2015年12月31日木曜日

Entrecomillando comillas

卒論の原稿へのコメントがー段落したところで、毎年直面しているある瑣末な問題について。

卒論に限らないのだが、学生たちの書いたものには ”entrecomillado” のような引用符の使い方が多く見られる。気持ちに余裕があるときは、こういう例はいちいち “entrecomillado” に直せと指示するのだが、その元気がないこともある。違いが分からないという人のために一応確認しておくと、前者は両方とも ” になっているので僕が始めのを “ に直させるということだ。つまり、学生たちが《 」かっこつき」》のように書いているのを僕が《「かっこつき」》にしろと言って回っているわけ。

この現象は欧文環境では起こらない: «el “entrecomillado” está bien» し、邦文環境でも「こんな “entrecomillado” は大丈夫」のような場合は現れない。出て来るのは「そんな”entrecomillado”はダメ」みたいな場合だ。違いが分からない人は、自分でもダメな”entrecomillado”をやっている可能性が高いと思うが、そう、引用符の前後のスペースの有無が決め手なのだ。欧文では起こらないと書いたが、スペースを入れなければ «el”entrecomillado” no está bien» になるだろう。

こんな書き方をしたので、学生が意識してそう書いているのではないと僕が思っていることは分ると思う。犯人はワープロのオートコレクト (自動置換) 機能だ。この機能がオンになっていると (たいていなっている)、たとえば " (日本語キーボードでは shift + 2) を入力すると文脈に合わせて “ か ” に置き換えてくれるというわけだ。まあ便利と言えば便利だが、さて " を使いたいときはどうすれば良いのか僕は知らない。問題は、この置き換えが常に使い手の意図通りに行くとは限らないということだ。で、全角文字と半角文字の間にスペースを入れる習慣のない人は、上のような無様な”entrecomillado”を晒すことになる。

それを防ぐ簡単な方法は、全角文字と半角文字 (漢字・かなとローマ字、邦文と欧文) の間には常に (半角) スペースを入れるということだが、もうひとつの手は、ワープロに任せず “ と ” を自分で入力することだ。これらの文字はキーボード上の見えるところにはないが、入力の仕方はある。僕は Mac 上で Spanish-ISO を使って欧文を入れているが、それぞれ option + 8 と option + 9 で出る。shift + 2 とほとんど変わらないし、オートコレクト機能のないソフトでも入力できる。僕はふだんワープロを使わないので、この入力方法が必須だ。Windows で同様に簡便な入力方法があるかどうか知らないので、各自調べること。もしないのならばスペースを忘れない習慣をつける必要がある。マクロの書ける人は、これらを挿入するマクロを作って入力しやすいキーに割り当ててもいいだろう (”entrecomillado” を “entrecomillado” に変換するマクロを作ってもいいが、それはこの記事の趣旨と合わない)。

あるいは、オートコレクト機能を外して " を使うのも悪くない。つまり "entrecomillado" にするということだが、タイプライターでものを書いていた頃はこうだったわけだし、”entrecomillado” よりずっとカッコいい。

僕は ”entrecomillado” を見るたびに、どうして直さないんだろう、気持ち悪くないんだろうか、と思う。内容には関係のない瑣末なことには違いないが、”entrecomillado” がみっともないだけでなく、まともな “entrecomillado” と混ざっているのがまた見苦しい。これは美意識の問題でもあるが、体系的思考の問題でもある。書記上の一貫性・体系性の欠如を放置して平気でいられるというのが、僕には理解できないのだ (それを美意識と呼ぶことに異論はないが)。

だから長い間ずっと不思議に思っていたのだが、数日前にふと思い当たったことがある。もしかしたら ”entrecomillado” と書いている人たちはこれがワープロのオートコレクト機能が働いた結果だということを知らないのかもしれない。本当は " という文字を入力しているとは知らず、これはそういうものだと思っている、いや特に何も思っていないのかもしれない。まあ、それでも書記上の一貫性・体系性の欠如を放置している点は変わらないし、ついでにワープロに対する主体性の放棄という点も見過ごしてはいけないと思うが、これならば僕にとってより理解しやすい現象になる。そういう人たちに対しては、”entrecomillado” は “entrecomillado” に直すべきだということをまず言わなければならない。そしてワープロが彼らの知らないところで勝手に " を “ か ” に変えていることを分かってもらう (試しに “ か ” が現れた直後に編集メニューで「元に戻す」を選んでみるとよい)。あとは各自好みの方法で現象に対処すればいいのだが、ワープロではなくエディタで文章を書くというオプションを提示するのが、長い目で見れば親切かもしれない。

そういえば、«puerto» の話で引用した DCECH は ’puerto’ のような書き方をしていて気持悪い。その時は引用なのでその通りにしたが、本来 ‘puerto’ のように書くべきだ。なんでこんな風にしてあるのかは分からないが、真似はしないように。

2015年12月27日日曜日

Gran crónica del cante 18

僕の原稿が遅れに遅れ、各方面に迷惑をかけたのだが、なんとか年内に完成。ほっ。曲目はこちら


今回の特集はガロティン。僕の友人の知り合いに、僕が勤務する大学のスペイン舞踊部のファンがいて、毎年の大学祭を楽しみにしているらしい。その人が僕の友人に、あの帽子をかぶって踊る踊り良いですよね、と言うのだそうだ。そうやってフラメンコを知らない人にも認知されているガロティンだが、今のフラメンコにおける位置づけは周辺的だ。ところが、20世紀の初頭、これがずいぶん流行したらしい。素人のお嬢さんたちが競ってこの踊りを習っている様子を風刺した記事が1911年に書かれている (Gelardo Navarro 2014: 133-5) ほどだ。そして、その記事の中でガロティンが baile gitano と形容されているのも興味深い。我々のCDには Mochuelo が歌った «Garrotín gitano» が収録されているが、ガロティンとヒターノの組み合わせを意外に思う人も多いだろう。まあ、新聞やレコードのタイトルなんか、ちゃんとした知識なしに書いている可能性もあるのだが、フラメンコとジプシー概念の関係は一部の人々が思っているほど単純なものではないし、不変でもない。

特集の担当は僕ではないので、以上はCDの解説には載っていない番外的補足。僕はガロティンが大好きで、Rafael Romero と Niña de los Peines が泣けるガロティンの双璧だと思っている。それから Tomás Pavón がレパートリーとしていたという記述 (Bohórquez 2000: 321, 2007: 132) もあって、聞いてみたかったと思う。今回の録音はガロティンが大いにはやっていた頃のもので、それぞれ楽しいが、やっぱり別格の Pastora 以外では Niño de Medina がすごい。

自分が担当した部分での発見は Niño de Alcalá と Niña de la Alfalfa。原稿を書くために集中して聴かなかったとしたら、素通りしていただろう。特に la de la Alfalfa が素晴らしい。


  • Bohórquez Casado, Manuel, 2000, La Niña de los Peines en la Casa de los Pavón, Signatura.
  • —, 2007, Tomás Pavón: El príncipe de la Alameda, Pozo Nuevo.
  • Gelardo Navarro, José, 2014, ¡Viva la Ópera Flamenca!: Flamenco y Andalucía en la prensa murciana (1900-1939), (Colaboración: Mª Amparo Fernández Darós), Universidad de Murcia.
(2015/12/28 加筆)