2013年12月31日火曜日

Galego-portunhol


O meu é galego-portunhol. Para mim o idioma estrangeiro por antonomásia é o espanhol. Falo-o e escrevo-o, espero, bastante aceitavelmente (se não, teria que deixar o trabalho atual). Não domino os outros dois, nem o galego nem o português. Quando tento falar em galego, estou traduzindo do espanhol ou diretamente meto palavras ou expressões espanholas (sem querer, claro). Quando quero falar em português, sai o meu galego impregnado de espanhol e apodera-se da minha fala.

Sei que é uma questão de prática. Por isso, para separar estes três componentes bem separados, propus usar mais galego e mais português. Assim que em 2014 este blogue terá mais páginas escritas nestas línguas (que, neste ano, foram praticamente inexistentes).

Outra questão é que variedade do português escolher, do Brasil ou de Portugal. Mas, de momento, não vou pensar nesse tema. O importante é começar. Como o ano que vem (já).

Disco de lousa

Os discos de lousa (discos de pizarra en castelán) teñen unha capacidade sorprendente para almacenar rexistrado o son profundo do cante. Cando se reproduce cun gramófono, é dicir, cunha máquina que non precisa de electricidade para funcionar, a voz sae moi natural, enérxica, con mil matices, mellor que cando a escoitas nun CD. Esta afirmación debe sorprender moita xente, pero é pura verdade.

Antonte (29 de decembro de 2013), reunímonos uns afeccionados na casa dunha amiga para escoitar discos de lousa: Lola Cabello, Carmen Amaya, Canalejas de Puerto Real, El Chaqueta, Juan Varea, Manolo Vargas, Paco Isidro, Manual Torre, Aurelio, Chacón... Foi un luxo. Impresionoume a enerxía de Aurelio, a arte de Chacón, a liberdade de El Chaqueta... Tamén a profunda beleza da guitarra de Ramón Montoya.

Se non coñeces o son de discos de lousa, non dubides en escoitalo cando se che presente a ocasión. Ao mellor a primeira vez non che parece tan bo, pero irás descubrindo este marabilloso mundo do son da primeira metade do século pasado.

SP盤レコードというのは20世紀前半主流だった媒体だが、今は針が物理的に接触して音を拾う形式のレコードを見たこともない人も多いだろうから、それがすばらしい音を出すと力説してもピンと来ないかもしれない。でもSPに取って代わったLPは、今でも一部では使われているし、新しい録音でもLPにしたりすることがある。CDでは出ていた録音が「初のLP化!」とか宣伝されたりしているのを見たこともある。これはCDよりもLPの方が音が良いと思う人たちがいて、それがマーケットとして成り立つということの表れだ。

20世紀前半のカンテを味わうためにはSPレコードを機械式の (つまり再生に電気を使わない) 蓄音機で聞くのが一番だ。CD復刻盤でもある程度良さは分かるが、録音と生演奏の違いぐらいの差がある。声の自然さは本当に印象的で、最近録音されたCDなんかよりも良いんじゃないかと思えるものも多い。

僕自身はSPも蓄音機も所有していないので、いつでも聞けるわけではない。一昨日、友人宅に何人かで集まって久しぶりにカンテのSPを聴いた。CD復刻盤で知っている演唱だと、むしろ驚きというか発見が多い。アウレリオの骨太な熱唱は心底素晴らしいし、チャコンの上手さには改めて脱帽するし、マノロ・バルガスの巧まざるといった調子の歌い口もこりゃ真似できないと思うし、マヌエル・トーレのカンパニジェーロも本気で歌ってるのが分かるし、最近「発見」したラモン・モントージャの凄さはやっぱり凄い。

N. B.: As dúas versións, galega e xaponesa, son textos diferentes, aínda sendo parcialmente coincidentes no contido.

2013年12月27日金曜日

Calcetín


年末締め切りの原稿が全然進まず、こんなものを書いている場合ではないのだが、書かなくても進まないことは同じなので、書く。

ある人から聞いた話。その人が良く知る日本人が、あるとき Quítese los calcetines. と言うべきところで Quítese los calzoncillos. と言ってしまった。もちろん大笑いで話は終わり、心配するような事態にはならなかったそうだが、それを聞いたスペイン語話者は、最初、その場の状況に合わせてなんとか合理的な解釈を見つけようとしたらしい。

Calcetines を calzoncillos と言ってしまう気持ち (というのも変だが)、僕はよく分かる。逆、つまり calzoncillos と言うべきときに calcetines と言ってしまうのより、よく分かる。自分自身、今でもつい calzoncillos と言ってしまいそうな気がする (calcetines と言ってしまいそうな気はあまりしない)。なぜだろうか。音だろうか。そんな気もする。実際 calzo- の方が calce- よりも発音し易いのではなかろうか。もうひとつ、もしかしてより大きな要因は、我々が認知する世界における卓越度ではないか。つまり calzoncillo の方が calcetín よりも目立つ。我々が関心を引かれる度合いが高い。我々の世界においてより重要である。てなことかもしれない。

あるいは、calzoncillos を calcetines と言い間違ってもたいして面白くないので、その逆ほど注意を引かないだけの話なのかもしれない。なので、実際にはどちらの方向の間違いも同じ頻度で起こっているのかもしれない。しかし、だとしたら、誤りの原因として卓越度を考えることはできないが、誤りの卓越度について語ることはできるだろう。

いずれにせよ、学習者としてはあまり気にしない方がよい。Calzoncillos と言わないように注意しなきゃなんて自分に言い聞かせていると、むしろそのように言ってしまったりするからね。

2013年12月26日木曜日

Xantar ao sol


O día 24 de decembro xantei fora, quero dicir ao sol, cuns colegas. Como estaba pechado o comedor onde adoitamos xantar, mercamos obentos nun conbini e sentamos nuns bancos que había ao lado da Ágora. Non estaría mal facelo de cando en vez.

Case inevitablemente, falamos do Nadal. Preguntáronme como pasaba o Nadal cando era neno, e contei que á miña casa non viña Papá Noel nin os Reis Magos. Os meus pais xustificaban o feito dicindo que non eramos cristiáns. Comprabamos, iso si, unha torta e comiámola na casa.

Non sei ata que punto os meus pais eran conscientes, pero creo que foi unha boa educación que recibín deles. Cadaquén é cadaquén, e non tes que preocuparte do que fan ou din os demais. Tamén me lembro de que, cando era neno, eu creía que a miña familia era pobre. Ou, así debían de dicir os meus pais. En realidade, levabamos unha vida modesta pero nunca nos faltaba nada esencial. O que facían os meus pais era aforrar e facer posible que os seus tres fillos, as miñas dúas irmás e mais eu, estudasen na universidade (un deles ata o máster). Nunca lles estarei dabondo agradecido.

Non, non lles dixen todo isto aos meus colegas. Só falei dos Reis Magos e da torta que comiamos. A conversación ao sol, tan agradable, tróuxome á memoria estas cousas que comentei. Non estaría mal facelo de cando en vez, non?

N. B.: Xantar, en galego, significa «comer ao mediodía», mentres que jantar, en portugués, «tomar uma das principais refeições diárias ao fim da tarde ou no início da noite».

2013年12月19日木曜日

Cañizares


カニサレス日本公演(2013年12月18日、新宿文化センター)。

素晴らしかった。音楽的な完成度の高さはCDでも十分に分かっていたが、生で聞いて印象的だったのは、音に力があること。これは、もちろん音が大きいという意味ではない。ひとつひとつの音が生きているというか、表現に満ちているというか。あっけにとられるほどの超絶技巧だが、その技巧も音楽的に意味のある使い方をしていて、全然鬱陶しくない。

まあ、こういうのには興味がないとか、フラメンコはこんなものではないとかいう人がいたとしても驚きはしない。それに対する僕の最初の答えは、良い音楽ならばどっちでも良いではないか、というもの。もうひとつの答えは、好き嫌いにかかわらず、カニサレスのやっていることは、おそらく現代のフラメンコの音楽的洗練のひとつの到達点だろうということ。

洗練と複雑化は異なる。今回は4人組の演奏だったが、ギターがカニサレス本人ともう1人、あとの2人は打楽器(カホン、カスタネット、パルマ)と踊り担当で、ある意味では最小の構成だ。余計な音を加えずに、完成度の高い音楽を作り上げた彼(ら)の仕事は素直に素晴らしいと思う。踊りも音楽の一部になっていて、靴音は内容上必要なところにしか入らない。それと、カンテを加えなかったのは見識だろう。あれだけ緊密に構成された中に、カンテの入る余地はない。少なくとも僕には考えにくい(ましてや、今時のふにゃふにゃボーカルが入ったりしたら興ざめもいいとこだ)。カンテが要らないぐらい音楽的に練り上げられたフラメンコを聞くことが、伝統的なカンテさえあれば幸せな者を複雑な心境にさせることは事実だが、良いものが聞けた満足の方が大きい。

知らない曲目もあったが、多くはアルバム Cuerdas del alma から。あとはファリャも幾つか入っていた。最新のCDからの曲のはずだが、カニサレス1人の多重録音とはやはり印象が異なる。それから Cuerdas の曲の中にさりげなくファリャのメロディを入れたりと、生ならではの楽しみも多かった。

2013年12月16日月曜日

Casualidad


Ayer fui a Iwaki, Fukushima, a asistir al funeral de un amigo, que llevaba 7 años y 7 meses luchando contra la leucemia. Yo no lloré en el funeral de mi propio padre pero ayer no pude contener lágrimas. ¿La edad? Quizás.

Para mí, la semana pasada fue una semana de malas noticias y hubo otra peor que la de la muerte de mi amigo: una noticia que vino de más cerca, pero no te la comento porque, para escribir lo que estoy escribiendo, ya tengo suficiente material.

Siempre he creído que la vida no tiene sentido. Esto no tiene nada que ver con el pesimismo. Simplemente creo que la vida es una serie de casualidades, buenas o malas, y que en ella no hay ningún plan o diseño preestablecido, divino o de cualquier otro tipo. Vivimos nuestra vida porque sí, y no porque nos hayan creado para que realicemos algo o que paguemos una deuda. Las buenas cosas que nos pasan no son premios por lo que hayamos hecho bien; y las malas rachas ni son castigos de nadie ni lecciones para nadie. Si no es así, no entiendo el mundo. No creo que haya ninguna razón por la que él tuviera que morir así, al igual que no sé por qué yo soy yo y no otra persona. Es así y nada más.

Pero los seres humanos somos incapaces de vivir sin sentido. Y yo, como buen ser humano, busco sin querer significado en el mundo, en la vida, en el recuerdo de mi amigo, en mí mismo. Es inevitable y no lo eludo. Tampoco pasa nada. De todas maneras, la muerte de mi amigo y la otra noticia que he dicho me han hecho pensar y ahora estoy lleno de sentido. Por lo pronto, voy a dedicar más tiempo a mi familia (y trabajar menos, en la medida de lo posible ;)

2013年11月27日水曜日

Don

CSIC (Consejo Superior de Investigaciones Científicas) には高等学術研究院という訳があるので、vicepresidente を副院長という風に紹介した。高等学術研究院はスペイン国立の研究機関で、スペイン最大、ヨーロッパ第3の規模を持つ。分野は人文社会自然科学をカバーする。そこの副院長ということは、つまり偉い人に会って来たわけだ。どのくらい偉かったのかというと、運転手さんに don José Ramón と呼ばれていたのだった。

僕みたいな生活をしていると、こういう don を聞く機会はめったにない。もしかしたら、自然な状況で聞いたのは初めてかもしれない。貴重な経験であった。でも、と言うか、だから、1年生向けの文法教科書のかなり前の方で、don は敬称として個人名につけ、定冠詞はつけない (señor が姓につき、定冠詞が要るのに対して) というのを載せているのだが、そんなに急いで導入することはないという気がしてきた。

2013年11月24日日曜日

Buen precio


出張中、スペイン在住の卒業生と話をしているときに、その人の口から「いい値段」という表現が飛び出した。僕が「それは buen precio の直訳だね」と言い、ああなるほど、ということになった。

スペイン語で buen precio と言えば買い手にとって良い値段、つまり安くてお得な値段のことだ。それに対して、最近の日本語で「いい値段」と言うと、高いという意味になるのが普通のような気がする。その人はお買い得の意味で「いい値段」という言い回しを使ったので、僕はスペイン語の直訳だねと言ったわけだ。

「いい値段」が「高い」になるのは、たいてい「いい値段する」のような形で使われるときという印象がある。他の組み合わせでは、安いという解釈が自然な場合もあるだろう。たとえば「いい値段で買った」はどうだろうか? 僕自身は「いい値段」が高いという意味で使われるのを聞くたびに、かすかな違和感を覚えるので、そんなに前からある使い方ではないのかもしれない。まさか buen precio という言い方を覚えてから僕の日本語感覚が変化したなんてことはないだろう。何はともあれ、ネイティブスピーカーの記憶なんてあてにならないから、本当に気になったら、ちゃんと調べないといけない。

Especialista


サラマンカで日西大学学長会議(2013/11/07-08)というのがあって、行って来た。もちろん僕は学長ではない。学長のお供、鞄持ちというやつだ。いや、学長の鞄を持ったりはしなかったので、念のため。

その機会を利用して、同窓会のマドリード支部の人たちと会ったりもしたし、他にもいくつか訪れたところがあって、結構忙しかったのだが、スペイン在住の卒業生にいろいろと世話になりながら滞りなく出張を終えることができた。

さて、訪問先のひとつCSICで印象に残ったことがある。学長とは旧知の副院長のオフィスに行ったのだが、彼はただの鞄持ちである僕についての情報を事前にチェックしていたのだった。僕の名前をさらっと発音するというわけにはいかなかったが、こちらの自己紹介を待たずに僕のことを especialista en flamenco と言ったのだった。

最近スペイン語で書いた論文と言えばフラメンコ関連のものなので、これは分かる。語学の論文もスペイン語で書かなきゃな、と思ったりしたのだが、この言い方がどこまで本気だったのか、つまり僕がフラメンコ研究だけをやっていると認識されたのかどうかは分からない。いずれにせよ、これから会う人の研究分野をチェックするというのは、見習いたいなと思う。

時々、スペイン語学の専門家であるはずの僕がなぜフラメンコをやるのか、あるいはどのようにしてそのようなことが可能になるのか、尋ねられることがある。僕としては、フラメンコも語学も同じだ、ということで答えになるだろうか。フラメンコ史は言語史と同じ方法論でできる。カンテはスペイン語で歌われるから、そのテクストの研究は形容詞不要のただの文献学だ。

たとえば、世の中には記述的なスペイン語学とスペイン語教育学の両方をやっている人たちがいる。この2つは一見似たような分野だという印象を与えるが、目標も方法論もかなり違う。僕は記述屋だけれど、現場の教師としてスペイン語教育について考えていることはあり、自分なりの工夫をしたりしている。そのレベルでなら、スペイン語教育に関する文章も書いてる。しかし、スペイン語教育の研究者ではない。自分にはその準備がない。それに対して、さっきも言ったが、フラメンコの研究については今まで僕が勉強してきた範囲で対応できる。と言うか、対応できる範囲のことをやっている。つまり、研究領域という意味では、僕にとってはフラメンコよりもスペイン語教育の方が遠いのだ。

2013年11月16日土曜日

David Palomar

ちょっと時間が経ってしまったが、David Palomar カンテ・コンサート(2013/10/26, 18:00, 於スタジオ・カスコーロ、東京フラメンコ倶楽部主催)。ギターはエンリケ坂井。

カディス出身のカンタオール、この土地のカンテを中心に歌ってくれて、楽しく充実したコンサートになった。アレグリアス、タンギージョ、ブレリア・デ・カディスといった「いかにも」なレパートリーでは、コンパスに乗りながらの自由さが印象的。ティリティタンとかトロトトンとか、それだけで、もう面白い。もちろん、地元の歌を面白く歌うだけのカンタオールではない。聞き慣れないところでは、ソレアの中にエル・チョサスのを入れたり(エル・チョサスだということは後から知ったのだが)、ファルーカの途中でミロンガみたいにちょっと長調になる(多分バルデラマ)のをやったり、いろいろな歌を知っている。カディスに戻ると、マラゲーニャ・デル・メジーソでも、その辺ではあまり聞かない歌詞を歌っていたし、プレゴン・デ・マカンデの前にロマンセをつけたりしていた。もちろん、知識だけではなくて、それをカンテとしてちゃんと聞かせるだけの力量を十分に備えたカンタオールだ。ギターがエンリケ坂井さんだったこともあって、久しぶりにストレスなしに聞き通せるリサイタルであった。

今回は東京フラメンコ倶楽部の趣味もあって、David Palomar がいかに伝統的なカンテをよくするカンタオールであるかを確認する内容になったが、彼のCD、特に2枚出しているうちの新しい方は、表面的にはバリバリ今風だったりする。よく聞けば歌い方にブレがなくて伝統に深く根ざしたカンテだということが分かるのだが、サウンド的に受け付けないという人も多いにちがいない。それ以前にジャケットのデザインだけで却下してしまう人も多いだろう。僕はより実験的な2枚目の方が好きだと本人に言ったら、あれはスペインでもなかなか評価してもらえなくて、遠く離れた東京に理解者がいるとはね、と言っていた。

僕は普段ギター以外の楽器が入ったカンテは聞かない。カンテの微妙なニュアンスを活かすには、歌い手ひとり伴奏者ひとりのフォーマットが最も適していると思っている。David のCDについては、いろいろな試みとは独立に聴けるカンテになっているというのが僕の感想で、実験の成果を評価しているわけではない。しかし、アルティスタがいろいろな試みをする(したくなる)のは自然なことだし、どんどんやればいいと思う。それが単なる試みで終わるか、新たな伝統の一部となるか、時間が経てば分かることだ。

もうひとつ David が言っていたのは、歌詞の社会的な内容だ。これも、あまり評価されない原因らしい。僕も社会的なフラメンコに特に興味があるわけではないから、評価しない人の気持ちは、まあ、分かる。政治的な立場を異にしていて歌詞の中身に共感できない人もいるのだろう。しかし、アルティスタが自分の芸術的良心に従って表現したいことを表現するのならば、それを止める理由もない。もちろん、その歌詞がフラメンコの伝統の一部となる可能性はゼロではない。

2013年10月20日日曜日

Mis amigos


気にはなるのだがちゃんと調べていない、ということはたくさんある。たとえば学生の作文を見ていて

Fui a dokosoko con mi amigo.

なんてのに出くわすと、自動的に手が動いて con un amigo mío に直すわけだが、

Fui a dokosoko con mis amigos.

を見ると手が止まってしまう。前の例のように con unos amigos míos に直してもかまわないのだが、そのままでも良いように思えるのだ。

で、思い出しついでにスペイン人の同僚に確認したら、やはり複数形なら直さなくてOKだという。

補足すると、最初の例はスペイン語としておかしいわけではない。しかし mi amigo が既に特定されているか、特別な友だちだと理解できる場合を除けば、その友だちってだれのこと? という反応が返ってくるだろう。つまり、文脈なしにいきなり言ったらだめよ、ということだ。聞き手が特定できていない人に言及するためには con un amigo mío にしないといけない。

ところが、複数形の場合は、その友だちが誰と誰と誰というふうに分かっていなくても良い。つまり con unos amigos míos と同じような感じで使えるのだ。不思議でしょう?

状況は把握できた。しかし、なぜそうなのかは分からない (僕が、ということね)。所有詞の問題なのか、より一般的な単数・複数の問題なのか、それとも別の要因があるのか。全部宿題である (やるかどうかは分からないが)。

2013年9月6日金曜日

Agujetas


Manuel de los Santos Pastor アグヘータだ。初めて生で彼のカンテを聞いた (2013年8月31日、北沢タウンホール)。

まだ聞いたことがないのなら1度は聞く価値があるというアドバイスをもらって、とりあえず行ってみた。というぐらいなので、それほど期待度は高くなかったのだが、行って良かった。感動はしなかったが、本当に気が入って歌ったならすごいだろうことは想像できた。良いカンテが聞けたと思う。

ある程度予想できてはいたが、声は録音で聞くよりも柔らかい (マイクなしで聞いたらもっと柔らかいはずだ)。それに、歌にある種の格調がある。具体的にどこが、と言うのは難しい。芸の丈という表現を使う人もいるが、まあ、そんなものだろう。マルティネーテ・トナー、シギリージャの重みやソレアの自由は、やはり得難い。でも、これらはとりあえず想定内のこと。あまり想定していなかったこととしては、夫人の踊りにつけて歌ったアレグリアス (ギターなし) が結構面白かった。

2013年8月4日日曜日

Inmaculada Michinina

という人が、というか、この人が喋った動画が話題になっている (検索すればいろんなサイトで見ることが出来るので、どうぞ)。中身についてのコメントはしない。僕がこれを取り上げるのは、例によって言語的な興味からだ。

(No voy a comentar el contenido de la intervención de Inmaculada Michinina; solo hablo de algunos aspectos lingüísticos observables en ella: el uso de vosotros/ustedes con sus correspondientes formas verbales y pronominales; y el uso de "habemos", rasgos dialectales vivos que no están recogidos en la transcripción que hace Huffington Post.)

4分に満たない動画だが、なかなか聞き取るのに骨が折れる。パブリックな場での喋りではあるが、アンダルシア的要素満載なのだ。全文書き取ろうと思って作業を始めたが、まだ分からないところがいくつか残っている。とは言え、この記事を書くために十分なだけのトランスクリプションはできたので、ひとまず報告。なお、Huffington Post に一部引用があり、それには随分助けられた。

教科書によれば、アンダルシア西部では vosotros と ustedes の区別が無くなり ustedes が使われる («En la Andalucía occidental ha desaparecido la oposición entre el pronombre personal de confianza vosotros, vosotras y el de respeto ustedes, que es el único empleado para la segunda persona de plural (Lapesa, Historia de la lengua española: §122.5)»)。しかも、民衆レベルでは動詞の形は vosotros のものが使われる («... ustedes lleva formas verbales de tercera persona sólo en el uso culto o distinguido (ustedes van, ustedes se sientan); en el habla popular se une a formas de segunda persona (ustedes vais, ustedes os sentáis), pero en el perfecto simple son generales ustedes fueron, ustedes se vinieron (ibid.)»)。再帰代名詞は se になる («La forma pronominal átona os es sustituida por se en el andaluz popular occidental (ibid.)»)。

さて、Inmaculada のビデオはこう始まる: «Gracias por mostrarse en cada pleno cómo sois». この se は Lapesa の記述に沿って考えることが出来るだろう。

少し先では: «Cuando votamos depositamos nuestra confianza en vosotros, que somos familias en paro, eh, que a ver si se enteráis» と言っているように聞こえる。代名詞 vosotros が使われていることに注意。最後の «a ver si se enteráis» は «os enteráis» の可能性もあるが、僕には o が聞こえないことと、他の場所で «os + 母音» の -s が気音化 (h になる) していることから、se だと判断した。

もう少し先では: «nosotros, los que os hemos dado ese puesto de trabajo, ese por el que ustedes cobráis y nosotros cobramos una puta mierda» のように聞こえるところがある。ここでは «ustedes cobráis» がはっきりと聞こえる。これに «Ustedes, ustedes no lo valoráis, no lo aprovecháis, para, ¿para quién?, ¿para quién trabajáis, coño?, pa nosotros, si ustedes trabajáis para el pueblo y no se habéis enterado, estáis subidos en un pedestal, en el que no bajáis» が続く。ここでも «ustedes no lo valoráis» と «ustedes trabajáis» が確認できる。«No se habéis enterado» についは、上で述べたように «os habéis» の可能性は否定できないが、多分 se だと思う。

面白いのは、このあたりを引用した Huffington Post は «ustedes cobráis» を «vosotros cobráis» に、«si ustedes trabajáis» を «si trabajáis» に、そして当然 «os habéis enterado» にしていることだ。つまり、方言的・民衆的言い方を標準語の形式に直しているのだ。こういう言語感覚を知ることは、学習者にとっても有益だ。もちろん、社会言語学的なテーマでもある。

ところが、後の方では «Vénganse, por favor, conózcannos, conozcan lo que hacemos, conozcan cuál es mi trabajo» と言っているようだ。ここでは動詞の形が3人称複数形になっている。これは命令形ということが影響しているのかどうか、よく分からない。

最初は代名詞も動詞も vosotros で、それから代名詞が ustedes で動詞が vosotros になり、それから動詞も ustedes になるという変化が観察されるわけだが、そのメカニズムについては慎重に分析する必要がある。

さて、ひとつ、聞き取りに苦労した、というか聞き取れなかったところを紹介しよう。一か所 «lo cabemos» と聞こえたところがあったのだが、それでは意味が通らない。後でゆっくり考えようと思って取り敢えず放っておいたのだが、ふと Huffington Post を見ると «Los que estamos allí somos personas» というパッセージがある。そんなこと言ってたかなと、首をひねっ、あぁっ «los que habemos» だ!

Huffington Post は標準語の言い方で «estamos» に直していたのだが、«habemos» は haber の1人称複数形しかも非標準的な形。これを「我々がいる」の意味で使っているのだ。アカデミアの文法は «La variante regular habemos, que no ha pasado a los registros formales, se encuentra en el habla coloquial de muchos países hispanohablantes, a veces, incluso, entre personas cultas (NGRAE: §4.13d)» と言って、多くの国で使われるという以上の情報を提供していないが、そこにはスペインも含まれる。僕は、もちろんこの形がアンダルシアで使われるということは知っていたが、「ロカベモ」からそこに到達しなかった。まだまだ修行が足りないと言わざるを得ない。もっとアンダルシア方言の聞き取り練習をしなければ。

2013年7月19日金曜日

Blancanieves


僕の周辺でこの話題がにわかに盛り上がっているので、僕も砂一粒。

Blancanieves がスペイン語であり、スペイン語のカナ表記としては「ブランカニエベス」が一般に受け入れられたものであり、これを「ブランカニーヴス」と書くのはおかしい(この「おかしい」には、笑えるという意味とそうすべきではないという意味の両方が含まれる)。抗議すべきだという声には僕も共感する。

表記の問題なのではなくて、邦題の創出なのだとしても、結果は変わらない。「ブランカニーヴス」という日本語として無意味な音連続が、この映画の何を表し得ているのか、考えてみるとよい(まあ、考えるまでもないか)。

それと同時に、そうでないものを英語っぽく表記したりすることは今の世の中もうダサダサである、と思い込んでいた僕は、それが幻想であることに気づかされた。まったく有り難い。「ニエベス」はダサくて「ニーヴス」は売れる、ということなのだろう。英語ではない言語を専門にしたりしていると、こういうパースペクティヴを失ってしまうわけだ。

マジな話、「ブランカニーヴス」は、単にスペイン語という特定の言語に対してではなく、ことばに対する respeto を欠いた、傲慢な態度の産物である(僕は respeto の日本語訳にはいつも困っていて、ここでもそのまま使わせてもらう)。日々、スペイン語について知らなかったことに気づいては「ああ、もっと謙虚にならなければ」と思うことを繰り返している身としては、他山の石としたい。

2013年7月13日土曜日

La calor

非標準形の続き。

Me recuerdo yo aquella calor tan mala y ese vino que en’entonces no se ponía fresquito como ahora, lo ponían al natural, asín salía de la bota (José María Castaño et al, 2010, Cien años de Tío Gregorio El Borrico. 1910-2010, Ediciones Los Caminos del Cante, pp. 59–60).

複数形もある。

En el verano, se recogía la semilla y hacían las calores más malas que en el infierno mismo (idem: p. 94).

Calor を女性で使うこと以外にもいろいろと面白いのだが、それは措いといて、DRAE は «U. t. c. f. (s. v. calor)» とか言って男性でも女性でも構わないような印象を与えるが、DPD は «Su uso en femenino, normal en el español medieval y clásico, se considera hoy vulgar y debe evitarse (s. v. calor)» としていて、非推奨形であることが明確になっている。

僕の経験では calor を女性名詞としての使用は、アンダルシアではしっかり生きていて、こないだも (東京でだが) あるアンダルシア人が «mucha calor» を複数回言っているのを聞いて内心ニヤニヤしていたのだった。ただし、女性名詞としての使用が特にアンダルシアで強く生き残っているということなのか、たまたまアンダルシアで「暑さ」を話題にすることが多くて記憶に残っているのか、よく分からない。

そういえば color も標準的には男性だが、やっぱり «U. t. c. f. (DRAE: s. v. color)» だ。

A Gregorio le cambió la coló de la cara y se le puso como de cera virgen (José María Castaño et al, 2010, p. 62).

これも DPD 的には «Su uso en femenino, normal en el español medieval y clásico, es ajeno hoy a la norma culta y debe evitarse (s. v. color)».

標準的なスペイン語では calor, color, dolor, valor は男性名詞、ラテン語では calor, color, dolor, valor は男性だった。イタリア語でも calore, colore, dolore, valore は男性名詞。ところがフランス語では chaleur, couleur, douleur, valeur はみんな女性名詞。ポルトガル語では calor と valor は男性名詞だが cor, dor は女性名詞。カタルーニャ語は、DIEC2によれば calor は女性、color, dolor, valor は男性または女性 (m. o f.) だが、この o のニュアンスはカタルーニャ語に詳しくないので分からない。ガリシア語では calor, cor (color), dor (dolor) は女性名詞で valor は男性名詞。アストゥリアス語は calor が女性 (la)、color が男性または女性 (el/la)、dolor と valor が男性 (el)。言語によって解決が異なるので、学習者としてはかなり面倒だ。

あと、ガリシア語の calor は女性となっているが、去年サンティアゴで moito calor を聞いた記憶がある (moito は muito だったかもしれない)。どの言語にも非標準形というものはある。

いずれにせよ、男性女性に気をとられているうちに golpe de calor にやられたりしないように注意しなければ。

2013年7月4日木曜日

Recordarse

「思い出す」にあたるスペイン語は acordarse de ... か recordar ... という風に教えているが、recordarse ... も存在する。たとえばこんな具合。

Aquí en Santiago donde se reunían más era en el Sindicato del Muro o en otro que había en la calle La Sangre, que no me recuerdo ahora el nombre, pero sí me recuerdo que lo llevaba Antonia La Colorá, que era la dueña (José María Castaño et al, 2010, Cien años de Tío Gregorio El Borrico. 1910-2010, Ediciones Los Caminos del Cante, p. 75).

Recordarse de ... もある。

Me recuerdo yo de mi tío Juan José Rincones, que también fue manijero (idem, p. 78).

アカデミアは、この recordarse をお勧めしていない: «En el habla culta formal se desaconseja el uso de recordar en forma pronominal, ya sea como transitivo (recordarse [algo]): [...]; ya sea como intransitivo seguido de un complemento con de (recordarse de algo): [...]. Estos usos, normales en el español medieval y clásico, han quedado relegados al habla coloquial o popular de algunas zonas, tanto de España como de América (en algunos países como Venezuela o Chile, son usos frecuentes en el habla informal). (DPD: s. v. recordar)».

上に挙げた例は El Borrico のことを良く知るヒターノが語っているという設定の文章で、非標準的な言い方がたくさん出て来て面白い (わざとなのか誤植なのか分からない例も多いのだが)。書き手は分かって書いているのだろう。

この recordarse を含む文章で、世界で一番有名なのは Che Guevara が Fidel Castro に宛てた別れの手紙だろうか: «Me recuerdo en esta hora de muchas cosas, de cuando te conocí en casa de María Antonia, de cuando me propusiste venir, de toda la tensión de los preparativos. (Carta de despedida del Che a Fidel)».

いや、この文章が有名だという意味で言ったので、ここの recordarse が有名だという意味ではないよ。

2013年6月25日火曜日

Cantar sin música


スペイン人の同僚たちと話をしていて、学生がアカペラのサークルで歌っているということが話題に上った。何を歌うのか、と尋ねる人がいたので、僕はアカペラというのはジャンル (un género) であると言った。で、当然、でもアカペラというのは cantar sin música のことでしょ、という反応が返って来た。まあ、ジャンルというのは大袈裟だけど、今の日本で学生がアカペラをやっていると聞いて、たとえばグレゴリオ聖歌を思い浮かべる人はいないのではないだろうか。つまり、ここでの「アカペラ」は伴奏なしで歌うことという一般的な意味で使っているのではない。僕は「アカペラ」のジャンルとしての範囲は知らないので、具体的なことは分からないが、てなことを答えたのだった。あとで検索してみたら「アカペラを歌う」という言い方さえ存在する。

さて cantar sin música は、文脈から明らかなように伴奏なしで歌うこと、つまり (一般的な意味での) アカペラで歌うことだ。この música の使い方がなんともカッコいいではないか。こういう言い方は、僕は逆立ちしても思いつかない。せっかく覚えたので、生きてるうちに1度使ってみたい。

スペイン語でもアカペラという言い方はする。DRAEの次の版に a capela が収録されるようだ。これで形容詞的にも副詞的にも使えるという。載っている例文は Cantaron a capela で、副詞的な使い方の例。フラメンコでは cantar a palo seco と言ったりする。

2013年6月21日金曜日

Casar

ある本を読んでいたら、自動詞の casar が立て続けに出て来た。ひとつだけ紹介すると:

Gregorio Manuel Fernández Vargas Carrasco Monge, apodado como “Tío Borrico” (1910) quien casa con Manuela Flores Ortiz (José María Castaño et al, Cien años de Tío Gregorio El Borrico 1910–2010, 2010: 35).

普通は casarse だし、僕らも教室では自動詞の使い方など存在しないような顔をして casar con を使う学習者がいたら黙ってバツにするわけだが、アカデミアの扱いがどうなっているのかと思って DRAE を引いてみた。すると «1. intr. Contraer matrimonio. U. m. c. prnl.» である。つまり、自動詞で「結婚する」というのが1番最初の語義なのだ。もちろん usado más como pronominal と付け加えてあるので casarse の方が多いことは認めているのだが、casar が特殊な (たとえば古いとか方言的とか) というわけではないということになる。DPD も «Con el sentido de ‘unirse en matrimonio a otra persona’, es intransitivo, normalmente pronominal, aunque también se usa en forma no pronominal» で、単純に頻度の違いであるような書き方だ。

まあ、授業では知らん顔を続けることにするが、自動詞の casar については僕自身が思い違いをしていたことを知った。というのは、僕は他動詞の casar 「結婚させる」がもとにあって、それが再帰動詞 casarse 「結婚する」を生み、そこから se の落ちた casar 「結婚する」が出たと思っていたのだが、どうやら自動詞の casar の方が先にあったようなのだ。これは Corominas と Pascual の DCECH の説明:

En el sentido de ’contraer matrimonio’, observan R. Moglia y A. Alonso, RFH IV, 78, no hay por qué creer que casarse precedió a casar; en efecto, esta última construcción es con mucho la más frecuente hasta el S. XV. Probablemente es la originaria, aunque la aparición simultánea de la construcción causativa casar ’unir en matrimonio (a otro)’ [en el Cid, junto a la intransitiva], causó pronto la aparición de casarse.

でも casarse は他動詞の casar から出たと考えて良さそうなので、授業中の説明 (casarse は自動詞化) を変える必要はないことになる。

2013年6月14日金曜日

UE


2人だけだが、CCOO の読み方をスペイン人に聞いてみた。Comisiones obreras だと言う。Salamanca の辞書も見せたが、ce-ce-o-o も co-co も言わないという。Etecé も一蹴された。というわけで、この件に関しては取りあえず無難な線が確認された。

ついでに思い出して UE についても聞いてみたら Unión Europea だという答え。つまり u-e とは読まないとのこと。僕は u-e を聞いたことがないと言えるほどの確信はないが、Unión Europea が普通だと思っていたので、これも一安心。さらに面白かったのは、u-e は発音できるけれどもスペイン語 (の単語) らしくないというコメントだ。言われてみれば、母音だけでできているスペイン語の単語は、単音節の接続詞 y (e), o (u) や前置詞 a と haber の活用形 he, ha を除くとほとんど存在しないのではないだろうか。あ ahí があった。それから oí (oír) と hui (huir) と hay (haber) もそうか。これらは2番目の要素が i であるという共通点がある (二重母音を形成するか、i が核母音となるかどうかは異なる)。U-E はこのパタンに当てはまらない。ちなみに IU も同様で、Izquierda Unida と読むのが落ち着くという。こんなところに、僕が思いもつかなかったスペイン語らしさの感覚があるということを知って幸せな気分になったのだった。

2013年6月11日火曜日

Ce-ce-o-o

CCOO の読み方は Comisiones Obreras が無難だと書いたが、あとで Salamanca の辞書を見たら «pronunciamos ‘ce-ce-o-o’ o ‘co-co’ (s. v. CCOO)» と書いてあるのに気づいた。論文なら、必須文献を見なかった廉で不採用になるところだ。

この辞書は他にも OMS の oms や PSOE の pesoesoe を載せたりで、学習者には有り難い。しかも CCOO で co-co と言うのが僕だけじゃないみたいで安心した。問題の ce-ce-o-o については、辞書に採用されるぐらいの発音であるということも分かった。しかし、この辞書が出た後に起きた ce ce o o 事件 (2003年) のことを考えれば、我々としては comisiones obreras にしとくのが無難だろうとは思う。けっこう発音しにくいのだが。

Juan Gutiérrez Cuadrado (dir.), 1996, Diccionario Salamanca de la lengua española, Santillana.

2013年6月8日土曜日

etc.

ひょんなことから iPhone の西和辞典 (Español Diccionario para iPhone 1.3) で etc. の音声を聞いて驚いた: e te ce と発音しているのだ。もちろん Electronic Toll Collection System ではなくて etcétera のこと。僕自身はそんな発音を聞いた覚えがなく、etc. と書いて etcétera と読むのだと信じているから、何やってんのと思ったのだった。ちなみに、辞書のテクストには発音表記はなく、etcétera への送りがある。それから、幾つか略語の発音を聞いて楽しんだのだが、CCOO (Comisiones Obreras) が [θe.θe.o.ó/se.se.-] になっているなど、どうも僕の感覚とずれるものがあるので、一応調べてみた。

その結果分かったことは、etc. には e te ce という発音が存在するということ: «Tradicionalmente, etcétera en su uso propio para cerrar una enumeración se ha escrito abreviado como etc. Tan extendida está la abrevitura (sic) frente a la forma plena, que a menudo se deletrea a modo de sigla, no solo en la lengua oral, sino incluso en la escrita, como etecé (Wikilengua: etcétera)».

検索してみると、確かに例が見つかる: «En términos prácticos, cualquier empresa, cooperativa, asociación civil, ONG, agrupación política, etecé etecé debe tener una identidad definida y unas metas claras, basadas en un origen y un esquema de desarrollo sólidos (BLOG DE LA COOPERATIVA C10)».

CCOO はどうか。これは Comisiones Obreras と読むという証言がほとんどだが、興味深い記述がみつかった。アスナール政権時代、スペイン国営テレビのニュースキャスターだった Alfredo Urdaci が ce ce o o と言った事件がある (WikiPedia: Alfredo Urdaci)。Wiki によれば、この発音は  «no es la práctica habitual en televisión y radio» で、ここから Urdaci の何らかの意図が感じられると同時に、ce ce o o がメディア以外では存在する可能性が予想できる。また、スペインの労働者団体の名前が他の国では知られている保証はないから、スペイン人以外のネイティブが ce ce o o と読んだとしても不思議ではない。つまり、スペインでは Comisiones Obreras と読むのが普通だが、スペイン語圏全体では状況が違うという可能性はある。

ただ、これで勉強になりましたで終わりにするのはくやしいので、アカデミアの正書法をのぞいてみる。アカデミアによれば、略語には大きく分けて2つのカテゴリーがある。ひとつは abreviatura: «Una abreviatura es la representación gráfica reducida de una palabra o grupo de palabras, obtenida por eliminación de algunas de las letras o sílabas de su escritura completa (p. 568)» で、何らかの形で完全形より文字が減っているもの。もうひとつは sigla: «Se llama sigla tanto al signo lingüístico formado con las letras iniciales de cada uno de los términos que integran una expresión compleja como a cada una de esas letras iniciales (p. 577)» で、頭文字を連ねたもの。

そして、前者は «su lectura corresponde a la realización de la forma plena de la palabra abreviada (p. 570)» (ただし例外はある)。後者は2種類に分かれ、スペイン語として発音が難しいものは文字の連続として読み (DNI: de ene i)、そのまま単語として読めるものはそう読む (FIFA)。この最後のグループを acrónimo と呼ぶ。また、混合型もある (PSOE: pe soe)。

さて etc. は etcétera の略だから abreviatura であり、その読み方は元の形をそのまま、つまり etcétera ということになる。ざっと見た限りでは例外としての言及はないので e te ce という読み方は非推奨だと見なされる。また etecé という単語もアカデミアの辞書には登録されていないので、学習者に進んで教える必要もない。

CCOO はどうか。これは一見 sigla のように思えるが、複数形の作り方という観点からは、アカデミア的には abreviatura に分類されるはずだ。まず sigla の複数については、たとえば ONG (o ene ge) の複数は発音上 o-ene-gés のように -s がつくとしても、書くときには何も加えないというのがアカデミアの推奨するやり方。つまり ONGS でも ONGs でも ONG’s でもなく varias ONG のように書け、ということだ。仮に、これに従って comisiones obreras の sigla を作るとしたら CO ということになる。一方 «En las abreviaturas obtenidas por truncamiento extremo, el plural se expresa duplicando la letra conservada: ff. por folios, vv. por versos, ss. por siguientes, FF. AA. por Fuerzas Armadas (p. 573)» のように、abreviatura の複数形には文字を重ねるというやり方が紹介されている。したがって CCOO は abreviatura ということになり、読み方も Comisiones Obreras という完全形が推奨されていると考えられる。ただし、ざっと見た限りでは CCOO への言及はないので、あくまでそう考えられるということだ。

あと、abreviatura は、アカデミアに従うならば省略を存在を示すピリオドが必要で、複数の単語はひとまとめにしないのが基本。たとえば EE. UU. (Estados Unidos) のように、ピリオドとスペースを入れて書くのが推奨形だ。しかし実際にはピリオドありなし、スペースありなし、いろいろな書き方が存在する。CCOO も、アカデミア的には CC. OO. になるはずだが、当事者は CCOO とピリオドなしの続け書きだ (CCOO のページ)。世の中規範通りには行かない。と言うか、だから規範がある。

そこで辞書に戻る。辞書の編集方針に関わる問題だから、本来はそれを確認すべきなのだろうが、etc. に e te ce だけ、CCOO に ce ce o o だけしか発音を示さない意味はないだろう。無難ということでは etcétera と Comisiones Obreras だけで良い。他の発音を示すことは、編集方針次第だが、役立つ記述になるだろう。OMS に [óms] と o eme ese があったり PSOE に pe soe と soe があったりするのも採り入れて行けば良い (アカデミアの正書法にも載っているくらいだから、こっちの方が優先度は高いだろう)。

ところで、僕は CCOO を見るとまず頭の中で coco と読んでしまう。別に anagrama が趣味なわけではない。

RAE; ASALE, 2010, Ortografía de la lengua española, Espasa.

2013年6月1日土曜日

Sé absurdo, pero con sentido...


スペイン人同僚たちと一緒にこういう遊びをやった。名詞が一つ与えられたら、それに形容詞をつけて absurda なフレーズを作る。たとえば un desayuno に「合う」形容詞を考える。僕が考えたもので及第点をもらったのは un desayuno perpendicular だが、解釈できるようなものになってはいけないので、かなり難しい。もちろん、大部分の名詞は perpendicular をつければOKになってしまうが、遊びでやっているのだから、それで通すわけにはいかない。できるだけ意外で面白いのを探す必要がある。もうひとつ un clima polisémico というのを考えてOKが出たが、他の人が考えた un clima ergativo の方が面白い。

Absurdo はDRAEによれば «Contrario y opuesto a la razón; que no tiene sentido» だが、理屈に合わない、筋が通らないという意味で「意味なし」なのであって、言語学的に意味 (significado) がないということではない。「不条理な」と訳すと俄然カッコ良くなるが、言っていることは同じだ。たとえば perpendicular は «Dicho de una línea o de un plano: Que forma ángulo recto con otra línea o con otro plano» で、日本語では「直交する」だろうか。定義的に desayuno は直交しない。と言うか直交するしないを語ることができない。したがって desayuno perpendicular は指示対象を持たない。そういう組み合わせを考えるのがこの遊びなわけだ。

とは言え、人は意味なく生きることができない動物なので、desayuno perpendicular が持つ意味 (significado) から何とか意味 (sentido) を引き出そうとする。比喩的な解釈と言われるものはその例だ (理論的には、現実世界に対応物がある字義通りの意味から比喩的意味が派生するというのとは違うモデルを考える人も当然いるが、今はその議論には入らない)。詩的表現と言われているものも、これに当てはまる場合が多いだろう。なので、この遊びではあまり比喩的解釈を許さないような形容詞を探すのが手っ取り早いということになる。Perpendicular, polisémico, ergativo のような専門用語は、この部類に入る。

しかし、意味はよっぽど強固に我々の存在を規定しているらしく、どんなに「意味なし」な状況でも想像し言語化することが出来てしまう。本当は日本語で考えてはいけないのだが、たとえば、ある外食チェーンが朝食のメニューとして「直交セット」を売り出す。中身については質問しないでほしい。とにかく直交するのだ。「期間限定」とかつけられると、やはり頼みたくなるので直交セットを注文する。すると「右90度になさいますか、左90度になさいますか」と聞かれるので、「ええっと、じゃ左」にしたりする。好評を博したこのメニューはレギュラー化し、ライバルチェーンは「鉛直バリューモーニングセット」で対抗する。こちらでは縦90度か横90度のどちらかを選ぶことになる。そのうち「朝得270度セット」を出す店が現れるころから原義に対する意識が薄れてきて、ランチタイムの「Q汁どランチ」とか、「直度調整可能 (10度単位)」をうたう店とかが見られるようになる。さらに居酒屋の直放題が広まるころには、「チョクホウのチョクって何ですか?」というような質問とそれに対する答えがネット上を飛び交い、いくつかの語源説が並存することになる。そして「伝統の味『矗香』を守って90年」とか «Chokk and Antarctic Nouvelle Cuisine» みたいな看板を掲げる店があちこちに出没する (つまり出来ては潰れる) ころから能格料理の隆盛に押されて飲食店のメニューから消えてゆき、結局辞書に掲載されることもなく忘れ去られる。

産出された表現は人に意味を強いる。その意味では意味なしも意味の一種だ。

... del humor.

2013年5月5日日曜日

Auténtico


友人が絶賛していたのでエマニュエル・クリヴィヌのベートーベン交響曲全集 (Emmanuel Krivine, La Chambre Philharmonique: Beethoven, complete symphonies) を手に入れた。1番から聞き始めて6番まで聞いたが、なかなか快調。僕は最近ティーレマン&ウィーン・フィルのが気に入ったりしているので、いわゆるピリオド楽器によるこの演奏を聞くのに頭の切り替えが必要だろうと思っていたが、杞憂だった。

ブックレットにあるクリヴィヌ自身の言葉: «Nous sommes tous prêts, et moi le premier, à considérer qu’une interprétation sur instruments modernes peut être aussi proche de l’esprit de œuvres qu’une autre, s’autoproclamant historique. En fait, notre intégrale Beethoven ne se veut pas une interprétation authentique mais une authentique interprétation» が面白い。ピリオド楽器を使うこと自体は、作品の精神に近づくことを保証するわけではない(モダン楽器でも近づける)。彼らが目指すのは interprétation authentique ではなくて authentique interprétation なのだ。僕には「(歴史的真正性に基づく)正しい解釈ということではなく、解釈と呼ぶに値する解釈」ぐらいに思えるが、interprétation は「解釈」だけでなく「演奏」もあるから、訳を作るのならもうひとひねり必要だろう。

ここで僕が思ったのは、フランス語もスペイン語と同じように形容詞の位置による言葉遊びができるのだな、ということ。このフレーズのスペイン語訳がネット上で見つかったが、«De hecho, nuestra integral Beethoven no aspira a ser una interpretación auténtica sino una auténtica interpretación» で、そのままだ。一方、同じブックレットの中にある英語訳は «In fact, our complete Beethoven recording does not aspire to be an ‘authentic interpretation’ but an ‘authentic interpretation’» となっている。引用符で括って、イタリックで違いを出そうとしているわけだが、僕の英語力では、これで上手く訳せているのかどうか判断できない。

なにはともあれ、ピリオドにせよモダンにせよ、それぞれのやり方で面白い演奏があり、それを楽しめるというのは幸せなことだ。ベートーベンの同時代にはなかったオプションではある。

2013年4月27日土曜日

Los muertos también pueden morir.



スペイン国営放送 (RTVE) のサイトでテレビのニュースを見ていたら、アナウンサーが «al menos 11 muertos han muerto» と言った。もちろんすぐに «11 personas» と言い直したのだが、こういう例に遭遇すると、やはりほっとする。ネイティブスピーカーとは言い間違いをする存在なのだ。だから、我々非ネイティブも、気楽に間違えながら喋れば良い。と言っても、なかなか気持ちが切り替わらないのが実情だが。

でも、なぜ «11 muertos han muerto» は変なのだろうか。日本語でも「死人が11人死んだ」は変だから (変だよね)、あまり深く考えたことはないが、これは話者の間で人は1度死んだらさらに死ぬことはない (1度生き返ればまた死ぬことはできるが、それとは意味が異なる) という了解があるからだろうか。意味論的には [-muerto (+vivo)] から [+muerto (-vivo)] への変化で、状態はこの2つしか考えられない。死者が死んで [++muerto] とかになったりはしない。1度休講にした授業をさらに休講にすることはできない (やっぱり授業やりますと言ってからまた休講にすることはできるが、それとは意味が異なる) のと似た話ということだろうか。

2013年4月20日土曜日

Podría haber + pp.


ボストンの爆弾テロの容疑者が拘束されたという記事を読んでいて、こんなパッセージが目にとまった。

Podría haberse dado a la fuga en un coche verde de la marca Honda con matrícula de Massachussettes 16GC7, se informaba. O estar agazapado en cualquier rincon (sic) de Watertown, como resultó suceder  (Elpais.com: 2013/04/20).

Poder の過去未来形 (podría*) と不定詞の完了形 (haber + 過去分詞) の組み合わせは「することが出来たのにしなかった (過去の非実現)」を表すと教えているが、この例はそうではない。実際にはそうじゃなかったということは確かだが、ここでは容疑者がすでに車に乗って逃げてしまったのかも知れないし、まだ町のどこかに隠れているのかもしれないという過去のある時点 (se informaba) での可能性あるいは推量が述べられているだけなのだ。

過去未来形の用法には、大きく分けて2つの類型がある。ひとつは過去を基準点にしたもの、もうひとつは現在を基準にしたもの (正確には、基準点として現在/過去の対立がないもの)。前者は過去から見た未来 (Rojo/Veiga の indicativo-0) と過去の不確実 (indicativo-1) に分かれる。後者は非現実や婉曲を表す (indicativo-2)。«Podría haber + pp.» が過去の非実現を表すのは、非現実の用法 (indicativo-2) の場合で、基準は現在にある。現在から見ているから、結局しなかったということが言えるわけだ。

それに対して今問題にしている例の場合、基準点は se informaba によって言及されている過去の時点だ。また、podría 以下は informar された内容だから、その時点で「結局そうではなかった」と言ったと解釈するわけにもいかない。つまりこれは過去の時点での推量を表す (indicativo-1)。Poder 自体が可能性を表すので、それにさらに不確実性・推量を加えるのはよけいな感じもするが、こういう例はそれなりに出てくるという印象がある (日本語でも「ありうるかもしれない」なんてつい言ってしまうことがあるが、客観的な可能性と主観的な推量を分けて考えることができるかもしれない)。

前にも書いたが、過去未来形の用法は学習者にとって難関で、基準点を軸に整理してみせても、なかなかピンと来てくれない。何か良い方法はないものだろうか。

2013年4月19日金曜日

Orejón


Naranjito de Triana が歌った tango de Triana (1968年 (多分) に出たLP Naranjito de Triana 所収) に、こんな歌詞がある。

Ya vienen bajando / por las escaleras / pimientos y tomates / XXX y brevas ...

この XXX が問題。僕は torrejones と教わり、確かにそう聞こえるのだが、これでは内容的に落ち着かない。文脈から考えて野菜や果物系のものが来て欲しい。しかし、手元の辞書などを見る限り、torrejón にそういう意味はなさそうなのだ。いつか時間があったら torrejón にそれ系の意味がある (あった) かどうかチェックしたいと思っていたのだが、先日ふと思い出して大先輩に聞いてみた。すると即座に、あれは orejones だとの返事。Naranjito の torrejones は、もとの歌詞が良く理解されず変形したものだろうということだった。

そういえば Esperanza Fernández は2007年の録音 (Recuerdos 所収) で orejones と歌っている。Orejón は「干した桃[アンズ](『西和中辞典』)」という意味があるから、内容的にはぴったりだ。僕は、もしかしたら torrejón にはかつて干した果物のような使い方があって、それが忘れ去られた結果の合理化かもしれないと思っていたのだが、話はむしろ逆なのかもしれない。

フラメンコに限らないだろうが、人から人へ伝えられていく過程で変形していき、歌詞の意味が通らなくなったと思われるものがある。この torrejones もその例だということになるのだろう。歌う側からすれば、自分にとって筋が通るように歌詞を変えて歌えばよいだけの話だが、研究者としては、意味不明になった歌詞をきちんと記録しておかなければならない。つまり、ふつうに文献学しましょうということだ。

2013年4月17日水曜日

Arte popular


坂東省次(編著)2013『現代スペインを知るための60章』明石書店。執筆者のひとり、エンリケ坂井さんに頂いたので、とりあえず「スペイン民俗芸術の華–フラメンコ」という章だけ読んだ。

ぜひ読んで欲しいので詳しい紹介はしないが、スペインという文脈に置いたフラメンコ (スペインの中、でもフラメンコの外からの目) という視点があって、これはありそうであまりなかったんじゃないかと思う。もちろんエンリケさん自身が経験したエピソードがいくつか紹介されていて大変面白い。

フラメンコはヒターノが作ったとも読めるパッセージがあって、研究者の端くれとしてはそのまま賛成するわけにはいかないが、アルティスタの書いた文章なのだから、これはこれで良いのだ。その理由は『アンダルシアを知るための53章』のフラメンコの章に書いたので参照されたし (宣伝)。

2013年4月6日土曜日

つるかめ


くしゃみをした人にたいして、スペイン語では Jesús とか Salud とか声をかける。日本語では何と言うのかと聞かれて、その場にいた日本人と日本語のできるスペイン人の一致した見解としては「何も言わない」ということになった。西和辞典で jesús や salud を引くと「お大事に」という訳が出ているが、これはあくまで訳例であって、くしゃみという状況における日本語話者の典型的な言語行動を記述しているわけではない。西和で hola を引いたら「やあ」が出てくるが、人に会ったときに「やあ」という日本語話者はどのくらいいるのだろうか。それと同じことだ。くしゃみに対して間髪を入れずに「お大事に」と言う例がないとは断言できないが、普通ではないだろう。少なくとも僕は何も言わない。そういう言語習慣を持っていないから、スペイン語で jesús と言う場合でも、ネイティブのタイミングよりも一呼吸か二呼吸遅れる。

ところが、白水社の『和西辞典』(改訂版、随分前の電子辞書版)には「つるかめ」という見出しがあって、その中の「〜〜」つまり「つるかめつるかめ」の説明が「[くしゃみをした人に] ¡Jesús! / ¡Salud!」となっている。なんだ、我々日本語話者もちゃんとくしゃみ対応表現を持っているではないか。とは言え、僕は実際に聞いた記憶はないし、僕が尋ねた日本語話者も知らないという。「くしゃみ」のもとになった「くさめ」がくしゃみをしたときに唱える呪文だったようなので、何か言う習慣は確かに存在していたのだろうが、「く(っ)さめく(っ)さめ」にせよ「つるかめつるかめ」にせよ、今では多くの人の日常言語行動のレパートリーには含まれないということだ。むしろ、和西辞典に「つるかめ」という見出し語(「つる」の中ではない)があることの方が興味を引く。どういう経緯でこの項目が選ばれたのか、誰がこれを書いたのか。そして、これを書いた人は普段「つるかめつるかめ」と言っているのか。

2013年3月28日木曜日

ひらがな





と いう わけ で、かんじ を つかわず に かいて みる。かな だけ で かく ばあい は、わかちがき が ひっす だ が、どこ で すぺーす を いれる か が もんだい に なる。たんご ごと に きる と いう の が げんそく だ が、たんご の きれめ は ねいてぃぶ すぴーかー に とって も やっかい な もんだい な の だ(すぺいん ご の sino と si no の ちがい が ねいてぃぶ に は むずかしい なんて こと も おもいだして みよう)。もちろん、せいしょほう の るーる が ある の なら それ に したがえば いい の だ が、いま は てきとう に やって みよう。

かんじ を ようご する ろんきょ として、どうおん いぎ ご(どうおんいぎご?)の かきわけ が あげられる こと が ある。でも、どうおん いぎ ご は どの げんご に も ある し、ごかい が しょうじる よう なら、べつ の いいかた を さがす だけ の こと だ。かんじ は、くち で いったら もんだい が しょうじる よう な ばあい に、しかくてき に その もんだい を かいひ する の に やくだつ。しかし、みよう に よって は、もんだい を おおいかくし、はなしことば の ひょうげん を きたえる きかい を うばって いる と も いえる。

ううむ、すぺーす の いれどころ は、やっぱり よく わからない。それから(それ から?)、かんじ かな へんかん を ぜんてい と した にゅうりょく しすてむ で は、べた の かながき は かえって むずかしい。つかれた の で、きょう は ここ まで(なお、すぺーす は ぜんかく で いれて、あと で はんかく に いっかつ へんかん した)。



Kanji

Kanji quiere decir caracteres chinos. Como es bien sabido, se usan en el sistema de escritura japonés junto con los kana (silabario con dos subsistemas, hiragana y katakana). «Junto con» aquí significa literalmente «junto con», es decir, que en un texto suelen coexistir kanji, hiragana y katakana. Con solo esto ya suena a complicado, pero hay otros factores que complican más el sistema de escritura japonés. Y una amiga española critica vigorosamente el uso de kanji al escribir japonés, que, con el silabario que tenemos, se puede representar todo lo que lingüísticamente pertinente.

Creo que tiene razón. Podríamos prescindir de kanji.

Sé que hay enamorados de los kanji, extranjeros y japoneses, y también reconozco que hay una tradición que se basa en las posibilidades expresivas de estos caracteres. Un kanji no solo representa una o más palabras, una o más pronunciaciones, sino también una serie de asociaciones fonológicas, semánticas, pragmáticas, visuales, estéticas, etc., que forma parte de la cultura lingüística japonesa. Abandonar los kanji implica abandonar esta riqueza cultural. Sí, soy consciente de ello.

Pero, por lo menos como experimento, creo que sería interesante probarlo. A mí me cansa a menudo tener que pensar en la corrección en el uso de kanji.

2013年3月24日日曜日

Quiero


前回は無理矢理 querer の話を入れたが、ちょっと補足。この動詞は重要な基本単語だし、不規則動詞でもあるので、我々が教科書を作るときにまず思い浮かべるアイテムのひとつだ。しかし、直説法現在1人称単数の quiero の使い方がけっこう難しいのだ。前の記事の引用から言えることは、quiero を使える/使えない相手と状況があるということで、その点についての配慮なしに quiero の例文をばらまくべきではないだろう。たとえ例文自体は適切なものであっても、その例文の示唆する状況が学習者に理解されないならば、やはり困るわけだ。僕も、4月から使う教科書から quiero を1つ削ったのだが、まだダメな例文が残っているかもしれない。

こないだの引用は querer に名詞句の直接目的語が続く場合 (pedir objetos) の話だったが、僕は querer + 不定詞や querer que + 接続法のパタンに関して、学習者の不適切な使用に対するネイティブスピーカーのコメントを聞いた記憶がある。大まかに言えば、quiero じゃなくて quisiera や me gustaría を使うべきだということだが、場合によっては相手との関係よりも事柄の現実味が問題になるのだろう。

もちろん quiero を教えないわけにはいかない。しかし、文法の教科書が文法の教科書だからという理由でこの点に無関心で良いはずもない。というわけで、気づいたところをちょっとずつ直しているのだが、まだまだ先は長い。

2013年3月22日金曜日

El Greco

エル・グレコ展 (東京都美術館 2013/01/19-04/07) を見に行った (2013/03/21)。券を頂いていたので、それを無駄にせずに済んで、まずは良かった。もちろん中身も良かった。僕は絵画リテラシーがないので、「良かった」という以上の言葉は出てこないのだが、コンテクストの重要性を教えてもらったことが収穫だった。

展覧会の宣伝に使われているコピー「一度見上げたら、忘れられない。」は、それと大いに関係がある。展示された作品の中には見上げるような高い位置に置くことを想定して描いたものがあって、それらは見上げるように下から見た方が面白いのだが、会場の説明などがそういうことを親切に教えてくれていて、さっきも言ったように絵画リテラシーのない僕などには大変有り難かった。僕もご多分にもれず、エル・グレコといえば細長くデフォルメされた人体の印象が強かったが、これも下から見上げることを前提とした冷静な計算に基づくのだとすれば、ちょっと見方が変わる。そういえば、世俗的な肖像画だとそういう「くずし」はほとんどないもんね。

また、イタリア時代とトレド時代の同種のテーマの作品が並べて展示してあったのも面白かった。これは主催者が作ったコンテクストだけど、横に置いてある絵がその絵の見方に影響を与えるわけだ。

言語も同じで、どんな発話もコンテクストが前提となるが、外国人学習者にはそのコンテクストの特定が難しいことがある。話し言葉の場合コンテクストなんて自明じゃないかと思うかもしれないが、広い意味でのコンテクストを考えれば、そうでもないのだ。たとえば、こういう言い方はこういう時にする、ということを知らないと、こういう言い方の「文字通り」の意味は理解できても、今がこういう時だという理解に達しないと、話し手の意図をつかみ損なう。あるいは、こういう時じゃないのに、こういう言い方を使ってしまって誤解を与える、てなことがあり得るわけだ。で、こんなことが書いてある文法書があったりする: «El verbo querer en presente de indicativo con la intención comunicativa de pedir objetos tiene usos más limitados de lo que pudiera parecer a primera vista. Su uso implica siempre una relación informal entre los interlocutores o, por el contrario, una actitud más bien autoritaria por parte del que pide, que se presenta como alguien que quiere hacer valer sus derechos (F. Matte Bon, Gramática comunicativa del español, tomo II: 317)». 今まで無邪気に quiero を連発していたあなた、背筋が寒くなったでしょ?

話を戻すと、平日の昼過ぎだったので会場はそれほど混んでいなかった。見上げるべき作品の前で、しゃがんで見ている人も多かった。僕は、ここでしゃがむのは従順すぎると思ってためらったのだが、2周目ではやっぱりしゃがんで見てみた。確かによく分かるのだが、遠くで見てから近づいて立ったまま見るだけでも、ある程度効果は分かる。しゃがむのが苦手な人は試してみてください。

2013年3月13日水曜日

Diferente


Vario の記事に対してコメントをいただいた。その中で diferente はどうなのか、と質問された。

そこで少し考えてみる。全部憶測だから眉に唾をつけながら読んで欲しいが vario と diferente は違う。これをスペイン語にすると «Vario y diferente son diferentes; Vario es diferente de diferente» は言えると思うが «Vario es vario de diferente» は言えないような気がする。

どういうことかと言うと、diferente は「・・・と違う」つまり他との差異を表すのが基本で、異なる相手 (de ...) を必要とする。De 以下を言わないこともあるが、その時は文脈で分かるはずだ。日本の学習文法では一般的な用語ではないが、こういう必須要素を項という。たとえば他動詞に対する直接目的語 (comprar un libro とか) は項だ。で diferente は de... という項をとる (a... が出てくることもある)。

それに対して、僕の感じでは vario は異なる相手を表す項を持たない。ということは vario が表す「異なり・変異」は内部的な変異ということになるはずだ。だとすれば、これが単数形で使われることが少ないのも理解できる。CREA で vario を検索すると50例で、たとえば «Del vario abanico de tendencias» とか «este mundo vario y multiforme» とかが内部的変異の例として分かりやすい。それに対して varios は34075例出てきて、検索条件を絞らないと例文を見ることができない。そう、複数形なら、ひとつの集合にある要素間の差異がその集合の内部的変異と考えることができるわけだ。

それに対して diferente は単数でも複数でも「他との差異」が表現される。単数の場合は単純に de... との差異だが、複数になると事情はちょっと複雑になる。まず、その複数のものがひとかたまりになって他と異なるという読みがある。たとえば las chicas son diferentes de los chicos とか。もうひとつの可能性は、複数の要素間の異なりという解釈。たとえば son hermanos, pero muy diferentes とか。なので son diferentes だけだとどちらの読みになるかは分からない。文脈次第ということになる。

これは diferente の特殊事情ではなくて、複数性が持つ一般的な性格だ。たとえば Juan y María se casaron は、ぱっと見たら Juan と María が夫婦になったと思うのが普通だろうけど、この2人が兄弟だと知っている人が聞いたら、それぞれ別の相手と結婚したと考えるだろう。あるいは Juan y María se casaron el mismo día だったら、やっぱりこの2人が夫婦になったとは聞こえないだろう。

さて、出発点は「いくつかの」の varios を「様々な」と訳す学習者の話だった。僕の日本語では「様々な」は数が多い感じがするのでピンと来ないのだが、日本語話者の一般的な感覚がどうなのかは分からない。「さま・ざま」や「いろ・いろ」などに見られる繰り返しは複数性だけではなくて要素間の差異を表しているような気がするので varios と重なる部分は確かにあるのだろう。

2013年3月10日日曜日

Vosotros


前の記事で触れたシンポジウムで僕自身は大したことは喋らなかったが、ネタ集めのために日本の大学用のスペイン語教科書をチェックしていて驚いたことがある。

スペイン語の人称代名詞は、相手を表す形が単数では tú と usted の2種類 (地域によっては vos と usted の2種類、あるいは tú, vos, usted の3種類) ある。複数形は、スペインでは vosotros と ustedes の2種類あるが、中南米では ustedes だけになる。つまり、中南米では複数形において親疎の区別がない。これを大学のいわゆる2外の教科書がどう扱っているかというと、比較的最近出版されたものの中から適当に20冊選んで見た中では、みんな vosotros を載せていて、その中で「中南米では vosotros を使わない」的な注記をしているものは、ちらほらあるだけだ。つまり、スペイン式の体系しか扱っていない教科書が圧倒的に多いのだ。なお単数の vos の存在については、たまたま見た中では1冊だけ言及していた。

報告では、スペイン中心と形容したのだが、むしろ、できるだけ中身を削るという姿勢の教科書が多いということなのかもしれない。とは言え、どうせ削るのなら vosotros をやめて中南米式の体系で通すという手もあるだろうと思うのだが、大学の教科書としては冒険なのだろうか (社会人向けのコースなら十分ありそうだが)。確かに、すべての受講者が中南米のスペイン語を志向しているという保証がない状態では、vosotros を教える方が安全に思えるというのは分かる。見ておいて使わないということはできるが、存在を知らないのでは出会ったときに対処のしようがないからだ。でも、ちょっとした注記さえないのでは、学習者には選択の余地がない。結局現場で教師が説明するのなら、注記を省く意味もない。

というわけで、もっと中南米指向の教科書があれば面白いのにと思っていたのだが、数日前あることに気づいた。僕の勤める大学には言語文化学部と国際社会学部があって、後者では募集が地域単位なので、ラテンアメリカ地域専攻と西南ヨーロッパ第2専攻それぞれに定員がある。そして、ラテンアメリカの方が定員が多い (どちらもスペイン語とポルトガル語を合わせた数)。一方、言語文化学部は言語単位での募集で、学生はさらに地域を選ぶのだが、地域別の数は特に制限があるわけではない。で、2012年度言語文化学部でスペイン語を地域言語として入って来た学生のうち、8割方が西南ヨーロッパ第2を選択している。つまり大部分がスペインを選んでいるのだ。もちろん、これは入学前の指向であって、入ってから1年近くたった今地域を選ばせたら、より均衡のとれた割合になる可能性はある。しかし、始める段階でのこの偏りがマーケットの実情であるとすれば、大学の教科書がスペイン寄りなのは単にそれを反映しているだけなのかもしれない。もちろん、そうだとしても、このままでいいとは思わないのだが。

2013年3月4日月曜日

役割語


外国語教育学会のシンポジウムに出てきた (2013年3月2日、東京外国語大学)。それぞれの報告がそれぞれ興味深かったが、日本語教育についての報告でキーワードとして使われていたのが「役割語」。詳しくは、この用語の提唱者である金水敏さんの文章にゆずることにするが、一応定義を抜き出してみると「ある話し方を聞くと、それを話している人の人物像が頭に思い浮かべられるとき、あるいは、ある人物像を示されると、その人が話しそうな話し方が思い浮かべられるとき、その話し方のことを「役割語」と呼ぶ」ということだ。ひとつだけ例を引用すると、「おお、そうじゃ、わしが知っておるんじゃ」から老人を思い浮かべるといった具合だ。

報告では、日本語学習の動機としてアニメやマンガが多い現状で、この手のメディアに登場する役割語を日本語の規範という観点からどう扱うかという議論が展開し、もちろんそれ自体は興味深かったのだが、聞きながら僕が思い出したのはスペイン語における役割語だ。日本のマンガ・アニメほどはっきりしたものがあるかどうかはともかく、どの言語にも「それを話している人の人物像が頭にうかぶ」ような言語的特徴はあるに違いない。スペイン語における役割語についての研究も既にあるようだ。僕が思い出したのは El laberinto del Fauno (邦題「パンズ・ラビリンス」) の Fauno で、彼は主人公の女の子をお姫様として遇していて、彼女に対して vos を使っている。厳密に言えば上の定義に当てはまる役割語とは言えないかもしれないが、現代人が普通の状況では使うことのないこの vos は、時代がかった物語世界や身分社会を想起させるのだろう。ところが、僕が持っている日本盤DVDの日本語字幕は、この特徴をうまく反映していないと思った記憶がある。

ところで、この vos はまだ生きている。たとえば、去年スペイン滞在中に気づいたのだが、スペイン国会の上院で、議員が本会議で (おそらく最初の仕事として) 憲法を遵守するという宣誓をするにあたり、議長が «¿juráis o prometéis acatar la Constitución?» という質問をし、それに対して «Sí, juro» あるいは «Sí, prometo» と答えるという儀式がある。ここの juráis や prometéis は vosotros ではなくて vos に対応する活用形だ。もちろん自然な発話ではなくて定型文を繰り返しているだけなわけだが、特定の状況で特定の機能を果たしているのだから、現代語のレパートリーに含まれると言ってよい。

2013年2月23日土曜日

vario


基本的な形容詞だが、単数形で書くと馴染みがないように見えるのは、多分気のせいではない。これが «dijo varios nombres» みたいな形で出て来たのを「様々な名前」と訳す学生がいたのでがっかりしたのであった。もちろん「名前をいくつか言った」のだ。

形容詞 vario は、僕の経験では複数形で名詞の前に来ることが圧倒的に多く、その場合は、まず «Algunos, unos cuantos (DRAE, s. v. vario, acep. 5)» であると考えてよい。少なくとも、僕はそう考えて失敗した経験がない。だから4年生にもなれば、いくらなんでもそのくらいは慣れで覚えただろうと思っていた僕が甘かったわけだ。これから語彙教育のやり方を考え直さなければいけない。

この vario は、英語を既に知っている学習者にとってはいわゆる falsos amigos (vario / various) で、悪い友達に感化されないよう手段を講ずる必要がある (ほどでもないと思っていたんだけどな)。ところが、現在 (電子辞書のおかげで) おそらく最も多く使われている『現代スペイン語辞典 (随分前に買った電子辞書版)』は、まず「英 various」という記述から始めて、最初の語義は「様々の、いろいろな;雑多な」で、2番目に「複、[+名詞] いくつかの」を挙げている。これでは various に引きずられて間違えてくださいと言わんばかりの書き方だ。確かに、最初の語義に対する用例は全て名詞の後ろ、2番目の語義に対する用例は名詞の前で、ちゃんと読めば分かるようになっているのだが、分かっている人には分かるのであって、例によって最初の語義の最初の訳語しか見ない大半の学習者を救うことはできない。

それに対して『西和中辞典 (ipad 1.3版)』では、まず「複数で(+名詞)(ser+)いくつかの、いくつもの」を挙げている。これなら『現代スペイン語辞典』よりも学習者が足を突っ込む可能性が格段に減るだろう。ただ、「いくつかの」と「いくつもの」では随分違うと思うのだが、どうなんだろうか。

一方『デイリーコンサイス西和・和西辞典』は最初の語義に「《名詞に前置》複、いくつかの、数人の」が来ていて、次が「様々な、多様な」。とても分かり易い。この辞典、小さくて目立たないが、こういう良い記述が随所にあって、持ってて損は無い。

ちなみに DRAE (22版、オンライン版) では «1. adj. Diverso o diferente. / 2. adj. Inconstante o mudable. / 3. adj. Indiferente o indeterminado. / 4. adj. Que tiene variedad o está compuesto de diversos adornos o colores» と続いたあとに、ようやくさっきの «5. adj. pl. Algunos, unos cuantos» が出てくるのだが、これは学習者用の辞典ではないので許せる。興味深いのは、どの語義も数の多さを示唆する記述になっていないことだ (語義4は内部的な多様性に言及しているのみ)。僕の日本語では「様々な」とかは数の多さを想起させるのだが、vario はそうでもないのかもしれない。想像するに vario は variar からも分かるように、「異なり・変異」に注目するのが意味のコアであって、それが複数のものに適用されると「それぞれ異なる」と読まれるということなのだろう (複数のものが一丸となって他のものとは異なるという読みが可能かどうかは分からないので誰か調べてください)。変異性への注目が薄れると残るのは複数性で、「いくつかの」という読みになる。別の言い方をすれば、変異性、個別性、複数性というのはかなり近いところにある概念だということか。

2013年2月20日水曜日

Novas voces enredadas


Aquí retomo as Voces Enredadas, que por certo estaban abondo desenredadas. Gárdoas noutro sitio e comezo de novo, pero a idea é a mesma: escribir cousas que se me ocorran nun idioma que me guste. Non vai ser unha páxina plurilingüe no sentido de atopárense distintas versións en cada lingua para cada texto, non. Este, por exemplo, non o vou repetir en ningunha outra lingua (algunhas ideas seica si). Así que poida que ás veces entendas perfectamente e outras non tanto.

Ah, este idioma no que estou a escribir é o galego. Lindo, non?

(Advírtoche que non o domino; atoparás moitos erros...)