2022年12月31日土曜日

Capmany

サバテの本には「カッマーニイ (211)」という興味深い表記が見える。ポイントは小さい「ッ」と大きい「イ (僕の目には大きく見える)」だ。前者は音節末子音の同化の問題と、後者は語末の硬口蓋音の表記の問題と関わる。ちなみに立石ほか (2013: 32) には「カッマーニィ」が出てるくが、こちらの「ィ」は小さい。

Alcover & Moll (DCVB) で Capmany をひくと Campmany に行けと言われる。Campmany の項には語源の説明がある:
del llatí campu magnu, ‘camp gran’. En un document de l'any 1246 es parla de la parròquia per Campo Magno («España Sagrada», xlv, 335). Com que la p seguida de m s'assimila a aquesta nasal, resulta que Campmany es pronuncia de la mateixa manera que es pronunciaria cap many; per això hi ha vacil·lació en la grafia, posant-se a vegades Campmany i altres Capmany. Ja existia aquesta confusió en el segle XIV, com ho demostra la llatinització Capite magno (en lloc de Campo magno) que apareix en un document de 1362 (ap. Alsius Nomencl. 121)
つまり、もとは camp + many なのだが、発音上 cap + many と同じになるので、中世から綴り上の混同が起きて Campmany と Capmany が併存していたということだ。

さて Campmany / Capmany の発音は «kammáɲ» となっている。最初の音節の a が弱化していない点にも注意が必要だが、[p] は現れず、長い [mm] になっているところが重要。普通に考えれば「ッ」ではなく「ン」が適当な文脈だ (setmana [sǝm'manǝ] と平行した現象)。

語末の硬口蓋音の表記問題は、以下の子音に関わる (今は後部歯茎音と言われるようになったものを含む)。印刷物やネット上で拾った表記を添えておこう:
  • [ʃ]: Baix バッシュ, Foix フォシュ
  • [tʃ]: Puig プッチ/プーチ
  • [ɲ]: Capmany カッマニ/カプマニ/カプマニィ/カプマニー, Fortuny フォルトゥーニ/フォルトゥーニー/フォルチュニィ
  • [ʎ]: Llull リュイ/リュル/リュリ, Güell グエル/グエイ

実際どんな表記が行われているかを見てみると、[ʃ] は「(「ッ」)シュ」、[tʃ] は「チ」が一般的のようだ。[ʃ] 「シュ」のウ段と [tʃ] 「チ」のイ段の違いは興味深いが、英語の cash 「キャッシュ」 vs. catch 「キャッチ」との平行性もあるので、それが日本語話者の聞こえ方に沿った表記なのだろう。[ʃ] の前に小さい「ッ」が聞こえるのも想像しやすい。「シュ、チュ」か「シ、チ」に統一すれば体系上はすっきりするが、そこまでする必要もないだろう。

[ʎ] については、側面音性と硬口蓋性から考えれば「リ」か「リュ」が候補になるが、近年「イ」が一般的になっている。この「イ」の出どころは良く分らないが、聴覚印象的には「リ」や「リュ」よりも「イ」が近いとは言える。僕は日本語話者にとっての聞こえを重視する表記に対して距離を置くので、体系性の点から反対するのが筋なのだが、まあこれでも良いかなと思っている。もともと環境によって [ʎ] ではなく [j] になる変種がある (ieisme històric) こととか、近年都市部で起きている非側面音化の ([j] になる) 動き (ただし「正しい発音」とは見做されていない) があるというのとは一応独立した話だが、この変化を見越した未来志向のカナ表記かもしれないというのはもちろん冗談だ。なお、「リュル」や「グエル」はカスティリャ語的発音がベースになっているのだろう。これを採用する理由は見つからない。

で [ɲ] だが、体系性の観点からは「ニ」か「ニュ」が考えられる。ざっと見渡したところ「ニュ」は見当たらないので、「ニ」で良いだろう。ただ、「ニ (ー)」は多いのだが、たとえば Fortuny は有名な画家なので、カスティリャ語風の発音がもとになっているのだと考えた方が良い。カタルニャ語の語末の -ny の表記で近年多いのは小さい「ィ」を足した「ニィ」の方だ。僕は、この「ィ」は余計だと思うので採らない (大きい「イ」を加えた「ニイ」は言わずもがな)。

カナ表記での子音表記は、他の言語の場合も含めて眺めてみると、基本的にはウ段の文字が使われている (外来語として入った時期によってはイ段のものもある)。そうでないのは t, d の「ト、ド」と、硬口蓋系の子音に当てられるイ段の文字だ。上に挙げた英語からの「キャッチ」やカタルニャ語からの「プッチ」、スラブ系の軟子音 (最近よく見る「ベラルーシ」「マリウポリ」とか) がその例だ。今問題にしているカタルニャ語の [ɲ] と [ʎ] も大体イ段で表現されている。つまり「プッチ」が「プッチィ」でなく「プッチ」で充分なように、「カンマニ」は「カンマニ」で過不足なく硬口蓋子音を表現できているのだ。「カンマニィ」はむしろ「カンマニー」と読まれかねない。この表記を考えた人はもしかしたら「ニュ」にヒントを得たのかもしれないが、「ニュ」はウ段の音を表すための表記なのであって、既にイ段の表記として問題のない「ニ」に何かを付け加える意味はないのだ。

そう言うと、いや [ni] とは別の [ɲi] を表わすためだ、と言う人がいるかもしれない。しかし、イ段には直音と拗音の区別がないのだから、そこを無理に書き分ける必要はない。「ニィ」は硬口蓋性を示唆するどころか「ニー」や「ニイ」を引き起こす可能性のある、どう見てもメリットの無い表記なのだ。

ちなみに、イ段の口蓋性/非口蓋性を書き分ける試みとして口蓋音の「チ、ジ」に対する非口蓋音の「ティ、ディ」があって、これは音韻的にも区別している人が多いだろう。これはもう日本語の音韻体系の中に組み込まれていると言ってよいが、重要なのは、2文字で表わされているのは非口蓋音の方だということだ。また、「シ」に対する非口蓋音の「スィ」があって、表記としてはある程度定着しているが、僕は「スィ」を見ると「スイ」と発音したくなる。いずれにせよ、ここでも2文字で表現されているのは非口蓋音だ。なぜかと言うと、日本語イ段音の子音は口蓋性を持つ。「ニ」も音声的には [ni] よりも [ɲi] に近い。だから、仮に [ni] と [ɲi] を書き分けるのであれば、口蓋音の [ɲi] には「ニ」を、非口蓋音の [ni] には「ヌィ」とかを当てるのが日本語の音韻的・表記的体系性を重んじたやり方だ。

というわけで、Capmany は「カンマニ」が良い。

さて、今まで語末子音の話をしてきたが、[ɲ] が厳密には語末でない面白い例がある。Companys だ。
新しく誕生した共和国議会で、カタルーニャ選出議員団のリーダーとして、カタルーニャ自治憲章の成立に尽力したのがリュイス・クンパンチ (1882~1940年。リュイス・クンパニィスと表記されることが多いが、実際の発音に近い表記ではクンパンチとなる) である (立石ほか 2013: 298)

単純に考えれば Companys の発音は [kum'paɲs] になるはずだ (https://ca.wiktionary.org/wiki/companys)。それをそのままこのブログのシステムで転写すると「コンパニス」になる。引用にある「クンパニィス」も、そういうシステムにおける単純な転写だ。しかし、立石ほかによれば、実際の発音は「ンチ」に近いのだという。どういうことか。

ここには同化という現象が関わっている。Prieto (2014: 169) によれば、カタルニャ語では後ろの子音が前の子音に影響を与える逆行同化の例は多いのだが、順行同化は少ない。その少ない順行同化の例が、クンパンチと関係する。
En canvi, en català hi ha pocs casos d’assimilació pregressiva: un exemple n’és la palatalització total o parcial de -s quan va darrere segments palatals: la -s final de fills i banys es pot realitzar fonèticament com a palatoalveolar [ʃ] o com a postalveolar [s] (Prieto 2014: 169)

この説明によれば Companys は [kum'paɲʃ] や [kum'paɲs] という発音になり得る。[ɲʃ] だと「ンシ (ュ)」ぐらいじゃないかと思う人も多いだろうが、多分 [ɲ] から [ʃ] に移行するときに渡り音が発生して [ɲtʃ] に近く実現されることがあり、それが「ンチ」に聞こえるのだろう。僕は Companys で確認したことはないが、anys, menys で「アンチュ」「メンチュ」みたいなのを聞いたことがある。「クンパンチ」を支える言語現象は確かに実在するわけだ。

しかし、ご想像どおり、僕は「コンパニス」の方が良いと思う。ひとつには、「聞こえるように表記する」ことの問題がある。たとえば英語の Charles を「チャーウズ」と表記したい人が出てきたらどうするのか。フランス語の France を「フゴーンス」と書く人がいたらどうするのか。この問題を解決するのは体系性だ。英語の母音が続かない l を「ウ」で、フランス語の r をガ行で、[ɑ̃] を「オ (ー) ン」で書くのであれば、表記法として検討の対象になるだろう。同様に、カタルニャ語の順行同化による s の口蓋化を「チ」で表すシステムを考えることは可能だ。それに従えば、例えば Arenys は「アレンチ」、Cabrenys は「カブレンチ」、Domenys は「ドメンチ」、Morunys は「モルンチ」、Tivenys は「ティベンチ」になるだろう。この口蓋化は [ʎ] の後でも起るから、サバテの本で「バイス (76)」と書かれている Valls は「バイチ」とか「バルチ」とかになるだろうか。しかし、体系全体の問題として、-nys, -lls の s を別扱いにするメリットがあるのかどうか考える必要はある。

一方、Prieto によればこの現象は必ず起こるわけではない («es pot realitzar»)。つまり「チ」に聞こえることもあるが、そうでないこともある。「シ (ュ)」かも知れないし「ス」に聞こえるかもしれない。ならば、「チ」を採用する意味はない。ただ、体系的には s の前の ny をどう表記するかという問題は残る。「ンチ」の「ン」は、母音がないことを示す効果のある表記なので、口蓋性は諦めて「コンパンス」にするという手もあるわけだ。とは言え、ここでも何故 -nys だけ別扱いするのかという話になる。いっそのこと Capmany も口蓋性の表示を諦めて「カンマン」にするか?

今回もだらだらと書いてきたが、カナ表記に関する僕の立場についてまとめ的なことを言えば、こんな感じだろうか:
  • 体系性、簡便性を重視する
  • カナ表記の体系に無理をさせない
  • カナ表記を日本語として読んだときにオリジナルの音に似ている必要はない (オリジナルが再現できるという幻想を捨てる)

あ、あと、ネット上で「リュイス・コンパニュス」を見つけた。ついでに Manuel Valls i Gorina を「マヌエル・ヴァリュス・イ・グリナ」と書いている例も。硬口蓋子音をウ段で表記する選択肢が消えたわけではない。

  • Alcover, A. M. & Moll, F. de B, Diccionari català-valencià-balear, https://dcvb.iec.cat/
  • Prieto, Pilar, 2014, Fonètica i fonologia. Els sons del català, Editorial UOC, primera edició en format digital (edició Google Play).
  • フロセル・サバテ (著), 阿部俊大 (監訳), 2022, 『アラゴン連合王国の歴史』, 明石書店. (Sabaté, Flocel)
  • 立石博高 & 奥野良知 (編著), 2013, 『カタルーニャを知るための50章』, 明石書店.

2022年12月27日火曜日

Xixona

前回ちょっと触れた地域差の話。

カタルニャ語の正書法で語頭の x は大雑把に言って東では [ʃ] に対応し、西では [tʃ] に対応する、という記述を紹介した。それを意識したのか、『アラゴン連合王国の歴史』には「チチョーナ (32)」と「チャティバ (353)」という表記が見える。それぞれ Xixona と Xàtiva に当る。どちらもバレンシアの地名だ。

しかし、バレンシア出身の知り合いに聞いたら Xixona は [ʃi'ʃona] (o は狭い) という答えだった。そして、IEC (2018: §2.2.2) には小さい字で次のように書いてある。
Tot i que en aquests parlars la fricativa sorda [ʃ] no s’usa en general en posició inicial de mot, sí que apareix en alguns casos, especialment en mots d’origen aràbic, com ara xaloc, xarop, Xàbia, Xàtiva o Xixona i, en alternança amb l’africada, en algun mot més, com xeringa.

音も聞けるので、是非確かめて欲しい。また、Alcover & Moll の DCVB には発音表記があり、Xàtiva は «ʃátiva, ʃátiβa, ajʃátiβa (val.)»、Xixona は «ʃiʃóna (val.)» となっている。カナにしたら「シャティバ」「シショナ」だろう。

まあ、ちゃんと調べましょうということだが、それはそれとして、地域差を (どこまで) カナ表記に反映させるかという問題はかなり面倒だ。地域差を考慮せずに「標準語」の発音で通すという選択肢を一旦忘れることにすると、地名ならその土地の発音を採用するという方針を立てることが可能だが、ちゃんと調べられるのか。Xixona や Xàtiva は複数の文献から [ʃ] が確認できた。Xerta というカタルニャの町については DCVB が «tʃɛ́ɾta (occ.)» としていて、さらには Xerta の役所のホームページに行くと実際の発音を聞くことができる (https://www.xertatour.com/: ひろい e がひろくて僕の耳には「チャルタ」に聞こえる)。だが、こんな例ばかりではないだろう。

人名はどうか。たとえば Xavier の最初の音は IEC (2018, §2.2.2) の記述によれば東では [ʃ]、 西では [tʃ] になる。つまり「シャビエ」と「チャビエ」になるだろう。一方 Acadèmia Valenciana de la Llengua (2006: 42) には Xavier が [ʃ] だと読める記述がある。バレンシアでは語末の r を発音するようだから、「シャビエル」になるだろうか。Viccionari (https://ca.wiktionary.org/wiki/Xavier) には [ʃ] の発音だけが載っている。記述が一致していない上に、どの Xavier が「シャビエ」で誰が「チャビエ」でどの人が「シャビエル」だと判断するのか (「チャビエル」がいないと断言できるのか)。本人の出身地が分れば確定するのか。本人の発音が優先されるのか、一般的な呼ばれ方を採るのか。

もちろん問題は [ʃ] と [tʃ] の違いだけではない。語末の子音に関しては、バレンシアでは他の地域では発音しない音が発音されるということが多い。Xavier の r はその例だが、Alacant の t もそうで、これはバレンシアの地名だから「アラカント」とすべきだろうか (https://ca.wiktionary.org/wiki/Alacant)。サバテの本で「アジェー (151)」になっている Àger はウィキペディア (https://ca.wikipedia.org/wiki/Àger) によれば ['ajʒe] なので「アイジェ」だろうか。だが「アイジェ」と書いて読者は Àger に辿り着けるのだろうか (辿り着ける必要があるとして)。

だらだらと書いてきたが、今回は特に結論があるわけではない。面倒だな、ということを確認して終えることにしたい。

  • Acadèmia Valenciana de la Llengua, 2006, Gramàtica normativa valenciana, Acadèmia Valenciana de la Llengua.
  • Alcover, A. M. & Moll, F. de B, Diccionari català-valencià-balear, https://dcvb.iec.cat/
  • Institut d’Estudis Catalans, 2018, Gramàtica essencial de la llengua catalana, https://geiec.iec.cat/
  • フロセル・サバテ (著), 阿部俊大 (監訳), 2022, 『アラゴン連合王国の歴史』, 明石書店 (Sabaté, Flocel)

Bernat Metge

フロセル・サバテ (Flocel Sabaté) 『アラゴン連合王国の歴史』。いただき物で、特に興味があって読んだわけではないのだが、予想以上に面白かった。今まで持っていたカタルニャに対する何となくのイメージと異なる記述が随所にあって、勉強になった。読みにくい学術翻訳調の日本語も、途中から慣れてくるし、すみずみまで理解しようと頑張らなければ、たとえば「諸身分が表象されるのは、その言葉の意味でも、またその進展を考えても、諸権力同士が関係しあう場においてである (215)」とかも読み飛ばせば良い。

さて、本の内容から当然予想されるように、カタルニャ語固有名詞のカナ表記が頻発する。そこで、ご無沙汰していた表記問題に戻ることにしたい。

Batlló (https://vocesenredadas.blogspot.com/2019/10/batllo.html) の記事では「カタルニャ語の固有名詞をカナ表記するのに「ー」は無くても困らないが、「ッ」はあった方が良いと思う。使える場面はだいたい次の3つだろうか」と書いた。以下がその3つ:
  1. 長子音
  2. 母音間の破擦音
  3. 語末の閉鎖音・破擦音

一応、第1点については当時論じたので、今回は2と3を取り上げる。

タイトルの人物は、本では「バルナット・メッジャ (194)」と表記されている。Bruguera (1990) の情報から、音声的には [bǝr'nat 'medʒǝ] で、このブログは5段式を採用しているので「ベルナット・メッジェ」になるが、最初の「ッ」は3、後のやつは2の例だ。

まずカタルニャ語における破擦音について確認しておこう。Institut d’Estudis Catalans (2018: §2.2) の表には /tʃ/ と /dʒ/ が見えるが、注には [ts] と [dz] は音素としては認めないので表に含めないとある (IEC は [t͡ʃ] のように結合記号を使っているが、入力が面倒なので省く)。一方 Recasens (1991: 173) の表に破擦音は含まれないが、[tʃ, dʒ, ts, dz] にはそれぞれ /t + ʃ/, /d + ʒ/, /t + s/, /d + z/ と解釈される場合 (tots) と1音素と解釈される場合 (バレンシアの x-) があると言う (174)。いずれにせよ、音声的にはこれらの破擦音が存在する。というわけで、これ以降は [] で囲って示すことにする。

綴りとの対応は、西と東で異なる。IEC (2018: §2.2.2) の例を参考にまとめてみよう。カッコで (西: ) とした例は、東では摩擦音になる。
  • [tʃ]: txec, cotxe, despatxar, boig (西: xafardejar, panxa)
  • [dʒ]: fetge, mitja (西: ginebra, jardí, menjar, (val: rajar))
  • [ts]: tsar, potser, tots
  • [dz]: tzatziki, dotze, atzar

この地域差はカナ表記にとって面倒な問題を引き起こすが、それについては稿を改めて論じたい。今は、東西共通して破擦音が現れる環境に注目しよう。

さて、母音間の [ts, dz] について Recasens (1991: 212) は次のように述べている。

En català central (Arteaga, 1908), ross., mall., men. i cat. n.-occ., el primer element d’una africada intervocàlica és emès amb oclusió de durada llarga; la realització amb oclusió curta deu ser relativament recent i s’explica probablement per factors extralingüístics (influència del castellà). Per altre banda, valencià i eiv. solen emetre l’africada amb element oclusiu curt (Lamuela, 1984; també, Sanchis Guarner (1949) a Aiguaviva); sembla, però, que hi ha africada amb oclusió llarga en alacantí i alguerès.

やはり地域差があるわけだが、大雑把に言って東ではもともと閉鎖が長く、短い発音はカスティリャ語の影響が考えられるという。また、[tʃ, dʒ] についても似たような記述をしている (214)。長いということは、「ッ」が聞こえるような音だということだ (コッチェ、デスパッチャ、フェッジェ、ミッジャ、ポッツェ、ドッゼ、アッザ)。したがって Metge は「メッジェ」でちょうど良い。映画祭で知られる Sitges は日本では「シッチェス」で通っているが、「シッジェス」になる。このシリーズのきっかけになった Montsalvatge の「モンサルバッジェ」もこれで説明できた。ついでにこれで摩擦音との区別もつく (Bages ['baʒǝs] バジェス)。

サバテの本には「ウジェー Otger (264)」が出てくるが、これも「オッジェ」ということになる。ただし、破擦音が強勢の直後でない場合は「ッ」を入れないという選択も有り得るだろう (デスパチャ、ポツェ、アザ、オジェ)。この場合、「ザ」が [za] なのか [dza] なのか、「ジェ」が [ʒe] なのか [dʒe] なのか判別ができなくなるが (ロジェ Roger vs. オッジェ/オジェ Otger)、たいした問題ではない (バレンシアのように Roger の ge も破擦音になる変種もある)。破擦音が短い西の発音を考慮に入れて「ッ」を全く使わないという選択だって有り得る (コチェ、フェジェ、ミジャ、ドゼ)。

3番の語末の閉鎖音・破擦音はより単純な話だ。閉鎖音だと Llop 「リョップ」、Montserrat 「モンセラット」、Vic 「ビック」、破擦音は Busquets 「ブスケッツ」、Puig 「プッチ」という具合。語末・音節末の子音字に関してはまだ述べるべき点があるけれど、「ッ」との関連では大体こんなところだろうか。

最後に、破擦音ではないけれども母音間の子音で「ッ」が聞こえる場合について補足しておこう。サバテの本には Vilagrassa に対して「ビラグラッサ (76)」と「ビラグラーサ (184)」の二様の表記が見えるのだが、確かに母音間の [s] は長く聞こえることがある。特に massa とか、強勢のある [a] の後に [sǝ] が続く場合にそうなるような気がする。「ビラグラサ」で十分だが、まあ、「ッ」を入れたい人は入れても良いんじゃなかろうか。

  • Bruguera i Talleda, Jordi, 1990, Diccionari ortogràfic i de pronúncia, Enciclopèdia Catalana.
  • Institut d’Estudis Catalans, 2018, Gramàtica essencial de la llengua catalana, https://geiec.iec.cat/
  • Recasens i Vives, Daniel, 1991, Fonètica descriptiva del català, Institut d’Estudis Catalans.
  • フロセル・サバテ (著), 阿部俊大 (監訳), 2022, 『アラゴン連合王国の歴史』, 明石書店 (Sabaté, Flocel)

2022年12月12日月曜日

Whisky

発音の話の続き。

こないだカンテを歌う人と発音の話をしているとき、母音 i と e について訊かれた。「i って唇を横に張るんですよね」みたいな質問だ。その人は実際に i を発音してくれたのだが、僕は「あ、それは駄目です」と答えたのだった。何故か。

原 (1979: 5) は「e と同じく、やはり両唇を左右に広げかつ充分緊張させて、「イー」と発音する」とか「前方母音 i については、上下の唇を少し左右に引くようにして発音するようにしてほしい (10)」とか述べている。寺﨑 (2017: 25) は「唇の両端は後ろに引かれるように横に広がり」と言う。福嶌&ロメロ (2021: 18) は「日本語の「イ」よりもやや口を横に開いた [i] の音」と書いている。上田 (2011: 8) は「[i] は口を横に開いてはっきりと「イ」と発音します」としている。正直なところ、僕には「口を横に開」くという表現がピンと来ないのだが、まあ記述的には妥当な説明と言えるのだろう、たぶん。

しかし、僕に自分なりの i を発音してみせてくれた人は、頑張りに頑張ってうーんと唇を横に引いたであろう結果、歯を食い縛ったようになり、口角がむしろ下り気味で、への字と言ってよい口の形状を呈していたのだった。しかも、頑張り具合が音に妙な緊張感を与えている。みなさんも、唇を横 (水平) に引いてみてください。きっとそうなるから。

この問題はわりと簡単に解決できると思う。上に引用したような記述を無視すればよいのだ。そのかわり「ニッコリ」する。そう、写真を撮るときの cheese は [iː] が欲しいから言うのであり、スペイン語圏で whisky と言うことがあるのも [i] があるからだ。理由はもちろん、これらの音の音響音声学的特性が撮影の光学的条件に良い影響を与えるからではなく、これを言えば「ニッコリ」の口の形が得られるからだ。であれば、「ニッコリ」が [i] の調音の助けになるというのは理に適った考え方だろう。

なお、e についても似たり寄ったりの記述と誤解があるので、僕はこの人に対して「i と e はニコッと」発音するようにアドバイスした (今考えると「ニコッ」よりも「ニッコリ」の方が良いと思うので、上の記述はそれに合わせた)。

ここから言えることは、音声学的記述を写したような一見妥当な説明が、学習者の役に立つどころか害になる可能性があるということ。学術的な文書であればプロ同士で話が通じればよいのでそれだけのことだが、学習者向けに物を書く人にはこのことを十分意識してもらいたいと思うのだ。

と言うか、口をへの字に歪めながら発音指導とかしないでね。

  • 福嶌教隆 & フアン・ロメロ・ディアス, 2021, 『詳説スペイン語文法』, 白水社.
  • 原誠, 1979, 『スペイン語入門』, 岩波書店.
  • 寺﨑英樹, 2017, 『発音・文字』, スペイン語文法シリーズ2, 大学書林.
  • 上田博人, 2011, 『スペイン語文法ハンドブック』, 研究社.

2022年12月9日金曜日

Tilititlán

いや、アステカ文明の話ではなくて、日本語話者のスペイン語発音の話。

日本に来たフラメンコ達への聞き書きを中心に構成した本 (López Canales 2020) を読んだ。かなり面白かった。この本の全体的なトーンとしては、フラメンコ達の発言も、著者の態度も、日本や日本のフラメンコに対するリスペクトが基調をなしているが、ところどころ、否定的な観察や辛辣なコメントが出てくる。例えば、あるカンタオルによる次の発言。これなんか、日本人が読むことを想定せずに言った (書いた) んだろうな (誰の発言か知りたい人はオリジナルを読んでね):

Eso es lo único que no pueden hacer: cantar. Ni lo han hecho ni lo van a hacer en la vida. Yo les digo a ellos que en España no vale solo con ser español, que no canta todo el mundo. Y ellos se escuchan un disco y ya quieren cantar... ¡Pero les suena la voz a perro! Los que se dedican a ello saben cantar a compás, pero con esa misma voz de perro. Sabor, ninguno. ¿Qué sabor puede tener un japonés cantando flamenco? ¡Lo primero es saber el idioma! ¿Qué es eso de decir tilititlán, tlan, tlan? (López Canales 2020: 181)

日本人にカンテが歌える日が絶対に来ないかどうかは措いておいて (著者は «Pero el cante flamenco era la frontera imposible de cruzar. O la última frontera (ibid.)» と言って、このカンタオルの意見を相対化している)、歌うためにはまずスペイン語を、というのはその通りだ。と言うか当たり前すぎて、こんな事を言われるようじゃ恥ずかしいよな、と思うのだが、まあ現実は tilititlán からすごく遠いわけではない。

僕は、アマチュアが仲間内で楽しんで歌うだけなら堅いこと言う必要はないと思っている。特に年齢の進んだ人に対して、文法や発音の勉強を強いるのは意味がない。中にはスペイン語がまったく喋れないのに感動的な歌を歌う人もいる。そういう人が歌うことを楽しめる環境を壊してはいけないと思う。もちろん、みんながスペイン語をきちんと身につける努力をするのであればその方が良い。そして学習意欲のある人をサポートする必要はあって、歌詞の解釈を巡る質問や発音指導の希望には、できる範囲で応えたいと思っているところだ。

でも、人前で歌いたい、プロになりたいという場合は話が別だ。たとえば日本フラメンコ協会がやっている「新人公演」のカンテ部門の出場者たちのスペイン語レベルは高いとは言えなくて、審査委員をやった時の講評に l と r の区別に気をつけましょうと書いたことがある。もちろん、スペイン語力というのは全体的な運用力が問題で、歌詞を理解するための読解力は結構なレベルが必要なのだ (そして読解の結果は歌の表現に出るはずだ) が、聴く者に直接見えるのは発音なので、発音の習得にはしっかり取り組んでほしいと思う。

とは言え、アマもプロ志望も、発音が出来るようになりたいと思っていない人はごく少数だろう。問題は、その方法が分からないということなのかもしれない。あるいは、最近僕が「認知の地平」という用語で認識している問題があるのかもしれない。具体的な例で言うと、スペイン語には l と r の区別があると知っていて、本人は tirititrán と言っているつもりだが実際の音声は tilititlán になっているような場合だ。つまり、その学習者の認識では r なのだが、実は l で発音していることに気づいていない。実は、まあ秘密でもなんでもないので言うけれど、こういう例は学習者だけでなく、教えている人の中にも見られる。そう、自分が r を発音すべきところで l と言っていることに気づいていない先生が存在するのだ。

したがって、これは日本におけるスペイン語教育業界が抱える問題であって、フラメンコを歌いたい人だけが批判される筋合いのものではないのだ。僕も30年以上教壇に立っているが、正直、学習者が l/r の区別を習得することを含めて発音教育全体を諦めているところがある。その責任は免れないと思っているが、やはり学習者が自分の認知の地平を超え出て新たな地平を獲得するのは、発音面でも文法面でも簡単なことではない。

しかし言い訳ばかりしていてもしょうがない。Tilititlán の問題点を少し考えてみよう。さっきも言ったように、学習者は l と r の区別があるということは知っていても、それぞれをどのように発音すれば良いのか分かっていないという事態が存在する。その原因の1つとして考えられるのが、日本語のラ行音が、実は [l] で実現されることが多いということだ。日本語のローマ字表記ではラ行は r で書かれるので、ラリルレロと言えば r になる (そして l を発音するためには何か特別なことをしなければいけない) と思っている学習者は少なくないだろう。ところが、残念ながらそうではなくて、意識して習得しなければいけないのはむしろ r [ɾ] の方だったりするわけだ (注意すべきなのは、これは人によって異なるということ。R の方は苦もなく出せるが l はからっきしという人もいるはずだ)。僕の印象では、-era で終わる単語が -ela になる人が目立つが、もちろん他の環境でも tilititlán は起こり得る。

では、この意識して習得すべきスペイン語の r [ɾ] はどういう音か。寺﨑 (2017: 60) は「調音する際は、舌尖が急速に持ち上がって上の歯茎を1回だけ軽くはじくように当たる」と言っているが、これで分かるだろうか。僕は、この説明は記述的には妥当かもしれないが発音習得にとっては問題があると思う。それは、学習者が舌先を「急速に持ち上」げようと意識してしまうと、むしろ [l] になる危険があると思うからだ。一方、上田 (2011: 24) の「[l] の発音では舌先を上の歯茎にしっかりとつけて、舌の両側から息を通して「ルー」と発音します。[r] は舌先を軽く上の歯茎にぶつけて一瞬の間に「る」と言います。実験音声学の資料によれば、[l] の調音の長さの平均は100分の6秒であり、[r] の調音の長さの平均は100分の2秒です (上田は [ɾ] を [r] と表記している)」は役に立つ情報を多く含むが、「上の歯茎にぶつけ」るという意図的な動作が [l] を招来しないかちょっと心配だ。「一瞬の間に「る」と言う」のも難しいだろう。

それに対して、原 (1979: 32) の「舌先を上の歯茎に接近させておいて呼気の勢いを利用して舌先で歯茎を1回はじく」という説明は、舌を意図的に上に向けて動かす動きを避けている点で優れていると思う。とは言え、これでピンとくる人がどれだけいるかという問題は残る。思うに [ɾ] で大事なのは舌の上への動きではなくて舌が弾かれて歯茎から離れる感覚なのだが、これを言葉で伝えるのは難しい。

別のアプローチをしているのが福嶌&ロメロ (2021: 22) だ。彼らは「舌先で上の前歯の歯茎を軽く弾いて出す。日本語の「からだ」「ころころ」のラ行音は [ɾ] に近い単音で発音されることが多い」と言うのだが、日本語話者が日本語で [ɾ] を発音することがあり、それが多数派である環境があるということを利用した説明だ。確かに、「からだ」や「ころころ」はナチュラルスピードで発音すれば [ɾ] に近い音になる人が多いだろう (ゆっくり発音すると [l] になる確率が高まる)。問題は、自分の「からだ」が [ɾ] なのかどうか、それをどうやって確かめるのかということだ。つまり、これは聞いて区別のつく人に教えてもらうしかない。僕は昔 [ɾ] に対しては「アレッ?」を、[l] に対しては「アッラ、マア」を推奨したことがあるが、これも自分で確かめられない人にとっては役に立たない情報だ。結局、音声学の素養がある人やセンスのある人は別として、独学は限りなく難しいということになる。

なお、López Canales は «Ore, ore» のような tilititlán とは逆の現象も拾っている。日本語話者は [l] や [ɾ] が発音できないわけではない。これらを区別して適切に使い分けるのが難しいのだ。

やれやれ。

  • 福嶌教隆 & フアン・ロメロ・ディアス, 2021, 『詳説スペイン語文法』, 白水社.
  • 原誠, 1979, 『スペイン語入門』, 岩波書店.
  • López Canales, David, 2020, Un tablao en otro mundo. La asombrosa historia de cómo el flamenco conquistó Japón, Alianza Editorial.
  • 寺﨑英樹, 2017, 『発音・文字』, スペイン語文法シリーズ2, 大学書林.
  • 上田博人, 2011, 『スペイン語文法ハンドブック』, 研究社.

2022年11月21日月曜日

Tengo que no reconocerla

今年 (2022年) の外語祭のスペイン語劇は『血の婚礼 (Bodas de sangre)』。

なので (一部だが) 読み返した。改めてロルカの紡ぎ出す言葉の力に感嘆し、外国語学習においても文学を読むことは大きな意義があるよな、と思ったのだった。あまり知られていないと思うが、今のCEFRは文学を読むことも言語活動のひとつとして能力記述の対象にしている。そう、契約書が読めるとか論文が書けるとかだけが言葉の使い道ではないのだから。

さて、この作品の終わり近く、母親と村の女がいるところに花嫁が現われる。すると:

Vecina: (Viendo a la novia, con rabia.) ¿Dónde vas?

Novia: Aquí vengo.

Madre: (A la vecina.) ¿Quién es?

Vecina: ¿No la reconoces?

Madre: Por eso pregunto quién es. Porque tengo que no reconocerla, para no clavarla mis dientes en el cuello.

母親の台詞はさらに続くのだが、ここで面白いのが tengo que no reconocerla の語順だ。教科書にはこういうのは出てこない。僕もこの作品との付き合いは40年近くになるが、今回初めて意識した。

とは言え、すでに deber についてはそういう例を見ていたので、別に驚きはしなかった。ちょっと長くなるが、引用しよう:

Tal vez esta disertación suscite críticas y contradicciones. Pero los españoles somos proclives a las aventuras quijotescas y nunca me ha detenido en mi camino el temor a enfrentar discusiones y censuras, cuando he estado convencido de que me asistía la razón. Amo, además, tan férvidamente a Europa, mi gran patria, que no puedo vacilar en arriesgar cualquier peligro si puedo contribuir a evitar la crisis previsible de la civilización por ella creada y del hombre en ella forjado. Destronada de su función rectora, aun puede y debe servir a la humanidad como guía espiritual. Mas, para seguir cumpliendo esa misión, debe no olvidar una de las lecciones de la historia: el hombre es libertad; dejará de serlo, dejará de ser hombre, si la pierde, y conservándola puede alcanzar lo que he llamado y vuelvo a llamar su plenitud histórica. (Sánchez-Albornoz 1977: 129)

内容はともかく、最近多い気取り (かっこつけ) ばかりが目立つ文章とは異なり、落ち着いて均整のとれた文章だと思う。そこで debe no olvidar 「忘れないことをしなければならない」が目を引くわけだが、no debe olvidar で済むところを敢えて「することの禁止」ではなく「しない義務」の存在を際立たせようとしたのだろう。

『血の婚礼』の母親の言葉もおそらくそうで、私は no reconocerla しなければいけない、つまり彼女が誰か分らないでいる必要がある、ということだ。母親は、花嫁が入って来たのを見て「あれは誰?」と尋ねる。村の女が「分らないの?」と返す。それに対して「だから (=分らないから) 誰だって聞いてるのさ」と答える。なぜなら花嫁だと分っていたら彼女の首に噛み付くだろうから、それをしないために分らないでいなければならないからだ。本当は花嫁だと分っているのだが、分らないことにしているわけだ。

ところが、長南実訳は「そいつの首っ玉に、食らいつかないためには、だれなのか知らなきゃならんのさ」で、no が無視されたような訳になっている。もちろん誤訳だ。一方、牛島信明訳は「本当は、誰なのか知らずにいなけりゃいけないの、さもないとその女の喉もとにあたしの歯を突き立てることになるからね」で、本当は分っているけどというところまで訳で表現しようとしているが、「本当は」のせいで、かえってちょっと分りづらくなっている。

さて、「法動詞 verbos modales」の中には poder のように no の位置が明瞭に意味の違いを表すものがある:

  1. Juan no puede estar en su habitación.
  2. Juan puede no estar en su habitación. (Bravo 2017: 58. 一部改変)

1は「いてはいけない」で2は「いなくてよい」、あるは「いるはずがない」と「いない可能性がある」という対立がある。

一方 deber や tener que の場合は no がこれらの動詞の前にあるときに2通りの解釈が可能だ:

  1. Juan no debe hablar francés. (Bravo 2017: 59)

Bravo によれば、3は「話してはいけない」の他にも、文脈によっては「話さなければいけないということはない」という読みも成り立つらしい。後者の解釈は、教科書などには載っていないが、Bravo の説明を読むと、確かにそういう場合もありそうだ (文脈は限られそう)。

No tener que は、「しなくてよい」しか載せていない教科書もあるが、「してはいけない」の例もある。

  1. Los estudiantes no tienen que matricularse tarde (si quieren tener plaza). (Bravo 2017: 59)

これは、遅れて履修登録しちゃいけない (遅れずに登録しないといけない) と読まないと通じない。

日本の学習書で no tener que が「してはいけない」になり得るという記述をしている例を1つだけ挙げておこう。

否定形については、no deber は「〜してはいけない」という意味ですが、no tener que と、no hay que には「〜してはいけない」という意味と、「〜する必要がない」という意味があります (上田2011: 241)。

というわけで、no tener que (や no deber) の解釈は文脈に依存することが分かった。この事実は、さっき言った「しない義務」を明示するために tener que no (deber no) という語順を選択する可能性を開く。そうしなくても、文脈があるから聞き手が解釈に困ることはまずないだろうが、選択肢があることは話し手にとって重要になり得る。Bravo (2017: 59) は deber no と haber de no の例を挙げているが、tener que no もありますよ、という話。

あ、語劇は11月23日16:00から。お時間のある人は是非どうぞ。

  • Bravo, Ana, 2017, Modalidad y verbos modales, Arco Libros.
  • Sánchez-Albornoz, Claudio, 1977, Siete ensayos, Planeta.
  • 上田博人, 2011, 『スペイン語文法ハンドブック』, 研究社.

2022年11月14日月曜日

Les niñes

Jidequín 氏による記事に les niñes という表現が引用されている:
https://note.com/jidequin/n/n56e962773d48

そこで氏が les niñes を「トランスジェンダーの子供たち」と書いていたので、違うんじゃないかとコメントしたら、早速対応してくれた。今 (2022/11/13:11:26) は「男でも女でもない子供」と「どちらの性でもないこども」になっている。

実は、これを見て最初は「これでも不足」と思ったのだった。僕の理解では les niñes は男も女も、どちらでもない場合もどちらでもある場合も含むからだ。しかし、今のスペイン語の記述的観点から事態はもっと複雑だということが判ったので、以下報告しよう。

スペイン語の名詞は必ず男性か女性か、性 (género) という文法的属性を持つ。本 libro が男性でテーブル mesa が女性という具合で、これは性の一致という文法現象として現れる。定冠詞をつけると、それぞれ el libro, la mesa になるというのがその例だ。これだけなら学習者にとって面倒な暗記事項のひとつでしかないが、自然の性 (sexo) やジェンダーを持つ存在を指す名詞も文法的な性を持つので、この文法現象が例えばLGTBQな人たちにとって問題だという議論が出てきている (もちろん全然問題じゃないという人も多い) わけだ。これは大きく lenguaje inclusivo という観点から論じられている。

たとえば生物学的な sexo は男性だが性自認が女性で、自分を niño と言わなければならないのが辛い、niño と呼ばれるのが苦痛だという場合がある。あるいは男か女か揺れ動いたり決らない場合もある。しかし、今のスペイン語では niño か niña のどちらかにしないと文法的にまともな表現が産出できない。そこで色々な工夫が登場することになるのだが、les niñes はそのひとつで、最近よく目にするようになった。

それより前に多かったのが o と a を合わせたような格好に見える @ を使うもの (l@s niñ@s) や x を使うもの (lxs niñxs) だが、これらの手段の弱点は発音ができないということだ。なので、これらは (インフォーマルな) 書き言葉専用ということになる。それに対して les niñes は発音できるので、インクルーシブな流れに敏感な政治家がスピーチで使ったりすることで世間の注目を浴びることになる。

その筆頭がアルゼンチンの大統領 Alberto Fernández だろう。彼は2019年、大統領候補だった時に «cada chico, cada chica, cada chique» と言って話題になった。今年の9月には、彼がツイッターで «un chique» と書き、それを RAE に「通報」した人がいて、当然 RAE は lenguaje inclusivo として e を使うことに批判的だから、男性形が「包括性」を示すと答えるという事件があった。

Alberto Fernández のツイートは «Que un chique no pueda estudiar porque no cuenta una computadora, la verdad es postergarlo, frustarlo (sic)» となっていて、直前の un から chique が男性名詞として使われていることが分る。そして、文脈からは un chique が男女を問わない (男も女もそれ以外も含めた) 包括的 (総称的) な意味で使われていることも分る。一方、このツイートに対して chique って何?、という反応 (多分大部分は修辞疑問) があるのだが、それに対して次のような「真面目」な回答が見つかる: «Un chique o niñe es un sujeto que no se siente representade por el sexo masculino o el femenino, es decir que no se identifica con los pronombres El ó ELLA»。この回答は「男でも女でもない」という Jidequín 訳に沿ったものだ。また、件のツイートに載っている動画で Fernández は un chico, una chica, un chique を並べて使っていて、「男でも女でもない」読みが可能だ。ということは、 chique には、男性女性の区別に関与しない非性の用法と、男性・女性・非性という対立する3項の1つという用法があるということになる。

スペイン語の文法的性の体系は、男性優位にできている (言語学的には男性が無標だと言うわけだが)。「男」を表わす el hombre が「人間」を意味できたり、男性複数形が男女の混ざった集団を表わせたりする。後者については、たとえば novios = novio + novia (カップル、新郎新婦) とか -o と -a で男女が区別されるペアに限らず padres = padre + madre (両親) のように語基が異なる場合にも適用される。

実際のテクストから1つだけ例を挙げると、«tanto el profesor como el alumno son agentes activos del proceso de enseñanza-aprendizaje (Wikipedia: «Profesor»)» に出てくる el profesor と el alumno は男女を問わない「先生と生徒」を表している。こういう例はけっこう多い。

今のところのスペイン語:
chico
chicochica

さて、このような言語的特徴に対して、スペイン語世界は伝統的に女性を表すという形で対抗してきた。20世紀前半から、職業名詞の女性形を作る動きが盛んで、それは今のアカデミアの姿勢にも受け継がれている。男の大統領が el presidente なのに対して女の大統領は la presidenta で、-e と -a で男女が対応するという比較的少ないパタンではあるが、標準的な形として定着している (この形に文句を言う人もいないわけではない)。また、いつ頃からの現象なのか僕はよく分からないのだが、たとえば los ciudadanos で「市民」全体を表現できるところに los ciudadanos y las ciudadanas と言うことがある。このパタンについてはアカデミアは los ciudadanos だけで十分という立場だが、アカデミアが明示的に「人工的で不必要」と言っているということは、それなりに広まっているということだ。女性を表示することによって男性の無標性という名の優位性を相対化しようというわけだ。

ところが、昨今のLGTBQを巡る動きでは、男にせよ女にせよ性の表示自体が問題視される。性を表示しようとしてきた20世紀からの動きと、それを否定する最近の動き。これらがどう衝突してどう折り合うのか、記述者にとっては大変興味深い。そして、3つ目の項としての非性の表示というのが、その鬩ぎ合いのひとつの結果なのではないだろうか。

chique を含む体系:
chique
chicochicachique

もちろん、ここで非性名詞の誕生を予言したいわけではない。文法的な性の体系は強固だから、les niñes が一時的な現象に終わって跡形も残らず消える可能性もある。男性が無標であるという「純粋に体系的」な話も良く分かる。しかし、言語は人が使うことを通じて変化する。Les niñes がスペイン語の体系にどういう影響を与えるのか、与えないのか、僕が生きているうちに結果を見ることは出来ないだろうけれど、何と言うか、楽しみだ。

2022年9月24日土曜日

O rromano kòdo

角悠介, 2022,『ロマニ・コード』, 夜間飛行。
著者は言語学者、ロマニ語の研究が専門で、ルーマニアでロマにロマニ語を教えている。とはいえ言語学的な話はほとんどなく、彼が出会ったロマ達の話が中心だ。それがとにかく面白い。本当に面白い。

中身は各自読んでもらうことにして、本のタイトルにある「ロマニ」はロマニ語のロマニだが、もともと「ロマの」という形容詞の女性単数形だ。つまりここでは「コード (行動規範みたいな意味だろうか?)」にかかる形容詞 (日本語としては「形容詞」とは言わないが) だ。面白いのは、表紙にはロマニ語のタイトルも書いてあって、それが上に掲げた o rromano kòdo で、そう、「ロマニ」ではなくて「ロマノ」になっているのだ。これは同じ形容詞の男性単数形なので kòdo が男性名詞だということが分る (o は定冠詞男性単数形)。じゃあ何故「ロマノ・コード」にしなかったのか?

「ロマニ」は「ロマニ語」という形で言語を指すのに使われていて、それなりに定着している。スペイン語の romaní や英語の Romani (Romany) も同様だ。ロマニ語でロマニ語を意味する rromani ćhib (ćhib は「舌・言語」を意味する女性名詞) から来ているのかも知れないが、良く分らない。いずれにせよ、「ロマノ」より「ロマニ」の方が馴染があるわけだ。ロマニ語では形容詞が性数変化するが、日本語でいちいちそれに対応するわけにもいかない。ということで「ロマニ」で統一するのは理解できる解決方法だ。

さて、やっぱりちょっとだけ中身を紹介すると、伝統的なロマのグループには「ロマニ・クリス (ロマ法廷)」というのがあるのだという (rromani kris で kris は女性名詞ということになる)。詳しいことは読んでもらうことにして、法廷なので証人が出てくる。

証人は証言をする前に「誓い」をするが、この「誓い」は「呪い」にほかならない。もっとも一般的なものは「もし私が嘘をついたら、神が私を打ちのめすように!」といったものである (角 2022: 161)。

これを読んで思い出したのが、トナ・マルティネテの締めで歌われることのある歌詞だ。勿論バリエーションはあるが、例えばこんな感じ: Si no es verdad, / que Dios me mande un castigo, / si me lo quiere mandar (飯野1994: 71).

ただし、この歌詞が「ヒタノ法廷」の名残りを示すものなのかどうかは分らない。Antonio Mairena (1909-1983) の全集では上のを含めて4つ確認できるが、Machado y Álvarez (1881) はトナ・マルティネテ系の歌詞としては拾っておらず、1例だけ4行のソレアに次のものがある (ただし神は出てこない): Jasta el arma m’ha yegao / La rais e tu queré / Si no es berdá lo que digo / Mala puñalá me den (Machado y Álvarez 1881: 89). これは一応標準語に直しておくと: Hasta el alma me ha llegado / La raíz de tu querer. / Si no es verdad lo que digo / Mala puñalada me den. になる。というわけで、Mairena の歌った歌詞の古さを手元の資料で確認することはできなかった。

  • 飯野昭夫, 1994, 『マイレーナ・フラメンコ全歌詞集』, アクースティカ.
  • Machado y Álvarez, Antonio, 1881, Colección de cantes flamencos, edición facsímil, Extramuros, 2007.
  • 角悠介, 2022,『ロマニ・コード』, 夜間飛行.