2014年12月31日水曜日

Swift

あるとき僕のことを flamencólogo と呼ぶ人がいて、不思議な気がしたことがある。僕のつもりとしては lingüista か filólogo なのだが、まあフラメンコについての論文を書いたりしているから、拒否するわけにもいかない。だとすると、スペイン語動詞活用形生成プログラムの開発をめぐる論文を書いている僕は procesamiento de lenguajes naturales を研究する人は何だろう、それだと言われても否定できないことになるか。

実際には自然言語処理と呼べるようなことはほとんどしていないが、文字列を処理する小さいプログラムは日常的に作って使っている。日々の業務には定型的な作業が多いので、それを (半) 自動化しようというのが主な目的だ。プログラムを書くのにかかる時間と、自動化で節約できる時間を比べたことはないが、手動でやるときに混入しかねないミスを排除できる安心感も含めれば、十分おつりが来ていると思う。

さて、プログラミング言語は世の中にたくさんある。僕の日常業務で行う処理に必要なプログラミングスキルなんか大したことはないので、ひとつの言語を深く学んで隅々まで理解したいという気持ちはない。というわけで、ふらふらといろんな言語をかじっている。今主に使っているのは Ruby で、少し本格的なものは Ocaml で書く。気が向いたら Clojure で書いてみたり、必要に迫られて AppleScript で作ったりしている。過去に「業務用」に使ったことのある言語はもっとあるが、現在僕のパソコン上で動いているプログラムはこれらの言語で書かれている (TeX を入れればこれも)。で、今回 Swift で小さいのを1つ書いた。

Swift は Apple が開発した言語で、iOS と Mac をターゲットにしている。自作の僕専用のプログラムを将来他の人にも使ってもらうためには、それなりのユーザーインターフェイスを構築する必要があるが、その際に使用する言語の候補として検討する、というのは表向きの理由で、本当は単にのぞいてみたかったのだ。静的型付けで型推論があり、シンタクスが単純なのでとりあえずは書き易い。「良い意味で、先行する他言語の寄せ集めになっている (荻原剛志 2014『詳解Swift』SBクリエイティブ、iii)」とは言い得て妙で、浅くざっと見ただけだが、いくつか思い出す言語があった。

今回書いたのは、標準入力またはファイルから複数行のデータを読み込み、それをランダムな順番に並べ替えて出力するプログラム。たとえば、この記事のデータを読み込んで「実際には・・・思う。/Swift は・・・あった。/あるとき・・・なるか。/今回・・・思う。」のように出力する (画面上は複数行にわたって見えるが、これらが我々が「行」と呼ぶものだ)。そんなプログラムが何の役に立つのかというと、たとえばテストの問題を作るときに既に存在するデータからランダムにいくつか選び出したいときなどに使える。最初String型とNSStringクラスの関係が理解できなかったり、オプション型の扱いに慣れなかったりしたが、まあ速く書けたのではないかと思う。

2014年12月30日火曜日

Ambos

El País の記事から: «Las diferentes estrategias que ambos partidos proponen para alcanzar la independencia han impedido hasta la fecha cumplir con el requisito que puso Mas para convocar elecciones (Elpais.com)».

この ambos だが、特に珍しい使い方ではない。しかし ambos を「両方 (の)」として覚えた僕にとっては、注意を引き、意識的に覚えるべき用法だった。僕の語感では「両方」は両方が同じという印象がある (よく内省してみるとそうでもないかもしれないが)。一方、上の例では ambos partidos つまり Convergència と Esquerra Republicana がそれぞれ異なる戦略を提案している。なので「両方の政党が独立を達成するために提案している異なる戦略」みたいに訳してしまうと、ちょっと落ち着かない。

内省したらと書いたが、実際もう上の日本語は良いとも悪いとも思えない。でも、少なくとも「両者の違い」は問題ないけれど「両方の違い」は「両方」で指示されている二者の間の違いという意味ではピンと来ない。これは「両者」と「両方」の間に意味論的差異があるのか使い慣れの問題なのか良く分からないが、とにかく僕には違いがあるように感じられる。

あ、もっと良いのがあった。これは「両方」じゃ訳せないと思うのだが、どうだろう: «Castro fue el primero al que el mandatario estadounidense encontró. Ambos se dieron la mano e intercambiaron algunas palabras y por momentos mostraron una sonrisa (CNN)».

こういうのは普通は対照言語学で扱おうと思うものなのだろうけれど、僕はむしろ翻訳論の問題として考えてみたいかなと思ったりしているところ。

2014年12月23日火曜日

Gran crónica del cante 16

出来上がって来たので早速聞いてみる (曲目はこちら)。



最初の Niña de los Peines のペテネーラスで鳥肌が立つ。何度か聞いたことのある演唱だが、いつもそうなるとは限らない。ある程度の音量で、スピーカーの音を直接というより部屋に響く声を聞くという感じだったのが影響しているかもしれない。それにしても恐ろしいカンタオーラだ。

Manuel Vallejo の凛としたシギリージャもいい。Vallejo はもともと有名だし優れたカンタオールだということになっているが、もっと評価されていい人だろう。全集も出ているので、一度じっくり聞いてみたい (が、なかなか時間がとれない)。

さて、他にも触れるべきものはあるだろうけど、とりあえずパスして、今回の特集のマリアーナス。4人の演唱が収録されていて、どれも面白いが、やはり Niño de las Marianas のものが別格というか、ちょっと違う世界を目指しているというか、これが芸名になってしまっただけのことはある仕上がりだ (Ramón Montoya の伴奏が他の人たちのより格段に深いことも、これに貢献しているだろう)。個人的には Garrido を発見したり Escacena の上手さに気づいたり、いろいろと収穫があった。Adela López に関しては、資料が手に入らなかったので大したことは書けなかったが、ギターじゃない伴奏のカンテについての研究がもっと進むと (つまり誰かがやってくれれば) 面白いだろうと思う。

買ってね。

2014年12月20日土曜日

Persona

「人称」と訳す。スペイン語は動詞が主語の人称と数に応じて形を変える言語で、この活用を覚えるのが一大事なのだが、僕はずっと、これは面倒だけれども難しくはないと高を括っていた。つまり、形を覚える作業は大変かもしれないが、人称・数に応じた活用という現象を理解すること自体には何ら問題はないと思っていたわけだ。ところが、最近そうでもなさそうだという話を聞いた。

僕にそれを教えてくれた人は高校でスペイン語を教えていて、その経験から言える傾向として、まず勉強を始めて動詞が活用するという事態に遭遇して大きくモティベーションが下がる。その状態では何も頭に入らなくても無理はないかもしれないとは言え、たとえば次のようなことが起こる。活用表には yo, tú などの人称代名詞に対応した動詞の形は載っているが Pedro に対応した形は載っていないので ser であれば es になるということが分からない。そこを何とか乗り越えても Pedro y María が待っていて、この場合 son になることが理解できない。もちろん Pedro y yo に対して somos を思い浮かべるのも難しい。さらには、人と物が同列に扱われて Pedro も la mesa も動詞が同じ形 es になることも納得できない。

こういった例は、ごく少数の学習者に見られる例外的な現象なのかもしれない。しかし問題であることに変わりはない。考えてみれば当然で、日本語には主語の人称・数に応じた動詞の活用が存在しない。だから、人称という概念がうまく理解できないとしても不思議ではない。もしかしたら、それなりに深刻な問題なのかもしれない。「人称」という用語を使うかどうかとは独立に、どこかでこれを押さえておく必要があるという気がしてきた。

それはそれとして、Pedro と la mesa を同列に扱うことへの疑問は、なんとも素晴らしい。日本語話者には有生性の方が人称よりも分かりやすいということか。

2014年11月17日月曜日

Ha mort Badia i Margarit.

TV3 (カタルーニャのテレビ) のアプリをつけたら Antoni Maria Badia i Margarit が亡くなったというニュースをやっていた。カタルーニャ語学をやっている人なら知らない人はいない大御所、94歳 (1920-2014) の大往生。僕は彼の業績を評価できるほど勉強していないが、少しばかり彼の著作には触れているし、自分の論文の中で引用したりして、お世話になった。

合掌 (que descansi en pau)。

2014年11月15日土曜日

Amarillo

アカデミアの辞書における amarillo の定義をネタにした面白い記事があるので紹介しておこう (こちら)。かつてアカデミアの辞書は amarillo を「レモンの色」としていたのだが、「コロンビアやメキシコ、キューバなど、彼の知る国々ではレモンは黄色ではない。緑色だ」という。「彼」というのはガルシア・マルケスのこと。

日本のスペイン語学習者にとっては、limón が緑色な国があることがあるのは是非覚えておきたい情報だ。しかし、辞書の記述がスペイン中心なせいで、limón といえば黄色、黄色といえば limón ということになっていた。

それが、この10月に出た DRAE の新版(第23版)では amarillo の定義から limón が消えたという話なのだが、ちょっと調べ方が甘い。たしかに DRAE の第21版 (1992) では amarillo の定義は «De color semejante al del oro, el limón, la flor de retama, etc. Es el tercer color del espectro solar» で、今回の第23版では «Dicho de un color: Semejante al del oro o al de la yema de huevo, y que ocupa el tercer lugar en el espectro luminoso» になっている。しかし limón は第22版 (2001) で既に消えているのだ: «De color semejante al del oro, la flor de la retama, etc. Es el tercer color del espectro solar» (修正版は «De color semejante al del oro, que corresponde a la sensación producida por el estímulo de longitudes de onda de alrededor de 575 nm» だが、第23版には採用されなかったわけだ). 同様に limón の定義は第21版で «siempre de color amarillo» を含むのに対して第22版と第23版の対応する部分は «frecuentemente de color amarillo» となっている。つまり、limón と amarillo の関係見直しは10年以上前に行われていたわけだ。

これはアカデミアが進めている汎スペイン語圏主義に沿った動きで、ガルシア・マルケスの一言が効いた可能性はある (Diccionario Clave が出たのは1996年。現物を持っていないので図書館の情報)。歓迎すべき変更であることに間違いはない。だからこそ、それがいつ起こったことなのか、ちゃんと調べて欲しいところだ。しかも DRAE の22版なんかネット上にあって寝ながらでも見ることができるのだから、チェックしなかったのは痛い。次からは注意してね。

(2014/11/16追記)
先方では、こちらの報告を受けて早速注をつけてくれた。こういうことはお互いさまなので、僕が何か変なことを言ったら指摘してもらおうと思っている。

それにしても黄色が「金の色」ってのは、もちろん理解はするのだが、違和感がなくもない。金って金色でしょ?

2014年10月26日日曜日

Son son somni

Najat El Hachmi を読んでいるのは、たまたま勤め先の図書館にあった薄い非言語学系の本だったからで、著者や中身について事前に知識があったからではない。いま、必要があってカタルーニャ語をかじり直しているところで、この言語との接触を増やすのが目的で手に取ったのだった。でも、いったい誰が図書館に入れたのだろう。

カタルーニャ語は仕事で文献を読むのには使っているから、知らない言語ではない。しかし、いわゆる日常会話となるとからきしだ。容易に想像できると思うが、外国語学習における到達目標として一番ぐらいに易しいのは専門書の読解だ。特に似た言語を既にある程度知っていれば、用語なんかもほぼそっくりだったりするから、辞書を引く必要もほとんどない。なので、もう少し難しい本に挑戦しているというわけだ。

さて、カタルーニャ語の辞書を眺めていて、明らかに「初級レベル」のことで知らなかった (覚えていなかった?) ことに出くわして驚いたのだったが、それを説明するにはスペイン語から始める必要がある。スペイン語で Tengo sueño と言うと「眠い」で、Tuve un sueño だと「夢を見た」ということに普通はなるだろう。しかし、ポルトガル語では前者を Tenho sono (Estou com sono の方がよく見るか?) と表現し、後者は Tive um sonho になる。つまりスペイン語が sueño の1語で済ませているところをポルトガル語では sono 「眠気」と sonho 「夢」を区別する。ガリシア語の sono / soño も同様。イタリア語の sonno と sogno もそうみたいだ (辞書には sonno に詩的用法の「夢」が載っているが)。僕は最初ポルトガル語の sono と sonho の区別がなかなか身に付かなくて、反対にしてしまったりしていたのだが、最近ようやく慣れて来た。

さてカタルーニャ語ではどうか。眠いときには Tinc son で夢を見たら Vaig tenir un somni で、ポルトガル語と同様の区別がある。だから、それだけでは驚かない。最初の驚きは、この son が女性名詞だということ (上に挙げた言語では男性名詞)。なので Tengo mucho sueño / Tenho muito sono / Teño moito sono / Ho molto sonno に対して Tinc molta son になる。まあ、とは言え言語間の名詞の性の不揃いは別に珍しいことではないから、驚いたというのは言い過ぎだ。本当は son に男性名詞と女性名詞があることに驚いたのだ。たとえば「深い眠り」は un son profund で、男性名詞として使われている。他の言語では un sueño profundo / um sono profundo / un sono profundo / un sonno profondo だから、性の変化はない。

まとめると、「眠り」「眠気」「夢」という3つの概念を、カタルーニャ語は son (m), son (f), somni で区別する。ポルトガル語・ガリシア語・イタリア語は「眠り・眠気」「夢」の2つにまとめて sono/sonho, sono/soño, sonno/sogno で表現する。スペイン語は sueño で全部に対応する。言語学の教科書に出てくる「恣意性」のわかりやすい例ということになる。

castellanoportuguêsgalegoitalianocatalà
sueñosonosonosonnoson (m)
son (f)
sonhosoñosognosomni



«La vida es sueño» を「人生は眠い」と訳して笑ってもらえるのはスペイン語学習者のみに許された特権なのだ。

2014年10月19日日曜日

És catalana

前回の続きだが、もう少し言語的な話。"estadounidense de origen japonés" で検索してみると、中村修二や南部陽一郎をそう形容しているテクストが見つかる。なぜか江崎玲於奈や下村脩がそうなっているものも引っかかるが、この2人は日本国籍のようだ (アメリカで研究している・いたのでそう思われたのだろう)。これは「日本出身の米国人」と訳してよいだろうか。ちょうど estadounidense de origen español で Severo Ochoa が出てきたりするのと同じだ。他には mexicano de origen español で検索するとスペイン内戦がきっかけでメキシコに亡命した人の名前 (Rodolfo Halffter とか) がヒットする。この場合 "X de origen Y" のほか "Y nacionalizado X" という言い方もある。

だが、de origen Y を「Y出身」と訳してはいけない例も見つかる。さっきの estadounidense de origen japonés で引っかかる名前の中には Francis Fukuyama (シカゴ生まれ) や Isamu Noguchi (ロサンゼルス生まれ) もあるし mexicano de origen español の中には作家の Jordi Soler (メキシコ・ベラクルス州生まれ) もある。つまり「Y系」とでも訳したほうがいいような場合だ。Francis Fukuyama に関しては japonés nacionalizado americano としているテクストも見つかるが、たぶん誤解に基づく記述なのだろう。

というわけで X de origen Y だけでは出身地がどこか分からない。それだけではない。Najat El Hachmi はカタルーニャ語版のウィキペディアでは «és una escriptora catalana i mitjancera cultural d'origen amazic» となっているのだが、amazic は日本ではベルベルと言っている人たちのことで、ベルベル人は複数の国にまたがって住んでいるから、国名という意味での出身地の手がかりにはならない。彼女の場合はモロッコ生まれだが d’origen amazic を「モロッコ出身」と訳すわけにはいかない。やはりここは「ベルベル系」になるのだろうか。ちなみに Jo també sóc catalana を半分ぐらいまで読んだところでは、労働許可がないので仕事探しに苦労する話が出てくるので、16歳の頃はスペイン国籍ではなかったということは分かるが、今の国籍は (徹底的に調べたわけではないので) 分からない。

なお、Najat El Hachmi に関するスペイン語版のウィキペディアの記述は «es una escritora de origen marroquí establecida en España» で、国レベルの形容になっているところが、独立国を持たないカタルーニャやベルベルというレベルで記述しているカタルーニャ語版と大きく異なる。

2014年10月15日水曜日

¿Es japonés?

そう、今頃あの中村さんの話だ。ノーベル物理学賞のニュースは、たまたまその時いた飲食店のテレビを通じて知った。家に帰ってからインターネット上のニュースをチェックしていたら «Os xaponeses Isamu Akasaki, Hiroshi Amano e Shuji Nakamura, este último nacionalizado estadounidense, foron distinguidos hoxe co Premio Nobel de Física 2014 por inventar o diodo emisor de luz LED, anunciou a Real Academia das Ciencias de Suecia (Galiciaé)» という記述に出くわして、初めて彼が米国籍だということを知ったのだった。その後、日本では米国籍の事実が報道されていないという話がネットを賑わせていることも分かった。

僕は日本人が何人受賞したとかいう話には興味がないし、何年かぶりの物理学賞受賞なんていう報道にはオリンピックじゃあるまいしと思って笑ってしまったのだが、これはオリンピックみたいなものだと言う人がいて、言われてみればそうかもしれない。僕は日本人がいくつメダルをとったとかいう話に興味がないので、まあ似たようなものだ。もちろん、これは賞やメダルをとった人が立派だと思うことと矛盾しない。

さて、僕は外国のメディアの報道を通じて中村さんの国籍について知ったわけだが、知人がブログで「たいていの国のメディアはアメリカ合衆国の市民権を獲得している中村修二をアメリカ人としている」と書いているのを見て、また「あれっ」と思った。彼の言う「たいていの国」がどこのことなのか分からないが、たとえば前掲のガリシア語メディア (国としてはスペインだ) は見出しで «Tres xaponeses, Nobel de Física por inventar o diodo de luz LED» と言っていて、彼を xaponés と見なしていることは明らかだ。これを「日本人」としているとして良いのだろうか。多分良いのだろう。そして、記事の本体に入って米国に帰化したと書いている。これは「アメリカ人」と書いてある方に数えていいのだろうか。多分いいのだろう。ではスペインは「たいていの国」の中に入るのか入らないのか。

El País は «Tres científicos de Japón obtienen el galardón» と言っておいて、後の方で «Nakamura, 1954, tiene nacionalidad estadounidense» と国籍を明示している。前置詞句 de Japón は形容詞 japoneses と交換可能な場合もあるが、この場合はそうではないと考えることもできる。なので、この記事は中村さんを日本人として報道していないと読むことは可能だ。El País はスペインの新聞だから、スペインは「たいていの国」に入るのだろうか。多分入るのだろう。

ポルトガルの新聞 Público は «A invenção dos LED azuis valeu esta terça-feira o prémio Nobel da Física de 2014 a três cientistas japoneses: Isamu Akasaki e Hiroshi Amano, da Universidade de Nagóia, no Japão, e Shuji Nakamura, da Universidade da Califórnia em Santa Barbara, nos EUA» と言っていて、中村さんがアメリカの大学にいることは書いてあるが、国籍の話は僕が理解できた範囲では出て来ない。

Jornal do Brasil は «Com o trabalho dos três japoneses, foi possível conseguir o LED branco, pois eles desenvolveram a luz azul» と言っておいて、先の方で «Akasaki (85 anos) e Amano (55), ambos da Universidade de Nagoya, e o norte-americano Nakamura (60), que desde 1994 se transferiu da Universidade japonesa de Tokushima para a de Califórnia, são os responsáveis pela descoberta e criação das lâmpadas» としている。徳島大学からカリフォルニアに移ったとしているところには目をつぶることにして、さて、ここでは中村さんは何人 (ナンニンと読まないでね) とされているのか。まず três japoneses の1人であることは確かだが、はっきりと norte-americano と書いてある。日本人でもあり、アメリカ人でもある?

Il Giornale d’Italia は «Si tratta dei tre scienziati giapponesi Akasaki, Amano e Nakamura» とだけ言っていて、アメリカ国籍の話は出て来ない。

ドイツ語は辞書が引ける程度だが、ちょっと見てみると Spiegel が3人を日本生まれと書いている: «Der Nobelpreis für Physik geht in diesem Jahr an die gebürtigen Japaner Isamu Akasaki, Hiroshi Amano und Shuji Nakamura». 後のほうで «Nakamura reagierte sehr überrascht auf die hohe Auszeichnung: "Unglaublich", sagte der Japaner, der heute in den USA lebt und als Professor an der University of California in Santa Barbara arbeitet» と言っていて、アメリカに住んでいることは伝えているが、国籍の話は多分していない。

Spiegel は物理学賞の出身地 (Geburtsort) 別の受賞者数と研究地? (Forschungsstandort) 別の数字を挙げていて、日本はそれぞれ10と9だ。この違いは中村さんの存在に起因するのだろうか。

さて、このごく限られた、そしてヨーロッパに偏ったサンプルからは「たいてい」中村氏をアメリカ人としているという印象は得られない。むしろ思いのほか日本人扱いが多いというのが僕の感想だ。しかし、ここから「たいていの国のメディアが彼を日本人としている」という結論は出てこない。こんな小さなデータからそんな一般化が出来るはずはないし、そもそもこれらのサンプルは国を代表していないのだから、一般化に加えて議論のすり替えをしないと、「たいていの国」なんて言えないのだ。このことは、おそらく僕の知人の断言にも当てはまる。僕の推測では、彼は少数の報道を見ただけで不用意に誤った一般化を行い、うっかり「国」という要素を議論に滑り込ませて「たいていの国のメディア」と書いてしまったのだ。

こういう粗忽な議論をやってしまう可能性は誰にでもある。僕も気をつけたい。皆さんも気をつけて。

2014年10月6日月曜日

Gustavo Dudamel / Wiener Philharmoniker

グスターボ・ドゥダメル指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (2014年9月25日、サントリーホール)。曲目はリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』とシベリウスの交響曲第2番。

ウィーンフィルは初めて聞いたが、とにかく響きの美しいオーケストラだ。音に濁りがなくて柔らかい。でもガラス細工の透明感みたいなものとは違う。はりつめた緊張感は皆無で、ステージ上の音合わせも、まあ一応やっときますか的にさっと済ませるのだが、 (本気出してなさそうな) 余裕の中であれだけの響きが出るのは、さすが。小泉文夫が「純正調の見事なハーモニー (『世界の民族音楽探訪』実業之日本社、p. 234)」と呼んだのがこれなのかもしれない (僕は美しいと思ったが、その理由までは分析できない)。

ドゥダメルを聞くのはシモン・ボリバル、ミラノ・スカラ座に続いて3回目。3回とも楽しく聞かせてもらったのだが、正直なところ、彼についての印象ははっきりしない。最初のシモン・ボリバルの来日公演は、良くも悪くも若いという印象だった。あとの2回は、オペラ (『リゴレット』) は楽しめたし、スカラ座オケも良かったし、ウィーンフィルは素晴らしかったし、公演が面白かったと断言することはできるが、ドゥダメルってどんな指揮者?と問われたら何と答えていいか困る。来年ロサンゼルスフィルと来るようなので、それを聞けばイメージがはっきりするかもしれないが、行こうかどうしようか。いずれにせよ、1981年生まれだから、まだまだこれからの成長を期待すべき人だ。

アンコールはヨハン・シュトラウスのポルカ。曲はサントリーホールのHPによれば「J.シュトラウスI: アンネン・ポルカ op. 137 と J. シュトラウスII: ポルカ・シュネル『雷鳴と稲妻』op. 324」(だが、アンネン・ポルカをgoogleaってみるとII世の op. 117 となっている。僕はこの辺りに不案内なので、ポルカだということは分かったが、アンネン・ポルカだったのか他の曲だったのかは分からない)。うかつにも、こういうアンコールが来ることを予想していなかったのだが、ヘレスと言えばブレリア、ウィーンと言えばワルツ・ポルカじゃないか。これを忘れちゃいけない。

2014年8月18日月曜日

Naturaleza A

Naturaleza を西和辞典で引くと「自然」のほかに「本性、本質」みたいな訳が載っている。そして例句 naturaleza humana には「人間性、人類」といった訳がついている (寺崎ほか編 2010『デイリーコンサイス西和和西辞典』三省堂、s. v. naturaleza)。形容詞の humano は「人間の (idem: s. v. humano)」ということだから「人間の本性」あるいは「人間が人間であるが故に持つ性質」で何の不思議もない。

では、これはどうだろうか: la naturaleza humana de Cristo. キリストの人間性?

こういうときに、辞書の訳語を出発点にして日本語で考えていくと大抵うまく行かない。テクストに即して文脈の中で考える必要がある。たとえばこんな感じだ: «La naturaleza humana de Cristo / La importancia de su naturaleza humana / La doctrina de su verdadera humanidad tiene la misma importancia que la doctrina de su divinidad. Jesucristo tenía que ser hombre para poder representar la humanidad caída. Si Jesucristo no era hombre verdadero, entonces su muerte en la cruz era un engaño. Tenía que poseer una naturaleza humana verdadera para poder morir por la humanidad».

キリスト教徒ではない僕が説明では不正確になることはまぬがれないが、まあ、キリストは神性を備えているとともに真の人間でもあったということだ。つまりキリストは人間であるという性質を備えており、その性質が su naturaleza humana なわけだ。僕は「キリストの人間性」という日本語からは、この意味を理解することができない。なので「キリストが人間であるということ」のように訳したくなる。キリスト教神学のほうでは「キリストの人性」という言い方があるようで、これは「神性」との対で使いやすいコンパクトな用語だが、日常的な日本語とは言えない。『現代スペイン語辞典』(iOS版 ver. 1.1.6: s. v. naturaleza) は naturaleza humana の訳として「人性、人間性;人類」を挙げているので、これで「正解」にたどり着く人は多いかもしれないが、理解を伴う保証はない。

この記事のテーマはキリスト教ではなくて、今見たような naturaleza の使い方の方だ。こういう使い方は決して珍しいものではない。また、似たような意味をもつ carácter にも同様の使い方がある。たとえば carácter (naturaleza) unilateral de la tregua 「停戦が一方的であること (naturaleza もあるが carácter が多い)」、つまり双方の合意による停戦ではなくて、片方が一方的に宣言したものだということ、とか naturaleza (carácter) multidimensional del universo 「宇宙の多次元性 (こちらは naturaleza の方が多い)」とか、naturaleza (carácter) mortal del ser humano 「人が必ず死ぬこと (これも naturaleza の方が多い)」とか、carácter (naturaleza) anticonstitucional de... 「・・・の違憲性」とか。

もうみんな気がついたと思うが、これらの例では naturaleza (carácter) A de N において ser(N, A) という関係が成り立つ: la tregua es unilateral; el universo es multidimensional; el ser humano es mortal; X es anticonstitucional. Cristo の例では «ser hombre» という言い方が出てくるが humano でも言える: «Cristo es humano y divino».

これは、1番最初の naturaleza humana では成り立たない、というか N がない。N のある例を見ておこう。La naturaleza física de la luz では、「光が物理的であること」という読みも不可能ではないだろうけれど、普通は「光の物理的性質」つまり物理学的に見た光の性質のことだろう。このように、naturaleza A (de N) には (少なくとも) 2通りの解釈あるいは構造があるわけだ。

それから、今問題にしている例は次のように言い換えることができる: la unilateralidad de la tregua, la multidimensionalidad del universo, la mortalidad del ser humano. キリストの例には «su verdadera humanidad» という言い方が出ているが、これを「人類」と訳してはいけない。「人間であること」だ。

たしかに humanidad を西和辞典で引いても「人間であること」という訳語は出て来ない。それから、『現代スペイン語辞典』(s. v. humanidad) は humanidad の語義2として「人間性、人間としての宿命;《宗教》人性」を載せていて、『西和中辞典』(iOS版 ver. 2.0.1: s. v. humanidad) は例句 «la humanidad y la divinidad de Jesucristo» の訳に「人性」を使っているので、それが目に留まれば正解を手に入れることはできるのだが、理解の問題は残るし、この humanidad の使い方は、別にキリスト専用でもないし宗教用語でもない。たとえば: «Atrás quedan las viejas polémicas por el famoso fragmento craneal del llamado «hombre de Orce» y la obsesión demostrada por su descubridor, Josep Gibert, por defender la humanidad del fósil, que acabó con divisiones y enfrentamientos entre sus discípulos y el declive de las investigaciones». ここでは、ある化石の人性、つまりこれがヒトのものかどうかが問題になっているわけだ。もちろん «la naturaleza humana del Hombre de Orce» という言い方もある。意味論を多少やってる人間としては naturaleza humana と humanidad が同じ意味だとは言わない。しかし、実用的には言い換えレパートリーと考えてよいだろうと思う。つまり naturaleza A は A + idad 相当の働きをすることができる場合があるということだ。

辞書に載っていない訳語を採用できるというのは、読解において必要なスキルだ。しかし、それがちゃんと身に付いていない学習者は多い。いや、辞書に載っていない日本語を使う学習者はいるのだが、それがテクストの理解に結びついていないことが多いのだ。きっと、辞書の日本語をつなぎ合わせたものを出発点に日本語だけを使って意味を考えながら訳文を生成しようとしているのだろう。それはテクストを理解するプロセスとは異なる。原文に沿っていくと自然と辞書から離れる、というのが目標だが、これを学習者に身につけてもらうことが出来ているかというと、正直自信がない。

一方、今問題にしている naturaleza や carácter の使い方は辞書に載せてしまえば良いことだ。パタンも特定できているし、例だってその辺にごろごろしている。とは言え、この2語だけ特別扱いするのも変だから、同じようなレベルの現象をもっと集めないといけない。僕は辞書編纂に近づけない体質なので気楽に言っているが、本格的にやろうとしたらかなりの大仕事になる。とりあえずは、この手の例を地道に記述していくことが必要だろう。

こういうのは、みんなでダラダラやればいい。各自が自分のペースで、ブログみたいなところで思いつきだけ書きとめてもいいし、少し真面目にコーパスを見て論文にしてもいいし。大げさな理論は要らないから、卒論で扱うことだってできる。それが、そのうち誰かが作る辞書に反映されるという寸法だ。

2014年8月11日月曜日

Afeitar

せっかく床屋の話が出たので髭をそる話。Barbero というのは見て分かる通り barba の派生語だから、髪切り屋ではなくて髭剃り屋だ (なお、今の床屋は peluquero で、こちらは peluca から派生しているから、語義的にはカツラ屋だったわけだ)。というわけで barbero の仕事は本来 afeitar することなのだが、実際にはもっと多彩な役目を担っていた。«Las sociedades modernas se caracterizaban por una fuerte división del trabajo, con profesionales especializados. Constituía un signo más de retraso pintoresco que en las barberías españolas se afeitase, se curase a un enfermo o se armara un jolgorio al compás de una guitarra (Campo, Alberto del & Cáceres, Rafael, 2013, Historia cultural del flamenco: El barbero y la guitarra, Almuzara, p. 453)».

というのは19世紀の話だが、床屋は伝統的に医療に携わっていて、それからこの本の副題にもなったように、ギターとの結びつきも強固だった。なお、上の例の se afeitase は se + 3人称単数の不定人称で、afeitar は他動詞だが、直接補語が表現されていない。表現しないことを通じての不定人称化だろう。つまり、主語も不定、直接補語も不定ということだ。こんな例もある: «Cuando el barbero afeita, también el mancebo toca la guitarra (459)».

今言ったように afeitar は他動詞で、直接補語には髭をそられる人が来る: «Karol Dembowski se sentirá profundamente defraudado con el barbero que lo afeita en una posada de Guadalajara, pues muestra una actitud muy poco maja, citando a Voltaire y a Fréret, y hablando mal de los carlistas, en vez de ponerle al día con sus cotilleos (465)».

客を主語にしたければ再帰動詞 afeitarse にすればよい。

«El diplomático inglés John Warren acude en 1850 en Sevilla a una barbería, no tanto para afeitarse, cuanto para contemplar a un Fígaro de cerca (465)».

«Por la importancia que da a las barberías y el conocimiento que muestra de su significado, es evidente que el británico las conocía bien y que las frecuentó, ya fuera para afeitarse, ya fuera para quitarse alguna muela, de las cuales reconoces haber dejado en España al menos dos; o, lo que es más probable, para pasar el tiempo, tal y como hacían muchos otros (469)».

«La gente acude naturalmente para afeitarse, pero también constituye la barbería un foco de reunión donde se comentan las noticias o se satiriza al personaje de turno (469)».

«Y allí vieron, invariablemente, cómo estos locales eran mucho más que lugares donde la gente acudía a afeitarse o a sangrarse (470)».

ええっと、でも afeitarse は自分で髭を剃るという意味ではないか、と思った人は偉い。でも、床屋に来た客がそこにあるカミソリを使って自分で髭を剃る場面を思い浮かべる必要はない。髭剃りを誰か専門家にやってもらうという事態に使うことができるのだ。これは afeitarse に限った話ではない。たとえば «Me he cortado el pelo» と言った人に対して、普通は「へ〜、自分で切ったの」と反応したりしないだろう。また再帰動詞特有の現象でもない。たとえば «Felipe II construyó el monasterio de El Escorial para conmemorar la victoria en la batalla de San Quintín» なんてのは実際に自分がやったんじゃないのに、という時によく引き合いに出される例だ。

もちろん、床屋に行かずに自分で剃ったってかまわないのだが:

«El capitán asegura que el barbero ha perdido parte de su importancia en las ciudades, dado que el progreso ha permitido que allí una gran parte de los hombres se afeitan solos en sus casas (456)».

«En España, el número de profesionales del afeitado era más elevado que en otros países, según Thomas Roscoe (1835: XIV), por la costumbre de los españoles de no afeitarse a sí mismos (463)».

この2例が面白いのは、solos とか a sí mismos とかをつけて自分で自分の髭をということを明示していることだ。この文脈では、床屋で剃ることとの対比があるので、つける必要があるのだろう。

さて afeitarse には「自分で髭を剃る」と「床屋で剃ってもらう」の2つの意味があるのだろうか。答えはもちろん意味の定義によるが、僕は少なくともこれは同じ afeitarse だと思っている。どちらも自分の意志で自分の髭を処理したのだ。手段としてカミソリを使ったか床屋を使ったかの違いはあるが、それはこの再帰動詞の再帰性にとっては付随的なことだ (それを付随的だと思わない人は、まあそれなりの分析をするのだろうけれど)。

2014年8月6日水曜日

Carmen + el barbero = el flamenco

ゲルハルト・シュタイングレス著、岡住正秀・山道太郎訳、2014、『そしてカルメンはパリに行った: フラメンコ・ジャンルの芸術的誕生 (1833-1865年)』彩流社(原著: Steingress, Gerhard, 2006, ... y Carmen se fue París: Un estudio sobre la construcción artística del género flamenco (1833-1865), Almuzara)。

訳者の岡住さんにいただいたので、宣伝をかねて紹介する。まだ原著も訳書も読んでいないので中身について触れることはできないが、著者 Gerhard Steingress は「1990年代初頭以来、従来のフラメンコ学は、様々な関連社会諸科学、具体的には民俗音楽学、文化人類学、社会学などの側からの客観的研究にとって代わられた。このパラダイムの変化 (日本語版緒言)」を牽引した研究者のひとりで、僕もフラメンコについて書くときには彼の仕事にずいぶんお世話になっている。

ということは、昔ながらの、そして日本でも広く受け入れられているフラメンコ理解にどっぷり浸かっている人が読むと、もしかしたらかなり違和感を感じるかもしれない。「でも、フラメンコってそういうことじゃないでしょ」と思う人もいるかもしれない。でも、そういうことなのだ。そういうことなのだということが90年代以降ますます明らかになってきているのだ。

まあ、案外みんな素直に受け入れてくれるかもしれない。でも、これは宣伝の文章なので、ちょっとばかり挑発的に書いてみたわけだ。ぜひ読んでみてください、特にバイレやってる人ね。

それからもう1冊、こちらはスペイン語の本: Campo, Alberto del & Cáceres, Rafael, 2013, Historia cultural del flamenco: El barbero y la guitarra, Almuzara.

別に gustar の例文が目当てで読んでいたわけではない。副題にあるとおり、床屋がフラメンコの形成に果たした役割がいかに大きかったかが分かるのだが、いやはや、知らなかったことばかり。もちろん、床屋の話だけではなく、フラメンコの成立を支える文化的背景が詳細に語られている。これからフラメンコのことを真面目に勉強しようと思う人は、これを読まなきゃだめだろうな。

ただし、ここで確認しておかなければいけないことがある。それは、これらの本の著者は研究者だということだ。研究者は、著書の中で特定のテーマについての自説を展開する人たちだ。彼らの説は、それが先端的であればあるほど、一般に共有されていない。そして、研究者の説は反論されるために存在する。だから、我々も批判的な態度でこれらの本に接しなければならない。

2014年8月2日土曜日

Gustar S

ここまでの話を整理しておくと、gustar は与格の代名詞を伴って使われることが多く、a ... の間接補語がある場合も代名詞の重複が起こるのが普通だ (とは言え、これは学習者としての経験からそう思っているだけで、統計的に確かめたわけではない)。しかし、もちろん a ... の間接補語があっても重複の起きない例や、そもそも間接補語が現れない例も見つかる。僕が見つけたそういう例では、主語が前置されているとも述べた。で、今回は主語が後置されている例を紹介しよう。

O que el padre Basilio, famoso por su guitarra, fuese recogido –como hemos dicho– en una Corte a la que gustaba celebrar lo castizo (Campo, Alberto del; Cáceres, Rafael, 2013, Historia cultural del flamenco: El barbero y la guitarra, Almuzara, p. 166).

Sin embargo, hubo a quien gustaron las jotas aragonesas (p. 294).

この2例の共通点は、関係節内の gustar だといういう点と、関係詞が間接補語だという点。関係節内での主語の位置は主節におけるものと別に考える必要がある。なお、関係詞が間接補語である場合、与格代名詞による重複は起こりうる («Hay a quien le gusta charlar en aulas vacías, en las que no hay nada ni nadie») が、義務的ではない («hay a quien gusta pasar necesidades»)。

Vestidos con «trajes típicos», entre los que gustaban especialmente los andaluces, se bailaban boleros, cachuchas, jotas, seguidillas y demás bailes, aclimatados al gusto burgués, y convertidos por mor del nacionalismo romántico en «bailes nacionales» (p. 437).

こちらは、関係節内の gustar という点では前の2つと同じだが、間接補語がない。

Tanto gusta a los espectadores la música del capitán de los gitanos que le sugieren la idea de comprar una guitarra de mejor calidad, para tocar en París o Londres (p. 302).

Además de la característica locuacidad, su vinculación con el juego y la sociabilidad en general, gustó a los románticos su afición a la guitarra que, junto con la navaja, constituían para Ford los símbolos principales del «género barbero» (p. 470).

この2例は主節の例なので、前の3つよりも面白い。どちらも間接補語はあるが与格代名詞はない。

さて、これらの例をふまえて与格なしの gustar 出現の要因を説明しなさい。という夏休みの宿題が出たら、あなたはどうしますか?

2014年7月27日日曜日

Otubre

Por ahí dicen que la Academia acepta setiembre y otubre. Para saber si es verdad o no, habría que saber lo que quiere decir exactamente eso de «la Academia acepta» estas formas, pero como no me es posible saberlo, voy a ver qué dice la Academia (o las Academias, para ser más exacto).

En la Ortografía académica de 2010 encuentro esta observación: «Como todas las consonantes oclusivas en posición final de sílaba, la /p/ tiende a relajar su articulación, pero se mantiene, más o menos debilitada, en la pronunciación culta. Solo en el caso de las palabras séptimo y septiembre el debilitamiento articulatorio de la /p/ llega a menudo, incluso en la pronunciación culta, hasta su completa elisión, de ahí la existencia de las variantes gráficas sétimo y setiembre, también válidas, aunque minoritarias frente a las formas etimológicas que conservan el grupo -pt- (pp. 187-188)». O sea que sí, escribir setiembre es válido y, por lo tanto, es difícil negar que la Academia acepte esta forma.

Antes no era así. En la Ortografía de 1999 «se recomienda conservar el grupo -pt- en palabras como séptimo, septiembre, etc. (p. 15)». La diferencia es clara. Y entre estas dos ediciones de la ortografía, está el DPD (2005), que dice: «Existe también la variante setiembre, reflejo en la escritura de la relajación de la p en la articulación de esta voz (→ p, 5); pero en el uso culto se prefiere decididamente la forma etimológica septiembre (s. v. septiembre)». Reconoce como variante la forma setiembre, pero da la impresión de que la descripción de la preferencia «en el uso culto» constituye una recomendación. En todo caso, no se puede concluir que antes de 2010 la Academia no aceptara la forma sin p, porque solo se trata de una recomendación o preferencia a favor de septiembre. Lo que sí es cierto es que ha habido un cambio de actitud sobre la variante setiembre: antes no se recomendaba y ahora es tan válida como septiembre.

Este cambio probablemente se debe al panhispanismo por el que actualmente se rigen las publicaciones académicas.

En cuanto a otubre, no he podido encontrar nada en la Ortografía de 2010. Si halláis algo, decídmelo. El DRAE (22ª ed., 2001) recoge otubre, pero como «desus.», es decir, que ya no se usa. No sé si se puede decir que la Academia acepta esta forma como actualmente válida. Me parece más bien que no, pero a falta de pruebas... De todas maneras, lo cierto es que la Academia no trata igual las formas setiembre y otubre.

Hay datos históricos que explica esta diferencia. La Academia ofrece el Corpus del Nuevo Diccionario Histórico del Español, donde puedes sacar estas cifras estadísticas:

septiembresetiembre
1064-1500 6 35
1501-1700 21 52
1701-1800 13 8
1801-1900 21 11
1901-2005 203 35

octubre otubre
1064-1500 17 77
1501-1700 32 68
1701-1800 25 2
1801-1900 34
1901-2005 273 1

Estos datos demuestran que, hasta el siglo XVII, las formas mayoritarias eran setiembre y otubre. A partir del XVIII, esta última cae en desuso, mientras que el uso de setiembre, ya menor que el de septiembre, experimenta un descenso más moderado.

******
Se ha corregido un error gramatical (2014/07/28).

2014年7月24日木曜日

iPat (2)

「促音+濁音」のつづき。もう少し検索してみた。

アイパットがあるからにはアイポット (iPod) もある。ラピットプロトタイピング (rapid) なんてのもある。ヘットホン、ヘットライト、ヘットライン (head...) も見つかる。ヘットマッサージもそうだろう。ついでに子どもの頃ロビンフットと言っていたことを思い出した。「義賊ロビンフット」で検索すると、やはり出てくる。オートバイの種類としてのネイキット (naked) も見える。スカットミサイル (scud) もある。それから pick のピックと紛れる危険のある pig もピックになりうる。単独の例も見つかったし、固有名詞として「ピックファーム」を名乗る養豚業者もいる。ヘッチファンドだって (hedge) 負けてはいない。

「ッブ」の例はなかなか難しい。これが清音化するならば「ッフ」になるはずだが、今のところ見つかっていない。無声化ならば「ップ」で、人名でリー・J・コッブ (Cobb) を「コップ」と表記したページがあった。

とりあえずこのくらい集めれば十分だろう。もちろん、ネット上の書かれた例を見ているわけだから、すべての例が無声の発音を反映していると考えるわけにはいかない。しかし、日本語母語話者として自分で普通に発音していたものもあるし、今見て違和感のないものもある。「促音+濁音」は現在でも不安定なのだ。

なお、これは規範の話ではない。規範があるとすれば、それは濁音を保つということだろう。清音化・無声化がそれに反する動きだとすれば、非促音形 (パブ、ハブ、ハグ、タグ、タブ、アド・・・) は濁音のまま日本語の音連続として落ち着くので、解決になりうる。

それにしても、「濁音+促音+濁音」のときだけ「促音+清音」になるという間違った記述の出所はどこなのか、そっちの方が興味深かったりする。「促音+濁音」から離れれば、目立つのはむしろ濁音への同化的変化だからだ。アボガド (avocado) と発音する人は多いし、ジギル (Jekyll) とハイドも普通だろう。僕は長いことハンフリー・ボガード (Bogart) と言っていたし、最初のうちはカート・ヴォネガッド (Vonnegut) だと思っていたような気がする。最後の例は、わざわざ「促音+濁音」のパタンを作っているわけだが、そう言えば人間ドッグ (dock) もある。

ふと思いついて検索したら Brad Pitt は正しいブラッド・ピットの他にブラッド・ピッド、ブラッド・ビット、ブラッド・ビッド、ブラット・ピット、ブラット・ピッド、ブラット・ビット、ブラット・ビッド、さらにはプラッド・ピット、プラッド・ピッド、プラッド・ビット、プラッド・ビッド、プラット・ピット、プラット・ピッド、プラット・ビッドが見つかる (プラット・ビットは、ざっと見たところ確実な例がない)。こうなると、同化というよりは有声無声の対立が機能していないと言ったほうが良いような気がしてくる。もちろん、対立はあるわけだが、濁音の体系上の位置を示していて興味深い。

2014年7月9日水曜日

Gustar ...

さて、このテーマもだんだん佳境に入ってきた。

El dominio de la guitarra le valió al padre Basilio su enorme fama en la época. El cisterciense, organista en el convento de Madrid, fue llamado por la reina María Luisa y por Carlos IV para que tocara el órgano y la guitarra en el Escorial, y tanto gustó que fue contratado en la Corte como maestro de la reina (Campo, Alberto del; Cáceres, Rafael, 2013, Historia cultural del flamenco: El barbero y la guitarra, Almuzara, p. 155).

上の例では gustar が与格も a ... の間接補語も伴わずに使われている。主語は明示されていないと考えるか、文頭の el cisterciense だと考えるか、いずれにせよ el padre Basilio のことだ。問題はもちろん間接補語の不在で、彼の演奏を気に入った人がいなければ解釈が成り立たない。学習者としてまずすべきことは、前後をよく見ることだ。そうすると la reina María Luisa と Carlos IV が見つかる。この人 (たち) が候補になるわけだが、その時点で持ち上がる問題は、それなら書き手はなぜこの人 (たち) を表す le(s) を入れなかったのかということだ。ゆるい言い方をすれば間接目的語の省略、そのメカニズムを説明する必要がある。

別の解釈の可能性もある。それは、間接補語が表現されていないのは、その指示対象が不定だからだ、というもの。つまり非人称 (不定人称) 読みだ。エル・エスコリアルにおける演奏を聞いたのは、王妃と国王だけとは限らない。気に入ったのも、2人だけとは限らない。もちろん、限られた人数であったに違いないし、「その人たち」を定として概念化することはできるが、そうしなくても彼の演奏が単に「うけた」と言うことは出来そうだ。僕が最初に思いついた解釈はこっち。

Para un aprendiente de español (o sea para mí), este ejemplo de gustar presenta dos posibles interpretaciones sobre la(s) persona(s) a quien(es) le(s) gustó: una, que son la reina y/o el rey y que el complemento dativo que los representaría está omitido; la otra es interpretación impersonal (como si se dijera: «la actuación del padre Basilio fue un gran éxito»). Como no soy hablante nativo, no sé decir si estas dos son realmente posibles ni cuál de las dos es más natural, pero me inclino a la segunda. Para adoptar la primera opción, habría que explicar las condiciones o el mecanismo de la omisión del pronombre, ¿no?

2014年7月2日水曜日

iPat

日本語では「促音+濁音」の組み合わせがもともと無く、これを持つ外来語は「促音+清音」として発音されることがある (「促音+濁音」を持つ方言もあるようだが)。良く知られたものとして「ベッド/ベット (bed)」がある (ただし、「ベット」はドイツ語の Bett から来ているという説もあって、『大辞林』はそれを採っている)。

この「清音化」が起こるのは、単に「促音+濁音」ということではなく「濁音+促音+濁音」だと説明しているページがあるのに気づいた。確かに、パッと思いつく例はそうなっている。「ベッド/ベット」しかり、「バッグ/バック (bag)」しかり、「ドッグ/ドック (dog)」しかり、「グッド/グット (good)」しかり・・・

だが、この記述は間違っている。「非濁音*+促音+濁音」だって清音化は起きるのだ。僕自身は「パッド (pad)」を「パット」として覚えたが、検索してみると、たとえば「肩パット」なんかは珍しくない。じゃあ「アイパット (iPad)」はどうかというと、やはり見つかるのだ。他には「ビリー・ザ・キット (Kid)」も出てくるし、「プレゼンテット・バイ (presented by)」も「タック (tag) を組む」も見つかる。「スクランブル・エック (egg)」も「濁音+促音」とは言えない。こういう例の中には入力ミスも含まれるだろう。しかし、全部がそうだとは考えにくい。

実は、このテーマについてあるスペイン人と話をして、やはり「濁音+促音+濁音」の話になったので、気になってgoogleaってみたというわけなのだが、予想以上に「清音化」の生命力は強いというのが感想だ。iPad のような新しい単語でも起こる、つまり今でも生きたプロセスなのだ。音韻体系は外からの影響でそう簡単に変わったりしないということか。

****************

補足 (2014/07/02)

* 「パッド/パット」のような「半濁音+促音」の例があるので「清音」を「非濁音」に直しました。「濁音/清音」と書きつつ、頭の中では「有声音/無声音」になっていました。反省。

2014年7月1日火曜日

Scarlatti

«Sonatas: Scarlatti por Cañizares». Juan Manuel Cañizares の新しいCD。格好良い。

スカルラッティはよく知っているわけではない。誰の曲か知らずに聞いて「あーこれすかるらってぃっぽい」と思ったりこともある程度にはイメージを持っていて、決して嫌いではないが、ちょっとうるさいという印象があって、特に好んで聞く作曲家ではない。その派手な技巧で飛び回るところをどうやって料理するのだろうと思って聞き始めたのだが、予想外に落ち着いた演奏で全然うるさくない。これなら何度聞いても良い。まあ、もともとそんなに良く知った作曲家ではないので「再発見」などと言うのは大げさすぎる。再会ぐらいだろうか。で、チェンバロによる演奏を引っ張りだして久しぶりに聞いてみたのだが、やっぱりちょっとうるさかった。チェンバロとギターの違いなのか、演奏者の個性なのか、選曲なのか、何か他の理由があるのかよく分からないが、とりあえず今のところ僕がスカルラッティを楽しく聞けるのはカニサレスのおかげである。それはお前がスカルラッティを分かっていないからだ、と言う人がいたら、それは受け入れるしかないが。

ドメニコ・スカルラッティ (Domenico Scarlatti, 1685-1757) はイタリア生まれだが、ポルトガルとスペインで活躍した。「彼が残した (一楽章制の短いものながら) 五百数十曲にも及ぶソナタは、すべて彼のイベリア定住後に書かれた (少なくともその後に出版を見た) のである (濱田滋郎, 2013,『スペイン音楽のたのしみ』音楽之友社, p. 123)」ということで、スペインと縁のある作曲家だ。カニサレスが彼を取り上げた理由もこの辺にあるのだろう。バロック期の音楽とフラメンコとの連続性を意識して演奏するのは最近ポッと出てきたアイデアではなく、クラシック (古楽) のほうでは結構前から行われていると思う。しかし、人気のあるフラメンコアーティストが参入してきたのは、最近の現象なのかもしれない。カニサレスの他には、例えばビオラ・ダ・ガンバの Fahmi Alqhai とカンタオールの Arcángel が組んでやったの («Las idas y las vueltas: Músicas mestizas», 2012) がある。この辺りに注目したフラメンコ研究が進展してきていることも、こういった動きを後押ししているに違いない。今読んでいる途中の Campo, Alberto del; Cáceres, Rafael, 2013, Historia cultural del flamenco: El barbero y la guitarra, Almuzara も、そんな本のひとつ。

2014年6月13日金曜日

Gustar de...

No mesmo livro donde saquei os exemplos de gustar sem pronome dativo, encontrei este:

Naturalmente, como ya hemos apuntado, no faltó la guitarra en ambientes cortesanos y cultos, especialmente en la segunda mitad del siglo XVII, con guitarristas que gustaban del virtuosismo punteado (Campo, Alberto del; Cáceres, Rafael, 2013, Historia cultural del flamenco: El barbero y la guitarra, Almuzara, p. 72).

Gustar de é mais antigo do que o gustar com complemento indireto («en castellano se empleaba en la Edad Media como transitivo con sujeto de la persona que cataba; en el Siglo de Oro es ya frecuente la construcción intransitiva gustar de algo, así en el sentido de ’catar’ como en el de ’tomar placer’ [...]; en cuanto al moderno gustar intransitivo con sujeto de la cosa que agrada, no lo hallo documentado hasta Aut. (sin ejs.), y es ajeno al Quijote, Góngora, R. de Alarcón, Covarr., Oudin (Corominas y Pascual, DCECH, s. v. gusto»). Segundo o DPD, «[e]s construcción documentada sobre todo en la lengua escrita (s. v. gustar)». O galego atual também registra ambas as construções, reservando gustar de para uso literário (DRAG, s. v. gustar). Por outro lado, parece que no português é marginal o uso de gostar a, em frente de gostar de, que é a construção dominante: ainda que o dicionário de Hakusuisha traga gostar a, nem o da Porto Editora nem o Conciso Michaelis o registram.

E, efetivamente, tenho ouvido algumas vezes um brasileiro dizer «me gusta de...», falando em castelhano (ou portunhol). Para os lusofalantes deve ser complicadinho usar corretamente o verbo gustar. Não sei se é mais fácil os hispanofalantes usarem o gostar português.

スペイン語には一応 gustar de もある。これは人を主語にして、気に入った対象を de で導く。ポルトガル語の gostar de と同じだ。ガリシア語はスペイン語の状況に近い。似ていて違うのは紛らわしくて楽しい。

2014年6月4日水曜日

Gustar a... (2)

Otro ejemplo de gustar sin pronombre dativo y con complemento indirecto sustantivo:

Parece, por lo tanto, que, aunque la guitarra tuviera unas claras connotaciones populacheras, también gustó a ciertos caballeros e hidalgos, como también supuso un instrumento apropiado para que las doncellas cultivaran la música, acompañándose cuando cantaban (Campo, Alberto del; Cáceres, Rafael, 2013, Historia cultural del flamenco: El barbero y la guitarra, Almuzara, p. 88)

Obviamente, el complemento indirecto no es sintagma nominal genérico, lo que hace más interesante estudiar este tema. Por lo menos, estos dos ejemplos (y otros que he visto) tienen una característica en común: la anteposición del sujeto.

2014年6月3日火曜日

Gustar a...

Gustar は与格の代名詞と使われることが多い。特に、a + 名詞があるときは必ず重複表現になる、なんて教科書には書いているのだが、そうじゃない例がでてきたので、メモしておこう。

En todo caso, dichos tañidos y bailes se distancian claramente de los que gustaban a las clases altas (Campo, Alberto del; Cáceres, Rafael, 2013, Historia cultural del flamenco: El barbero y la guitarra, Almuzara, p. 51).

さっと googlea ったところでは、与格がないのは総称的な複数形が間接補語になっている場合が多そうだ (そうじゃない例も出てくる)。教科書に必ず重複すると書いたのは、ある人の指摘を受けてのことだったのだが、重複のある自然な言い方を覚えてもらうためには意味があると思う。しかし、そこまで「詳しく」書かなくてもという気もするので、記述的な正確さの問題とは別に、教科書の構成を再検討しようかと思う。

El verbo gustar se usa con pronombre dativo, creo que la mayoría de las veces. Cuando se usa sin él, me da la impresión de que el complemento indirecto, si lo hay, suele ser un sintagma nominal genérico. Quizás valga la pena estudiarlo en serio.

2014年5月25日日曜日

屋島

代々木果迢会 (代々木能舞台、2014年5月23日18時30分)。『屋島』のシテは小早川修。

なんだか久しぶりに能を見たような気がしたのだが、4月27日に同じ小早川さんのシテで『俊寛』を見ている (銕仙会能楽研修所) のだから、なぜなのか。今年初めての果迢会だったからか?

能の演劇性を深く追求した観世寿夫の流れをくむだけあって、銕仙会系の人は演技をする。小早川修は特に感情表出の強烈さが特徴かなと思う。そのせいで体が揺れたり、時には (こないだの『俊寛』はちょっとそうだったのだけど) 生々しすぎるような印象を受けたりすることもあるが、僕は好きだ。今回の『屋島』では、前シテの「錏引き」のところがすごかった。まだ後半もあるのにそんなに飛ばして大丈夫なのか、と心配したほどだ。でも、この部分は景清の話で、後シテは義経の弓流しがメインで景清は出てこないから、それで良かったのだろう。

仕舞では、浅見真州さんが視線の方向を変えるだけで全体の空気を変えるという、これもすごいことをやっていた。能だから、顔の表情で演技することはない。その代わり、顔の角度が感情を表す重要な要素になる。だが、もちろん、単にこの角度に傾ければこの感情が表現できるなどということはない。ある程度パタンとかお約束とかがあるにせよ、結局は演者の力量の問題だ。

演技しない能も、うまい人のには本当に清々しい美しさがある。だからどっちのアプローチがより良いということではないと思うのだ。僕も、小早川さんの『俊寛』や、やはり銕仙会の女流が演じた『葵上』が生々しすぎると感じたのは、能の表現に一定の抽象度を期待しているからなのだろう。まあ、見る側にとっては慣れの問題で、良いものであれば演技しようがしまいが生々しかろうがどうだろうがその良さが分かるようになるだろうとは思っている。なお、演技するしないというのは他に良い言い方が思いつかないから使っているので、分かる人には分かるけど分からない人には分からない種類の話になっているかも。

2014年5月13日火曜日

Absalón

学生に「アサロンプレスミア」の歌詞について尋ねられた。CDを持っていないと言うので貸すことにして、久しぶりに聞いた: Baile flamenco Vol. 1 (OFS, BF-5047) 所収のセビジャーナスだ。歌っているのは José Anillo。

歌詞カードがついているので、歌を覚えるのは難しくないだろう。ただし、意味はどうか。固有名詞がいろいろ出てくるので、僕も自分用のメモとして書いておこう。

1番は歌詞カードではこう始まる: ASALÓN PRESUMÍA. ちゃんとした書き方では Absalón になる。日本語ではアブサロムだ。ダビデ王の息子で旧約聖書の『サムエル記下』に登場する。

2番はこうだ: DALILA INFAME / MIENTRAS SANSÓN DORMÍA. これは問題なし。Dalila は日本語ではデリラ、Sansón はサムソンになる。旧約聖書『士師記』に登場する。

ここまでは聖書に題材を求めた sevillanas bíblicas だが、後半は違う世界に入る。3番の3・4行目: SEGUNDO MARCO ANTONIO / DELANTE DE CLEOPATRA. マルクス・アントニウスとクレオパトラも特に問題ない。

4番はちょっと苦労した: PERDIÓ TARTINO / LA DIADEMA DE ROMA で始まるのだが、検索しても ?Tartinus のようなのは出てこない。結局タルクイニウス (Tarquinius) のことだと気づくのにずいぶんかかった。スペイン語では Tarquino (あるいは Tarquinio)、ローマが共和制になる前の最後の王のことだろう。こんな文献があることも分かった。

面白いのは、CDでは確かに Tartino と歌っているように聞こえること。つまり、トランスクリプションの誤りではなくて、歌詞の伝承の過程で名前が変形してしまったということだ。特に珍しいことではないはずだが、文献学的事実として記録しておく価値はある。なお Absalón / Asalón は Tarquino / Tartino と比べるとスペイン語の音韻体系に合ったより自然な変化だ。

さて、José Anillo のが悪い訳ではないけれども、世の中にはもっと良いセビジャーナスの演唱がたくさんある。Sevillanas bíblicas で僕にとって忘れがたいのは Paco Toronjo が映画 Sevillanas で歌ったもの。これに歌詞の字幕をつけた奇特な人がいて、ネット上で見ることができる。それを見ると、もっと面白いことが起こっていることが分かるのだ。1番は La vio el rey David / a Betsabé en el baño で始まる。ダビデ王とバト・シェバ(バテシェバ)の話だ。Betsabé は標準的な綴りだが、トロンホは Beisabé みたいな感じに発音している。これもスペイン語的には自然な現象。面白いのは Hubo misterio / en la carta de Urías の部分で、トロンホは la carta de Hungría と歌っているのだ。Urías ウリヤは Betsabé の夫の名前。旧約聖書にハンガリーが出てくるはずはないのだが、これが口承の面白いところだ (なお、くだんの字幕では1番の最後が seguro y fiero となっているが、トロンホは según yo infiero と歌っている。それを変える必要はないと思うのだが)。さらに3番の Dalila infame はどうも Lalila と言っているよう聞こえる。

もちろん、こういった現象がこの演唱の価値を下げたりはしない。歌詞が「正しい」かどうかと、カンテが与える感動は別次元の話だ (もちろん、これはガイジンが歌詞の意味を知らずに歌うことを正当化したりしない。これも完全に別次元の話)。僕にとって、トロンホのこの演唱は泣けるセビジャーナスの筆頭格で、学生諸君も若手が教材用に吹き込んだ薄いやつじゃなくて、こういうのをしっかり聞き込んで欲しいなと思ったりする (歌えというのではない。聴くだけで良いのだ。聴くことが大事なのだ)。

実は Betsabé に関しては面白い話がまだある。でも、それはまたの機会にとっておこう。

(学生が読むことを想定して、歌詞の引用やそのもとになったエピソードへの言及は最小限にとどめた。自分で調べてね)

2014年5月2日金曜日

Numbers

É a aplicación de folla de cálculo que traía instalada o Mac que comprei en marzo. Abondábame con LibreOffice ou Excel, que tamén instalei, pero xa que estaba aí, decidín probala.

Ao principio, parecíame que non me ía servir para uso diario, porque non tiña macros (en BASIC ou similares). Con LibreOffice usaba macros que eu mesmo escribira para automatizar pequenos quefaceres rutineiros. E facer todas esas cousas á man... Pero pronto deime conta de que iso se podía facer mediante Applescript. Aínda que esta linguaxe de programación non me atrae moito, algo sei dela e, despois de consultar páxinas que tratan dela, producir mensaxes de erro e falar en voz alta comigo mesmo, á fin dei escrito o que necesitaba para traballar.

Así pois, agora utilizo Numbers en vez de LibreOffice. Non cambiou nada, practicamente. Sigo a facer o mesmo traballo cunha aplicación distinta pero que me serve igual. Hai, non obstante, unha cousa que me chama a atención: se pechas un documento modificado (sen antes gardar a modificación), a aplicación péchao sen che preguntar nada; e, cando o reabres, ves que o documento está no estado no que estaba, ou sexa, os cambios que non gardaches gardouchos a aplicación. É un comportamento raro para min, acostumado a outras aplicacións que che preguntan se queres gardar ou non as modificacións que fixeches. Ao principio non entendía o que pasaba.

Aquí hai unha diferenza grande, diría que cultural. Deime conta tamén de que o mesmo fan outras aplicacións que veñen con Mac (Pages, Keynote, TextEdit, Preview...). Ademais, están equipadas de control de versións: podes tornar a estados anteriores do documento. Aínda non sei se isto me axuda ou me sobra, pero non deixa de ser interesante.

2014年4月24日木曜日

Carmen Ledesma

名前は聞いていたが、今回初めて踊りを見た。こういう人を前に知っていたら、バイレにもっと興味を持っていたかも知れない。

発端は Plata y oro (2014年4月6日、シアター1010)。これはもともとアントニオ・カナーレスを見に行くつもりで、カルメン・レデスマはおまけだったのだが、2人ともとても良くて、僕にとっては彼女の「発見」だった。Plata y oro は、アントニオ、カルメン、森田志保の3人のバイラオーレスによる公演で、筋やコンセプトはあるようなのだが、それぞれの踊り自体は基本的に普通のバイレで、フラメンコを見たというのが感想。良かったのは、カナーレスもレデスマも踊りに表情があること。曲種によって表情が変わる。当たり前だと思うかもしれないが、シギリージャもアレグリアスもブレリアも同じ床のはや叩き競争をやっているとしか思えない踊りにうんざりしてる身としては、そう来なくっちゃ、と思えたのだ。もちろん、表情というのは顔 (だけ) のことではない。

というわけで、カルメン・レデスマをもう1度見る (2014年4月21日、アルハムブラ)。北千住のときよりもずっと間近に見て、彼女の踊りを堪能した。さっきも書いたが、ソレアとカンティーニャとブレリアで表情が異なる。繰り返すが、顔の話ではない。それから、カンタオーラと絡むときは、カンタオーラに向かって踊る (ただ「の方を向いて」ではなくて)。エネルギーがそちらへぐううっと向かって行くのだ。

今まで見に行く方角が間違っていたのか、それともこういう人はやはり希少な存在なのか。

2014年4月20日日曜日

Flagelarse

中級学習者向け。

El País に載った漫画のキャプション (と言うのだろうか?): Penitente rico flagelándose en la espalda de penitente pobre (Viñeta de El Roto del 18 de abril de 2014).

Flagelar は「をむち打つ」という他動詞だから flagelarse は「自分をむち打つ」ということになる。En 以下がむち打つ部位を示すので flagelarse en la espalda で「自分の背中をむち打つ」ということになる。悔悟者 penitente だから当然だ。ところが、この例では espalda を de penitente pobre が修飾している。したがって la espalda は自分の背中ではなくて貧しい悔悟者の背中ということになる。論理的には変なスペイン語なわけだ。

そこから、富める者が悔悟して自分をむち打っていると言いながら実は貧しいものをむち打っているとか、富める者が取るべき責任を取らず、そのせいで貧しい者が苦しんでいるとか、あるいは、僕はよく分からないが、具体的な事例についての言及だとか、解釈がいろいろ出てくる。

というのも、表面的には理屈に合わない言い方から、言語使用者は合理的な解釈を導きだそうとする。そして表現者は、それを期待してものを言うことができる。日本語にすっきり訳すのは難しい (少なくとも僕にはできない) が、この表現の構造をとらえることができれば理解もでき、面白みも分かる。

そう、構造が把握できれば、だ。重要なのは、ここで se が果たしている機能の理解と、de penitente pobre が構造を壊しつつ重層的に意味を付け加えていることの認識だ。そして、これが把握できるようになるためには文法の勉強が大事だ、という常識的でひねりも何もないオチがつくというわけだ。

2014年4月16日水曜日

Torró d’Agramunt

スペイン人の研究生がお土産に持ってきてくれた。カスティーリャ語なら turrón de Agramunt. トゥロンというと僕はアリカンテのものぐらいしか知らなかったのだが、Lleida にある Agramunt もトゥロン作りの歴史がある町らしい。もらったのは torró de gema cremada という種類で、食べたのは初めてだが、予想を超える美味しさ。

この torró d’Agramunt は indicació geogràfica protegida の指定を受けている。日本語訳には「地理的表示保護」というのがあるが、ちょっと分かりにくい。「保護地理的表示」という訳も存在する。こちらの方が直訳の「保護された地理的表示」に近いが、やはりすっきりしない。これを漢字だけを使ってきれいな言い方にするのは無理なのかもしれない。

Torró d’Agramunt の保護・管理組織である consell regulador のページによれば、Agramunt でトゥロン職人の存在が文書で確認できるのは1741年だが、それ以前から作られていたはずだという。もともとトゥロン作りは専業でやるものではなかったらしく、職業名として記録に残らなかったというのが理由のひとつらしい。

他にも興味深い話が載っているのだが、このサイト、全編カタルーニャ語である。カスティーリャ語版を探したが、見当たらない。なぜだろう? あるいは、なぜだろうと問うことがおかしいのか?

なお cremada はカスティーリャ語なら quemada で、クリームのことではない。

M’han regalat un torró d’Agramunt, que no havia provat mai. És de gema cremada, molt diferent dels que coneixia, i és boníssim. Potser és el millor torró que hagi provat.

(corregit un error ortogràfic, 2014/04/17)

2014年4月15日火曜日

La Caíta

3月のペーニャ例会はカイータ登場、と言っても映像で (2014年3月2日、ANIFセンター)。映画『ベンゴ』で歌うカイータに衝撃を受け、それまでフラメンコに縁のなかった日本人サラリーマンが、片言のスペイン語とビデオカメラを携えてバダホスまで彼女に会いに行ってしまった、その記録映像を本人の解説付きで見るという企画だ。僕はカイータに思い入れがないので、むしろこの日本人、長住さん (仮名) の思いの強さと行動力に感銘を受けた。すごい人だ。

映像は、今のヒターノたちが直面している問題にも触れていて、単なるカイータ詣での記録ではない。また、『ベンゴ』や『ラッチョ・ドローム』のとは違う、リラックスしたカイータのカンテを聞くことができて、それも面白かった。とは言え、これでカイータが大好きになったりはしなかったが。師匠たちによると (つまり僕には判断できなかったということだが)、彼女はカマロンの追随者で、バダホスの伝統を良く伝えるようなカンテを歌っているわけではないらしい。しかし、これが大好きになれない理由なのではない。単に、聞いてあまりピンと来ないというだけのことだ。うん、でも『ベンゴ』のカイータはまあ悪くない。

さて、永澄さん (仮名) はカイータでフラメンコに引き込まれた後、 (多分映画『フラメンコ』で) パコ・トロンホを知り、衝撃を受ける。そして、パコ・トロンホの伴奏をつとめた日本人ギタリストがいるという事実に驚き、そのギタリスト、エンリケ坂井に電話をかける。この行動力もすごい。パコ・トロンホが生きていたら、やっぱり会いに行っていたにちがいない。その映像、見てみたかった。

Inés Bacán

去年の後半は珍しく締め切りに追われる生活をしていたのだが、今年に入ってから、締め切りを追う生活に戻った。というわけで、消費税も上がり、新学期も始って授業が一巡したところで2月の話だ。

Inés Bacán リサイタル (東京フラメンコ倶楽部例会、2014年2月2日、スタジオ・カスコーロ)。とても良かった。とにかく無理なところがない。吠えたり力で圧倒しようとしたりなんてところも、ウケ狙いもない。こういうのを聞くと、「ヒターノたちが代々受け継いできたものだけが本物のフラメンコ」と言う人たちがいる理由も分かる (賛成するという意味ではないので、念のため)。もちろん、本当に「入って」歌っていたらもっとすごかったに違いないが、まあまあ気持ちよく歌ってもらえたようだ。

既に曖昧になって作られた記憶と化したものをたどってみると、歌ったのは (順不同で)、ティエント、ファンダンゴ・ポル・ソレア、ソレア、カンティーニャス・デル・ピニーニ、ナナ、シギリージャ、マルティネーテ (あと他にもあったかもしれない)、そして1部と2部の終わりにそれぞれブレリア。最後に一緒に来日していたコンチャ・バルガスが飛び入りで踊るというおまけつき。

歌った中では、ひいおじいさんピニーニのカンティーニャも楽しかったが、個人的にはシギリージャが良かったと思う。僕の師匠は、以前スペインで Inés の本当に素晴らしいシギリージャを聞いたのだそうだ。そんなすごさの片鱗のようなものが、もしかしたらちらっと見えたかのかもしれない。

2014年2月15日土曜日

Dom Casmurro


マシャード・ジ・アシス『ドン・カズムッホ』(武田千香訳、光文社古典新訳文庫、2014)。

訳者の武田さんから頂いた。たまたま最近、ポルトガル語の勉強にこれを読み始めたと言ったところ、そろそろ翻訳が出ると教えてもらっていたのだった。まずはオリジナルで読み通すことが目標なので、訳書に目を通すのはその後になるが、オリジナルを読み進める動機付けも強まったし、本当に有り難い。

文学としての読み方は分からないが、19世紀末の作品として勝手に抱いていたイメージよりは読み易い。とは言え、現代の標準的な言い方なら não me ... となるはずのところが me não ... になるような、そのままでは学習者のお手本にはできないところがあるようだ。従属節でならば、中世のカスティーリャ語にもある語順だし、現代ポルトガル語でも、ジョゼ・サラマーゴを読んでいて出くわした記憶もあるので、そういう観点から見れば興味深いが、普通の学習者にとってノイズになるのは間違いない。

マシャード・ジ・アシスの全長編小説が集められた電子書籍で読んでいるので、ためしに me não で検索すると、なるほど出てくる。従属節 (que me não, se me não など) や前置詞プラス不定詞の (para me não meter..., de me não fazer...) 例が多いが、『ドン・カズムッホ』以外の作品ならば Talvez me não compreendas... (Ressureição) とか Por que me não mandou chamar? (A mão e a luva) とか Já me não admira... (Helena) とかが見つかる。そこで、中世カスティーリャ語の状況を正確に把握していないことに気づく。まあ、そのうちチェックしよう。

本当は、マシャード・「ジ」・アシスとかドン・カズム「ッホ」とかの表記をネタにしようと思って書き始めたのだが、これもまたそのうち。

Estou lendo Dom Casmurro, de Machado de Assis. Ainda estou no capítulo vinte e algo, e vou lendo pouco a pouco. Os capítulos são curtos e facilitam a leitura. Disseram-me que a sua sintaxe contém elementos pouco recomendáveis para os alunos, como a ordem «me não...» (em vez de «não me...»), mas isso não é óbice para desfrutar este romance.

Acaba de publicar-se uma versão japonesa da obra, feita por Chika Takeda. Vou lê-la depois de terminar o original (quando será?).

(Corrigido un erro ortográfico: 2014/02/16)

2014年1月26日日曜日

Cafetaría

最近、用事で何度か湯島の辺りを歩くことになった。本郷から湯島にかけて、けっこう昭和の香り (と言っても僕の知っている昭和後期のことだが) がして、個人経営らしい喫茶店がモーニングセットを出したりしている。湯島天神のすぐ近くにある店に昼前に入ると、木の壁や椅子テーブルで、本格的なコーヒーを出す格好いい喫茶店の記憶がよみがえる。しかもかかっている音楽はジャズだ。ブレンド400円を飲んでみるが、きちんと淹れた真面目なコーヒーだ。もうドトールで充分だ、などと思っていた自分を叱り反省する。後から入って来た2人のオヤジがタバコを吸い始め、あぁあ、でもコーヒーとタバコというのはカッコつけのアイテムとして分ちがたく結びついていたのだよな、と思い直す。ところが、火をつけたように見えたのに煙りもにおいも漂ってこない。結局吸わなかったのか。それとも、ちょっと吸ってすぐに消したのか。以前はそんな吸い方をする人を結構見たものだが、だとしたら、最近多い、火のついたタバコを隣や後ろの席に向けて構え、見ず知らずの人と煙を共有したがる傾向とは一線を画した吸い方だ。まあ、これは過去を美化しすぎかも。

さて、ガリシア語の規範では cafetaría と cafetería の両方が認められているが、前者がおすすめの形だ: «A forma -aría, maioritaria no galego medieval, era o resultado fonético regular da correspondente latina -ARÍA. Por iso debe dárselle preferencia a esta solución (RAG 2012: §9.20, 66)». でも、実際には後者が多いようだ: «A solución -ería, documentada tamén no galego medieval, fíxose case xeral no galego moderno, polo que se admite así mesmo como normativa (idem: 67)».

ポルトガル語でも、基本的には -aria がおすすめのようだ (livraria, carpintaria)。しかし、この語に関しては、ブラジルでは cafeteria らしい。ポルトガルで出た大きな辞書には «cafetaria, cafeteria (Bras.) [...], [...]. s. f. (Do cast. cafeteria) (Academia das Ciências de Lisboa 2001) とある。ブラジルの大きな辞書、たとえば Aurélio (2009, 4.a) には cafeteria しか出ていない。これがカスティーリャ語からの借用語だとすれば、小さな辞書にはどちらも載っていないことも説明がつく。

O outro día entrei nunha cafetaría que me lembraba moito os tempos de Showa (que durou desde decembro de 1926 ata xaneiro de 1989, e só me refiro aos que coñezo, dos anos 60, 70 e 80). Pedín un café normal e tomeino cunha grata sorpresa. Si, era un café ben feito, algo que ultimamente non podes dar por suposto. Polo barrio de Yushima, aínda hai paisaxes showaescas, con cafetarías supostamente deste tipo, non de cadeas coma Starbucks ou similares.

En galego, a forma cafetaría é a preferida pola norma, aínda que se admite tamén cafetería. En portugués, o sufixo normativo parece ser -aria (livraria, por exemplo), polo que se espera a forma cafetaria. Úsase, sen embargo, cafeteria en Brasil: así se especifica no dicionario da Academia das Ciências de Lisboa. Tamén leo aí que cafetaria / cafeteria é un préstamo do castelán. Non ten nada de sorprendente, pero pregúntome: antes de importaren esta palabra, como chamaban os portugueses e brasileiros ao «estabelecimento onde se serve café»?

Academia das Ciências de Lisboa, 2001, Dicionário da língua portuguesa contemporânea, Verbo.
Ferreira, Aurélio Buharque de Holanda, 2009, Novo dicionário Aurélio da língua portuguesa, 4.a, Positivo.
Real Academia Galega, 2012, Normas ortográficas e morfolóxicas do idioma galego, 23.a, Galaxia.

2014年1月4日土曜日

Batalla de la lengua

La recomendación de hoy:
Valle, Juan del & Gabriel-Stheeman, Luis (eds.), 2002, The battle over Spanish between 1800 and 2000: language ideologies and hispanic intellectuals, Routledge (e-book edition 2004).

Cuando se habla del catalán, del euskera, del gallego, lo asocias, u oyes asociarlo, con el nacionalismo catalán, el vasco, el gallego. Cuando se habla del español, lo más probable es que eso no ocurra, como si este idioma no tuviera nada que ver con la política. Pero hay nacionalismo (lingüístico) español, y mucho. Solo que a los que aprenden y estudian el español no se les presenta de forma explícita. Este libro te hace recordar este hecho. Habrá puntos discutibles, pero, o más bien por eso mismo, te dará un punto de partida para reflexionar.

スペイン語の学習者にとって、この言語の「統一」や「発展」の背景にあるスペインナショナリズムは不可視とまでは言わないが非常に見えにくい。スペイン語学のプロでも、このことに気づいていないように見受けられることがある。カタルーニャやバスクやガリシアのナショナリズムを批判するのならば、スペインのナショナリズムも批判しなければ公平さを欠くことになるだろう。批判というのは「○○はダメだ」と言うことではなくて、とりあえずは○○が言ってることを鵜呑みにしないということだ。もちろん、これはこの本の言っていることにも当てはまる。