いられていて、能動に対する受動に力点が置かれている。読んだ印象としては「受動の人」、「成り行きまかせ (=「自分たちの内部を通り過ぎるままに放置する」)」だ。それは、悲嘆の叫びを上げたと思ったら臆病風に吹かれてしまうとか、突然大それたことをしでかすとかいうイメージと親和性がある。つまり、これらの「スペイン人」は実際に著者が出会った人ではなくて、マダリアガの考えに影響を受けた空想の産物なのだと考えれば辻褄が合う。

で、マダリアガの本だが、率直な感想を言えば、トンデモ本。1928年の時点では、当時のスペイン知識人のスペイン探しや raza (人種とか民族とか訳される) の概念の通用度からして、普通に受け入れられたのだろうけれど、今真面目に取り合うべきレベルの本ではない。邦訳でどう訳しているのか分からないが、raza española なんてものを自明視して、その carácter nacional の実在性を主張する本から、何が期待できるだろうか。でも、ステレオタイプの特徴は、何かしら「ああ、そうだよな」と思わせる部分があることなので、これを読んで感心する人はいるんだろうな。んー。

  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • Madariaga, Salvador de, 1969, Ingleses, franceses, españoles, Editorial Sudamericana.

2019年5月30日木曜日

Cante, baile, toque

『情熱でたどるスペイン史』がフラメンコを扱った部分、もう少し。

完成した形では、歌 (カンテ)、ダンス (バイレ)、ギター (トーケ) の三要素が不可欠です。それらの三要素の相乗効果により、人間の体験の根っこにあるものをまざまざと表現するのです (池上 2019: 184)。

これは完全に間違っている。どのように間違っているのかというと、3要素が「不可欠」なんてことはない、というごく単純な話だ。だが、なぜかこんな風なことを言ったりする人が時々いる。さらに、最近はほとんど聞かなくなったが、カンテ・バイレ・トケの「三位一体」なんていう言い方がされていたこともある。なので、それを真に受けてこんなことを書いてしまった著者はむしろ可哀想だと思う。でもちょっと考えれば分かることなのにな。

カンテの完成した形はカンテだ。ギターの伴奏がつくことが多いが、無伴奏の形式 (トナ、マルティネテ) もある。カンテがカンテとして成立するためにバイレは必要ない。というか、バイレが無い方がカンテとしての完成度は高い。フラメンコの愛好者たちは、カンテ1人ギター1人で繰り広げられるカンテのリサイタルを好んで聴く。このような歌が主役のカンテと、踊りの伴唱は、心構えの点でも表現性の点でも、かなり異なる。前者を「前に出て歌う歌 cante p’alante」後者を「後ろで歌う歌 cante p’atrás」と言うこともある。当然、前に出て歌える人と後ろでしか歌えない人とでは格が違うということになっている。とは言え、これも向き不向きがあることで、ソロで才能を発揮しても踊り歌に必要なリズムがいまいちなんて人もいるという話だし、ソロでは大したことないけれど泣ける踊り歌を歌うカンタオルもいる。

ギターも、カンテやバイレの伴奏とギターソロの間に似たような違いがあるだろう。ギターソロが、要素数が少ないから完成度が低いと考える人はいない。たった1人で「人間の体験の根っこにあるものを」表現できるギタリストはいるわけだ。もちろん、伴奏の名手達がフラメンコ史を作ってきたことも忘れてはいけない。フラメンコ史はカンテを中心に語られるのが普通なので、カンテ伴奏の方がソロより扱いが大きいぐらいだ。そして、そういう名手達の伴奏は本当に本当に深い。

バイレも、完全な無伴奏で踊ることは可能だが、多くの場合ギターとカンテを伴う。想像するに、「三位一体」みたいな考え方はバイレのあり方として出て来たのだろう。つまり、バイレにとって普通と言って良いフォーマットにおいて演者間の関係が持つ重要性を指摘した言い方だったのではなかろうか。演者同士がうまい具合に助け合い刺激し合って良いパフォーマンスができるということはある。逆に、協働が上手くいかなければ、それぞれが十分に力を発揮できなかったりする。まあ、バイレに限った話でもフラメンコ固有の性質でもないはずだが。

あ、あとはパルマ (手拍子) は打楽器の一種と考えられる。だから三位一体じゃなくて四位一体だ。パルマのソロというのはないが、パルマだけの伴奏で歌うことも踊ることもできる。ギター1本の演奏にパルマが加わることもある。

クラシック音楽なら、ピアノソナタがピアノ協奏曲より完成度が低いという人はいないだろうと思う。『白鳥の湖』を観に行って歌がなかったのが残念と言う人もいないだろう。なぜ、フラメンコについては最初に挙げたような不思議な発言がまかり通るのだろうか。僕には、日本のフラメンコ受容がバイレ中心だったこと以外の説明が思いつかない。

浜田 (1983: 12) は「踊り、ギター、歌 –あるいは歌、ギター、踊り。ともかくフラメンコの小宇宙は、この三つでできあがっている。どれかひとつでも欠けたら、このジャンルは淋しくなってしまう」と言っているのだが、これは「ジャンル」の話をしているのだ。オーケストラの曲だけしかなかったら、クラシック音楽のジャンルは随分淋しいものになるだろうと言うのと同じことだ。浜田は続けて「と言っても、矛盾するようだが、この三つはそれぞれ独り立ちもできる」と言っている。いや、全然矛盾しないのだが、浜田は当時の日本のフラメンコの状況を念頭に、バイレのことしか頭にない読者を想定してこんな書き方をしたのかもしれない。近年はカンテについての知識が広まって来ているので、もう、こんな書き方をしなくて良くなっている (と思いたい) が、フラメンコに触れたことのない人たちにとっては、まだまだ「ジプシーのダンス」みたいなイメージなのだろうか。

  • 浜田滋郎, 1983, 『フラメンコの歴史』, 晶文社.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.

2019年5月18日土曜日

Voz afillá

歌は一般的に声を使って遂行するものなので、それぞれのジャンルで声についていろいろな議論があることだろう。フラメンコのカンテについては、いわゆる美声でないものを尊ぶ伝統がある。『情熱でたどるスペイン史』の著者も、その点に気づいて「(たましい)の奥底からしぼり出されるようなしゃがれ声 (池上 2019: iii)」と言っているのだが、前半の魂云々は措いといて、「しゃがれ声」がフラメンコ的な声だと見なされているのは事実だ。

Molina & Mairena は、オペラで評価される声はフラメンコではむしろ欠点と見なされると言う。

Tiene el cante su “voz propia”. La del tenor o el barítono, del contralto o la tiple educados en el Conservatorio no sólo no sirve, sino que es incompatible con él. Exige una calidad especial y una manera característica de emitirla, calificada certeramente por Georges Hilaire de voz de arriére (sic) gorge o gutural, pero no basta con eso: la voz debe adquirir una peculiar tensión, hay que saber “estirarla”, como dicen algunos aficionado. Limpidez, transparencia, pureza, calidades tan estimadas en la ópera –y el canto en general– constituyen inadmisibles defectos en el arte flamenco (Molina & Mairena 1979: 82).

喉声、というだけでなく、独特の張りが必要だと言うのだが、僕もイメージとしては分かる。もちろん、Molina & Mairena が長くない引用の中で繰り返し強調しているように、クラシック音楽の声とは美意識がはっきり異なる。だが、これは声の使い方の問題で、「しゃがれ声」みたいな声質の話をしているのではないことに、注意が必要だ。Molina & Mairena は、続けて声の分類をしている。どう訳していいのか分からないので、日本語はつけない。それぞれの声の代表が挙げられているので、参考になるかもしれない (idem: 82-83)。

  1. Voz afillá (Manolo Caracol, María Borrico)
  2. Voz redonda (Tomás Pavón, La Serrana, Merced la Serneta, Pastora Pavón)
  3. Voz natural (Manuel Torre)
  4. Voz fácil (Paquera, Perla de Cádiz)
  5. Voz de falsete (Pepe Marchena, Chacón)

最初の voz afillá がタイトルに挙げたやつで、例えば、浜田 (1983: 364) が「マノロ・カラコールは、生来、またとない“ボス・アフィジャー”、つまりフラメンコ風なしわがれ声の持ち主であった」と述べている。性質としては «ronca, rozada y recia» で、19世紀のカンタオル El Fillo にちなんで、エル・フィジョ風と言ったわけだ。Molina & Mairena によれば19世紀に最も評価された声だという (何を根拠に「最も」だと判断したのか不明だが、とりあえず、時代による好みの変遷があるという点は重要だ)。ただし、カラコルの声は、僕の語彙力ではあまり「しわがれ」という印象でもないのだが。

2番目の voz redonda は «dulce, pastosa y viril» なのだという。名前が挙がっている4人のうち3人が女性だが、これはむしろ「男性的な」という記述に対する注釈的な意味を持つ。そしてこれが «voz flamenca» とも呼ばれるというから、この本が書かれた1960年代には、これがフラメンコの典型的な声というイメージがあったのだろう。録音を聞いてみて、パストラ・パボンつまりニニャ・デ・ロス・ペイネスは、もしかしたら「しゃがれ声」だと思う人がいるかもしれないが、弟のトマス・パボンの声は全然しゃがれていない。

3つ目のは voz de pecho とか voz gitana とか呼ばれたりもするそうで、voz redonda に近いが «rajo» という特徴を持っている点が voz afillá に近いのだという。僕の印象ではマヌエル・トレの声は嗄れていない。

Voz fácil は voz cantaora とも呼ばれ «fresca y flexible» で、フィエスタ向きの軽目の歌に合うらしい。パケラもペルラもしわがれ声ではない。

最後のは直訳するとファルセット、裏声ということになる。細かい装飾的なメリスマに適した声で、チャコンがレバンテ系のカンテに使ったというのだが、チャコンの録音を聞く限り、裏声で歌ってはいない (晩年の最後の録音では、部分的にもしかしたらという所はあるが)。マルチェナも、もし使ったとしても部分的だろう。言いたいことが本当の裏声ではなくてそれっぽい声質のことだったとしても、チャコンについての記述は明らかに声の使い方の話で、分類が一貫していないということが分かる。

まあ、この分類も Molina & Mairena の独断と偏見に基づくものだろうから、本来目くじらを立てるほどのものではないのだが、この本が持った影響力の大きさを考えると、フラメンコ史の一コマとして批判的に見ておくことに意味はある。また、挙げられているカンタオレスの名前が、最後のチャコンとマルチェナを除いてジプシーだというのも気になる。つまり、ここには「裏声が効果的な非ジプシー的な形式」対「ジプシーの声で歌う本格的なカンテ」という図式が透けて見えるわけだ。ちなみに、ジプシー的な声という概念があるが、僕には聞いただけでは歌い手がジプシーかどうか判別できない。

さて、フラメンコの声は、ある美意識で括ることが、もしかしたら出来るかもしれないが、その中では多様だということが分かった。また、時代ごとの流行りもある。1930年代の華やかなファンダンゴで競い合った高音・美声とか80年代90年代のカマロン声とか、いろいろだ。フラメンコを聞き慣れない人が「しゃがれ声」という言い方に頼る気持ちは分かるが、一旦その日本語を忘れて聞いてみることをお勧めする。

  • 浜田滋郎, 1983, 『フラメンコの歴史』, 晶文社.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • Molina, Ricardo & Mairena, Antonio, 1979, Mundo y formas del cante flamenco, 3.ª, Librería Al-Andalus (1.ª edición publicado en 1963, Revista de Occidente).

2019年5月12日日曜日

Penas

今回はカンテ (フラメンコの歌) の歌詞が「民族の悲哀を訴える (池上 2019: iii)」ものなのかどうかを考える。前回に引き続き、「民族の悲哀」は「〇〇民族の悲哀」と読み替え、「〇〇民族」は「ジプシー」のことと想定して議論を進める。

とりあえずの結論めいたことを先に書くと、カンテ・フラメンコには、ジプシーであることに起因する悲哀と呼んで良いものを表現した歌詞は存在するが、極めて少ない。

テーマとして最も多いのは (やっぱり) 愛だという: «Hemos repasado nuestra experiencia y las principales colecciones de letras y hemos comprobado que no sólo las amorosas son las más abundantes, sino que el resto (incluso las de inspiración religiosa) están en conexión con el amor (Molina & Mairena 1979: 100-101)». そして Molina & Mairena はテーマの分類をしている (idem: 101)。多い順かどうかは不明なのだが、少なくともその中に「民族の悲哀」はない。

  1. Letras amorosas.
  2. Maldiciones, denuestos y amenazas.
  3. Tema de la madre.
  4. Tema del padre.
  5. Dinero y pobreza.
  6. Saber y experiencia inútiles ante el amor y la muerte.
  7. Sentencias morales.
  8. La muerte.
  9. Fatalismo y destino.
  10. Honra y deshonra.
  11. Religiosidad e irreligiosidad.
  12. Burla y humor.
  13. Vanidad de las cosas mundanas.
  14. Astros y fuerzas naturales.
  15. Paisajes y criaturas naturales.

このことは、共著者の1人であるアントニオ・マイレナがジプシーのカンタオルであり、ジプシー的カンテの徹底的な擁護者であったことを考え合わせると、さらに大きな意味を持つ。

一方、飯野 (2002: 2) は「発生以後200年以上が経過した現在では、当然の事ながらコプラの中で歌われているテーマは多種多様となっており、フラメンコの本質を見誤らせかねない」と述べ、「フラメンコの発生にもっとも大きなインパクトを与えたであろうと見られる彼らの迫害の記憶が歌われている歌詞」を考察している。その中には、確かに gitano, caló, calorró といった「ジプシー」を表す語が明示されつつ、彼らが被る迫害や差別を歌った歌詞がある。ひとつだけ、飯野が「弱小民族としての嘆き」(!) と題したところから紹介しよう (idem: 12)。

En el barrio de Triana
se escuchaba en alta voz,
pena de la vida tiene
todo aquel que sea caló.

トリアナ地区で、ジプシーはみんな死刑だという声が響いた、ぐらいの意味で、この内容に対して「悲哀」という言葉は軽すぎるかもしれない。

それはともかく、現在の歌詞の多様性から見れば少数派だから取るに足らない、というわけにはいかない、というのが飯野の立場だ。

取り上げた歌詞の多くは、tonás, martinetes, carceleras などという名前で呼ばれる無伴奏のカンテ、および、嘆き節たる seguiriyas –かつては plañideras > playeras とも呼ばれた– に現れるものである。従ってフラメンコの最古層を成しており、その歌詞のもつテーマや響きが、その後に続くフラメンコの発展に際しても、フラメンコの根幹を特徴づけることになった。 (飯野 2002: 25)

確かにそうだと言えるのだが、ちょっと注釈が必要だ。ジプシーの迫害という歴史的事実があり、現在まで差別はなくなっていない。それがカンテに歌い込まれることがあるのも事実だ。また、飯野が言うように、「カンテの古層」に詠み込まれた歌詞がその後のこのジャンルの発展に一定の方向性を与えたというのもそうだろう。だが、これらの歌詞が、本当に本当のジプシーである迫害の当事者が歌ったものが伝えられてきたのだと思うのはナイーブすぎる。マイレナのカンテ・ヒタノ論が影響力を持っていた頃は、フラメンコというジャンルが確立するまでの何世紀かの間、ジプシーたちは内輪で (非ジプシーに知られない形で) 自分たちの歌を歌い・伝承していたという説が信じられていたこともあった。しかし、近年の研究で明らかになって来ているのは、19世紀半ばに芸能としてのフラメンコの成立に大きな役割を果たしたのは、「ジプシー」のイメージだったということだ。それ以前はモリスコたちが理想化されて文学的想像力の源泉になっていたのが、19世紀にジプシーがそれを受けつぐ。

Como sucedió con la materia morisca, cuando Ginés Pérez de Hita quiso pasar por originalmente musulmanes ciertos romances que eran sencillamente castellanos, también ahora se defendió la existencia de una poesía gitana “auténtica”. De ella habla un George Borrow y la creencia llega hasta Antonio Machado y Álvarez, Demófilo, cuando apunta la idea –que tanta fortuna posterior ha tenido– de que el cante flamenco no es sino una degradación, al andaluzarse y agachonarse, de un supuesto cante gitano primitivo. El hecho cierto, como demostraron ya Hugo Schuchardt y otros, es que ni este cante ni esta poesía “auténticamente” gitana han existido con anterioridad a la acuñación en e siglo XIX, del gitanismo idealizante. (Baltanás 1998: 213)

Baltanás は「ジプシーが密かに連綿と受け継いできたカンテ」は19世紀に創作されたものだと言っているわけだ。つまり飯野が挙げた歌詞は、19世紀以降にジプシーが理想化され神秘化され文学的なテーマとなった、その結果生み出されたものだということになる。

研究者の中には、18世紀の段階でジプシーという民族はすでにフィクションだっと言う人もいる: «la existencia de una raza gitana ya era una ficción en el siglo XVIII: Ser gitano significó menos pertenecer a un grupo étnico entre otros que pertenecer a las clases más bajas y despreciadas de la sociedad andaluza (Steingress 2005: 222)»。演じ手としてフラメンコの成立に寄与したのは、スペインの下層社会の人たちであって、特にジプシーを分けて考えることはできないというわけだ。だが、受け手が期待したのは「ジプシーの」芸能だった。特に外国からの旅行者たちの存在は大きい。そうなると、本物偽物取り混ぜて、演じ手たちは「ジプシーらしい」芸を見せ・聞かせることに精を出すことになるだろう。

フラメンコがジプシーなしには成立しなかったというのは本当だろう。だが、正確には理想化された (創作された) ジプシーのイメージなしには、と言うべきだ。「民族の悲哀」も、その過程でテーマ化され表現されたものなのだろう。もちろん、この「創作」が全然現実との接点を持たないものだと言っている訳ではないし、これでフラメンコの価値が下がる訳でもない。また、このイメージが今に至るまでフラメンコのあり方に大きく影響を与えて来たことも事実だ (僕は、作られた伝統は作られた時点で現実を動かす力を得る、とかなんとかどこかに書いた覚えがある。つまりそういうことだ)。

僕は個人的に、フラメンコの歌詞の多様性がフラメンコの良いところだと思う。ジプシーが出てくる歌詞は少なくないが、彼らが受けた迫害を歌ったカンテを生で聞いた明確な記憶はない。悲哀や苦悩を語る歌詞も少なくないが、それはジプシーかどうかに拘らず誰もが持ちうる感情だ。そして、人だから恋もするし、可笑しければ笑うし、Molina & Mairena が挙げたようないろいろな感情がテーマになる。フラメンコを聞いて、もし「民族の悲哀」しか聞こえてこないようだったら、耳の精度を疑ってみた方が良いだろう。

  • Baltanás, Enrique, 1998, «La gitanofilia como sustituto de la maurofilia: del romancero morisco al Romancero gitano de Federico García Lorca», en Steingress, Gerhard and Baltanás, Enrique (coord. y ed.), Flamenco y nacionalismo. Aportaciones para una sociología política del flamenco, 207-222.
  • 飯野昭夫, 2002, 「フラメンコの歌詞におけるジプシー的要素に関する考察 –迫害の痕跡を求めて」, 『語学研究』99, 拓殖大学言語文化研究所, 1-27.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • Molina, Ricardo & Mairena, Antonio, 1979, Mundo y formas del cante flamenco, 3.ª, Librería Al-Andalus (1.ª edición publicado en 1963, Revista de Occidente).
  • Steingress, Gerhard, 2005, Sociología del cante flamenco, 2.ª, Signatura Ediciones.

2019年4月27日土曜日

Modo de mi

『情熱でたどるスペイン史』における「高速タップ」の分析は終えたので、続きを見るために「はじめに」の部分を再引用する。

スペイン人の情熱が集約されたような芸能に、フラメンコがあります。激しいリズムの舞踏(ぶとう)と高速タップ、民族の悲哀(ひあい)を訴えるメロディーと歌詞、(たましい)の奥底からしぼり出されるようなしゃがれ声、薄暗いホールのなかで演じられる情熱のパフォーマンスに感化され、私たち観客の体内でもしだいに電流のボルトが上昇して、胸がいっぱいになってきます。私はこれまで、二度フラメンコを見る機会に恵まれましたが、いずれも圧倒的な感銘(かんめい)を受けました。(池上 2019: iii)

まず意味不明なのが「民族の悲哀」だ。例えば「人生の悲哀」と言えば、生きることが内包する、生きる人が経験する悲哀のことだろう。「サラリーマンの悲哀」はサラリーマンであることに起因するものだろうか。だが、「民族」はどうか。民族であることが内包する、民族が経験する、民族であることに起因する、という言い方が変なことから分かるように、「民族の悲哀」は意味をなさない。

ここまで読んで「そんなことはない、意味が通じる」と思った人は、おそらく具体的な「〇〇民族」を念頭に置いている。「あなたはサラリーマンですか」という問いが成立するのに対して「あなたは民族ですか」は成り立たないが、「あなたは〇〇民族(の人)ですか」はOKだ。心優しい読者つまりあなたは、「〇〇」を補って読んでいるのだ。研究者は意地悪な読者になる訓練を受けているので、こういう書き方にはツッコミを入れる。あなたは「〇〇」に何を入れただろうか? 「スペイン」? それとも「ジプシー」? それは著者の意図と一致しているだろうか? と言うか、なぜ著者は「〇〇」を書かなかったのだろうか?

一方、「人生の悲哀」は人生特有のもので、人ではない神や猫は人生の悲哀を持たないと考えられる。自営業者はサラリーマンの悲哀を経験しない。まあ、「悲哀」は専門用語ではないので、厳密に考えるとかえって現実から遠ざかることになるかもしれないが、意味の方向性は大体そういうことだ。そうなると、仮に「〇〇民族の悲哀」なんてものがあるとしたら、それは「××民族」にとっては無縁のものだろう。つまり〇〇民族であるからこその悲哀であるはずで、でなければわざわざそんな言い方はしない。

まあ、「〇〇」の想像はつく。それは多分「ジプシー」だ。実際、「ジプシーの悲哀」はネット上でもゴロゴロしていて、言い古された陳腐な表現だと言って良い。もちろん、その陳腐さは意味不明な省略を許す理由にはならない。

さて、とりあえず「民族の悲哀」を「〇〇民族 (多分ジプシー) の悲哀」と解釈することにして、さらにそれが何を意味するか深く考えないことにするが、その「悲哀を訴えるメロディーと歌詞」も、やはり意味不明だ。メロディに何の訴えを聞き取るのも自由だし、2回ぐらいのショー見物でステレオタイプ的なイメージを発見して喜んでいる人に説教するのは本意ではないが、これは研究者が異文化に言及する時に使うべき表現ではなかろう。

伝統的なフラメンコには曲という概念がない。あるのは「形式」で、スペイン語では estilo とか palo とか言う。例えばソレアとかアレグリアスとかタンゴとか言っているものがそれだ。大雑把に言うと、これらはリズム、調性、メロディなどによって特徴づけられる。ソレアもアレグリアスもリズム的には12拍子だが、調性の上では前者がミの旋法 (後述)、後者が長調という点で異なり、それぞれ複数のメロディが伝承されている。アレグリアスは12拍子・長調のカンティニャスというグループに属するが、同グループ内の他の形式とはメロディで区別できる。そして、いくつか例外と言ってよい場合はあるものの、メロディと歌詞は1対1対応しない。つまり、同じメロディで色々な歌詞を歌うのが普通だし、ある歌詞が異なるメロディで歌われることも珍しくない。さらには、複数の形式で歌われる歌詞さえある。

ここから言えることは、メロディや形式は具体的な意味を持たないということだ。つまり、メロディは〇〇民族の具体的な状況を、悲哀であれ何であれ、表現していない。同じメロディが、人生の悲哀を表現した歌詞で歌われることもあれば、恋心を訴える歌詞で歌われることもある。形式という器が、歌詞が扱う範囲も含めて基本的な「気分」を持ってはいるが、そしてそれは形式の理解にとって重要ではあるが、メロディが何かを訴えるようなこととは全然別の話だ。

もし彼が「民族の悲哀を感じさせるメロディー」とか言ったのであれば、個人の感じ方の問題でしかないので、こんな文章を書く必要もなかったのだが、フラメンコを聞いて悲哀とか哀愁を感じる人は少なくないようだ。これには恐らく、ミの旋法が関わっている (「ミの旋法」は modo de mi の訳だが、別の言い方もある)。浜田 (1983) が1章割いて論じているほどのテーマで、僕もその内容を十分に理解している訳ではないが、とりあえず、長調でも短調でもない旋法だ。長調がドを主音にし、短調がラを主音にするのに対して、ミの旋法はミを主音とする。試しに音階が出せるものでミファソラシドレミを出してみたら、ドレミファソラシドよりはラシドレミファソラに近いという印象を持つ人が多いのではなかろうか。これがフラメンコが感じさせる哀感の原因のひとつであることは間違いない。

ミの旋法を東洋的と感じる人もいて、アラブの影響が考えられたりした時期もあったようだ。しかし、ミの旋法「を地中海諸国にひろめたのがアラビア人ではなく、それより古い –おそらく遥かに古い– 時代から普及して (浜田 1983: 91-94)」いたようで、「少なくとも南欧 (ことにスペイン) では、「長・短両調型」ではない、いわゆる「古代旋法」の昔風な民謡群のうち、いちばん普遍的でかつ歴史が古い、強力なもの (idem: 94)」だという。実際、長調・短調の体系は比較的新しく、ヨーロッパの「1600年頃までの音楽はいわゆる「教会旋法」に基づいてい (東川 2017: 191)」た。しかも、教会旋法の中のフリギア旋法と呼ばれるものがミの旋法とよく似ている (似てはいるが違うらしい。どう違うのか僕は理解していない)。つまり、ミの旋法は古くから西洋で使われていた旋法の一種で、特に東洋的なわけでもないし、この旋法自体に特定の「民族の悲哀」が込められていたりもしないわけだ。

メロディと旋法についてはこのくらいで切り上げて、「民族の悲哀を訴えるメロディーと歌詞」の後半、歌詞については次回 (多分) 取り上げることにしよう。

  • 浜田滋郎, 1983, 『フラメンコの歴史』, 晶文社.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • 東川清一, 2017, 『音楽理論入門』, ちくま学芸文庫, 筑摩書房.

2019年4月20日土曜日

Braceo

『情熱でたどるスペイン史』の著者も「高速タップ」しか見ていないわけではない。

はなやかで不思議な高速リズム、緊張感あふれるダンスはどうでしょう。一瞬音楽に先立つように動く手には指先まで感情がこもっていて、手と胴があえて異なったリズム・動きをすることもあるそうです (池上 2019: 186)

やっぱり「高速」なのだが、そんなに速いですかね。ブレリアとかで本当に速いのはあるけど、一部だし、例えば踊りのソレアみたいに、これカンテの人よく歌えるなと思うぐらい遅いのもあったりする。あ、もしかしたら、著者が言っているのはテンポのことではなくて、刻みの細かさのことか。まあ、いずれにせよ、フラメンコがフラメンコであるためには、速い必要はないことに早く気づいてもらえたらと思う。

「不思議な」については、どうコメントしたものか。フラメンコで使われるリズム・パタンに不思議なものはない。馴染みがないものを「不思議」と言うのは、インフォーマルな話し言葉では許容されるかもしれないが、ここでこんなこと言うとフラメンコの神秘化に加担しかねないので、気をつけて欲しかった。

さて、「手」はスペイン語で mano で「腕」は brazo だ。前に書いた通り踊りには詳しくないので、バイレで mano を使うことを何と言うのか知らない。腕を使う方は braceo と言う。足と腕で zapateado と braceo になり、形が揃っていないのが気になる人のために言っておくと、実は zapateo という言い方もある。-eo の形も -eado の形も -ear で終わる動詞からの派生語として考えることが出来る。ついでにギターのラスゲアドにも似たような状況がある。

zapatearzapateozapateado
bracearbraceo
rasguearrasgueorasgueado

この2種類の形 (-eo と -eado) が区別なく同じように使われているのか、それとも何らかの違いがあるのか、僕は分からない。アカデミアの辞書では、どちらも «Acción y efecto de [xxx]ear» となっているのだが、それで直ちに使用上の区別がないとは断言できない。前回書いたように zapateado には踊りの種類としての使い方もあるので、その部分はもちろん重ならないのだが、rasgueado にはそういうことはなさそうだ。

実際の使い方がどうなのかは、ネイティブのフラメンコたちに聞いてみないことには分からないが、純粋に派生語の形態論の観点から言うと、zapateado が個々の足さばきではなくて踊りの種類を表せることについては説明がつくかも知れない。アカデミアの文法は «Se forman un buen número de sustantivos denominales que designan grupos o conjuntos con los sufijos -ado / -ada (RAE & ASALE 2009: §6.13g)» と言っている。つまり -ado の形は集合的な意味を表し得るのだ。そのページの例の中に zapateado はないので、僕の憶測に過ぎないのだが、まとまりを持った一連のサパテオがひとつの踊りを構成するという成り立ちなのかも知れない。僕の言語学者的先入観によれば、他の場面でも -eo が個別的で -eado が集合的という使い分けの傾向が期待されるが、そんな期待は裏切られることも多い。言語体系が提供する区別の可能性を、ネイティブスピーカーが利用する必要を感じないということなんだろう。

手の話に戻ろう。白状すると、池上が manos の話をしているのか brazos について語っているのか判断がつかない (最初読んだ時には braceo の話だと思い込んでいたのだが、そうとは限らないことに気づいた) し、彼が何を言わんとしているのかよく分からない。「一瞬音楽に先立つように動く手」については何となくイメージが湧くような気もするが、著者の意図が理解できている自信はない。「手と胴があえて異なったリズム・動きをする」と言われると、「不思議な」現代舞踊みたいなものが思い浮かんでしまうが、まさかそういう話ではないはずだ。誰か分かる人、教えてください。

その後「この足拍子はサパテアードとよばれ、一般のタップとちがって (池上 2019: 186)」という説明があり、サパテアドのことを知っていたんだと思ってちょっと安心する。しかし「一般のタップ」って何なんだろう。これに従えば、サパテアドは非一般のタップということになるわけだが、知っている人があったら教えて欲しい。

そして「足拍子のほか、指鳴らしや手拍子で調子を取ります (池上 2019: 187)」とのことだが、「指鳴らし (pitos)」や「手拍子 (palmas)」は踊り手の所作の一部なのだから、「調子を取る」みたいな表現はやめといたほうが良いのではなかろうか。

ところで、

Zapatear, no lo olvidemos, es incompatible con el braceo, de modo que su completo desenvolvimiento ha sido estigmatizado entre las mujeres, que se han visto limitadas a técnicas menores de pies: «marcar», «puntear», «escobillas» en momentos muy concretos del protocolo de los bailes, «pateos» o golpes en el suelo en los tránsitos entre sus partes consecutivas (Cruces Roldán 2003: 176)

という観察は興味深い。サパテアドとブラセオが両立しないというのは、踊ったことのない僕にとっては、言われて初めて気づいたようなものだが、サパテアドが男の踊りを特徴づけ、優雅なブラセオを見せるべき女の踊りには不似合いだとされてきたという点が重要だ。この論考は、タイトルからも分かる通り、ジェンダー論の視点から批判的にバイレにおける「女性らしさ」について考察しているもので、日本ではこの手の研究がほとんど紹介されていないから、ここに挙げておく。僕自身はちゃんと目を通していないので、そのうち読まなきゃとは思っているのだが、さて。

  • Cruces Roldán, Cristina, 2003, ««Cintura para arriba». Hipercorporeidad y sexuación en el flamenco», Más allá de la música. Antropología y flamenco (II), Signatura Ediciones, 167-204.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • RAE & ASALE, 2009, Nueva gramática de la lengua española, Espasa Libros.

2019年4月11日木曜日

Zapateado

カナ表記で音引きを使わない実験を少し続けてみようかと思う。ただ、カナ表記の話自体は、思ったより回数がかかりそうなので、一旦中断して『情熱でたどるスペイン史』に戻る。そう、終わっていなかったのだ。

僕は歴史が専門ではないので、例えば「カスティーリャ王国による半島全体の統一 (池上 2019: 79)」のような言い方に対してコメントするのはやめて、自分が少し勉強した分野についてちょっとばかり書いておきたい。タイトルから分かる通り、フラメンコについてだ。

スペイン人の情熱が集約されたような芸能に、フラメンコがあります。激しいリズムの舞踏(ぶとう)と高速タップ、民族の悲哀(ひあい)を訴えるメロディーと歌詞、(たましい)の奥底からしぼり出されるようなしゃがれ声、薄暗いホールのなかで演じられる情熱のパフォーマンスに感化され、私たち観客の体内でもしだいに電流のボルトが上昇して、胸がいっぱいになってきます。私はこれまで、二度フラメンコを見る機会に恵まれましたが、いずれも圧倒的な感銘(かんめい)を受けました。(池上 2019: iii)

これが、「はじめに」の最初のページに書いてある。う〜ん・・・

だが、タブラオのショーみたいなものを2回見たのが彼のフラメンコ経験の全てであるのなら、まあ許そう。その程度の経験でこれだけステレオタイプを羅列出来る度胸は別として、広く流布しているフラメンコのイメージはこんなもんだろうから、そこから一歩も出ていないからといって著者を責めてもしょうがない。

それにしても、なんでみんなそんなにサパテアド (!) が好きなんだろうな。フラメンコのバイレは、と言うかフラメンコに限らず踊りというものは、もちろん全身で踊るものだけれど、足さばきに目を奪われて全身の表現を見ないのは初心者にありがちなことだ。だが、スペイン人が撮った映像などでも、だんだん踊りが盛り上がって来て、さあここは全身を写して欲しい、という時に足だけアップになるというようなことは、残念ながら少なくない。僕はバイレにすごく興味があるわけでもないし、詳しくもないのだが、これじゃ表現 (つまりアルテ) が見えないじゃないかと思うわけだ。サパテアド習得用の教材ビデオじゃあるまいし。

歴史を遡ると、16世紀には既に zapateado という踊りがあったようだ。しかしフラメンコ的なバイレとしての zapateado は19世紀半ばに出て来たのだという。

Baile español muy antiguo, conocido ya en el siglo XVI, gracioso y vivo, de pasitos ligeros que a menudo se alternan con taconeo, generalmente realizado por mujeres o por parejas. Tiene poco que ver con el que se baila en la actualidad, del mismo nombre. // 2. Baile palpitante, sobrio de actitudes, de gran entidad flamenca, que surge a mediados del siglo XIX. Consiste en una combinación rítmica de sonidos que se efectúan con la punta, el tacón y la punta (sic; ¿planta?) del pie y es interpretado por hombres o, a veces por mujeres con el atuendo masculino de pantalón y chaquetilla corta. Actualmente el zapateado flamenco se intercala en la mayoría de los estilos, tanto por hombres como por mujeres, a veces quedando la guitarra en silencio, para resurgir junto a los demás elementos de acompañamiento en el momento de su mayor intensidad o remate. (Blas Vega & Ríos Ruiz 1990: s. v. zapateado)

検索するとメキシコでも zapateado が踊られているようだが、これがスペインに於ける16世紀以来のものや19世紀半ばからのものとどう関係するのか、僕は分からない。いずれにせよ、スペインでは19世紀の段階で zapateado は踊りの名前だった。そして男踊りだったわけだ。サラサテやグラナドスやトゥリナが作曲した zapateado は、これに発想の源があるのだろう。

で、この19世紀的な zapateado がどんな踊りだったのかが想像できる動画がある。zapateado Roberto Ximénez (あるいは Pilar López) で検索すると出てくるので、見てみて欲しい。名前の通りサパテアド中心と言うかそれしかしていないような踊りだが、Roberto Ximénez のこれは実に見事だ。«El Zapateado del perchel, que entra en los cánones más clásicos del flamenco, lo baila Roberto Ximénez con la limpieza y elegancia que transmite Pilar López a todos sus bailarines (Manuel Ríos Ruiz, 2002: II-263)» という評がある。もちろん、Ríos Ruiz が言うように、ピラル・ロペス舞踊団による上品で完成度の高い舞台作品であるということは忘れるわけにはいかない。普通に踊られていた zapateado は、もっと表面的な技見せ芸のようなものだったのではなかろうか。なお、「歌のつかないレパートリー (浜田 1983: 373)」に入るということは zapateado の特色のひとつだ。

さて、今のフラメンコでは、サパテアドは演目としてではなく技法として、踊りの形式や男女を問わず多用されている。しかし、今紹介したような歴史的変遷を見ても分かる通り、池上が「高速タップ」と呼んだような技法はバイレ・フラメンコの弁別的特徴ではない。つまり、それ無しでもバイレ・フラメンコは成立する。極端な例だが、試しにネット上で検索して Enrique el Cojo のバイレを見て欲しい。芸名の Cojo は、子どもの頃の病気がもとで脚が悪かったことからついた (Blas Vega & Ríos Ruiz 1990: s. v. Cojo, Enrique El) のだが、「高速タップ」は仮にやりたくてもできなかっただろう。しかし彼の踊りのなんとフラメンコであることか。僕は生で見ていないが、実際に見た人たちからその感動を聞いたことはある。せっかくだから活字になった賛辞を紹介しよう。実は、日本でグラン・アントニオと呼ばれることの多い Antonio el Bailarín についての文章なのだが。

思いのほか太りぎみで、ズボンもだぶだぶに見えた彼 (= Antonio: 引用者) が、舞台に立って初めの挨拶から絶妙の()をもってスッと横向きになり片手を挙げるポーズをしたとき……背筋を電気が走ったことを忘れない。いつも判で押したように技術で踊るバイラオールたちには出せない味、人間が踊るフラメンコの醍醐味が、この大家にはあった (ちなみに、もう一度、私はそのような醍醐味 —さらに深く、純な……— に思わず酔わされ、涙の出そうな感激をおぼえた。1981年、脚のわるいセビーリャの老匠エンリケ・エル・コホが日本へ来て踊ったときである)。(浜田 1983: 376)

横を向いて片手を挙げるだけで人を感動させるアントニオもすごいが、エンリケ・エル・コホはさらに深いということで、アントニオについて語っているところに入れるのはどうかと思わないでもないが、浜田さんよっぽどこれを言いたかったのだろうな。

もちろん、「高速タップ」に罪はない。足が動いて素晴らしい踊りをする人たちだっているわけだ。なので、床の速叩きしか能がない三流のバイラオレスは無視することにして、サパテアドを技法としてちゃんと評価することは必要だろう。それは、しつこいようだが、足さばきばかりに注目するのをやめることでもある。

なお、フラメンコの踊りを「舞踏」と呼んでいる例を時々見るけれども、「舞踊」が普通だろう。もちろん「踊り」で全然構わない。「舞踏」と聞くと、僕なんかは日本の現代舞踊の一種を思い浮かべてしまう (池上にとってはヨーロッパ中世の「死の舞踏」の方が近しいのかもしれない)。ブトーとフラメンコを掛け合わせたようなことをやってる人はいるかもしれないけどね。

  • Blas Vega, José & Ríos Ruiz, Manuel, 1990, Diccionario enciclopédico ilustrado del flamenco, 2.a, Editorial Cinterco.
  • 浜田滋郎, 1983, 『フラメンコの歴史』, 晶文社.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • Ríos Ruiz, Manuel, 2002, El gran libro del flamenco, Calambur.

2019年3月31日日曜日

Montsalvatge (3)

カタルーニャ語の固有名詞をカナで写そうとするときに出てくる問題を考えてみる。今回は母音を見ることにしたい。

まず確認しておくべきことは、この議論はあくまで日本語の表記に関わるものだということだ。カナ表記を巡っては「現地音主義」という不思議な用語があって、カナが他言語の発音を表すことができるかのような錯覚を与えかねないのだが、辞書などでカナを (出来の悪い) 発音記号として使う場合は別として、カナに出来ることは、日本語に借用された単語を日本語として表すことだ。「出来るだけ (その言語の) 実際の発音に近く」表記したいという気持ちは分かるが、日本語に出来る範囲でしか出来ないのだということは押さえておく必要がある。

もうひとつ確認しておくべきなのは、カタルーニャ語が持つ地域的多様性の問題だ。入門書などで解説している発音は、バルセロナを含む地域で話されている中部方言のものがベースになっている。これが伝統的に標準的発音と見なされているのだが、現代のカタルーニャ語規範は複中心的で、他の地域の発音も規範から排除されない。このことは、後で見るように、カナ表記問題に大きく影響する。

カタルーニャ語の方言区分については、立石・奥野 (2013: 48) あたりを見て欲しい。大きく東部方言と西部方言に分かれる。さっき出てきた中部方言は東部方言の下位方言で、紛らわしいけれどご容赦のほどを。で、東と西では母音体系が結構違うのだ。

そして、カタルーニャ語の母音体系は、強勢のある位置と無強勢の位置で分けて考える必要がある。まず強勢母音は7つある。バレアルス諸島では8母音体系だとか、フランスのルシヨン地方など5母音しかない所があるとか、ジロナあたりでは6母音だとか、異なる体系を持つ方言もある (Prieto 2014: §II.1.1.1) が、大勢は7母音なので、それだけを見ることにする。

iu
eo
ɛɔ
a

綴りについては、今の議論に関係する部分だけ大雑把に言うと、/i/, /a/, /u/ はそれぞれ i, a, u が対応し、/e/ と /ɛ/ は e で、/o/ と /ɔ/ は o で表される。ただし、狭い方 (/e/ と /o/) には鋭アクセント (´) を付け (é, ó)、広い方 (/ɛ/ と /ɔ/) には重アクセント (`) を付け (è, ò) て母音の別を表示することがある。しかしこれは、正書法上強勢の位置を示す必要がある場合だけで、そういう単語に関してたまたま母音の広狭が分かるというにすぎない。なお、強勢の位置を示すための í, ú, à もある。

単純に考えて5つしか母音のない日本語でカタルーニャ語母音の発音を再現することは不可能だ。だが、綴りの助けを借りれば簡単に対応を作ることができる。つまり /e/ と /ɛ/ の区別と /o/ と /ɔ/ の区別を無視すればよい。たとえば Pere /'peɾǝ/ と Cesc /'sɛsk/ は異なる強勢母音を持つが、同じ e で表記されていることもあり、日本語で同じエ段の文字で写して「ペラ」「セスク」とするのに抵抗はないだろう。同様に Ramon /rǝ'mon/ と Antoni /ǝn'tɔni/ の強勢母音はそれぞれ異なるが、同じ o で表記されており、日本語では「ラモン」と「アントニ」のようにオ段の文字で書いて誰も文句を言わない。

それから /u/ は日本語の「ウ」と結構異なる音だが、カナのレパートリーの中ではウ段の文字で表す以外の (単純な) 選択肢がない。

cat. 音素cat. 綴りカナ
/i/i, íイ段
/e/e, éエ段
/ɛ/e, è
/a/a, àア段
/ɔ/o, òオ段
/o/o, ó
/u/u, úウ段

なんだか不必要に面倒な話をしているように見えるかもしれないが、カナ表記が元の言語の音韻や発音をそのまま写したものではないことは確認できたと思う。さて、これからが本当に面倒な話、無強勢母音の扱いだ。

無強勢母音体系は、東部方言と西部方言で異なる。東に属するマリョルカ方言は両者の中間的性格を見せる (Prieto 2014: §II.1.1.4b) が、とりあえず措く。また、音韻論における中和という概念をどう扱うかという議論は素通りすることにする。表の書き方が厳密でないと思う人がいるだろうが、ご容赦願いたい。

cat. 強勢母音cat. 無強勢母音 (西)cat. 無強勢母音 (東)cat. 綴り
/i/[i][i]i
/e/[e][ǝ]e
/ɛ/
/a/[a]a
/ɔ/[o][u]o
/o/
/u/[u]u

西部方言では5母音で、この体系をカナに写すのは簡単だ。一方東部方言は3母音体系で、綴りとの関係で言えば、{i}, {e, a}, {o, u} に対応する。つまり同じ音を異なる文字が表す場合があるということだ。やり方としては、音に合わせて e も a も同じカナを充てる方向と、綴りに合わせて e と a に別のカナを対応させる方向が考えられる。前者が当たり前だと思う人が多いかもしれないが、英語の曖昧母音 ǝ に対応するカナはむしろ後者 (例えば Elizabeth [ɪ'lɪzǝbǝθ] エリザベスのザとベ) で、それをみんな普通に使っている。最初から問題外というわけではない。

音に合わせる方針にするなら、どの文字を使うかが問題になる。 [i] はイ段の文字で問題ない。[u] はウ段の文字で対応すれば良いだろう。[u] についてはオ段の可能性もあり、日本語話者がカナ表記を発音した時により元の音に近くなる場合も考えられるが、強勢母音と扱いを揃えた方が良いだろう。カタルーニャ語の [ǝ] は僕の耳にはアに聞こえることが多い。エ段とア段のどちらかということなら、ア段を選ぶのが穏当だろう。

綴りに合わせる方針なら、西部方言を写すのと同じことになる。カタルーニャ語の正書法は西部方言にも対応できるように考えられたもので、区別の多い方に合わせることで、結果的には東部方言では発音上の区別がない書き分けが生じたわけだ。したがって、綴りに合わせると言っても音声上の根拠を西部方言に求めることができる。どちらも「正しい」発音なので、理論的には対等だ。また、東部発音では ea の e が [ǝ] ではなくて [e] で発音される (例えば Balears [bǝle'ars]) なんてことを覚えておかなくても良いという (小さい) メリットもある。

というわけで、伝統的に標準音と見なされてきた東部の発音をベースにするという、多分多くの人が採る方式と、汎カタルーニャ語的な綴りを考慮に入れた方式があり、僕にとっては後者も捨てがたい。なので、ここではどちらかに決めることはせず、両方式の例を思いつくままに挙げて、皆さんに考えてもらうことにする。

cat. 3段式5段式
Barcelonaバルサロナバルセロナ
Carles Puigdemontカルラス・プッチダモンカルレス・プッチデモン
Carmeカルマカルメ
Castellóカスタリョカステリョ
Enricアンリックエンリック
Figueresフィゲラスフィゲレス
Illes Balearsイリャス・バレアルスイリェス・バレアルス
Jaumeジャウマジャウメ
Joan Corominesジュアン・クルミナスジョアン・コロミネス
l’Hospitalet de Llobregatルスピタレット・ダ・リュブラガットロスピタレット・デ・リョブレガット
Montsalvatgeムンサルバッジャモンサルバッジェ
Montserratムンサラットモンセラット
Penedèsパナデスペネデス
Pereペラペレ
Pompeu Fabraプンペウ・ファブラポンペウ・ファブラ

あ、あと音引き「ー」は必須ではないと思うし、入れると間が抜けることが多いと思うので、使っていない。僕自身は昔より「ー」を使わなくなっていて、今思い切って無しにしてみた。「カタルーニャ」は流石にこっちが見慣れた感じだが、「カタルニャ」でも良いような気がしてきた。「ー」の扱いはカスティリャ語とも共通したテーマなので、項を改めて論じたい。

  • Prieto, Pilar, 2014, Fonètica i fonologia. Els sons del català, priera edició en format digital, Editorial UOC.
  • 立石博高・奥野良知 (編), 2013, 『カタルーニャを知るための50章』明石書店.

付記 (2019/04/01): Prieto 2014 への参照セクションを修正。章番号をローマ数字で付け加えた。Prieto 2014 は Kindle と Google Play で売っていて、G の方が安かったのでそれを買ったのだが、Google Play の電子書籍リーダー (iOS版) の出来はかなり改善の余地ありで、知的営みのための投資をケチったことを後悔している。

2019年3月28日木曜日

Montsalvatge (2)

ソプラノ歌手の谷めぐみさんから連絡を頂いた。以前「シャビエ・ムンサルバッジャ」を使ってみたが、通じなくて大変だったという経験がおありとのこと。そうなんだろうな。慣用は強いのだ。変えるためには、少しずつ「シャビエ」が増えていくように地道に取り組んで行くしかない。

カタルーニャ語固有名詞に関わるもうひとつの問題は、Xavier に対する Javier とか Enric に対する Enrique とか、他の言語に対応するものがあることだ。つまり、名前も翻訳できてしまうのだ。これはカタルーニャ語とカスティーリャ語の間に限らない。今ではしないのが普通だが、昔は名前を翻訳す習慣があった。例えば1881年に Menéndez Pelayo が訳したシェイクスピアの作品集は Dramas de Guillermo Shakespeare だったようだし、僕は Carlos Marx (ドイツ語では Karl だ) も見たことがある。今でも見るのは Guillermo Tell (Wilhelm Tell) や Julio Verne (Jule Verne)。スヌーピーと Carlitos なんてのもある。

歴史上の王たちには、カノッサの屈辱の Enrique IV とかナントの勅令の Enrique IV とか英国国教会を作った Enrique VIII とかがいるし、今でもイギリスの女王は Isabel、その息子は Carlos、さらにその息子でメーガン・マークルと結婚したのは Enrique だ。また、キリスト教の聖人たちがそれぞれの言語でそれぞれの呼び方をされるのは良く知られたことだが、日本で「サン・ジョルディ」とカタルーニャ語 Sant Jordi から入った言い方をされるのは聖ゲオルギオスとか聖ジョージとか呼ばれているのと同一人物だ。今のローマ教皇を日本ではカスティーリャ語風にフランシスコと呼んでいるが、Francisco に当たるラテン語は Franciscus で、Wikipedia に載っている彼の署名はラテン語で書いてある (バチカンの公用語はラテン語だからね)。

こういう習慣というか伝統を考えれば、Xavier を Javier とか Enric を Enrique とか言うのは、カタルーニャ語とカスティーリャ語の力関係だけが原因というわけではないことが分かる。同じ人が同じ人についてカタルーニャ語で喋るときは Xavier と言い、カスティーリャ語では Javier と言うということはあり得るし、相手に応じて言い方を変えるかもしれない。

蔵書印では Enric だったグラナドスも、夫人に宛てた手紙 (WEB上で画像をいくつか見ることができる) はカスティーリャ語で書いていて、Enrique に見える署名が確認できるものがある。とりあえずカスティーリャ語では Enrique Granados で、カタルーニャ語では Enric Granados で良いとして、日本語ではどうするか、結構面倒な問題だ。

Xavier Montsalvatge (1912-2002) の場合は、前に書いたように、カスティーリャ語版のWikipediaでも Xavier なのだから「ハビエル」を維持する意味はない。というわけでカタルーニャ語をカナで写すときの問題点を次回以降取り上げることにしたい。

2019年3月19日火曜日

Montsalvatge

外国の固有名詞をどう表記するかという問題は、元の言語が何かという問題と切り離すことができない。まず、言語によって音韻体系と書記体系が異なるので、その言語の音・表記から日本語のカナへの対応をどうするか決める必要がある。それに加えて、その言語が置かれた社会言語学的な位置付けが事態を複雑にすることがある。

画家のミロは、昔は「ホアン・ミロ」と書かれることが珍しくなかったが、今では「ジョアン・ミロ」が普通だ。「ホアン」はスペイン語の Juan を書く書き方の一つ。「ジョアン」はカタルーニャ語の Joan を書く書き方の一つ。本来の名前である Joan に従った表記が一般的になったわけだ。一方、チェリストのカザルスは、カタルーニャ語に基づいた「パウ・カザルス」も見るが、スペイン語・カタルーニャ語混合の「パブロ・カザルス」が多い (スペイン語風の「カサルス」はまず見ない)。

さて、何日か前に「ハビエル・モンサルバーチェ」という表記を見た。やはりカタルーニャ出身の作曲家だが、完全にスペイン語風表記だ。濱田 (2013) は「パウ (パブロ)・カザルス (229)」と書く一方、「カタルーニャ人のハビエル・モンサルバーチェ (265)」としている。「ハビエル」はスペイン語 Javier に対応する表記で、カタルーニャ語では Xavier Montsalvatge [ʃǝβi'e munsǝl'βadʒǝ] だから、「シャビエ・ムンサルバッジャ (あるいはモンサルバッジェ)」ぐらいにしても良さそうなものだが、ハビエルが圧倒的に強い。

ちなみにスペイン語版Wikipediaでは Xavier Montsalvatge i Bassols というカタルーニャ語の書き方を採用している。日本語版では「ハビエル・モンサルバーチェ・バッソルズ (Xavier Montsalvatge i Bassols...)」としていて、カナ表記はスペイン語風、ローマ字はカタルーニャ語というチグハグなことになっている (なお「バッソルズ」はスペイン語風でもカタルーニャ語風でもない。どちらの場合も「バソルス」になるはず)。これは直した方が良い。

少し複雑なのはグラナドスの場合だ。濱田 (2013: 185) はグラナドスの蔵書印の図版を載せていて、そこには «EX-LIBRIS ENRIC GRANADOS CATALONIAN COMPOSER» という文字が見え、本人が Enric というカタルーニャ語名を使っていたことが分かる。しかも Spanish ではなくて Catalonian と言っているところが興味深い。ところが、カタルーニャ語版のWikipediaによれば、生まれた時の名付けは Pantaleón Enrique Joaquín だったという。生まれはカタルーニャだが、父は当時まだスペイン領だったキューバ出身、母はカンタブリア出身で、スペイン語で名前をつけるのは自然だったのだろう。まあ、本人が Enric を使っていたのなら「アンリック (エンリック)・グラナドス」で良かろうと思うが、慣用はスペイン語式の「エンリケ」だ。

「ムンサルバッジャ / モンサルバッジェ」「アンリック / エンリック」における母音の選択と促音の表記については、また稿を改めて論じたい。

  • 濱田滋郎, 2013, 『スペイン音楽のたのしみ』(新版), 音楽之友社.

2019年3月17日日曜日

Vinilo

学生時代 (35年か、もっと前)、音声学の授業で先生が概略こんなエピソードを披露した。

A: ヴァイオリンを「バイオリン」と書くなんてけしからん。
B: なんで?
A: だって、それじゃビニールみたいじゃないか。

で、みんなこれでドッと笑ったのだが、そうなのだ、ビニールは英語では vinyl ['vain(ə)l] でバイオリン violin [vaiə'lɪn] と同様 [v] の音で始まる。Aさんはそれを知らずに、というのがオチ。

なんでこんな昔の話を思い出したのかというと、「世界から『ヴ』が消える」というNHKの記事をFACEBOOKの友だちが紹介して、コメント欄は「ヴ」が消えることに反対な意見が大勢を占めるということがあったからだ。

記事の内容は、外務省が国名の表記を変更し、「セントクリストファー・ネーヴィス」が「セントクリストファー・ネービス」に、「カーボヴェルデ」が「カーボベルデ」になる、そして在外公館名称位置給与法から「ヴ」を使った国名表記が消えるという話だ。僕は、そのこと自体特に何とも思わなかったのだが、2003年の法改正以前は「エル・サルヴァドル」とか「ヴェネズエラ」とか「ボリヴィア」と表記していたそうで、これには少し驚いた。みなさんご存知のように、スペイン語では b と v は書き分けるが発音上の区別はない。だから、スペイン語業界ではずっとずっと前から「エル・サルバドル」「ベネズエラ」、「ボリビア」だ。2003年の改正も、また今回のも、より一般的な表記に合わせることが意図されているのだという。「ヴェネズエラ」などは今でも見ることがあるが、比較的最近まで国の機関が使っていたとはね。

公的機関が使うか使わないかは措いて、そもそも「ヴ」は必要なのだろうか。日本語の音韻体系において /b/ と /v/ の対立はないから、音韻と表記の関係という観点からは「ヴ」は必要ない。日本語母語話者でバイオリンの語頭音を [v] で発音している人は極めて少ないだろう (自分は [v] で発音しているという、音楽にも音声学にも造詣の深い友人がいるので、ゼロでないことは確かだが)。

また、「ヴ」で書いたからといって [v] の発音ができるようになるわけでもない。僕は子どもの頃「ヴ」を見たら [gw] のように発音していた。「ウ」を力んで発音すればそうなるでしょ? つまり僕は日本語の音韻レパートリーの中で表記に対応していそうな発音を勝手に割り振っていたわけだ。今は「ヴ」を見たら [v] のような発音をすることがあるかも知れないが、別にそうしなければいけないと思っているわけではない。

さて、書記法の厄介なところは、音韻との対応で話が終わらないことだ。かなりの程度音韻的なスペイン語正書法でも、発音上区別のない b と v を書き分ける (これは歴史的な経緯によるもので、一応語源に従って区別することになっている)。バイオリンは violín と書き、ビニールはタイトルに書いたように vinilo だ。それに対して、同様に /b/ と /v/ の対立がないバスク語の正書法は、スペイン語のものより音韻との対応度がより高く、biolin とか binilo とか書くけれども、外来語の中には v で書かれるものがある。特に固有名詞はそうで、ベネズエラは Venezuela だ。

日本語は漢字仮名交じりで書く伝統の中で、同音異義語を異なる漢字で区別したり、同じ単語を漢字で書いたりかなで書いたり、音韻との対応とは別のレベルで機能する区別があり、書き手の裁量に任される部分がある。「ヴ」もその中で「バ」行と共存していると考えることができる。つまり、「バイオリン」と「ヴァイオリン」の関係は「仮名」と「カナ」と「かな」の間の関係と似ていて、同じ語・同じ発音に対応する表記上のバリアントあるいはヴァリアントだということだ (表記を見なくても常に [v] で発音する個人がいたとしても、日本語に /v/ という音素がないのであれば、今の議論では「同じ発音」という言い方は成り立つ)。

「ヴ」の特殊性は、外来語専用文字ということだろうか。NHKの記事によれば福澤諭吉が広めたのだそうだ。ネットで検索してみると、福澤は自分が「ヴ」を創作したと言っているらしいが、実際にはそれ以前の用例が見つかるとのこと。とは言え、一般化したのは明治以降なのだろう。西洋の言葉を写すのに使ったという経緯があるからだろう、昔の僕にとっては「ヴ」を使った表記は「かっこいい」「知的な」印象を与えるものだったが、今では近代日本の西欧に対する憧れの残滓のように見える。他人が使うのを止める気もないが、自分から進んで使うことはない。ただし、固有名詞、特に人名については、慣用に従うということで構わないかなと思っている。例えば「ビラ・ロボス」より「ヴィラ・ロボス」の方が馴染みがあるので、あまり考えずに後者で書くような気がする。

というわけで、僕は完徹しない音韻対応主義者なのだが、物事は体系性が大事なので、「ヴ」派の人たちには次のような例で頑張って欲しいと思っている (列挙が体系的でも網羅的でもないことはお許しいただきたい): ヴィニール (またはヴァイナル)、ヴィタミン、ヴァレーボール、ヴァーサス、エレヴェーター、サーヴァー、カヴァー、カーヴ、カーナヴィ、ヴァレンタインチョコ・・・

あ、それから「ベートーヴェン」はお勧めしない。「ベートホーフェン」の方が良い。それが嫌なら「ベートーベン」で我慢することだ。

2019年3月13日水曜日

Ingratos

『情熱でたどるスペイン史』、レコンキスタや海外植民でバスク人が活躍し、バスク地方でカスティーリャ語が普通に使われていたというの直後に次の文章が来る。

これをおもしろくないと思うのはスペイン・ナショナリスト以上に地域ナショナリストでしょう。彼らは知ってか知らずか、言語を根拠に民族のちがいを言いつのり、非カスティーリャ化、反中央集権主義の政治運動を遂行してきました。(池上 2019: 219)

僕は「知ってか知らずか」の意味が良く分からないのだが、地域ナショナリズムへの批判的姿勢が表れていると読んで先に進むことにしよう。上の引用から punto y seguido で次の言明がある。

さらにカタルーニャの織物工業と重化学・機械工業やバスクの造船、製鉄、金属加工、冶金(やきん)などをてこにした経済的繁栄は、もともとその興隆(こうりゅう)を支援してきたスペイン全体の事業のおかげでもあるのに、貧しい地域に流れる自分たちの税金を取りもどしたい民族主義者たちは、それに忘恩で応えています。(ibid.)

これと同じような話はスペインの友人の口から聞いたことがある。広く行われている議論なのだろう。だが、「忘恩」とはまたすごい単語が出てきたものだ。地域ナショナリズム、あるいは民族主義者たちを批判するのは、それなりの根拠があってのことだろうから、全然問題ない。だが、当事者でない、かつ歴史学者である著者が、こんなに感情的にスペイン・ナショナリズムに肩入れしたような表現を使うのはどうしてなんだろう。かなり不思議だ。

一方、次の引用はどうだろうか。

だが国王に対し、インディアス顧問会議は決然と反対する。世襲化は、国王がせっかく手にした新しい空間を、インディオに対して絶対的な権力をもつ封建領主エンコメンデロに独占させることになる。インディオの改宗事業は断絶するばかりか、忘恩の徒たる連中は、王からの独立を図ることになろう。顧問会議は代替の案として、・・・ (高橋・網野 2009: 164)

ここにも「忘恩」が出てきてちょっとドキッとするが、ちゃんと読めば、「世襲化は・・・図ることになろう」の部分は著者の考えではなくてインディアス顧問会議の言い分だということが分かる。「・・・と言った」みたいな引用標識がないので、表現としては上級編かもしれない。初心者は真似しないほうがいいだろう。こういう書き方はスペイン語の文章でも時々お目にかかるので、読むときには注意しよう。

僕は「忘恩」は理解語彙のうちだが自分で使った覚えがない。スペイン語で何と言うのか自信がないので和西辞典で「忘恩」をひくと名詞 ingratitud が出ていて、形容詞は ingrato のようなので、タイトルにはこっちを使った。だが、このスペイン語も自分で使った記憶がなく、ニュアンスもよく分からない。

そこで CORPES XXI で ingrato を検索すると、男女単複合わせて1145例出てきた。だが、大半は「不快な」とか「報われない」とか物事に言及する用法のようで、最初の20例のうち人 (almas を含む) に言及しているのは5例のみだった。そうすると全部で250例ぐらいという予想が可能で、多くないことは確かだ。実例としては «Así están las cosas, hay que dar gracias de que haya trabajo, no hay que ser un ingrato» なんてのがある。ただ、これを「忘恩の徒」と訳せるかどうか分からない。もしかしたら「不平を言っちゃいけない」ぐらいの、人に対する恩義とは違う話なのかもしれない (コーパスで見られる範囲の文脈をを見た限りでは、そんな感じがする)。

というわけで、ingrato が結構多義的であることだけは分かった。

  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • REAL ACADEMIA ESPAÑOLA: Banco de datos (CORPES XXI) [en línea]. Corpus del Español del Siglo XXI (CORPES). ‹http://www.rae.es› [consultado: 2019/03/08]
  • 高橋均・網野徹哉, 2009, 『ラテンアメリカ文明の興亡』, 世界の歴史18, 中公文庫, 中央公論新社.

2019年3月10日日曜日

entre A o B

ベネズエラ文化を専門にしている友人が、現在のベネズエラ情勢について色々な報道をシェアしてくれている。その中のある記事に、次のような文章があった。

El mandatario venezolano, después de que asumió su segundo gobierno, se ha enfrentado a decisiones en las que las dos opciones que tiene están entre perder o perder. Eso opina un profesor e investigador de la Universidad Central de Venezuela.
(https://www.elespectador.com/noticias/el-mundo/maduro-en-el-perder-perder-articulo-843946)

言っていることは難しくない。マドゥーロに残されたオプションは perder することだけだと言っている人がいるという話だ。面白いのは entre perder o perder のところで接続詞の o が使われていること。僕も entre A y B と習ったけれども、このAとBのあいだの選択が問題になっていると、つい o と言いたくなる。と言うか、言ってしまうことがある。実際に用例はあるわけだが、WordReference界隈では、entre A o B はピンとこない人が多いようだ。

さっきパラパラと RAE & ASALE (2009) を見てみたのだが、entre A o B のパタンについての記述は見つからなかった。僕が見落としている可能性はあるが、規範には採り入れられていないと考えて良さそうだ。

今見ている例では A o B のパタンを利用して A o A と言うことでA以外の可能性を排除する。よく見る表現に sí o sí がある。なので entre A o A という風に o が出てくるのもよく分かる。そうすると、問題はむしろ entre A y A が言えるかどうかなのではないだろうか。誰かがチェックしてくれることを期待したい。

  • RAE & ASALE, 2009, Nueva gramática de la lengua española, Espasa Libros.

2019年3月2日土曜日

Concordancia vizcaína

『情熱でたどるスペイン史』の、前回引用した部分に続いて、スペインの「複合的性格」の具体例が挙げられている。

レコンキスタや海外植民では、カスティーリャ王国の下でバスク人が大活躍しましたし、バスク地方内でカスティーリャ語がごく普通に使われていました。(池上 2019: 219)

ここまで引用しておいた方が、前回の引用部分は分かりやすくなったかもしれない。バスク地方で「カスティーリャ語がごく普通に使われてい」たのは、ローマの支配下で支配者とのインターフェース言語がラテン語になって以来続いてきたことの延長で、単純化して言えば、ラテン語がカスティーリャ語に変化したからだ。だから、バスク語とカスティーリャ語の関係は、それぞれが中世王国の言語だったカタルーニャ語とカスティーリャ語との関係とは異なるとは言える。

バスク地方のカスティーリャ語化の歴史も圧倒的に長い。萩尾 (2005: 92) によれば「紀元1世紀にバスク語が話されていた地理的空間は、北端がフランスのボルドー、東端がアンドラ、南端がスペインのサラゴサとソリアを結ぶ線、西端がサンタンデルとブルゴスを結ぶ線」だった。以来20世紀に至る「縮減」過程は萩尾 (ibid.) の地図が分かり易く示しているのだが、上手くスキャンできなかったので、現物に当たってぜひ確認して欲しい。

それでも、カスティーリャ語化の度合いは、17世紀の初頭にバスク人の喋り方が笑いの対象になる程度のものだった。次に引くのは、『ドン・キホーテ』の中の有名な一節、ビスカーヤ人の発言だ。

—¿Yo no caballero? Juro a Dios tan mientes como cristiano. Si lanza arrojas y espada sacas, ¡el agua cuán presto verás que al gato llevas! Vizcaíno por tierra, hidalgo por mar, hidalgo por el diablo, y mientes que mira si otra dices cosa. (DQ, parte 1, capítulo 8)
(https://cvc.cervantes.es/literatura/clasicos/quijote/edicion/parte1/cap08/cap08_03.htm)

これを注釈者は以下のように訳している。

¿Que no soy caballero? Juro a Dios, como cristiano, que mientes mucho. Si arrojas la lanza y sacas la espada ¡verás cuán presto me llevo el gato al agua! El vizcaíno es hidalgo por tierra, por mar y por el diablo; y mira que mientes si dices otra cosa. (nota 58)

牛島信明訳は

なに、わしが騎士でねえだと? わしゃキリスト教徒だで、神様に(ちこ)うて言うが、お前はひどい嘘っこきよ。お前が槍捨てて剣ぬきゃ、川に投げこまれた猫みてえに、あっという間におだぶつさ。ビスカヤ(もん)は、陸でも海でもどこでも武士(さむらい)で、そうでねえとぬかしゃ、そりゃまっかな嘘っぱちよ。(『ドン・キホーテ 前篇 (1)』156-157)

だが、これは文法的に整っていて、原文の味わいは出ていない。まあ、文法的に破格なところを尊重して訳したら、分かる日本語にならないだろうから、田舎者用の役割語を使って処理したのだろうけれど。ちょっと直訳を試みてみる。

わたし騎士なし? 神に誓ってキリスト教徒ぐらい汝嘘ついている。汝槍捨て剣抜かば、通りは汝が思いでするとすぐに分かるさ。陸でビスカーヤ人、海で郷士、悪魔にかけて郷士。ことを言うなら別の、汝ているぞ嘘つい。

最初の文は動詞がない。Juro で始まる文は tan ... como の形になっているのでそれを活かしたが、そうすると como cristiano が意味不明になる。Si lanza 以下の文は難物だ。条件節は lanza と espada に冠詞がないところが上手く訳せないが、目的語が動詞の前にある点はバスク語の語順を意識しているのかも知れなくて、そこを何とか出来たかも知れない。しかし、冠詞があればこの語順で中世の武勲詩みたいに響くかも知れないので、むしろそれを目指してみた。帰結節は、慣用句 llevarse el gato al agua = salirse con la suya 「猫を水に連れて行く = 自分の思い通りにする」が言いたいことだと注釈が言っている。「私が猫を水に連れて行く」と言うべきところを「水を汝が連れて行く猫へ」みたいな感じになっているわけだ。なので本当に意味をなさない日本語にしてみた (cuán presto のかかり方も、オリジナルではこう読める)。Por el diablo のところは、牛島訳のようなことだろうけれど、おそらく「悪魔にかけて」誓う=悪態をつく形式なのだと思うので、そう訳しておいた。後半の y mientes 以降は、語順が変なところを尊重した。

さて、このビスカーヤ人 (=バスク人) の言説、さっき言ったように、定冠詞があるべきところになかったり、目的語が動詞の前にあったりといった特徴がある。バスク語は名詞の定性を変化語尾の内部で表現する (しかもバスク語の定表現がカスティーリャ語の定表現と一致するわけでもない) ので、カスティーリャ語の定冠詞は習得しにくかったのかもしれない。また、バスク語の基本語順は一応SOVと言われていて、それが反映している可能性はある (mira que mientes であるべきところが mientes que mira になっているのもSOVの反映と見ることが出来る)。

それから、注釈によれば動詞が1人称単数であるべきだが2人称単数になっているところが1箇所ある (llevas)。バスク語の動詞には人称変化があるから、こんな間違いはしないだろうと思うのだが、もしかしたら、バスク語には主語や目的語ではない親称2人称単数 (聞き手) の標識が動詞の活用形の中に表示されるという現象があって (例えば https://nabasque.eus/old_nabo/Euskara/hika.htm 参照)、それと関係しているのかもしれない。まあそこまで考えなくても良いのだろうけど。

ともあれ、注釈によれば «A los vizcaínos se les atribuía un lenguaje convencional (nota 57)» で、当時バスク人を表す役割語が広く用いられていたようなので、このビスカーヤ人の言葉もリアルなバスク人カスティーリャ語を写していると考えない方がいい。重要なのはむしろ、バスク人の話し方について、当時こういうステレオタイプ的イメージがあったということだ。つまり、バスク人はカスティーリャ語を上手く話せないというイメージだ。

そこから concordancia vizcaína 「ビスカーヤ風(文法的)一致」という表現の説明もつく。これは、DRAE によれば «concordancia gramatical defectuosa o incorrecta (RAE & ASALE, 2014: s. v. concordancia)» で、一致ができていないのをこう呼んだわけで、バスク人のカスティーリャ語に対するステレオタイプが元になっている。

バスク地方で「カスティーリャ語がごく普通に使われてい」たことを否定する必要はないと思うけれども、非対称な言語接触下ではこんなことが普通に起こるということも覚えておきたい。


  • Miguel de Cervantes, Don Quijote de la Mancha, edición del Instituto Cervantes, dirigido por Fancisco Rico. https://cvc.cervantes.es/literatura/clasicos/quijote/default.htm
  • セルバンテス作/牛島信明訳, 2001,『ドン・キホーテ 前篇 (1)』, 岩波文庫, 岩波書店.

  • 萩尾生, 2005, 「バスク自治州におけるバスク語」, 坂東省次・浅香武和 (編), 『スペインとポルトガルのことば』, 同学社, 89-117.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • RAE & ASALE, 2014, Diccionario de la lengua española, 23ª edición, Espasa.

2019年2月22日金曜日

Dos lenguas

をどう日本語にするか。世の中では広く行われているが専門家は避ける言い方に「2か国語」というのがある。避ける理由は単純で、言語と国家は一対一対応しないからだ。たとえば「スペインではカスティーリャ語、カタルーニャ語、ガリシア語、バスク語の4言語が話されている」とは言えても、これを「4か国語」と言うわけにはいかない。あるいは、スペインという1国で話されているのだからこの4つ合わせて1か国語、というのも無理だ。逆に、スペイン語を公用語とする独立国が20あることを根拠に、私は20か国語喋れます、と言ったら石が飛んでくるかもしれない。国家語でない言語は沢山あるし、複数の国家で使われている言語もある。言語を国家単位で数えるのは、現実を無視したやり方だ。

さて、もうお馴染みの『情熱でたどるスペイン史』は「二か国語」という言い方をしている。
スペイン・ナショナリズムの行き過ぎはもちろん問題ですが、この国はどの地域も隣接地域との混淆(こんこう)・交流・統合を通じた数百年におよぶ複合的性格の歴史を有しており、そうした複合的性格の諸地域のゆるやかな集まりが、現在のスペインという国家なのです。
そしてイベリア半島で中世以降創作されたロマンセーロを眺めれば、二か国語並存・常用の慣習を反映した文学があったことがわかります。純粋なスペイン=カスティーリャ文化など存在したためしはありません。地方文化のほうも、他の地域との積極的な交流から生まれたものばかりです。(池上 2019: 218-219)

そこは直してもらいたいが、じゃあどう直すか。ちょっと難しい。文脈的には、現代のスペイン・ナショナリズムと地域ナショナリズムの対立に関して「両者は裏表の関係にある」と言った後、地域ナショナリズムへの批判の準備をしているところ。分かりやすい文章ではないが、スペインの「複合的性格の諸地域のゆるやかな集まり」が持つ統合性や、各地域の「他の地域との積極的な交流」が意味する混淆性に重点があるようだ。

「ロマンセーロ」が騎士道物語の間違いだ (以前の記事 «Romancero» 参照) という点を踏まえると、著者が念頭に置いているのはカタルーニャ語で書かれた『ティラン・ロ・ブラン』とカスティーリャ語で書かれた『アマディス・デ・ガウラ』で、「二か国語」はこの両言語のことだということが想像できる。たしかに、当時イベリア半島にはカタルーニャ語が話される「国 (reino)」とカスティーリャ語が話される「国 (reino)」があり、その観点からは「二か国語」という言い方がギリギリ許容できなくはないという説明が成り立たないこともないという気はする。ただし、このような内容の本で使うべき言葉ではない。しかも、イベリア半島というのであれば、これらの騎士道物語が出版された1500年前後に話されていた言語はカスティーリャ語とカタルーニャ語だけではない。だから、半島の言語状況は「二」ではなく多言語的だった。

それから「並存・常用」はどういう意味だろうか。半島に複数の言語が存在した、という意味ならば、それだけのことではある。しかし、これらの言語は決して横並びの関係にあったのではない。1500年ごろのカタルーニャ語圏では、まだカスティーリャ語の圧力は強くなかったかもしれない。しかし、のちに「スペイン」として括られることになる地域では、カスティーリャ語が他の言語の上にかぶさる形で拡張していき、非カスティーリャ語圏のカスティーリャ語化が進むことになる。その力関係は「並存」では表せない。まあ、この部分は地域ナショナリズム批判の準備なので、非対称性を想起させる表現を意図的に避けたのかもしれないが。

  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.

2019年2月18日月曜日

Encomendero

『情熱でたどるスペイン史』には単純なミスもある。
中南米のスペインの植民地・副王領では、本国が任命し王権の意をくむコレヒドール (国王代官) が、インディオへの高額の人頭税を徴収するのみか、エンコミエンデロの力を(おか)しながら私服を肥やすことに血道をあげ、またレパルミエント (商品強制分配) 制度を利用して必要もない物品をインディオに売りつけていました。 (池上 2019: 183)

「レパルミエント」は「レパルティミエント (repartimiento)」の単なる誤植だろう。一方「エンコミエンデロ」は「エンコメンデロ (encomendero)」であるべきところだが、4回 (90, 92, 95, 183) も登場しているので、うっかりミスとは考えにくい。

考えられるのは「エンコミエンダ (encomienda)」の -ie- に引きずられたということだ。まずエンコミエンダは
エンコミエンダ、「委託」と訳されるこの制度は、新世界のインディオとスペイン人を結びつける最初の媒体であった。 (高橋・網野 2009: 146)

それに対してエンコメンデロは
インディオは、先スペイン期の民族集団の構造を維持したまま、つまりクラカと彼に従属する世帯が単位となって、制服の功労者に(ゆだ)ねられた。インディオ集団を託された者=エンコメンデロには、彼らから貢納を受け、その労働力を自由に利用する特権が与えられる。 (高橋・網野 2009: 147)

つまり、制度とその制度を担う (と言うのかどうかよく分からないが) 人という密接な関係にあるわけだ。語形からも encomienda と encomendero が同一語根を共有していることは一目瞭然だ。

そこで問題になるのが encomienda の -ie- と encomendero の -e- の違い (カナにした時の「ミエ」と「メ」の違い) だが、スペイン語をかじったことのある人にはおなじみの、あの現象だ。池上 (あるいは編集者) は、知らなかったのかな。

あの現象とは、初級のスペイン語学習者を夢中にさせる、例えば動詞 entender を直説法現在に活用させると entiendo, entiendes, entiende, entendemos, entendéis, entienden になるというあれだ。これを語根母音変化動詞と言ったりする。それに対して規則動詞の comprender は comprendo, comprendes, comprende, comprendemos, comprendéis, comprenden だから、e が ie になるかどうかは動詞ごとに覚えなければいけない。語根母音変化動詞には o と ue が交替するやつもある (contar: cuento, cuentas, cuenta, contamos, contáis, cuentan)。

しかし、語根母音変化動詞で挫折しなかった学習者は、これが動詞の活用形に限られた現象ではないことに気づくことになるだろう。例えば siete 「7」に対する setenta 「70」や nueve 「9」に対する noventa 「90」とかは初級レベルでお目にかかるし、viejo / vejez, invierno / invernadero, independiente / independentista; bueno / bondad とか考えればいろいろ出てくる。そういえば bueno / bonito は意味が分化しているから気づきにくいが、元々はこの仲間だ。

この交替の原因は、ラテン語からカスティーリャ語への母音体系の変化にある。ごく簡単に言えば、ラテン語には母音の長短があり、長い ē / ō はカスティーリャ語で e / o になり、短い「ĕ / ŏ は、強勢がある音節では /ɛ/、/ɔ/ を経て /ie/、/ue/ に二重母音化し、強勢のない音節では /e/、/o/ にな (菊田 2015: 220)」った。さっき挙げた例で、アクセントのあるところで ie, ue になっていて、ないところでは e, o であることを確かめて欲しい。

したがって encomienda / encomendero における ie / e の交替もスペイン語形態論の体系的な事実として考えることができる。接尾辞の -ero は基本的に名詞につくから encomendero は encomienda + -ero と分析でき、母音の交替は特殊な例ではない、というわけだ。だだし、類似の例すべてで交替が起きているわけではない。
La base de derivación es casi siempre nominal, con elisión del segmento final si este es una vocal átona: limonero, jardinero, jornalero, etc.; niñero, plumero, tendero, puestero, etc. El diptongo de la base nominal suele desaparecer, aunque no son raros los ejemplos en los que se mantiene tal cual: tendero, temporero, portero, estercolero, hospedero, dentera, collera, etc., frente a puestero, mueblero, cuentero, liendero/-a, huevero/-a, etc. (Lacuesta & Bustos 1999: 4557)

「二重母音が消える」と書いてあるが、別に tienda + ero が tndero になるわけではなくて、見ての通り対応する短母音が現れるのだ。

Pensado (1999: 4471-4472) は、二重母音が維持されることのある派生の例として、縮小辞 (ciego / cieguecito, cieguito)、-ero (hielo / hielero, mierda / mierdero, movimiento / movimientero, rascacielos / rascacielero)、-oso (miedo / medroso; miedoso)、-ista (izquierda / izquierdista) などを挙げている。つまり、これは -ero に限った話ではない。

なお、母音の交替がない場合について、Lacuesta & Bustos (1999: 4557, fn. 168) は新語で顕著だという観察を紹介している («En opinión de Rainer (1993: 430), “la monoptongación no tiene lugar especialmente en el caso de los neologismos: hielero, mierdero, movimientero, rascacielero, castañuelero, etc.”»)。Rainer が挙げている例は、Mac上でスペルチェックに引っかかる (下線が引かれる) ので、新しいだけでなく、広く定着もしていないのかもしれない (DRAE には載っていない)。エンコミエンダ制が21世紀に出来たものだったら、もしかしたらエンコミエンデロ達が出現していただろうか? Encomienda の傍に語根母音変化動詞 encomendar (encomiendo, encomiendas, encomienda, encomendamos, encomendáis, encomiendan) があるので、交替が起こるような気もするが、分からない。

さて、語根母音変化動詞の話で e/ie, o/ue の交替はラテン語からの変化の過程で起きたと言ったが、e/i の動詞 (例えば pedir: pido, pides, pide, pedimos, pedís, piden) の出番がなかったことに気づいただろうか。そう、この e/i の交替は出自が違うのだ。寺﨑 (2011: 163) などに書いてあるのでチェックして欲しい。

  • Bosque, Ignacio & Demonte, Violeta (dirs.), 1999, Gramática descriptiva de la lengua española, Espasa Calpe.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • 菊田和佳子, 2015, 「語史 (1) 音韻変化」, 高垣敏博ほか (編), 『スペイン語学概論』, くろしお出版, 217-232.
  • Lacuesta, Ramón Santiago & Bustos Gisbert, Eugenio, 1999, «La derivación nominal», Bosque & Demonte, 1999, Vol. III, cap. 69, 4505-4594.
  • Pensado, Carmen, 1999, «Morfología y fonología. Fenómenos morfofonológicos», Bosque & Demonte, 1999, Vol. III, cap. 68, 4423-4504.
  • Rainer, Franz, 1993, Spanische Wortbildungslehre, Niemeyer. (未見)
  • 高橋均・網野徹哉, 2009, 『ラテンアメリカ文明の興亡』, 世界の歴史18, 中公文庫, 中央公論新社.
  • 寺﨑英樹, 2011, 『スペイン語史』, 大学書林.

2019年2月16日土曜日

Sino (4)

Sino (3) で書いたことの訂正。
 
Machado de Assis の小説 (そういえば、ポルトガル語で長編小説は romance と言う) を読んでいて、«não ... senão ... » が普通に出てくることに気づいた。
Quis retê-la, mas o olhar que me lançou não foi já de súplica, senão de império. (Memórias Póstumas de Brás Cubas, cap. XXXV)
この作品を含む小説集の中で検索すると senão は187例ヒットした。その中にはスペイン語なら si no になる例もあるし、«não ... señão» で excepto に相当するものが多く目につくが、上のような例も確かにある。

 それから «não ... mas ... » も見つかった。
Talvez a narração me desse a ilusão, e as sombras viessem perpassar ligeiras, como ao poeta, não o do trem, mas o do Fausto: Aí vindes outra vez, inquietas sombras? ... (Dom Casmurro, cap. II)
さて、問題は Machado de Assis (1839-1908) 時代のポルトガル語と今のポルトガル語との関係だ。辞書には senão の記述がある。
Aconselhou-me não como mestre, senão como pai. 彼は先生としてではなく、父親として私に助言してくれた。(池上ほか s. v. senão)
それから、Whitlam (2011: §26.1.1) は «não só ... mas também (ainda)» と並んで «não só ... senão também» に言及している (例文は «não só ... mas ainda» のものだけ)。

というわけで、表を以下のように訂正。

pero(no ...) sino
cat.peròsinó
gal.perosenón
ast.perosinón
port.masmas, senão
it.ma
fr.mais

これで「PER HOC 系と SĪ NŌN 系の役割分担がある言語と MAGIS 系でまかなっている言語」という単純な二分法が成り立たないことがはっきりした。辞書をちゃんと見ていれば、そんな恥ずかしいこと書かずに済んだのだが・・・

  • 池上岺夫 ほか (編), 『現代ポルトガル語辞典』改訂版, 白水社 2005 (iOS版 ver. 2.5.1 物書堂 2012).
  • Machado de Assis, Obras completas de Machado de Assis. Volume 1 - Romances, versão digital (iOS), Montecristo Editora, 2012.
  • Whitlam, John, 2011, Modern Brazilian Portuguese grammar, Routledge.

Oficialización

『情熱でたどるスペイン史』シリーズ。ちょっとしつこいような気もするが、もう少し続けたい。今回は19世紀を扱った章の、こんな記述。

教育体制の整備、カスティーリャ語の公用語化なども推進されていきます。(池上 2019: 201)

「カスティーリャ語の公用語化」というのが何のことなのか分からない。カスティーリャ語は19世紀の段階では既に公用語になっていると言って良いのではなかろうか。公用語を公用語化すると何が起るのだろうか。

ひとまずスペイン継承戦争 (1701-1714) 後のスペインに関する記述を見てみよう。

バレンシア、アラゴンに続いてカタルーニャにたいしても「征服権」が適用された。ここにアラゴン連合王国のすべての諸国はそれぞれの「地方特別法、諸特権、慣例、慣習」を無効とされて、新組織(ヌエバ・プランタ)王令 (新国家基本令とも訳される) に基づいた制度的改編がおこなわれた。スペイン王国はこれまでの「複合王政」と別れを告げて、オリバーレスの夢であったカスティーリャの法制にそったかたちで、国家としての政治的・法的一元化を達成したのである。もっともフェリーぺを支持したバスク地方とナバーラは、「免除県」としてひきつづき地方特別法を享受した。(立石 2000a: 186-187)

こうやって、勝者の制度が「征服」された諸国に導入されて中央集権的な体制が成立したわけだが、言語に関しては次のような記述がある。

地域的特殊性の強いカタルーニャでは、バレンシアのように民法の廃止にまではいたらなかったが、司法行政の分野においてカタルーニャ語を使用することは禁じられた。王権の意図は、カタルーニャのコレヒドールへの秘密訓令書 (1717年) にみられるように、「カスティーリャ語の導入を最大の配慮のもとにおこなう」ことであったが、じっさいに民衆を言語的・文化的にカスティーリャ化する手だてを講じることはできなかった。(立石 2000a: 187)

つまり、カタルーニャの民衆はカタルーニャ語を使い続けたのだが、行政の言語がカスティーリャ語に統一されたという点が極めて重要だ。18世紀のこの時点でカスティーリャ語が公用語ではなかったと主張するのは相当に難しい。

ちなみに、この辺りにことについて池上は

フェリペに逆らったアラゴン連合王国のすべてのフエロ (地方特別法) が無効とされ、独自議会、ジェネラリタート、百人会議などは廃止されて、政治・行政・司法がカスティーリャの法制に沿って一元化されていきました (池上 2019: 151)

と述べているけれども、言語には触れていない (「カスティーリャの法制」の中に言語が含まれると読むことはできる)。

次に18世紀の教育におけるカスティーリャ語の状況について見てみよう。

1768年には、初等教育とラテン語、修辞学の教育はカスティーリャ語で行うようにという勅令が出されている。また、1780年に認可された初等教育者組合の規約には、全国の学校で王立アカデミーの文法を使って児童の教育を行い、ラテン語は必ずカスティーリャ語文法を学んでから始めるように定められた。 (川上 2015: 167)

当時の就学率の低さを考慮すれば、スペイン中のこどもたちがみんなカスティーリャ語に触れたとはとても言えない。しかし、制度的には初等教育の言語も、やはりカスティーリャ語であるわけで、この言語が公用語でないと言うのはかなり難しい。

もちろん、公用語であるカスティーリャ語の普及度という別の問題は存在する。カスティーリャ語圏では話し言葉レベルでの同言語の普及の問題はないが、就学率や識字率は問題にできる (「1900年になっても識字率は4割に達せず、学齢期の児童の6割は就学していなかった (立石 2001b: 240-241)」)。カタルーニャ語に関しては、Joan Coromines が1950年に書いた («Aquest opuscle es va escriure l’any 1950 (Coromines 1982: 7)») 文章に、以下の記述がある (動詞の現在形に注意)。

Els més educats parlen el castellà amb un accent fort i inconfusible, i els altres és ben clar que solament se’n serveixen amb treballs i molt sovint en forma ben incorrecta; en resta encara un bon nombre, no menys d’un 20%, sobretot dones, que no el saben parlar, i cosa d’un 5% (en zones apartades) que a penes l’entenen. (Coromines 1982: 13)

1950年時点での Coromines の認識では、カタルーニャ語話者の20パーセントがカスティーリャ語を喋れず、5パーセントぐらいは理解も覚束ないという状況だった。19世紀には、この数値はもっと高かったはずだ。だから、「教育体制の整備」とともにカスティーリャ語の浸透が図られたのだろう。しかし、それは「公用語化」とは呼ばない。

いや、これは「公用語」と「公用語化」の定義の問題だと言われれば、ええっと、まあ、そうだ。だったら定義を示して欲しい。池上が、僕が理解するのとは異なる意味でこれらの用語を使っていることは確かだが、一体どういう意味なんだろう。ちょっと想像力が追いつかない。

  • Coromines, Joan, 1982, El que s’ha de saber de la llengua catalana, Editorial Moll.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • 川上茂信, 2015, 「国家語と地方語のせめぎあい」, 立石博高 (編)『概説 スペイン近代文化史』, ミネルヴァ書房, 第7章, 161-181.
  • 立石博高, 2000a, 「啓蒙改革の時代」, 立石博高 (編), 『スペイン・ポルトガル史』, 山川出版社, 第1部第4章, 183-204.
  • 立石博高, 2000b, 「アンシャン・レジームの危機と自由主義国家の成立」, 立石博高 (編), 『スペイン・ポルトガル史』, 山川出版社, 第1部第5章, 205-241.

2019年2月15日金曜日

¿Quién dice eso?

前の記事で見た「常軌を逸した」というくだりについてもう少し考えてみる。文脈を広げて再引用すると、こうだ。

中世以来、スペインじゅうに奇跡をなすマリアをまつった教会があり、大勢の巡礼者を集めてきました。16・17世紀には、民衆たちの信仰心をとりこむ場として、さらに多くの礼拝堂・教会が、聖母マリアの顕現・奇跡の現場に建てられました。また、聖母マリアをさす ¡Santísima Virgen! や ¡Virgen! を、驚きや困惑の場面 (英語の Oh my God に近いニュアンスでしょうか) やさまざまな挨拶のなかで唱えるなど、常軌を逸したスペイン人の熱狂的マリア崇拝は外国人を驚嘆させました。 (池上 2019: 134)

外国人を驚嘆させた「スペイン人の熱狂的マリア崇拝」が、間投詞化した Virgen だけを指すのか、その前にある教会の建設なども含むのかという問題はあるが、そこはとりあえず考えないでおく。前回「常軌を逸した」が著者の判断だと読むのが自然だと思うと書いたが、文脈を広げても、それを否定する材料はない。ただし、「常軌を逸した」と思ったのは外国人でしょ、という反応があっても不思議には思わない。それを予想した上で、前の記事は書いた。

実際には、外国人が「常軌を逸した」と言い、その判断を著者が受け入れていると理解するのが穏当な読み方ではないだろうか。もし、著者は外国人の言ったことを単に報告しただけで賛成はしているわけではないというのだったら、書き方が悪い。少なくとも僕にはそう読めない。仮に外国人の発言に賛成していないのなら、例えば「スペイン人の熱狂的マリア崇拝は外国人には常軌を逸したと感じられ」とかなんとか書かないとだめだろう。

学生の書いたものを見ていて頻繁に出会うのが、書き手が出典と一体化してしまったような文章だ。添削する方としては「これは誰の考え?」と聞いてから直し方を考えることになる。今の例だと、「常軌を逸した」と「熱狂的」が外国人による評価なのか、書き手の評価なのか、それとも両方なのかを見極めないと直しようがない。

論文であれば、その外国人というのが誰なのかを明記して引用する形にするだろうから、この問題は生じない (はずだ)。しかし、その手が使えない場合は、出典に枠をはめる工夫をしなければいけない。でないと、自分の考えを出典に乗っ取られてしまうことになる。僕も気をつけなければと思う (自分の書いたものだと、思い込みがあるので、不備に気づきにくいだろうけれど)。

まあでも、誰が言った (言っている) にせよ、「常軌を逸した」というのはやっぱりどうも・・・

  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.

2019年2月9日土曜日

Veneración

ときどき学生に対して注意していることのひとつが、用語はちゃんと使おうね、ということだ。僕は、専門用語を使わずに文章が書けるのならその方が良いと思うけれど、現実には不可能だろう。特定の分野の話をするときには、その分野で使われる用語を使った方が言いたいことがより速く正確に伝わる。用語を使いこなせるようになるまで勉強するのは面倒だが、まあそれが勉強ということだ。

前の記事で、『聖母マリア賛歌集』を「スペインに広まっていたマリア信仰 (池上 2019: 67-68)」に関係づけるテクストを紹介して、「崇敬」ではなくて「信仰」と言っている点を問題にした。なぜかと言うと、「教会用語においては、神およびキリストに対する礼拝 (〔ギ〕latreia) と、人間である聖母マリアや聖人に対する崇敬とを区別する伝統がある (上智学院 1996-2010: 「崇敬」の項)」からだ。つまり、カトリック的には聖母マリアは崇敬の対象であり、特に理由がないのなら、それに従っておけば良い。スペイン語では veneración が名詞で、動詞なら venerar だ。

ちなみに「信仰」については次のような説明がある。

カトリック神学において信仰は希望 (spes) および愛 (caritas) とともに対神徳の一つに数えられる。それらが対神徳と呼ばれるのは、それらによって我々が神へと正しく秩序づけられるかぎりにおいて神が対象 (objectum) であること、それらが神によってのみ我々に注ぎ込まれること、聖書に含まれている神的啓示によってのみ我々に知られることに基づくのであるが、それらが必要とされるのは、人間の究極目的である至福は人間に自然本性的に備わった能力によっては到達不可能であるということに基づく。(同書: 「信仰」の項)

ここから、カトリックでは「マリア信仰」という言い方は成り立たないという予想ができる (実際そうかどうかは未確認)。なので、やはり「崇敬」を使っておくのが無難だ。

さて、話はここからだ。今までの説明は、あくまでカトリック的文脈においての話。聖母マリアについて書くときに、それとは異なる立場や視点から物を言っても良いわけだ。そういう視点から「マリア信仰」と言う方が自分の考えが良く伝わると思うのならば、そうすることを妨げるものはない。その場合は、ただし、無難な「崇敬」ではなく敢えて「信仰」を選んだ理由を明記する必要がある。「信仰」の定義も欲しい。それをしないと、ただ無知なだけだと思われるのが目に見えている。

別の例をあげれば、僕の授業でカタルーニャ語やバスク語を方言と呼ぶ期末レポートがなかなか無くならない。授業を聞いていたのなら、これらは言語と呼ばれるなにものかであって、方言ではないということは明白だと思うのだが、現実にはそうではないようで、毎年毎年、自分の力不足を痛感させられる。もちろん、このようなレポートに良い点はつけない。しかし、もし授業で話したのとは異なる意味で「方言」という用語を使っていて、その定義を明示しているのであれば、仮に定義に問題があっても高い評価をあげたいところだ (ずっと待っているのだが、そういうレポートは未だ現れていない)。

用語は面倒だが、書き手の思考を明確にするのに役立つ。学生諸君には、是非しっかり勉強してほしい。

話を「マリア信仰」に戻すと、池上はこの表現についての説明はしていない。何か独自の視点から新たな「信仰」の考察をしているわけではなさそうだ。他のページには「マリア崇敬 (池上 2019: 134)」や「聖母崇敬 (idem: 170)」といった言い回しが見られる。ならば、「崇敬」に統一しておくのが良い。

おっと、もうひとつ、「崇拝」という語も使われている。でも「常軌を逸したスペイン人の熱狂的マリア崇拝は外国人を驚嘆させました (池上 2019: 134)」ってのはどうだろう。この書き方だと、「常軌を逸した」は著者の判断だと読むのが自然だと思うのだが、良いんですかね、そんなこと言って。

  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • 上智学院新カトリック大事典編纂委員会 (編), 1996-2010, 『新カトリック大事典』, 研究社.

2019年2月7日木曜日

Cantigas de Santa María

前の記事ではちょっと情熱的になってしまったので、反省している。出来るだけ落ち着いて文章を書いていきたい。

さて、その記事で「1300年頃、教養あるカスティーリャの人々はガリシア・ポルトガル語で抒情詩を書き (佐竹 2009: 46)」という話が出てきたが、アルフォンソ10世 (在位1252-84) の名前とともに思い出されるのが Cantigas de Santa María と呼ばれる作品だ。

文学作品としては、聖母マリアの奇跡を集めた400編以上の詩からなる『聖母マリア賛歌集』が有名である。それはガリシア語で書かれた華麗な図説書で、一部は聖母マリアを崇敬するアルフォンソ10世自身、大部分はガリシアの詩人アイラス・ヌネスの作といわれる。(関 2000: 102)

面白いのは「詩の多くはセヘル (zéjel) というアラビア語の抒情詩に起源を発する詩形で書かれている (寺﨑 2011: 78)」ということで、当時のイベリア半島においてアラビア語詩が持った影響力をうかがわせる。だが、今問題にしたいのは、この賛歌集が何語で書かれているかという点だ。関が指摘する通りだが、寺﨑も当然「王国内のロマンス語の一つ、ガリシア語で書かれて (ibid.)」いることを明記している。

さて、池上俊一の本はどう言っているか。

さらにその名を高めているのが『サンタ・マリア讃歌(さんか)集』いわゆる『カンティガ』で、スペインに広まっていたマリア信仰を背景にした、429編の抒情詩と物語詩からなる大集成です。多くはガリシア詩人のアイラス・ヌネスの作品とされていますが、王自身の作品もあり、豊かな感情表現など、詩人としてのアルフォンソ10世の面目躍如(めんぼくやくじょ)というところです。(池上俊一 2019: 67-68)

どうも、学生のレポートを60以上読んだ後なので、採点モードが抜けず、つい「めんくやくじょ」だろうとか、「崇敬」じゃなくて「信仰」と書いたのは分かってやってるんだよねとか言いたくなってしまうが、そのために引用したのではなかった。言いたかったのは、ガリシア語への言及がないことだ。「ガリシア詩人」という表現に言語のことを含めるのは苦しいだろう。この引用部分の前で、他の文献について「カスティーリャ語で書かれ (池上俊一 2019: 67)」というフレーズを繰り返していることから考えても、この Cantigas がガリシア語で書かれていることを読み取るのは難しい。

僕は、『聖母マリア賛歌集』がガリシア語で書かれたというのは大事な情報だと思うので、これを省いた意図はまるで分からないが、まあ、それが著者の立場なのだろう。「豊かな感情表現など、詩人としてのアルフォンソ10世の面目躍如」と書いているということは、実際に作品を読んだのだろうし、それがガリシア語で書かれていることも分かりつつ豊かな表現を味わったのだろうし、それでもなお言語についての言及をしないというのは何らかの意図があるに違いない。

なお、Cantigas de Santa María が書かれた13世紀の段階では、「それぞれのことばをたがいに独立したポルトガル語とガリシア語と呼んで区別することを可能ならしめるほどの音韻上、文法上の差異がXIV世紀中葉ころまでの文書からは認められない (池上岺夫 1984: 69)」というのが一般的な見解だ。したがって、『聖母マリア賛歌集』がガリシア・ポルトガル語で書かれたと言っても文句は言われないはずだ。

*引用中の漢数字はアラビア数字に改めた。

  • 池上岺夫, 1984, 『ポルトガル語とガリシア語』, 大学書林.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • 佐竹謙一, 2009, 『概説 スペイン文学史』, 研究社.
  • 関哲行, 2000, 「キリスト教諸国家の確立」, 立石博高 (編), 『スペイン・ポルトガル史』, 山川出版社, 第1部第1章, 84-113.
  • 寺﨑英樹, 2011, 『スペイン語史』, 大学書林.