2019年9月9日月曜日

Consonante larga

長母音と対になる概念が長子音だ。とは言え、聞きなれない人が多いかもしれない。別の言い方に重子音というのがあって、そっちなら「あああれね」と思う人も多いだろう。日本語だと小さい「ッ」(促音) が音声的には長子音 (の前半部分)に当たる。それと「ン」(撥音) の後にナ行・マ行が続く時。国際音声記号で書く場合は、長いことを表す [ː] を使う (「行った」[itːa]) か、子音の文字を2つ書く ([itta])。

さて、カスティリャ語固有名詞のカナ表記についての提案の中に、「ッ」について興味を引くものがある。

  • 〔原則1〕スペイン語音についての音声学的観察結果を尊重する。
  • 〔原則2〕日本語のカタカナで表わしうるかぎり、なるべく日本人の耳に聞こえるとおりに表記する。ただし、日本人はスペイン語の発音に日本語の促音的なものを聞きがちであるが、スペイン語はそれを極端に嫌うので、この場合は原則1を優先させ、促音表記は用いない。 (原ほか 1982: vii)

この「促音表記は用いない」つまり小さい「ッ」を使わないというのは、我々の業界では割と浸透していて、これに従っている人は多いだろう。特にスペイン語学をやっている人はまず「ッ」は使わないんじゃないだろうか。

しかし、「日本人はスペイン語の発音に日本語の促音的なものを聞きがち」という観察から期待される通り、「聞こえるように」書いたであろう例がネット上で色々見つかる。順不同、思いつくままに固有名詞普通名詞取り混ぜて紹介すると: オッホ (ojo)、オルッホ (orujo)、バジェッホ (Vallejo)、アレッホ (Alejo);ケッソ (queso)、ベッソ (beso)、バルドッサ (baldosa);サラゴッサ (Zaragoza)、イビッサ (Ibiza)、チョリッソ (chorizo);ヒラッファ (jirafa);アレキッパ (Arequipa)、アレッパ (arepa)、グアッパ (guapa);アヤクッチョ (Ayacucho)、セビッチェ (ceviche)、シロッコ (siroco)。また、「リッコ」はイタリア語の ricco を写したものが多いが、スペイン語の rico に当たる例も見える。それから、スペイン語として意識されているかどうかは別として、マッチョ (macho) やチュッパチャプス (Chupa Chups) も入れておこうか。

これらの例ににおける「ッ」は音声学的に子音の長さを反映しているのかもしれない: «En posición intervocálica, inmediatamente detrás de la vocal acentuada, paso, pala, las consonantes son más largas que en ninguna otra posición (Navarro Tomás 1985: §179)。つまり、「ッ」が入っているところの子音は強勢母音の直後にあって、「長子音」と呼べるほどではないにしても、他の環境より長目なのだ。まあ、それに合わない例を挙げなかっただけの話ではあるが、パッと思いつくのはだいたいこのパタンだ (合わない例として今思いつくのは「カッシェロ (Casillero)」ぐらいで、これには別の要因が考えられる)。

というわけで、「ッ」の使い方も「ー」のそれと同じくらい合理的だということが分かった。しかし、スペイン語の専門家たちは「ッ」に対して冷淡だ。その理由を、引用では「スペイン語はそれを極端に嫌う」からとしているのだが、これは意味不明だ。日本語におけるカナ表記なのだから、聞こえるように書くということなら促音を拒否する理由はない。仮に、スペイン語としても受け入れられるような日本語表記を目指すということだとしても、日本語話者がスペイン語を喋っていて「オッホ」と言っても、生き物ではないスペイン語が「それ嫌い」とか言うはずもない。

もう少し真面目に言うならば、「スペイン語はそれを極端に嫌う」を定義してもらわないと、コメントのしようがない。ちなみに、日本語話者が「オッホ」と「オーホ」と「オホ」と言ったうちのどれが、スペイン語話者の耳に一番 ojo に近く聞こえるかという実証的研究があるという話を聞いたことがないので、僕はスペイン語話者による評価についても何も言えない。

もちろん、ああいう表現が出てきた背景を想像することはできる。スペイン語には母音の長短の区別がないのと同様、子音の長短の区別がない。そして、同じ子音が続くのは、単語の中ではごく少ない (innato, obvio...)。また、単語の連続によって同じ子音が隣り合う場合、子音1つ分しか発音されないこともある (tres salas ['tɾe.'salas], RAE & ASALE 2011: §8.8j)。つまり、同じ子音の連続を長子音としてではなく短子音で実現するというプロセスが存在する。なので、スペイン語の音韻構造には長子音を避ける傾向があるとは言えるだろう。しかし、短子音化は義務的ではない。「極端に嫌う」の根拠としてはまだまだ弱い。

原ほか (1982: viii) は、「最後から2番目の音節に強勢のある語では、その音節が開音節なら長音表記」というルールを立てている (例は「バルセローナ (Barcelona)」) ので、ojo は「オーホ」になるはずだ。でも、この表記は僕には「オッホ」とどっこいどっこいに見える (「オホ」が一番良い)。

彼らの原則1「スペイン語音についての音声学的観察結果を尊重する」に従うならば、スペイン語の強勢母音が必ずしも長くないという事実 (前の記事参照) は、上の「ー」の使用ルールを正当化しない。また、日本人学習者の耳にはスペイン語の強勢母音が長く聞こえない傾向がある (これも前の記事参照) のだから、原則2の「日本人の耳に聞こえるとおり」も「ー」の多用を支持しない。一方、「ッ」の使用は、もしかしたら Navarro の観察を繊細に拾い上げている可能性があるので原則1から外れていないかも知れないし、「促音的なものを聞きがち」な「日本人の耳に聞こえるとおり」である点で原則2に合っているかも知れない。となると、どっこいどっこいどころか「ッ」の方が良いということになりはしまいか。

正直に言えば、僕は「ッ」を使った表記はピンとこない。だが、これも恐らく慣れの問題だろう。まあ、「ー」を使わない実験中で、当然「ッ」も使わない派だから、「ッ」に慣れる機会があるかどうか分からないが。あ、でも、「ッ」には「ー」にはない使い道が考えられるので、その検討を次回することにしたい。


  • 原誠ほか (編), 1982, 『スペイン ハンドブック』, 三省堂.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • RAE & ASALE, 2011, Nueva gramática de la lengua española. Fonética y fonología, Espasa Libros.