2019年9月29日日曜日

You are not evil

国連の Climate Action Summit における Greta Thunberg (グレタ・トゥ(ー)ンベリ) のスピーチが評判になっているので僕も聞いてみた。

いやあ、すごいなあ、と思ったのだが、僕がこのブログで取り上げるからには言語的な話題だ。でも «how dare you» の話ではない。僕が興味を引かれたのは、英語が持つ「反実仮想」という文法的な仕掛けだ。

学校英文法で今でも「仮定法過去」と言ってるのかどうか分からないが、だいたいそれのこと。スペイン語の学習文法書では、接続法過去 (過去完了) と直説法過去未来 (過去未来完了) が登場する「非現実的条件文」とかその応用みたいに扱われるあれだ。とりあえず「反実仮想」という、まあそれなりに使われているんじゃないかと思う用語で呼んでおくことにする。現代日本語には、文法的な仕組みとして反実仮想を示す手段がない。もちろん、反実仮想を言い表すことはできるが、文法的にそれが明確に表示されないので、文脈や語彙的な手段に頼ることになる。スペイン語文法の授業で「非現実的条件文」を日本語に訳すのに「もし・・・だったら・・・なのに」のようなパタンを使うのは、「はい、私はこの文が非現実的条件文だということが分かっています」という表明をしてもらうという以上の意味はほとんどない。

英語からでもスペイン語からでも、反実仮想をすっきり日本語に訳すのは難しい。しかし、上手く訳せようが訳せまいが、反実仮想の内容をちゃんと理解できることが学習者にとっては重要な課題だし、教える側は丁寧に取り組む必要がある (実際には取り組めていないので反省しなければいけない、という部分を言わなくても、「必要がある」の活用形で示すことができるのが英語やスペイン語なのだが)。

さて、グレタのスピーチにおける反実仮想をちょっと見てみよう。司会者の «What’s your message to world leaders today?» を受けて «My message is that we’ll be watching you» という言葉でスピーチを始め、そのすぐ後:
This is all wrong. I shouldn’t be up here. I should be back in school on the other side of the ocean.
ここで2回出てくる should が反実仮想の標識だ。と言うと意外に思う人もいるだろう。現代英語の should の使い方は色々あって、反実仮想じゃない例の方が多いのかもしれない。しかし、もともとは shall の過去形で、それが助動詞として使われて現在のことを指す用法の起源は明らかに「仮定法過去」と繋がりがある。手元の辞書は «In statements of duty, obligation, or propriety (orig. as applicable to hypothetical conditions not regarded as real), and in statements of expectation, likelihood, prediction, etc. (OUP 2007: s. v. shall, 15)» という風に、もとは現実と見なされない仮定的な条件について使われていたと説明している。

まあ、この例は反実仮想を持ち出さなくても、「夏休みが終わったので学校に行かなきゃいけない」のような解釈をする人はいないと思うが、実際にはニューヨークにいるわけで、大西洋の向こうで学校に通っているのが本来あるべき状態なのにそうなっていない、という当為と現実の乖離が反実仮想ということになる。

そして、反実仮想表現が興味深いのは、仮想と現実の2つを1度に簡潔に言うことができるだけでなく、仮想と現実の乖離がなぜ起きているのかの問いを聞き手・読み手に提起できる点だ。ここでは例えば、world leaders がちゃんと仕事していればここに来る必要もなかった、みたいな読みが喚起されたりする。レトリックの観点からすれば、たいそう便利な道具だと言えるし、対応する仕掛けがない言語に翻訳するのに骨が折れるのは当然だ。

次の例は、文法の教科書に出てきてもおかしくないような条件文。
You say you hear us and that you understand the urgency. But no matter how sad and angry I am, I do not want to believe that. Because if you really understood the situation and still kept on failing to act, then you would be evil. And that I refuse to believe.
あなたたちは私たちの声が届いていて事態の緊急性を理解していると言うけれど、私はそれを信じたくない、つまり、理解してないと思いたい、ということだろう。そして、あなたたちが事態を理解していないということを現実として措定することで、次の「仮定法過去」が可能になる。本当に理解した上でなお行動しないままなのであれば、という条件節は、実際には「事態を理解して」の部分だけが現実と乖離していて「行動しない」は現実だという解釈になるのだろうけれど、仮想的条件が設定された中での話なので、ひっくるめて「仮定法過去」で表現されている。そして、その (現実には成立していない) 条件が成立するならば、あなたたちは「邪悪」だということになる、というわけだ。僕の英語力では evil の語感がよく分からないので、ネット上に出回っている訳を借りてきたが、この帰結節の would は「だろう」と訳してはいけない。あくまで、現実と乖離した条件が成立したらそうなる、ということを表しているに過ぎない。仮想世界における論理的帰結だ。

そしてグレタは、そのこと、つまりあなたたちが事態を理解しつつ問題を放置している邪悪な連中であることを信じるのを決然と拒否する。議論の筋としては、理解しているとあなたたちが言う、しかし私は理解していないと思いたい、なぜならもし理解しているのならあなたたちは邪悪だということになるが、あなたたちが邪悪な存在だとは絶対に信じない、だからあなたたちが理解していないと考えざるを得ない、という感じだろうか。引用の最後の文は believe の目的語の that が前に出ているところがカッコいいと個人的には思うが、大事なのは refuse だろう。ここで断固として拒否されているのは、あなたたちを邪悪な存在として措定することだ。もしかしたら、彼女自身 world leaders が邪悪な存在に思えるぐらい深く悲しみ怒っているのかもしれない。しかし、にもかかわらず (no matter how sad and angry I am)、そういう世界観には立たない決意をしたのだろう。ただし、これは邪悪じゃない人たちみんなで仲良く頑張ろうねという話ではなくて、邪悪じゃないからには事態を理解してすべきことをせよ、それをしないなら・・・、という展開になる。これは彼女がそうだと決めた「現実世界」での話だから、終わり近くの «if you choose to fail us, I say we will never forgive you» が「仮定法過去」ではない現実的な条件文なのはよく分かる。

問題の反実仮想の条件文は、(彼女にとって) 存在する矛盾の要素を仮想世界と現実世界に分けて、見かけ上矛盾を解消することを通じて実際の矛盾の解消を求めるという、けっこう高度なレトリックの一部をなす。反実仮想というのは、非現実を談話の中に導入するのだけれども、実は徹底的に理詰めな表現なのだと言える (理詰めでなければ現実と仮想の乖離を明瞭に示すことはできない)。もちろん、彼女の世界認識を共有しない人はいるだろう。議論の文章なのだから、それは織り込み済みのはずだ。だから、批判や反論が出るのは当然だが、それらも理詰めで行われることが要求されるわけだ。

反実仮想は、日常生活に欠かせない婉曲表現と結びつく一方で、議論の筋を作るのに重要な働きをする。特に、スペイン語で言えば過去未来形、英語なら would の部分が、話し手・書き手の主張を表していない場合が多いのだが、学習者がそれを読み取れなかったりする。教える側がちゃんと対応しなければいけないと思うのだが、そもそも、そういうレベルの文章を読むところまで進めないことが多い。けっこう大きな問題だと思うのだが。

なお、ネット上でざっと見たところ、スウェーデン語の反実仮想条件文は英語のそれと似たやり方で作れるようだ。英語の if にあたる om に導かれる節内では動詞を過去形にする。帰結節では、英語の would に相当する skulle を使う。現代スウェーデン語では接続法はほぼ使われなくなっているが、英語の be にあたる vara の接続法過去形 vore が om 節内で使われるようだ (if I were の were がやはり接続法過去形だ)。


  • Oxford University Press, 2007, Shorter Oxford English Dictionary, MSDict Viewer Version 10.0.17.169 (iOS app)

2019年9月21日土曜日

Vocal àtona

前回までカスティリャ語のカナ表記について書いてきたが、もとはと言えばカタルニャ語の固有名詞をどう表記するかという話をしていたのだった。今回は Montsalvatge (3) で論じたことを補足して、先に進む準備をしたい。

カタルニャ語の無強勢母音体系は、大きく西部 (5母音体系) と東部 (3母音体系) に分かれる。バルセロナの方言は東部に属するので、伝統的に後者の体系が標準的と見なされてきた。その体系を単純にカナに対応させた3段式に従えば、Barcelona は「バルサロナ」となる。一方、綴りも考慮に入れた5段式では「バルセロナ」になる。5段式は西部の体系の素直な転写と重なるが、西部式ということではなくて、綴りを考慮した汎カタルニャ語圏的な方式だということは確認しておきたい。

木村 (1989: 193) は「原語のスペリングがわかるような書き方」が「スペイン語よりもむしろ英語、ポルトガル語のような母音弱化の著しい言語の表記において問題になる。たとえばポルトガル語の川の名 Douro の語末の -o は弱化して [u] と発音されるが、だからと言ってこれを「ドウル」と表記するよりは、スペリングを尊重して「ドウロ」と書いた方が、実用的である」と言う。ここで実用的というのは、元の綴りが分かって便利だということだろうか。なお、彌永 (2005) は「o (/u/, /o/, /ɔ/) は一律に「オ」と表記するという原則に立つ (167)」という点で木村と一致するが、「かつての二重母音 /ow/ は、短母音 /o/ に置き換わり、現代の標準的な発音では姿を消しました。[...] しかしながら、二重母音を保っている方言もあり、注意深い発音では、二重母音で発音することもあります (35)」と述べ、「無強勢の ou には「オ」、「オー」あるいは「オウ」、強勢のある ou には「オー」をあてる表記がよいと思われます (172)」としていて、それに従えば Douro は「ドーロ」になる。

彌永 (2005: 166) の「先人が行ってきた方法は、 [...] ポルトガル語の語を可能なかぎりローマ字表記された日本語と見立てて翻字してしまう方法と言って良いでしょう。原音を離れるかもしれませんが、この方法によって、ポルトガル語の方言的変異をはじめ、さまざまなポルトガル語のありかたを排除したカタカナ表記が可能になり、元のポルトガル語がすぐに頭に浮かぶ表記が行われてきました」という観察は興味深い。音声学・音韻論を知っているからこそ出来る、「原音」離れに対する評価かもしれない。

話が少しずれた。木村が英語やポルトガル語について言っていることがカタルニャ語にも当てはまることは今更説明する必要もない。元綴りの復元可能性については、特にウ段の使用が事をややこしくする。例えば Coromines を3段式で「クルミナス」と書いたとしよう。元の綴りを知らない人にとっては「クル」が coro なのか curu なのか、coru なのか curo なのか、あるいは cro なのか cru なのか、はたまた cor なのか cur なのか分からない。

また少しばかり脱線するが、ここで思い出すのはフランス語の ou に対応するカナ表記が「ウー」であることだ。僕は長年、例えば「ブールヴァール」に2個も「ー」が出てきて間延びするなぁと思っていたのだが、綴りの復元性から意味のある「ー」だということに気づいた。元綴りは boulevard だが、「ブー」が少なくとも b や be ではないことが分かるのだ。もちろん、真似してカタルニャ語で「クールーミナス」と書けば良いと思う人はいないだろうけど。

話を戻すと、綴りを考慮するやり方は伝統的に特に珍しいわけではなく、「原音」を重視した表記より劣っているとも言えない。

ここで、3段式と「原音」の関係に触れておこう。Montsalvatge (3) で僕は「[u] についてはオ段の可能性もあり、日本語話者がカナ表記を発音した時により元の音に近くなる場合も考えられる」と書いた。つまり「クルミナス」よりも「コロミナス」の方が Coromines の音声により近くなるかもしれない (かどうか本当は分からないが) ということだ。また「カタルーニャ語の [ǝ] は僕の耳にはアに聞こえることが多い」と書いたが、実際にはアに聞こえないこともある。例えば Generalitat が僕の耳に綺麗に「ジャナラリタッ」に聞こえることはまずなくて、最初の音節が「ジェ」に近い発音は珍しくない。もちろん、僕の耳が綴りに引きずられている可能性はある。しかし、[ǝ] は日本語のアイウエオのどれとも異なるということは確認しておく必要がある。結局、3段式の表記は東部方言無強勢母音の3母音体系を3段のカナに対応させた音韻体系の翻訳なのであって、音声の転写ではないのだ。だから、3段式と5段式の違いは、音声と綴りという単純な対立には解消できない。少なくとも、3段式が「発音に忠実」みたいな思い込みはなくしていきたい。

次回以降、カタルニャ語の話をするときは5段式で「コロミナス」とか「ジェネラリタット」とか「モンサルバッジェ」みたいな書き方をすることにしたい。これは単なる実験で、提案とか主張とかの意図はない。まあ3段式が主流っぽいので、別のやり方もあるということを示す意味はあるかもしれない。


  • 彌永史郎, 2005, 『ポルトガル語発音ハンドブック』, 大学書林.
  • 木村琢也, 1989, 「フアンとマリーア –スペイン語固有名詞のカタカナ表記に関する二つの問題点–」,『吉沢典夫教授追悼論文集』, 191-199.

2019年9月18日水曜日

Ll / y

前回の記事で原ほかが Valladolid を「バヤドリー」と書いているのに対して僕は「バリャドリッド」等と書いた。この点について説明しておこう。

スペイン語の ll という綴りは、伝統的に音素 /ʎ/ に対応する。それに対して y が /ʝ/ を表す。例えば callar の単純過去3人称単数形 calló と caer の単純過去3人称単数形 cayó に見られる綴りの違いは、異なる発音を表す。
calló [ka'ʎo] vs. cayó [ka'ʝo]
/ʎ/ はカタルニャ語の ll (millor)、ポルトガル語の lh (melhor)、イタリア語の gli (meglio) に対応する音でもあり、伝統的にリャ行で表記される。それに対して y に対してはヤ行が使われる。

しかし現在では /ʎ/ と /ʝ/ の区別を保っている話者は少数派で、calló も cayó も同じ発音になる人の方が多い: «El más extendido en el español actual es el subsistema no distinguidor entre /ʎ/ y /ʝ/ (RAE & ASALE 2011: §6.2a)»。僕も自然な発話で区別を保っている人の喋りを聞いたのは本当に数えるほどだ。区別をしない人の発音は、ll が y に合流する形になるので、この現象を yeísmo と呼ぶ (y の発音自体は地域によって [j, ʝ, ʒ, ʃ] など色々なのだが)。

この yeísmo が一般化した状況を踏まえて、原ほか (1982: vi) は次のようなルールを立てる。
ll, y はヤ行のカタカナで表記する。lli, yi は「ジ」とする。ただし、19世紀までの人名などについては、ll + 母音はリャ、リ、リュ、リェ、リョとする
Castilla カスティーヤ、Viscaya ビスカーヤ、Lazarillo de Tormes ラサリーリョ・デ・トルメス
このルールにしたがって ll と y をヤ行で表記する人はそれなりの数いるのだが、実は僕はこの方法は嫌いだ。理由は、ヤ行の響きがスペイン語の ll/y に対して緩すぎると感じるからで、特に「ー」と併用されると全身から力が抜けていくような気さえする。個人的な感覚だから、全然そう思わない人がいても不思議ではないのだが、音声学的には、少なくとも僕が聞きなれているスペイン語においては ll/y の発音の子音性は日本語のヤ行のそれよりも高い。摩擦的噪音がほぼ聞こえないとしても、狭めの度合いは明らかに大きい (つまり狭い)。実際にはより狭めのゆるい [j] や音節副音母音 [i̯] が現れる地域もある (メキシコの一部など –RAE & ASALE 2011: §6.4h) ので、そういう発音に慣れた人は脱力したりしないのだろうけれど。

20世紀前半のスペインの発音に関して Navarro Tomás (1985: §120) は «la forma más frecuente en la pronunciación correcta, por lo que se refiere a la posición de la lengua, es suficientemente cerrada para que no haya duda en considerarla como consonante fricativa. La articulación de la y normal española es, en efecto, algo más cerrada que la que se observa en al. ja, jung; fr. hier, piller; ingl. yes, young» と言っている。ドイツ語やフランス語や英語の [j] の音と一緒にしてはいけないのだ。

僕は授業で ll/y の発音を「ヤとジャの中間」と説明することが多い。そういう音なので、カナ表記の候補としてヤ行の他にジャ行が考えられる。現に原ほかは lli, yi には「ジ」をあてている。ジャ行子音の方がヤ行子音よりも子音らしい子音だということは言うまでもない。また、「ヤ、ジ、ユ、イェ、ヨ」という一貫しない表記法はヤ行の弱点のひとつだが、ジャ行ならその問題もない。さらに、ジャ行なら [ʒ] の発音もカバーできる。断然ジャ行の方が有利だと思うのだが、やはり y の文字はヤ行という伝統が強かったのだろうか。

聴覚印象と言語学的根拠に基づいてジャ行を優先させたのは石橋 (2006) だ。
「y」「ll」はなるべくジャ行音に統一する。 ただし、筆者が現地の発音を聴いた経験上あえて「ヤ」行音を採用した場合もある (【例】Puerto Cabello プエルトカベージョ、Guayana グアヤナ) (石橋 2006: 20)。
場合によって使い分けているということだが、
いずれにせよ、「ジャ行音表記」「ヤ行音表記」のどちらが「正しいか」という議論はまったく無意味である。なぜならスペイン語にはこの両者の音韻上の区別が存在しないからである (ibid.)
という指摘は重要だ。正確には「スペイン語にはこの両者 (=日本語の「ジャ行音」と「ヤ行音」) の区別に相当する音韻上の区別が存在しない」ということだろうけど、言っていることは間違っていない。スペイン語の /ʝ/ の音声的実現領域が日本語の /y/ と /zy/ の音声的実現領域にまたがっているので、スペイン語人が日本語の「ヤ」と「ジャ」の区別が苦手だという現象が起きる (日本語人が l と r の区別が下手なのと同じメカニズムだ)。裏を返せば、日本語で「プエルトカベージョ」と言っても「プエルトカベーヨ」と言ってもスペイン語人の耳には大して違わないと予想できるということだ (実験で確かめたら予想を裏切る結果になる可能性はあるけれども)。その上で、石橋が基本的にはジャ行を使うことにしたのは、彼の耳にはジャ行の方がしっくり来るということだったに違いない。

さて、僕も、ll と y を区別せず表記するならジャ行が良いと思う。しかし、正直に言うと、「ジュカタン半島のマジャ遺跡」とか「ジェペスが弾いたファジャの曲」とか書く勇気が出ない。現実には、フラメンコ関係のものを書くときはジャ行で表記している (「セビージャ (Sevilla)」「バジェホ (Vallejo)」「シギリージャ (siguiriya)」「アマジャ (Amaya)」など) が、それ以外では ll と y をリャ行とヤ行で書き分ける保守的な表記を使っている。だから前回の記事で「バリャドリッド」と書いたわけだ。

一方、「イェペス (Yepes) が弾いたファリャ (Falla) の曲」的な表記は「原語のスペリングがわかるような書き方 (木村 1989: 193)」なので、それなりのメリットはある。少数派ではあるが、実際に区別して発音している人たちもいるので、音声的な現実の支えもある。従って、リャ・ヤ方式を排除する理由は特にない。

まあ、でも、折角だからジャ行で統一する実験をやってみようかな。ちょっと考えます。

  • 原誠ほか (編), 1982, 『スペイン ハンドブック』, 三省堂.
  • 石橋純, 2006, 『太鼓歌に耳をかせ –カリブの港町の「黒人」文化運動とベネズエラ民主政治』, 松籟社.
  • 木村琢也, 1989, 「フアンとマリーア –スペイン語固有名詞のカタカナ表記に関する二つの問題点–」,『吉沢典夫教授追悼論文集』, 191-199.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • RAE & ASALE, 2011, Nueva gramática de la lengua española. Fonética y fonología, Espasa Libros.

2019年9月14日土曜日

Consonante final

前々回予告した、「ッ」の使い道について考えてみたい。

原ほか (1982: vii) は「語末の -d, -t は表記しない」として「Valladolid バヤドリー、Ortega y Gasset オルテーガ・イ・ガセー」という例を挙げている。しかし、これらを表記しない理由の説明はない。スペイン語を勉強したことのある人なら、語末の -d は発音しなくて良いと習ったかも知れないので特に不思議に思わないかも知れないが、規範として -d や -t を発音しないことになっている訳ではない。なので、これらをカナ表記で無視するというのは原ほかの判断による。

まず -d についてアカデミアの記述を見てみよう。

Fuera del imperativo, la pérdida de -d es hoy general en español, incluso entre las personas instruidas (paré, usté, verdá), sobre todo ante pausa, aunque muy frecuentemente se repone en el plural (paredes, ustedes, verdades). La ausencia de la /d/ en el plural, en realizaciones como parés o verdás, suele estar estigmatizada, a diferencia de las formas de singular, que se consideran coloquiales. La pronunciación cuidada recupera el alófono oclusivo o el aproximante, [la.βeɾ.'ðad] ~ [la.βeɾ.'ðað] la verdad, o un alófono aproximante relajado y ensordecido [ð̥], [la.βeɾ.'ðað̥], aunque en el área leonesa y en el centro y norte de Castilla (España), especialmente en las ciudades de León y Madrid, es muy frecuente la solución interdental: [pa'ɾeθ] ~ [pa'ɾeθ] pared (RAE & ASALE 2011: §4.7ñ).

語末の -d はそれなりの教育を受けた人でも落とすことが多い (vosotros/as に対する命令形では落とさない)。だから、授業で usté で構わないと教えるのは正当化される。しかし、それは話し言葉的な特徴であり、注意深い発音では -d が保たれる (保たれ方にはいくつか種類 –異音- がある)。この記述からは、語末の -d を表記する方が穏当のように思えるが、原ほかは一般的に見られる口語的特徴を拾ったわけだ。まあ、それはそれで一つの態度ではある。

一方、現代のスペイン語では:

Los segmentos consonánticos que aparecen en esta posición son coronales, fundamentalmente dentales y alveolares: /d/, /l/, /n/, /ɾ/, /s/ en el subsistema seseante y /d/, /l/, /n/, /ɾ/, /s/, /θ/ en el subsistema distinguidor (RAE & ASALE 2011: §8.7a)

で、語末の -t は外来語にしか現れない。そして、語末の /p/, /b/, /t/, /k/, /g/ については、発音される場合もあるし、されない場合もあり、時には子音を保った上で -e を付け加える場合もあるという (idem: §8.7c)。

興味深いのは、次の観察だ。

Existe, además, algunas voces en las que el uso ha generalizado la forma adaptada sin consonante final, como cabaré, carné o parqué, del francés cabaret, carnet y parquet, respectivamente. Este es el modo tradicional de adaptación de los préstamos que poseen la consonante /t/ en posición final de palabra: bidé, del francés bidet; caché, del francés cachet; corsé, del francés corset; chaqué, del francés jaquette. A pesar de ello, se pueden encontrar también pronunciaciones con conservación de la consonante final en algunas de estas voces (idem: §8.7c)

伝統的には -t を持つ外来語の -t を落として取り入れていた、というのだが、jaquette を除けば皆フランス語でも最後の -t は発音しない。だから、アカデミアのこの記述は、音と綴りを見事に混同した、ごくごく初歩的な誤りを含む。今の議論に即して言えば、むしろ、元の言語で発音していなかった -t を発音することさえあるという点が重要だ。発音されたりされなかったりなので、どちらかに決めれば良いということになる。原ほかの扱いは -d と同じで一貫性がある。僕は、書いてあるなら表記する方が無難だろうと思う。

原ほかが挙げている例は Valladolid と Ortega y Gasset、それから Ganivet だ (Madrid は原則通りなら -d を表記しないはずだが、慣用に従って「マドリード」を採っている)。試しに YouTube で聞いてみると、少ない例だが、これら4例の語末子音はだいたい発音されている印象だ (Gavinivet の -t を発音していない明らかな例が一つあったが)。ただ、日本語話者の耳にはその子音が聞こえないことが多いかもしれない。つまり舌先が歯に届いているけれども、その後の解放・破裂が (ほぼ) ない発音だ。

子音はあるのだが日本語人には聞こえにくい、この聴覚印象を尊重して、表記しないというのは理解できる態度だが、確かにそこにあるので、僕は特に「オルテーガ・イ・ガセー」はちょっとな、と思うのだ。

では、表記するとしたらどうするか。いくつか方法がある。

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Valladolidバリャドリドバリャドリードバリャドリッド
Madridマドリドマドリードマドリッド
Gassetガセトガセートガセット
Ganivetガニベトガニベートガニベット

上に挙げたオプションのうち、ガニベート以外はネット上で使用が確認できる (「ガニベート」も検索すると出てくるのだが、原ページに行くと見つからない)。どれも聴覚印象や原語音から距離があるが、それはもう、子音終わりの語を表記するのであれば避けられない。語中だって「マドリー madorii」の o をどうしてくれる、という話になる。だから、どれが元の音に近いかを考える必要はないだろう。

そこで、記号の機能に注目すると、「ッ」の有用性が明らかになる。スペイン語の場合、閉鎖子音で終わる語に限って「ッ」を使えば、直後の「ド」や「ト」が do や to ではなく d や t であることを示すことが出来る。木村 (1989: 193) の「原語のスペリングがわかるような書き方をする」に沿ったやり方になるわけだ。

僕は普段「マドリード」と書く。喋るときは「マドリー」と言うこともある (スペイン語を喋るときには -d を落とすことは多分ないが)。「マドリッド」は一番馴染みのない形だが、メリットがあることが分かった。これからこれを使うようになるかもしれない。Ortega y Gasset は「オルテガ・イ・ガセット」が落ち着く。

「ッ」に子音終わりを示す機能を持たせた、別の表記法を考えることも出来る。僕の知り合いに David という名前の男がいて、彼の名刺には「ダビッ」と書いてある。これは「ダビッド」よりもオリジナルの聴覚印象に近い。悪くない方法だと思うが、難点は、どの子音で終わるかが明示されないこと。「オルテガ・イ・ガセッ」とか「アラルコス・リョラッ (Alarcos Llorach –これは k の音)」とかと区別がつかなくなる。とは言え、「マドリッド」と「バリャドリッド」の「ドリ」だって全然違う2種の発音を区別していないわけだから、大した問題ではないのかもしれない。選択肢のひとつにはなるだろう。

  • 原誠ほか (編), 1982, 『スペイン ハンドブック』, 三省堂.
  • 木村琢也, 1989, 「フアンとマリーア –スペイン語固有名詞のカタカナ表記に関する二つの問題点–」,『吉沢典夫教授追悼論文集』, 191-199.
  • RAE & ASALE, 2011, Nueva gramática de la lengua española. Fonética y fonología, Espasa Libros.

2019年9月12日木曜日

Consonante larga vs. vocal larga

前の記事にいつくかコメントをもらった。予定を変えて「ッ」対「ー」の話を続けることにしたい。

僕を含めて、大学でスペイン語を専攻したあげくスペイン語で糊口をしのぐようになった人たちというのは、スペイン語の響きに対するイメージが身体感覚としてあって、それに基づいた美意識を持っている。その美意識に合わないものを受け入れるのは難しい。もちろん、イメージや美意識には個人差があるから、「ー」を多用してスペイン語の強勢のイメージをカナ書きにマッピングしたい人もいるし、僕みたいに「ー」は自分の頭の中で響いているスペイン語と似ていないことが多いからカッコ悪いと思う人もいる。

こういうイメージや美意識は、決してスペイン語そのものに内在しているのではなくて、我々が受けた教育に大きく影響を受けている。僕らの業界内での「ッ」に対する拒否反応は、僕ら自身が思っているほど客観的な事実に基づくものではない、というのが前の記事で言ったこと。正直に告白すると、僕は「オッホ」とか「セビッチェ」とかいう表記を見ると「ああ、素人さん」と思ってしまう。この感想は、スペイン語学の専門家に「ッ」を使う人はまずいない、という社会言語学的事実の反映ではあるけれども、そのように聞いてそのように表記する人がいるという言語学的事実に向き合うことを妨げる偏見でもある。今回、この年になってようやくそのことに気づいたので、反省を込めて前の記事を書いたという側面がある。

「オッホ」と「オーホ」と「オホ」がスペイン語話者にどう聞こえるかを誰か精密に研究してくれないかなと思っているところだ。

さて、そういう経緯があるので、前回の記事は少し「ッ」に肩入れした書き方をしたかなと思う。そこで、今回は「ー」派に有利にな情報を少し書いておこう。

まず、スペイン語の強勢母音が長くない、しかも日本語話者に長く聞こえないというデータは、スペイン人の、語単独の発音に基づくものだ。Navarro Tomás の本に出ている数値は元の論文 (Navarro 1916) を見ると自分自身が単語を区切って発音していたことが分かる。安富 (1992) は明示的に説明していないが、使った録音が出版物の付属テープということで、それは僕も見た (聞いた) ことがある。多分、語単独の発音の部分を使ったのだろうと思う。

スペインのスペイン語は母音が短いというのは多くの人が持っているイメージだろう。Troya Déniz (2008-2009: 309) は、カナリアスの母音はイベリア半島のより長く、プエルトリコのより短いと述べている (それでも長母音と言えるほど長くはないと言ってはいるが)。

また、語単独の発音ではなく、実際の喋りや文の読み上げでは、イントネーションや強調などの影響を受けて、母音の長さも変わり得る。«Digo la palabra ...» みたいなのの読み上げも含めて、単純に単独の語だけではない発音を材料にした研究で、強勢母音が無強勢母音より長いという報告をしているのは、Marín (1994-1995)、Cuenca (1996-1997)、García (2016)。この最後の García は、ペル (!) のアマゾン流域の方がリマよりも母音が長いとも言っている。また、語単独の発音だが、Krohn (2019) がコスタリカの発音について強勢母音が無強勢母音より長いと報告している。

ちょっとgoogleaっただけで見つかった論文がこういう結果を出していて、なあんだ、という感じではあるが、あくまで無強勢母音よりちょっと長いという話。「ー」を使いたくなるかどうかは、やはり人によるだろう。

というわけで、「ー」も「ッ」も現実をある程度反映していると言えるだろう。各自 (使うのであれば) 好きな方を使えば良いと思う。

あと、気持ちが入った発話だと臨時的に母音が長くなるという現象もある。ただし、これは強勢母音だけではなく、最後の無強勢母音が長くなることが多い。表記にもそれは反映されていて、ちょっと検索してみると «qué riiico» が81,900件、«qué ricooo» が895,000件、«qué riiicooo» が35,900件と、表記の点では最後の母音だけ伸ばすのが圧倒的だ。ちなみに «qué riiicccooo» は247件。

子音を長くするのは、僕の印象だと語頭で起こることがある。検索すると、こんなのが見つかった (セサル・アイラの Cómo me hice monja)。母音の引き伸ばしの例もふんだんにあるので、ちょっと長めに引用するが、子音のは最後の行に出てくる。

–Dingan “sí señorita”.
–¡Sí, señorita!
–¡Más fuerte!
–¡¡Síí seeñooriitaa!
–Digan “ñi sisorita”.
–¡Ri soñonita!
–¡Más fuerte!
–¡¡Ñoorriiñeesiireetiitaa!!
–¡Mááás fueeerteee!!
–¡¡Ñiiitiiiseetaaasaaañoooteeeriiitaaa!!
–Mmmuy bien, mmmuybien.


  • Cuenca, Mary Hely, 1996-1997, «Análisis instrumental de la duración de las vocales en español», Philologia hispalensis, 11, 295-307.
  • García, Miguel, 2016, «Sobre la duración vocálica y la entonación en el español amazónico peruano», Lengua y sociedad 14.2 (2014), 5-29.
  • Krohn, Haakon S., 2019, «Duración vocálica en el español de la gran área metropolitana de Costa Rica», Filología y lingüística de la Universidad de Costa Rica, 45.1, 215-224.
  • Marín Gálvez, Rafael, 1994-1995, «La duración vocálica en español», Estudios de lingüística de la Universidad de Alicante, 10, 213-226.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1916, «Cantidad de las vocales acentuadas», Revista de filología española, III, 387-408.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • Troya Déniz, Magnolia, 2008-2009, «La duración de las vocales tónicas en la norma culta de las Palmas de Gran Canaria», Philologica canariensia, 14-15, 297-312.
  • 安富雄平, 1992, 「スペイン語の母音の持続時間: 日本語の長音との比較において」,『ロマンス語研究』, 25, 81-86.

2019年9月9日月曜日

Consonante larga

長母音と対になる概念が長子音だ。とは言え、聞きなれない人が多いかもしれない。別の言い方に重子音というのがあって、そっちなら「あああれね」と思う人も多いだろう。日本語だと小さい「ッ」(促音) が音声的には長子音 (の前半部分)に当たる。それと「ン」(撥音) の後にナ行・マ行が続く時。国際音声記号で書く場合は、長いことを表す [ː] を使う (「行った」[itːa]) か、子音の文字を2つ書く ([itta])。

さて、カスティリャ語固有名詞のカナ表記についての提案の中に、「ッ」について興味を引くものがある。

  • 〔原則1〕スペイン語音についての音声学的観察結果を尊重する。
  • 〔原則2〕日本語のカタカナで表わしうるかぎり、なるべく日本人の耳に聞こえるとおりに表記する。ただし、日本人はスペイン語の発音に日本語の促音的なものを聞きがちであるが、スペイン語はそれを極端に嫌うので、この場合は原則1を優先させ、促音表記は用いない。 (原ほか 1982: vii)

この「促音表記は用いない」つまり小さい「ッ」を使わないというのは、我々の業界では割と浸透していて、これに従っている人は多いだろう。特にスペイン語学をやっている人はまず「ッ」は使わないんじゃないだろうか。

しかし、「日本人はスペイン語の発音に日本語の促音的なものを聞きがち」という観察から期待される通り、「聞こえるように」書いたであろう例がネット上で色々見つかる。順不同、思いつくままに固有名詞普通名詞取り混ぜて紹介すると: オッホ (ojo)、オルッホ (orujo)、バジェッホ (Vallejo)、アレッホ (Alejo);ケッソ (queso)、ベッソ (beso)、バルドッサ (baldosa);サラゴッサ (Zaragoza)、イビッサ (Ibiza)、チョリッソ (chorizo);ヒラッファ (jirafa);アレキッパ (Arequipa)、アレッパ (arepa)、グアッパ (guapa);アヤクッチョ (Ayacucho)、セビッチェ (ceviche)、シロッコ (siroco)。また、「リッコ」はイタリア語の ricco を写したものが多いが、スペイン語の rico に当たる例も見える。それから、スペイン語として意識されているかどうかは別として、マッチョ (macho) やチュッパチャプス (Chupa Chups) も入れておこうか。

これらの例ににおける「ッ」は音声学的に子音の長さを反映しているのかもしれない: «En posición intervocálica, inmediatamente detrás de la vocal acentuada, paso, pala, las consonantes son más largas que en ninguna otra posición (Navarro Tomás 1985: §179)。つまり、「ッ」が入っているところの子音は強勢母音の直後にあって、「長子音」と呼べるほどではないにしても、他の環境より長目なのだ。まあ、それに合わない例を挙げなかっただけの話ではあるが、パッと思いつくのはだいたいこのパタンだ (合わない例として今思いつくのは「カッシェロ (Casillero)」ぐらいで、これには別の要因が考えられる)。

というわけで、「ッ」の使い方も「ー」のそれと同じくらい合理的だということが分かった。しかし、スペイン語の専門家たちは「ッ」に対して冷淡だ。その理由を、引用では「スペイン語はそれを極端に嫌う」からとしているのだが、これは意味不明だ。日本語におけるカナ表記なのだから、聞こえるように書くということなら促音を拒否する理由はない。仮に、スペイン語としても受け入れられるような日本語表記を目指すということだとしても、日本語話者がスペイン語を喋っていて「オッホ」と言っても、生き物ではないスペイン語が「それ嫌い」とか言うはずもない。

もう少し真面目に言うならば、「スペイン語はそれを極端に嫌う」を定義してもらわないと、コメントのしようがない。ちなみに、日本語話者が「オッホ」と「オーホ」と「オホ」と言ったうちのどれが、スペイン語話者の耳に一番 ojo に近く聞こえるかという実証的研究があるという話を聞いたことがないので、僕はスペイン語話者による評価についても何も言えない。

もちろん、ああいう表現が出てきた背景を想像することはできる。スペイン語には母音の長短の区別がないのと同様、子音の長短の区別がない。そして、同じ子音が続くのは、単語の中ではごく少ない (innato, obvio...)。また、単語の連続によって同じ子音が隣り合う場合、子音1つ分しか発音されないこともある (tres salas ['tɾe.'salas], RAE & ASALE 2011: §8.8j)。つまり、同じ子音の連続を長子音としてではなく短子音で実現するというプロセスが存在する。なので、スペイン語の音韻構造には長子音を避ける傾向があるとは言えるだろう。しかし、短子音化は義務的ではない。「極端に嫌う」の根拠としてはまだまだ弱い。

原ほか (1982: viii) は、「最後から2番目の音節に強勢のある語では、その音節が開音節なら長音表記」というルールを立てている (例は「バルセローナ (Barcelona)」) ので、ojo は「オーホ」になるはずだ。でも、この表記は僕には「オッホ」とどっこいどっこいに見える (「オホ」が一番良い)。

彼らの原則1「スペイン語音についての音声学的観察結果を尊重する」に従うならば、スペイン語の強勢母音が必ずしも長くないという事実 (前の記事参照) は、上の「ー」の使用ルールを正当化しない。また、日本人学習者の耳にはスペイン語の強勢母音が長く聞こえない傾向がある (これも前の記事参照) のだから、原則2の「日本人の耳に聞こえるとおり」も「ー」の多用を支持しない。一方、「ッ」の使用は、もしかしたら Navarro の観察を繊細に拾い上げている可能性があるので原則1から外れていないかも知れないし、「促音的なものを聞きがち」な「日本人の耳に聞こえるとおり」である点で原則2に合っているかも知れない。となると、どっこいどっこいどころか「ッ」の方が良いということになりはしまいか。

正直に言えば、僕は「ッ」を使った表記はピンとこない。だが、これも恐らく慣れの問題だろう。まあ、「ー」を使わない実験中で、当然「ッ」も使わない派だから、「ッ」に慣れる機会があるかどうか分からないが。あ、でも、「ッ」には「ー」にはない使い道が考えられるので、その検討を次回することにしたい。


  • 原誠ほか (編), 1982, 『スペイン ハンドブック』, 三省堂.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • RAE & ASALE, 2011, Nueva gramática de la lengua española. Fonética y fonología, Espasa Libros.