2019年9月18日水曜日

Ll / y

前回の記事で原ほかが Valladolid を「バヤドリー」と書いているのに対して僕は「バリャドリッド」等と書いた。この点について説明しておこう。

スペイン語の ll という綴りは、伝統的に音素 /ʎ/ に対応する。それに対して y が /ʝ/ を表す。例えば callar の単純過去3人称単数形 calló と caer の単純過去3人称単数形 cayó に見られる綴りの違いは、異なる発音を表す。
calló [ka'ʎo] vs. cayó [ka'ʝo]
/ʎ/ はカタルニャ語の ll (millor)、ポルトガル語の lh (melhor)、イタリア語の gli (meglio) に対応する音でもあり、伝統的にリャ行で表記される。それに対して y に対してはヤ行が使われる。

しかし現在では /ʎ/ と /ʝ/ の区別を保っている話者は少数派で、calló も cayó も同じ発音になる人の方が多い: «El más extendido en el español actual es el subsistema no distinguidor entre /ʎ/ y /ʝ/ (RAE & ASALE 2011: §6.2a)»。僕も自然な発話で区別を保っている人の喋りを聞いたのは本当に数えるほどだ。区別をしない人の発音は、ll が y に合流する形になるので、この現象を yeísmo と呼ぶ (y の発音自体は地域によって [j, ʝ, ʒ, ʃ] など色々なのだが)。

この yeísmo が一般化した状況を踏まえて、原ほか (1982: vi) は次のようなルールを立てる。
ll, y はヤ行のカタカナで表記する。lli, yi は「ジ」とする。ただし、19世紀までの人名などについては、ll + 母音はリャ、リ、リュ、リェ、リョとする
Castilla カスティーヤ、Viscaya ビスカーヤ、Lazarillo de Tormes ラサリーリョ・デ・トルメス
このルールにしたがって ll と y をヤ行で表記する人はそれなりの数いるのだが、実は僕はこの方法は嫌いだ。理由は、ヤ行の響きがスペイン語の ll/y に対して緩すぎると感じるからで、特に「ー」と併用されると全身から力が抜けていくような気さえする。個人的な感覚だから、全然そう思わない人がいても不思議ではないのだが、音声学的には、少なくとも僕が聞きなれているスペイン語においては ll/y の発音の子音性は日本語のヤ行のそれよりも高い。摩擦的噪音がほぼ聞こえないとしても、狭めの度合いは明らかに大きい (つまり狭い)。実際にはより狭めのゆるい [j] や音節副音母音 [i̯] が現れる地域もある (メキシコの一部など –RAE & ASALE 2011: §6.4h) ので、そういう発音に慣れた人は脱力したりしないのだろうけれど。

20世紀前半のスペインの発音に関して Navarro Tomás (1985: §120) は «la forma más frecuente en la pronunciación correcta, por lo que se refiere a la posición de la lengua, es suficientemente cerrada para que no haya duda en considerarla como consonante fricativa. La articulación de la y normal española es, en efecto, algo más cerrada que la que se observa en al. ja, jung; fr. hier, piller; ingl. yes, young» と言っている。ドイツ語やフランス語や英語の [j] の音と一緒にしてはいけないのだ。

僕は授業で ll/y の発音を「ヤとジャの中間」と説明することが多い。そういう音なので、カナ表記の候補としてヤ行の他にジャ行が考えられる。現に原ほかは lli, yi には「ジ」をあてている。ジャ行子音の方がヤ行子音よりも子音らしい子音だということは言うまでもない。また、「ヤ、ジ、ユ、イェ、ヨ」という一貫しない表記法はヤ行の弱点のひとつだが、ジャ行ならその問題もない。さらに、ジャ行なら [ʒ] の発音もカバーできる。断然ジャ行の方が有利だと思うのだが、やはり y の文字はヤ行という伝統が強かったのだろうか。

聴覚印象と言語学的根拠に基づいてジャ行を優先させたのは石橋 (2006) だ。
「y」「ll」はなるべくジャ行音に統一する。 ただし、筆者が現地の発音を聴いた経験上あえて「ヤ」行音を採用した場合もある (【例】Puerto Cabello プエルトカベージョ、Guayana グアヤナ) (石橋 2006: 20)。
場合によって使い分けているということだが、
いずれにせよ、「ジャ行音表記」「ヤ行音表記」のどちらが「正しいか」という議論はまったく無意味である。なぜならスペイン語にはこの両者の音韻上の区別が存在しないからである (ibid.)
という指摘は重要だ。正確には「スペイン語にはこの両者 (=日本語の「ジャ行音」と「ヤ行音」) の区別に相当する音韻上の区別が存在しない」ということだろうけど、言っていることは間違っていない。スペイン語の /ʝ/ の音声的実現領域が日本語の /y/ と /zy/ の音声的実現領域にまたがっているので、スペイン語人が日本語の「ヤ」と「ジャ」の区別が苦手だという現象が起きる (日本語人が l と r の区別が下手なのと同じメカニズムだ)。裏を返せば、日本語で「プエルトカベージョ」と言っても「プエルトカベーヨ」と言ってもスペイン語人の耳には大して違わないと予想できるということだ (実験で確かめたら予想を裏切る結果になる可能性はあるけれども)。その上で、石橋が基本的にはジャ行を使うことにしたのは、彼の耳にはジャ行の方がしっくり来るということだったに違いない。

さて、僕も、ll と y を区別せず表記するならジャ行が良いと思う。しかし、正直に言うと、「ジュカタン半島のマジャ遺跡」とか「ジェペスが弾いたファジャの曲」とか書く勇気が出ない。現実には、フラメンコ関係のものを書くときはジャ行で表記している (「セビージャ (Sevilla)」「バジェホ (Vallejo)」「シギリージャ (siguiriya)」「アマジャ (Amaya)」など) が、それ以外では ll と y をリャ行とヤ行で書き分ける保守的な表記を使っている。だから前回の記事で「バリャドリッド」と書いたわけだ。

一方、「イェペス (Yepes) が弾いたファリャ (Falla) の曲」的な表記は「原語のスペリングがわかるような書き方 (木村 1989: 193)」なので、それなりのメリットはある。少数派ではあるが、実際に区別して発音している人たちもいるので、音声的な現実の支えもある。従って、リャ・ヤ方式を排除する理由は特にない。

まあ、でも、折角だからジャ行で統一する実験をやってみようかな。ちょっと考えます。

  • 原誠ほか (編), 1982, 『スペイン ハンドブック』, 三省堂.
  • 石橋純, 2006, 『太鼓歌に耳をかせ –カリブの港町の「黒人」文化運動とベネズエラ民主政治』, 松籟社.
  • 木村琢也, 1989, 「フアンとマリーア –スペイン語固有名詞のカタカナ表記に関する二つの問題点–」,『吉沢典夫教授追悼論文集』, 191-199.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • RAE & ASALE, 2011, Nueva gramática de la lengua española. Fonética y fonología, Espasa Libros.