2019年3月31日日曜日

Montsalvatge (3)

カタルーニャ語の固有名詞をカナで写そうとするときに出てくる問題を考えてみる。今回は母音を見ることにしたい。

まず確認しておくべきことは、この議論はあくまで日本語の表記に関わるものだということだ。カナ表記を巡っては「現地音主義」という不思議な用語があって、カナが他言語の発音を表すことができるかのような錯覚を与えかねないのだが、辞書などでカナを (出来の悪い) 発音記号として使う場合は別として、カナに出来ることは、日本語に借用された単語を日本語として表すことだ。「出来るだけ (その言語の) 実際の発音に近く」表記したいという気持ちは分かるが、日本語に出来る範囲でしか出来ないのだということは押さえておく必要がある。

もうひとつ確認しておくべきなのは、カタルーニャ語が持つ地域的多様性の問題だ。入門書などで解説している発音は、バルセロナを含む地域で話されている中部方言のものがベースになっている。これが伝統的に標準的発音と見なされているのだが、現代のカタルーニャ語規範は複中心的で、他の地域の発音も規範から排除されない。このことは、後で見るように、カナ表記問題に大きく影響する。

カタルーニャ語の方言区分については、立石・奥野 (2013: 48) あたりを見て欲しい。大きく東部方言と西部方言に分かれる。さっき出てきた中部方言は東部方言の下位方言で、紛らわしいけれどご容赦のほどを。で、東と西では母音体系が結構違うのだ。

そして、カタルーニャ語の母音体系は、強勢のある位置と無強勢の位置で分けて考える必要がある。まず強勢母音は7つある。バレアルス諸島では8母音体系だとか、フランスのルシヨン地方など5母音しかない所があるとか、ジロナあたりでは6母音だとか、異なる体系を持つ方言もある (Prieto 2014: §II.1.1.1) が、大勢は7母音なので、それだけを見ることにする。

iu
eo
ɛɔ
a

綴りについては、今の議論に関係する部分だけ大雑把に言うと、/i/, /a/, /u/ はそれぞれ i, a, u が対応し、/e/ と /ɛ/ は e で、/o/ と /ɔ/ は o で表される。ただし、狭い方 (/e/ と /o/) には鋭アクセント (´) を付け (é, ó)、広い方 (/ɛ/ と /ɔ/) には重アクセント (`) を付け (è, ò) て母音の別を表示することがある。しかしこれは、正書法上強勢の位置を示す必要がある場合だけで、そういう単語に関してたまたま母音の広狭が分かるというにすぎない。なお、強勢の位置を示すための í, ú, à もある。

単純に考えて5つしか母音のない日本語でカタルーニャ語母音の発音を再現することは不可能だ。だが、綴りの助けを借りれば簡単に対応を作ることができる。つまり /e/ と /ɛ/ の区別と /o/ と /ɔ/ の区別を無視すればよい。たとえば Pere /'peɾǝ/ と Cesc /'sɛsk/ は異なる強勢母音を持つが、同じ e で表記されていることもあり、日本語で同じエ段の文字で写して「ペラ」「セスク」とするのに抵抗はないだろう。同様に Ramon /rǝ'mon/ と Antoni /ǝn'tɔni/ の強勢母音はそれぞれ異なるが、同じ o で表記されており、日本語では「ラモン」と「アントニ」のようにオ段の文字で書いて誰も文句を言わない。

それから /u/ は日本語の「ウ」と結構異なる音だが、カナのレパートリーの中ではウ段の文字で表す以外の (単純な) 選択肢がない。

cat. 音素cat. 綴りカナ
/i/i, íイ段
/e/e, éエ段
/ɛ/e, è
/a/a, àア段
/ɔ/o, òオ段
/o/o, ó
/u/u, úウ段

なんだか不必要に面倒な話をしているように見えるかもしれないが、カナ表記が元の言語の音韻や発音をそのまま写したものではないことは確認できたと思う。さて、これからが本当に面倒な話、無強勢母音の扱いだ。

無強勢母音体系は、東部方言と西部方言で異なる。東に属するマリョルカ方言は両者の中間的性格を見せる (Prieto 2014: §II.1.1.4b) が、とりあえず措く。また、音韻論における中和という概念をどう扱うかという議論は素通りすることにする。表の書き方が厳密でないと思う人がいるだろうが、ご容赦願いたい。

cat. 強勢母音cat. 無強勢母音 (西)cat. 無強勢母音 (東)cat. 綴り
/i/[i][i]i
/e/[e][ǝ]e
/ɛ/
/a/[a]a
/ɔ/[o][u]o
/o/
/u/[u]u

西部方言では5母音で、この体系をカナに写すのは簡単だ。一方東部方言は3母音体系で、綴りとの関係で言えば、{i}, {e, a}, {o, u} に対応する。つまり同じ音を異なる文字が表す場合があるということだ。やり方としては、音に合わせて e も a も同じカナを充てる方向と、綴りに合わせて e と a に別のカナを対応させる方向が考えられる。前者が当たり前だと思う人が多いかもしれないが、英語の曖昧母音 ǝ に対応するカナはむしろ後者 (例えば Elizabeth [ɪ'lɪzǝbǝθ] エリザベスのザとベ) で、それをみんな普通に使っている。最初から問題外というわけではない。

音に合わせる方針にするなら、どの文字を使うかが問題になる。 [i] はイ段の文字で問題ない。[u] はウ段の文字で対応すれば良いだろう。[u] についてはオ段の可能性もあり、日本語話者がカナ表記を発音した時により元の音に近くなる場合も考えられるが、強勢母音と扱いを揃えた方が良いだろう。カタルーニャ語の [ǝ] は僕の耳にはアに聞こえることが多い。エ段とア段のどちらかということなら、ア段を選ぶのが穏当だろう。

綴りに合わせる方針なら、西部方言を写すのと同じことになる。カタルーニャ語の正書法は西部方言にも対応できるように考えられたもので、区別の多い方に合わせることで、結果的には東部方言では発音上の区別がない書き分けが生じたわけだ。したがって、綴りに合わせると言っても音声上の根拠を西部方言に求めることができる。どちらも「正しい」発音なので、理論的には対等だ。また、東部発音では ea の e が [ǝ] ではなくて [e] で発音される (例えば Balears [bǝle'ars]) なんてことを覚えておかなくても良いという (小さい) メリットもある。

というわけで、伝統的に標準音と見なされてきた東部の発音をベースにするという、多分多くの人が採る方式と、汎カタルーニャ語的な綴りを考慮に入れた方式があり、僕にとっては後者も捨てがたい。なので、ここではどちらかに決めることはせず、両方式の例を思いつくままに挙げて、皆さんに考えてもらうことにする。

cat. 3段式5段式
Barcelonaバルサロナバルセロナ
Carles Puigdemontカルラス・プッチダモンカルレス・プッチデモン
Carmeカルマカルメ
Castellóカスタリョカステリョ
Enricアンリックエンリック
Figueresフィゲラスフィゲレス
Illes Balearsイリャス・バレアルスイリェス・バレアルス
Jaumeジャウマジャウメ
Joan Corominesジュアン・クルミナスジョアン・コロミネス
l’Hospitalet de Llobregatルスピタレット・ダ・リュブラガットロスピタレット・デ・リョブレガット
Montsalvatgeムンサルバッジャモンサルバッジェ
Montserratムンサラットモンセラット
Penedèsパナデスペネデス
Pereペラペレ
Pompeu Fabraプンペウ・ファブラポンペウ・ファブラ

あ、あと音引き「ー」は必須ではないと思うし、入れると間が抜けることが多いと思うので、使っていない。僕自身は昔より「ー」を使わなくなっていて、今思い切って無しにしてみた。「カタルーニャ」は流石にこっちが見慣れた感じだが、「カタルニャ」でも良いような気がしてきた。「ー」の扱いはカスティリャ語とも共通したテーマなので、項を改めて論じたい。

  • Prieto, Pilar, 2014, Fonètica i fonologia. Els sons del català, priera edició en format digital, Editorial UOC.
  • 立石博高・奥野良知 (編), 2013, 『カタルーニャを知るための50章』明石書店.

付記 (2019/04/01): Prieto 2014 への参照セクションを修正。章番号をローマ数字で付け加えた。Prieto 2014 は Kindle と Google Play で売っていて、G の方が安かったのでそれを買ったのだが、Google Play の電子書籍リーダー (iOS版) の出来はかなり改善の余地ありで、知的営みのための投資をケチったことを後悔している。

2019年3月28日木曜日

Montsalvatge (2)

ソプラノ歌手の谷めぐみさんから連絡を頂いた。以前「シャビエ・ムンサルバッジャ」を使ってみたが、通じなくて大変だったという経験がおありとのこと。そうなんだろうな。慣用は強いのだ。変えるためには、少しずつ「シャビエ」が増えていくように地道に取り組んで行くしかない。

カタルーニャ語固有名詞に関わるもうひとつの問題は、Xavier に対する Javier とか Enric に対する Enrique とか、他の言語に対応するものがあることだ。つまり、名前も翻訳できてしまうのだ。これはカタルーニャ語とカスティーリャ語の間に限らない。今ではしないのが普通だが、昔は名前を翻訳す習慣があった。例えば1881年に Menéndez Pelayo が訳したシェイクスピアの作品集は Dramas de Guillermo Shakespeare だったようだし、僕は Carlos Marx (ドイツ語では Karl だ) も見たことがある。今でも見るのは Guillermo Tell (Wilhelm Tell) や Julio Verne (Jule Verne)。スヌーピーと Carlitos なんてのもある。

歴史上の王たちには、カノッサの屈辱の Enrique IV とかナントの勅令の Enrique IV とか英国国教会を作った Enrique VIII とかがいるし、今でもイギリスの女王は Isabel、その息子は Carlos、さらにその息子でメーガン・マークルと結婚したのは Enrique だ。また、キリスト教の聖人たちがそれぞれの言語でそれぞれの呼び方をされるのは良く知られたことだが、日本で「サン・ジョルディ」とカタルーニャ語 Sant Jordi から入った言い方をされるのは聖ゲオルギオスとか聖ジョージとか呼ばれているのと同一人物だ。今のローマ教皇を日本ではカスティーリャ語風にフランシスコと呼んでいるが、Francisco に当たるラテン語は Franciscus で、Wikipedia に載っている彼の署名はラテン語で書いてある (バチカンの公用語はラテン語だからね)。

こういう習慣というか伝統を考えれば、Xavier を Javier とか Enric を Enrique とか言うのは、カタルーニャ語とカスティーリャ語の力関係だけが原因というわけではないことが分かる。同じ人が同じ人についてカタルーニャ語で喋るときは Xavier と言い、カスティーリャ語では Javier と言うということはあり得るし、相手に応じて言い方を変えるかもしれない。

蔵書印では Enric だったグラナドスも、夫人に宛てた手紙 (WEB上で画像をいくつか見ることができる) はカスティーリャ語で書いていて、Enrique に見える署名が確認できるものがある。とりあえずカスティーリャ語では Enrique Granados で、カタルーニャ語では Enric Granados で良いとして、日本語ではどうするか、結構面倒な問題だ。

Xavier Montsalvatge (1912-2002) の場合は、前に書いたように、カスティーリャ語版のWikipediaでも Xavier なのだから「ハビエル」を維持する意味はない。というわけでカタルーニャ語をカナで写すときの問題点を次回以降取り上げることにしたい。

2019年3月19日火曜日

Montsalvatge

外国の固有名詞をどう表記するかという問題は、元の言語が何かという問題と切り離すことができない。まず、言語によって音韻体系と書記体系が異なるので、その言語の音・表記から日本語のカナへの対応をどうするか決める必要がある。それに加えて、その言語が置かれた社会言語学的な位置付けが事態を複雑にすることがある。

画家のミロは、昔は「ホアン・ミロ」と書かれることが珍しくなかったが、今では「ジョアン・ミロ」が普通だ。「ホアン」はスペイン語の Juan を書く書き方の一つ。「ジョアン」はカタルーニャ語の Joan を書く書き方の一つ。本来の名前である Joan に従った表記が一般的になったわけだ。一方、チェリストのカザルスは、カタルーニャ語に基づいた「パウ・カザルス」も見るが、スペイン語・カタルーニャ語混合の「パブロ・カザルス」が多い (スペイン語風の「カサルス」はまず見ない)。

さて、何日か前に「ハビエル・モンサルバーチェ」という表記を見た。やはりカタルーニャ出身の作曲家だが、完全にスペイン語風表記だ。濱田 (2013) は「パウ (パブロ)・カザルス (229)」と書く一方、「カタルーニャ人のハビエル・モンサルバーチェ (265)」としている。「ハビエル」はスペイン語 Javier に対応する表記で、カタルーニャ語では Xavier Montsalvatge [ʃǝβi'e munsǝl'βadʒǝ] だから、「シャビエ・ムンサルバッジャ (あるいはモンサルバッジェ)」ぐらいにしても良さそうなものだが、ハビエルが圧倒的に強い。

ちなみにスペイン語版Wikipediaでは Xavier Montsalvatge i Bassols というカタルーニャ語の書き方を採用している。日本語版では「ハビエル・モンサルバーチェ・バッソルズ (Xavier Montsalvatge i Bassols...)」としていて、カナ表記はスペイン語風、ローマ字はカタルーニャ語というチグハグなことになっている (なお「バッソルズ」はスペイン語風でもカタルーニャ語風でもない。どちらの場合も「バソルス」になるはず)。これは直した方が良い。

少し複雑なのはグラナドスの場合だ。濱田 (2013: 185) はグラナドスの蔵書印の図版を載せていて、そこには «EX-LIBRIS ENRIC GRANADOS CATALONIAN COMPOSER» という文字が見え、本人が Enric というカタルーニャ語名を使っていたことが分かる。しかも Spanish ではなくて Catalonian と言っているところが興味深い。ところが、カタルーニャ語版のWikipediaによれば、生まれた時の名付けは Pantaleón Enrique Joaquín だったという。生まれはカタルーニャだが、父は当時まだスペイン領だったキューバ出身、母はカンタブリア出身で、スペイン語で名前をつけるのは自然だったのだろう。まあ、本人が Enric を使っていたのなら「アンリック (エンリック)・グラナドス」で良かろうと思うが、慣用はスペイン語式の「エンリケ」だ。

「ムンサルバッジャ / モンサルバッジェ」「アンリック / エンリック」における母音の選択と促音の表記については、また稿を改めて論じたい。

  • 濱田滋郎, 2013, 『スペイン音楽のたのしみ』(新版), 音楽之友社.

2019年3月17日日曜日

Vinilo

学生時代 (35年か、もっと前)、音声学の授業で先生が概略こんなエピソードを披露した。

A: ヴァイオリンを「バイオリン」と書くなんてけしからん。
B: なんで?
A: だって、それじゃビニールみたいじゃないか。

で、みんなこれでドッと笑ったのだが、そうなのだ、ビニールは英語では vinyl ['vain(ə)l] でバイオリン violin [vaiə'lɪn] と同様 [v] の音で始まる。Aさんはそれを知らずに、というのがオチ。

なんでこんな昔の話を思い出したのかというと、「世界から『ヴ』が消える」というNHKの記事をFACEBOOKの友だちが紹介して、コメント欄は「ヴ」が消えることに反対な意見が大勢を占めるということがあったからだ。

記事の内容は、外務省が国名の表記を変更し、「セントクリストファー・ネーヴィス」が「セントクリストファー・ネービス」に、「カーボヴェルデ」が「カーボベルデ」になる、そして在外公館名称位置給与法から「ヴ」を使った国名表記が消えるという話だ。僕は、そのこと自体特に何とも思わなかったのだが、2003年の法改正以前は「エル・サルヴァドル」とか「ヴェネズエラ」とか「ボリヴィア」と表記していたそうで、これには少し驚いた。みなさんご存知のように、スペイン語では b と v は書き分けるが発音上の区別はない。だから、スペイン語業界ではずっとずっと前から「エル・サルバドル」「ベネズエラ」、「ボリビア」だ。2003年の改正も、また今回のも、より一般的な表記に合わせることが意図されているのだという。「ヴェネズエラ」などは今でも見ることがあるが、比較的最近まで国の機関が使っていたとはね。

公的機関が使うか使わないかは措いて、そもそも「ヴ」は必要なのだろうか。日本語の音韻体系において /b/ と /v/ の対立はないから、音韻と表記の関係という観点からは「ヴ」は必要ない。日本語母語話者でバイオリンの語頭音を [v] で発音している人は極めて少ないだろう (自分は [v] で発音しているという、音楽にも音声学にも造詣の深い友人がいるので、ゼロでないことは確かだが)。

また、「ヴ」で書いたからといって [v] の発音ができるようになるわけでもない。僕は子どもの頃「ヴ」を見たら [gw] のように発音していた。「ウ」を力んで発音すればそうなるでしょ? つまり僕は日本語の音韻レパートリーの中で表記に対応していそうな発音を勝手に割り振っていたわけだ。今は「ヴ」を見たら [v] のような発音をすることがあるかも知れないが、別にそうしなければいけないと思っているわけではない。

さて、書記法の厄介なところは、音韻との対応で話が終わらないことだ。かなりの程度音韻的なスペイン語正書法でも、発音上区別のない b と v を書き分ける (これは歴史的な経緯によるもので、一応語源に従って区別することになっている)。バイオリンは violín と書き、ビニールはタイトルに書いたように vinilo だ。それに対して、同様に /b/ と /v/ の対立がないバスク語の正書法は、スペイン語のものより音韻との対応度がより高く、biolin とか binilo とか書くけれども、外来語の中には v で書かれるものがある。特に固有名詞はそうで、ベネズエラは Venezuela だ。

日本語は漢字仮名交じりで書く伝統の中で、同音異義語を異なる漢字で区別したり、同じ単語を漢字で書いたりかなで書いたり、音韻との対応とは別のレベルで機能する区別があり、書き手の裁量に任される部分がある。「ヴ」もその中で「バ」行と共存していると考えることができる。つまり、「バイオリン」と「ヴァイオリン」の関係は「仮名」と「カナ」と「かな」の間の関係と似ていて、同じ語・同じ発音に対応する表記上のバリアントあるいはヴァリアントだということだ (表記を見なくても常に [v] で発音する個人がいたとしても、日本語に /v/ という音素がないのであれば、今の議論では「同じ発音」という言い方は成り立つ)。

「ヴ」の特殊性は、外来語専用文字ということだろうか。NHKの記事によれば福澤諭吉が広めたのだそうだ。ネットで検索してみると、福澤は自分が「ヴ」を創作したと言っているらしいが、実際にはそれ以前の用例が見つかるとのこと。とは言え、一般化したのは明治以降なのだろう。西洋の言葉を写すのに使ったという経緯があるからだろう、昔の僕にとっては「ヴ」を使った表記は「かっこいい」「知的な」印象を与えるものだったが、今では近代日本の西欧に対する憧れの残滓のように見える。他人が使うのを止める気もないが、自分から進んで使うことはない。ただし、固有名詞、特に人名については、慣用に従うということで構わないかなと思っている。例えば「ビラ・ロボス」より「ヴィラ・ロボス」の方が馴染みがあるので、あまり考えずに後者で書くような気がする。

というわけで、僕は完徹しない音韻対応主義者なのだが、物事は体系性が大事なので、「ヴ」派の人たちには次のような例で頑張って欲しいと思っている (列挙が体系的でも網羅的でもないことはお許しいただきたい): ヴィニール (またはヴァイナル)、ヴィタミン、ヴァレーボール、ヴァーサス、エレヴェーター、サーヴァー、カヴァー、カーヴ、カーナヴィ、ヴァレンタインチョコ・・・

あ、それから「ベートーヴェン」はお勧めしない。「ベートホーフェン」の方が良い。それが嫌なら「ベートーベン」で我慢することだ。

2019年3月13日水曜日

Ingratos

『情熱でたどるスペイン史』、レコンキスタや海外植民でバスク人が活躍し、バスク地方でカスティーリャ語が普通に使われていたというの直後に次の文章が来る。

これをおもしろくないと思うのはスペイン・ナショナリスト以上に地域ナショナリストでしょう。彼らは知ってか知らずか、言語を根拠に民族のちがいを言いつのり、非カスティーリャ化、反中央集権主義の政治運動を遂行してきました。(池上 2019: 219)

僕は「知ってか知らずか」の意味が良く分からないのだが、地域ナショナリズムへの批判的姿勢が表れていると読んで先に進むことにしよう。上の引用から punto y seguido で次の言明がある。

さらにカタルーニャの織物工業と重化学・機械工業やバスクの造船、製鉄、金属加工、冶金(やきん)などをてこにした経済的繁栄は、もともとその興隆(こうりゅう)を支援してきたスペイン全体の事業のおかげでもあるのに、貧しい地域に流れる自分たちの税金を取りもどしたい民族主義者たちは、それに忘恩で応えています。(ibid.)

これと同じような話はスペインの友人の口から聞いたことがある。広く行われている議論なのだろう。だが、「忘恩」とはまたすごい単語が出てきたものだ。地域ナショナリズム、あるいは民族主義者たちを批判するのは、それなりの根拠があってのことだろうから、全然問題ない。だが、当事者でない、かつ歴史学者である著者が、こんなに感情的にスペイン・ナショナリズムに肩入れしたような表現を使うのはどうしてなんだろう。かなり不思議だ。

一方、次の引用はどうだろうか。

だが国王に対し、インディアス顧問会議は決然と反対する。世襲化は、国王がせっかく手にした新しい空間を、インディオに対して絶対的な権力をもつ封建領主エンコメンデロに独占させることになる。インディオの改宗事業は断絶するばかりか、忘恩の徒たる連中は、王からの独立を図ることになろう。顧問会議は代替の案として、・・・ (高橋・網野 2009: 164)

ここにも「忘恩」が出てきてちょっとドキッとするが、ちゃんと読めば、「世襲化は・・・図ることになろう」の部分は著者の考えではなくてインディアス顧問会議の言い分だということが分かる。「・・・と言った」みたいな引用標識がないので、表現としては上級編かもしれない。初心者は真似しないほうがいいだろう。こういう書き方はスペイン語の文章でも時々お目にかかるので、読むときには注意しよう。

僕は「忘恩」は理解語彙のうちだが自分で使った覚えがない。スペイン語で何と言うのか自信がないので和西辞典で「忘恩」をひくと名詞 ingratitud が出ていて、形容詞は ingrato のようなので、タイトルにはこっちを使った。だが、このスペイン語も自分で使った記憶がなく、ニュアンスもよく分からない。

そこで CORPES XXI で ingrato を検索すると、男女単複合わせて1145例出てきた。だが、大半は「不快な」とか「報われない」とか物事に言及する用法のようで、最初の20例のうち人 (almas を含む) に言及しているのは5例のみだった。そうすると全部で250例ぐらいという予想が可能で、多くないことは確かだ。実例としては «Así están las cosas, hay que dar gracias de que haya trabajo, no hay que ser un ingrato» なんてのがある。ただ、これを「忘恩の徒」と訳せるかどうか分からない。もしかしたら「不平を言っちゃいけない」ぐらいの、人に対する恩義とは違う話なのかもしれない (コーパスで見られる範囲の文脈をを見た限りでは、そんな感じがする)。

というわけで、ingrato が結構多義的であることだけは分かった。

  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • REAL ACADEMIA ESPAÑOLA: Banco de datos (CORPES XXI) [en línea]. Corpus del Español del Siglo XXI (CORPES). ‹http://www.rae.es› [consultado: 2019/03/08]
  • 高橋均・網野徹哉, 2009, 『ラテンアメリカ文明の興亡』, 世界の歴史18, 中公文庫, 中央公論新社.

2019年3月10日日曜日

entre A o B

ベネズエラ文化を専門にしている友人が、現在のベネズエラ情勢について色々な報道をシェアしてくれている。その中のある記事に、次のような文章があった。

El mandatario venezolano, después de que asumió su segundo gobierno, se ha enfrentado a decisiones en las que las dos opciones que tiene están entre perder o perder. Eso opina un profesor e investigador de la Universidad Central de Venezuela.
(https://www.elespectador.com/noticias/el-mundo/maduro-en-el-perder-perder-articulo-843946)

言っていることは難しくない。マドゥーロに残されたオプションは perder することだけだと言っている人がいるという話だ。面白いのは entre perder o perder のところで接続詞の o が使われていること。僕も entre A y B と習ったけれども、このAとBのあいだの選択が問題になっていると、つい o と言いたくなる。と言うか、言ってしまうことがある。実際に用例はあるわけだが、WordReference界隈では、entre A o B はピンとこない人が多いようだ。

さっきパラパラと RAE & ASALE (2009) を見てみたのだが、entre A o B のパタンについての記述は見つからなかった。僕が見落としている可能性はあるが、規範には採り入れられていないと考えて良さそうだ。

今見ている例では A o B のパタンを利用して A o A と言うことでA以外の可能性を排除する。よく見る表現に sí o sí がある。なので entre A o A という風に o が出てくるのもよく分かる。そうすると、問題はむしろ entre A y A が言えるかどうかなのではないだろうか。誰かがチェックしてくれることを期待したい。

  • RAE & ASALE, 2009, Nueva gramática de la lengua española, Espasa Libros.

2019年3月2日土曜日

Concordancia vizcaína

『情熱でたどるスペイン史』の、前回引用した部分に続いて、スペインの「複合的性格」の具体例が挙げられている。

レコンキスタや海外植民では、カスティーリャ王国の下でバスク人が大活躍しましたし、バスク地方内でカスティーリャ語がごく普通に使われていました。(池上 2019: 219)

ここまで引用しておいた方が、前回の引用部分は分かりやすくなったかもしれない。バスク地方で「カスティーリャ語がごく普通に使われてい」たのは、ローマの支配下で支配者とのインターフェース言語がラテン語になって以来続いてきたことの延長で、単純化して言えば、ラテン語がカスティーリャ語に変化したからだ。だから、バスク語とカスティーリャ語の関係は、それぞれが中世王国の言語だったカタルーニャ語とカスティーリャ語との関係とは異なるとは言える。

バスク地方のカスティーリャ語化の歴史も圧倒的に長い。萩尾 (2005: 92) によれば「紀元1世紀にバスク語が話されていた地理的空間は、北端がフランスのボルドー、東端がアンドラ、南端がスペインのサラゴサとソリアを結ぶ線、西端がサンタンデルとブルゴスを結ぶ線」だった。以来20世紀に至る「縮減」過程は萩尾 (ibid.) の地図が分かり易く示しているのだが、上手くスキャンできなかったので、現物に当たってぜひ確認して欲しい。

それでも、カスティーリャ語化の度合いは、17世紀の初頭にバスク人の喋り方が笑いの対象になる程度のものだった。次に引くのは、『ドン・キホーテ』の中の有名な一節、ビスカーヤ人の発言だ。

—¿Yo no caballero? Juro a Dios tan mientes como cristiano. Si lanza arrojas y espada sacas, ¡el agua cuán presto verás que al gato llevas! Vizcaíno por tierra, hidalgo por mar, hidalgo por el diablo, y mientes que mira si otra dices cosa. (DQ, parte 1, capítulo 8)
(https://cvc.cervantes.es/literatura/clasicos/quijote/edicion/parte1/cap08/cap08_03.htm)

これを注釈者は以下のように訳している。

¿Que no soy caballero? Juro a Dios, como cristiano, que mientes mucho. Si arrojas la lanza y sacas la espada ¡verás cuán presto me llevo el gato al agua! El vizcaíno es hidalgo por tierra, por mar y por el diablo; y mira que mientes si dices otra cosa. (nota 58)

牛島信明訳は

なに、わしが騎士でねえだと? わしゃキリスト教徒だで、神様に(ちこ)うて言うが、お前はひどい嘘っこきよ。お前が槍捨てて剣ぬきゃ、川に投げこまれた猫みてえに、あっという間におだぶつさ。ビスカヤ(もん)は、陸でも海でもどこでも武士(さむらい)で、そうでねえとぬかしゃ、そりゃまっかな嘘っぱちよ。(『ドン・キホーテ 前篇 (1)』156-157)

だが、これは文法的に整っていて、原文の味わいは出ていない。まあ、文法的に破格なところを尊重して訳したら、分かる日本語にならないだろうから、田舎者用の役割語を使って処理したのだろうけれど。ちょっと直訳を試みてみる。

わたし騎士なし? 神に誓ってキリスト教徒ぐらい汝嘘ついている。汝槍捨て剣抜かば、通りは汝が思いでするとすぐに分かるさ。陸でビスカーヤ人、海で郷士、悪魔にかけて郷士。ことを言うなら別の、汝ているぞ嘘つい。

最初の文は動詞がない。Juro で始まる文は tan ... como の形になっているのでそれを活かしたが、そうすると como cristiano が意味不明になる。Si lanza 以下の文は難物だ。条件節は lanza と espada に冠詞がないところが上手く訳せないが、目的語が動詞の前にある点はバスク語の語順を意識しているのかも知れなくて、そこを何とか出来たかも知れない。しかし、冠詞があればこの語順で中世の武勲詩みたいに響くかも知れないので、むしろそれを目指してみた。帰結節は、慣用句 llevarse el gato al agua = salirse con la suya 「猫を水に連れて行く = 自分の思い通りにする」が言いたいことだと注釈が言っている。「私が猫を水に連れて行く」と言うべきところを「水を汝が連れて行く猫へ」みたいな感じになっているわけだ。なので本当に意味をなさない日本語にしてみた (cuán presto のかかり方も、オリジナルではこう読める)。Por el diablo のところは、牛島訳のようなことだろうけれど、おそらく「悪魔にかけて」誓う=悪態をつく形式なのだと思うので、そう訳しておいた。後半の y mientes 以降は、語順が変なところを尊重した。

さて、このビスカーヤ人 (=バスク人) の言説、さっき言ったように、定冠詞があるべきところになかったり、目的語が動詞の前にあったりといった特徴がある。バスク語は名詞の定性を変化語尾の内部で表現する (しかもバスク語の定表現がカスティーリャ語の定表現と一致するわけでもない) ので、カスティーリャ語の定冠詞は習得しにくかったのかもしれない。また、バスク語の基本語順は一応SOVと言われていて、それが反映している可能性はある (mira que mientes であるべきところが mientes que mira になっているのもSOVの反映と見ることが出来る)。

それから、注釈によれば動詞が1人称単数であるべきだが2人称単数になっているところが1箇所ある (llevas)。バスク語の動詞には人称変化があるから、こんな間違いはしないだろうと思うのだが、もしかしたら、バスク語には主語や目的語ではない親称2人称単数 (聞き手) の標識が動詞の活用形の中に表示されるという現象があって (例えば https://nabasque.eus/old_nabo/Euskara/hika.htm 参照)、それと関係しているのかもしれない。まあそこまで考えなくても良いのだろうけど。

ともあれ、注釈によれば «A los vizcaínos se les atribuía un lenguaje convencional (nota 57)» で、当時バスク人を表す役割語が広く用いられていたようなので、このビスカーヤ人の言葉もリアルなバスク人カスティーリャ語を写していると考えない方がいい。重要なのはむしろ、バスク人の話し方について、当時こういうステレオタイプ的イメージがあったということだ。つまり、バスク人はカスティーリャ語を上手く話せないというイメージだ。

そこから concordancia vizcaína 「ビスカーヤ風(文法的)一致」という表現の説明もつく。これは、DRAE によれば «concordancia gramatical defectuosa o incorrecta (RAE & ASALE, 2014: s. v. concordancia)» で、一致ができていないのをこう呼んだわけで、バスク人のカスティーリャ語に対するステレオタイプが元になっている。

バスク地方で「カスティーリャ語がごく普通に使われてい」たことを否定する必要はないと思うけれども、非対称な言語接触下ではこんなことが普通に起こるということも覚えておきたい。


  • Miguel de Cervantes, Don Quijote de la Mancha, edición del Instituto Cervantes, dirigido por Fancisco Rico. https://cvc.cervantes.es/literatura/clasicos/quijote/default.htm
  • セルバンテス作/牛島信明訳, 2001,『ドン・キホーテ 前篇 (1)』, 岩波文庫, 岩波書店.

  • 萩尾生, 2005, 「バスク自治州におけるバスク語」, 坂東省次・浅香武和 (編), 『スペインとポルトガルのことば』, 同学社, 89-117.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • RAE & ASALE, 2014, Diccionario de la lengua española, 23ª edición, Espasa.