2019年2月9日土曜日

Veneración

ときどき学生に対して注意していることのひとつが、用語はちゃんと使おうね、ということだ。僕は、専門用語を使わずに文章が書けるのならその方が良いと思うけれど、現実には不可能だろう。特定の分野の話をするときには、その分野で使われる用語を使った方が言いたいことがより速く正確に伝わる。用語を使いこなせるようになるまで勉強するのは面倒だが、まあそれが勉強ということだ。

前の記事で、『聖母マリア賛歌集』を「スペインに広まっていたマリア信仰 (池上 2019: 67-68)」に関係づけるテクストを紹介して、「崇敬」ではなくて「信仰」と言っている点を問題にした。なぜかと言うと、「教会用語においては、神およびキリストに対する礼拝 (〔ギ〕latreia) と、人間である聖母マリアや聖人に対する崇敬とを区別する伝統がある (上智学院 1996-2010: 「崇敬」の項)」からだ。つまり、カトリック的には聖母マリアは崇敬の対象であり、特に理由がないのなら、それに従っておけば良い。スペイン語では veneración が名詞で、動詞なら venerar だ。

ちなみに「信仰」については次のような説明がある。

カトリック神学において信仰は希望 (spes) および愛 (caritas) とともに対神徳の一つに数えられる。それらが対神徳と呼ばれるのは、それらによって我々が神へと正しく秩序づけられるかぎりにおいて神が対象 (objectum) であること、それらが神によってのみ我々に注ぎ込まれること、聖書に含まれている神的啓示によってのみ我々に知られることに基づくのであるが、それらが必要とされるのは、人間の究極目的である至福は人間に自然本性的に備わった能力によっては到達不可能であるということに基づく。(同書: 「信仰」の項)

ここから、カトリックでは「マリア信仰」という言い方は成り立たないという予想ができる (実際そうかどうかは未確認)。なので、やはり「崇敬」を使っておくのが無難だ。

さて、話はここからだ。今までの説明は、あくまでカトリック的文脈においての話。聖母マリアについて書くときに、それとは異なる立場や視点から物を言っても良いわけだ。そういう視点から「マリア信仰」と言う方が自分の考えが良く伝わると思うのならば、そうすることを妨げるものはない。その場合は、ただし、無難な「崇敬」ではなく敢えて「信仰」を選んだ理由を明記する必要がある。「信仰」の定義も欲しい。それをしないと、ただ無知なだけだと思われるのが目に見えている。

別の例をあげれば、僕の授業でカタルーニャ語やバスク語を方言と呼ぶ期末レポートがなかなか無くならない。授業を聞いていたのなら、これらは言語と呼ばれるなにものかであって、方言ではないということは明白だと思うのだが、現実にはそうではないようで、毎年毎年、自分の力不足を痛感させられる。もちろん、このようなレポートに良い点はつけない。しかし、もし授業で話したのとは異なる意味で「方言」という用語を使っていて、その定義を明示しているのであれば、仮に定義に問題があっても高い評価をあげたいところだ (ずっと待っているのだが、そういうレポートは未だ現れていない)。

用語は面倒だが、書き手の思考を明確にするのに役立つ。学生諸君には、是非しっかり勉強してほしい。

話を「マリア信仰」に戻すと、池上はこの表現についての説明はしていない。何か独自の視点から新たな「信仰」の考察をしているわけではなさそうだ。他のページには「マリア崇敬 (池上 2019: 134)」や「聖母崇敬 (idem: 170)」といった言い回しが見られる。ならば、「崇敬」に統一しておくのが良い。

おっと、もうひとつ、「崇拝」という語も使われている。でも「常軌を逸したスペイン人の熱狂的マリア崇拝は外国人を驚嘆させました (池上 2019: 134)」ってのはどうだろう。この書き方だと、「常軌を逸した」は著者の判断だと読むのが自然だと思うのだが、良いんですかね、そんなこと言って。

  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • 上智学院新カトリック大事典編纂委員会 (編), 1996-2010, 『新カトリック大事典』, 研究社.