2019年2月16日土曜日

Oficialización

『情熱でたどるスペイン史』シリーズ。ちょっとしつこいような気もするが、もう少し続けたい。今回は19世紀を扱った章の、こんな記述。

教育体制の整備、カスティーリャ語の公用語化なども推進されていきます。(池上 2019: 201)

「カスティーリャ語の公用語化」というのが何のことなのか分からない。カスティーリャ語は19世紀の段階では既に公用語になっていると言って良いのではなかろうか。公用語を公用語化すると何が起るのだろうか。

ひとまずスペイン継承戦争 (1701-1714) 後のスペインに関する記述を見てみよう。

バレンシア、アラゴンに続いてカタルーニャにたいしても「征服権」が適用された。ここにアラゴン連合王国のすべての諸国はそれぞれの「地方特別法、諸特権、慣例、慣習」を無効とされて、新組織(ヌエバ・プランタ)王令 (新国家基本令とも訳される) に基づいた制度的改編がおこなわれた。スペイン王国はこれまでの「複合王政」と別れを告げて、オリバーレスの夢であったカスティーリャの法制にそったかたちで、国家としての政治的・法的一元化を達成したのである。もっともフェリーぺを支持したバスク地方とナバーラは、「免除県」としてひきつづき地方特別法を享受した。(立石 2000a: 186-187)

こうやって、勝者の制度が「征服」された諸国に導入されて中央集権的な体制が成立したわけだが、言語に関しては次のような記述がある。

地域的特殊性の強いカタルーニャでは、バレンシアのように民法の廃止にまではいたらなかったが、司法行政の分野においてカタルーニャ語を使用することは禁じられた。王権の意図は、カタルーニャのコレヒドールへの秘密訓令書 (1717年) にみられるように、「カスティーリャ語の導入を最大の配慮のもとにおこなう」ことであったが、じっさいに民衆を言語的・文化的にカスティーリャ化する手だてを講じることはできなかった。(立石 2000a: 187)

つまり、カタルーニャの民衆はカタルーニャ語を使い続けたのだが、行政の言語がカスティーリャ語に統一されたという点が極めて重要だ。18世紀のこの時点でカスティーリャ語が公用語ではなかったと主張するのは相当に難しい。

ちなみに、この辺りにことについて池上は

フェリペに逆らったアラゴン連合王国のすべてのフエロ (地方特別法) が無効とされ、独自議会、ジェネラリタート、百人会議などは廃止されて、政治・行政・司法がカスティーリャの法制に沿って一元化されていきました (池上 2019: 151)

と述べているけれども、言語には触れていない (「カスティーリャの法制」の中に言語が含まれると読むことはできる)。

次に18世紀の教育におけるカスティーリャ語の状況について見てみよう。

1768年には、初等教育とラテン語、修辞学の教育はカスティーリャ語で行うようにという勅令が出されている。また、1780年に認可された初等教育者組合の規約には、全国の学校で王立アカデミーの文法を使って児童の教育を行い、ラテン語は必ずカスティーリャ語文法を学んでから始めるように定められた。 (川上 2015: 167)

当時の就学率の低さを考慮すれば、スペイン中のこどもたちがみんなカスティーリャ語に触れたとはとても言えない。しかし、制度的には初等教育の言語も、やはりカスティーリャ語であるわけで、この言語が公用語でないと言うのはかなり難しい。

もちろん、公用語であるカスティーリャ語の普及度という別の問題は存在する。カスティーリャ語圏では話し言葉レベルでの同言語の普及の問題はないが、就学率や識字率は問題にできる (「1900年になっても識字率は4割に達せず、学齢期の児童の6割は就学していなかった (立石 2001b: 240-241)」)。カタルーニャ語に関しては、Joan Coromines が1950年に書いた («Aquest opuscle es va escriure l’any 1950 (Coromines 1982: 7)») 文章に、以下の記述がある (動詞の現在形に注意)。

Els més educats parlen el castellà amb un accent fort i inconfusible, i els altres és ben clar que solament se’n serveixen amb treballs i molt sovint en forma ben incorrecta; en resta encara un bon nombre, no menys d’un 20%, sobretot dones, que no el saben parlar, i cosa d’un 5% (en zones apartades) que a penes l’entenen. (Coromines 1982: 13)

1950年時点での Coromines の認識では、カタルーニャ語話者の20パーセントがカスティーリャ語を喋れず、5パーセントぐらいは理解も覚束ないという状況だった。19世紀には、この数値はもっと高かったはずだ。だから、「教育体制の整備」とともにカスティーリャ語の浸透が図られたのだろう。しかし、それは「公用語化」とは呼ばない。

いや、これは「公用語」と「公用語化」の定義の問題だと言われれば、ええっと、まあ、そうだ。だったら定義を示して欲しい。池上が、僕が理解するのとは異なる意味でこれらの用語を使っていることは確かだが、一体どういう意味なんだろう。ちょっと想像力が追いつかない。

  • Coromines, Joan, 1982, El que s’ha de saber de la llengua catalana, Editorial Moll.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • 川上茂信, 2015, 「国家語と地方語のせめぎあい」, 立石博高 (編)『概説 スペイン近代文化史』, ミネルヴァ書房, 第7章, 161-181.
  • 立石博高, 2000a, 「啓蒙改革の時代」, 立石博高 (編), 『スペイン・ポルトガル史』, 山川出版社, 第1部第4章, 183-204.
  • 立石博高, 2000b, 「アンシャン・レジームの危機と自由主義国家の成立」, 立石博高 (編), 『スペイン・ポルトガル史』, 山川出版社, 第1部第5章, 205-241.