2014年12月31日水曜日

Swift

あるとき僕のことを flamencólogo と呼ぶ人がいて、不思議な気がしたことがある。僕のつもりとしては lingüista か filólogo なのだが、まあフラメンコについての論文を書いたりしているから、拒否するわけにもいかない。だとすると、スペイン語動詞活用形生成プログラムの開発をめぐる論文を書いている僕は procesamiento de lenguajes naturales を研究する人は何だろう、それだと言われても否定できないことになるか。

実際には自然言語処理と呼べるようなことはほとんどしていないが、文字列を処理する小さいプログラムは日常的に作って使っている。日々の業務には定型的な作業が多いので、それを (半) 自動化しようというのが主な目的だ。プログラムを書くのにかかる時間と、自動化で節約できる時間を比べたことはないが、手動でやるときに混入しかねないミスを排除できる安心感も含めれば、十分おつりが来ていると思う。

さて、プログラミング言語は世の中にたくさんある。僕の日常業務で行う処理に必要なプログラミングスキルなんか大したことはないので、ひとつの言語を深く学んで隅々まで理解したいという気持ちはない。というわけで、ふらふらといろんな言語をかじっている。今主に使っているのは Ruby で、少し本格的なものは Ocaml で書く。気が向いたら Clojure で書いてみたり、必要に迫られて AppleScript で作ったりしている。過去に「業務用」に使ったことのある言語はもっとあるが、現在僕のパソコン上で動いているプログラムはこれらの言語で書かれている (TeX を入れればこれも)。で、今回 Swift で小さいのを1つ書いた。

Swift は Apple が開発した言語で、iOS と Mac をターゲットにしている。自作の僕専用のプログラムを将来他の人にも使ってもらうためには、それなりのユーザーインターフェイスを構築する必要があるが、その際に使用する言語の候補として検討する、というのは表向きの理由で、本当は単にのぞいてみたかったのだ。静的型付けで型推論があり、シンタクスが単純なのでとりあえずは書き易い。「良い意味で、先行する他言語の寄せ集めになっている (荻原剛志 2014『詳解Swift』SBクリエイティブ、iii)」とは言い得て妙で、浅くざっと見ただけだが、いくつか思い出す言語があった。

今回書いたのは、標準入力またはファイルから複数行のデータを読み込み、それをランダムな順番に並べ替えて出力するプログラム。たとえば、この記事のデータを読み込んで「実際には・・・思う。/Swift は・・・あった。/あるとき・・・なるか。/今回・・・思う。」のように出力する (画面上は複数行にわたって見えるが、これらが我々が「行」と呼ぶものだ)。そんなプログラムが何の役に立つのかというと、たとえばテストの問題を作るときに既に存在するデータからランダムにいくつか選び出したいときなどに使える。最初String型とNSStringクラスの関係が理解できなかったり、オプション型の扱いに慣れなかったりしたが、まあ速く書けたのではないかと思う。

2014年12月30日火曜日

Ambos

El País の記事から: «Las diferentes estrategias que ambos partidos proponen para alcanzar la independencia han impedido hasta la fecha cumplir con el requisito que puso Mas para convocar elecciones (Elpais.com)».

この ambos だが、特に珍しい使い方ではない。しかし ambos を「両方 (の)」として覚えた僕にとっては、注意を引き、意識的に覚えるべき用法だった。僕の語感では「両方」は両方が同じという印象がある (よく内省してみるとそうでもないかもしれないが)。一方、上の例では ambos partidos つまり Convergència と Esquerra Republicana がそれぞれ異なる戦略を提案している。なので「両方の政党が独立を達成するために提案している異なる戦略」みたいに訳してしまうと、ちょっと落ち着かない。

内省したらと書いたが、実際もう上の日本語は良いとも悪いとも思えない。でも、少なくとも「両者の違い」は問題ないけれど「両方の違い」は「両方」で指示されている二者の間の違いという意味ではピンと来ない。これは「両者」と「両方」の間に意味論的差異があるのか使い慣れの問題なのか良く分からないが、とにかく僕には違いがあるように感じられる。

あ、もっと良いのがあった。これは「両方」じゃ訳せないと思うのだが、どうだろう: «Castro fue el primero al que el mandatario estadounidense encontró. Ambos se dieron la mano e intercambiaron algunas palabras y por momentos mostraron una sonrisa (CNN)».

こういうのは普通は対照言語学で扱おうと思うものなのだろうけれど、僕はむしろ翻訳論の問題として考えてみたいかなと思ったりしているところ。

2014年12月23日火曜日

Gran crónica del cante 16

出来上がって来たので早速聞いてみる (曲目はこちら)。



最初の Niña de los Peines のペテネーラスで鳥肌が立つ。何度か聞いたことのある演唱だが、いつもそうなるとは限らない。ある程度の音量で、スピーカーの音を直接というより部屋に響く声を聞くという感じだったのが影響しているかもしれない。それにしても恐ろしいカンタオーラだ。

Manuel Vallejo の凛としたシギリージャもいい。Vallejo はもともと有名だし優れたカンタオールだということになっているが、もっと評価されていい人だろう。全集も出ているので、一度じっくり聞いてみたい (が、なかなか時間がとれない)。

さて、他にも触れるべきものはあるだろうけど、とりあえずパスして、今回の特集のマリアーナス。4人の演唱が収録されていて、どれも面白いが、やはり Niño de las Marianas のものが別格というか、ちょっと違う世界を目指しているというか、これが芸名になってしまっただけのことはある仕上がりだ (Ramón Montoya の伴奏が他の人たちのより格段に深いことも、これに貢献しているだろう)。個人的には Garrido を発見したり Escacena の上手さに気づいたり、いろいろと収穫があった。Adela López に関しては、資料が手に入らなかったので大したことは書けなかったが、ギターじゃない伴奏のカンテについての研究がもっと進むと (つまり誰かがやってくれれば) 面白いだろうと思う。

買ってね。

2014年12月20日土曜日

Persona

「人称」と訳す。スペイン語は動詞が主語の人称と数に応じて形を変える言語で、この活用を覚えるのが一大事なのだが、僕はずっと、これは面倒だけれども難しくはないと高を括っていた。つまり、形を覚える作業は大変かもしれないが、人称・数に応じた活用という現象を理解すること自体には何ら問題はないと思っていたわけだ。ところが、最近そうでもなさそうだという話を聞いた。

僕にそれを教えてくれた人は高校でスペイン語を教えていて、その経験から言える傾向として、まず勉強を始めて動詞が活用するという事態に遭遇して大きくモティベーションが下がる。その状態では何も頭に入らなくても無理はないかもしれないとは言え、たとえば次のようなことが起こる。活用表には yo, tú などの人称代名詞に対応した動詞の形は載っているが Pedro に対応した形は載っていないので ser であれば es になるということが分からない。そこを何とか乗り越えても Pedro y María が待っていて、この場合 son になることが理解できない。もちろん Pedro y yo に対して somos を思い浮かべるのも難しい。さらには、人と物が同列に扱われて Pedro も la mesa も動詞が同じ形 es になることも納得できない。

こういった例は、ごく少数の学習者に見られる例外的な現象なのかもしれない。しかし問題であることに変わりはない。考えてみれば当然で、日本語には主語の人称・数に応じた動詞の活用が存在しない。だから、人称という概念がうまく理解できないとしても不思議ではない。もしかしたら、それなりに深刻な問題なのかもしれない。「人称」という用語を使うかどうかとは独立に、どこかでこれを押さえておく必要があるという気がしてきた。

それはそれとして、Pedro と la mesa を同列に扱うことへの疑問は、なんとも素晴らしい。日本語話者には有生性の方が人称よりも分かりやすいということか。