2015年12月31日木曜日

Entrecomillando comillas

卒論の原稿へのコメントがー段落したところで、毎年直面しているある瑣末な問題について。

卒論に限らないのだが、学生たちの書いたものには ”entrecomillado” のような引用符の使い方が多く見られる。気持ちに余裕があるときは、こういう例はいちいち “entrecomillado” に直せと指示するのだが、その元気がないこともある。違いが分からないという人のために一応確認しておくと、前者は両方とも ” になっているので僕が始めのを “ に直させるということだ。つまり、学生たちが《 」かっこつき」》のように書いているのを僕が《「かっこつき」》にしろと言って回っているわけ。

この現象は欧文環境では起こらない: «el “entrecomillado” está bien» し、邦文環境でも「こんな “entrecomillado” は大丈夫」のような場合は現れない。出て来るのは「そんな”entrecomillado”はダメ」みたいな場合だ。違いが分からない人は、自分でもダメな”entrecomillado”をやっている可能性が高いと思うが、そう、引用符の前後のスペースの有無が決め手なのだ。欧文では起こらないと書いたが、スペースを入れなければ «el”entrecomillado” no está bien» になるだろう。

こんな書き方をしたので、学生が意識してそう書いているのではないと僕が思っていることは分ると思う。犯人はワープロのオートコレクト (自動置換) 機能だ。この機能がオンになっていると (たいていなっている)、たとえば " (日本語キーボードでは shift + 2) を入力すると文脈に合わせて “ か ” に置き換えてくれるというわけだ。まあ便利と言えば便利だが、さて " を使いたいときはどうすれば良いのか僕は知らない。問題は、この置き換えが常に使い手の意図通りに行くとは限らないということだ。で、全角文字と半角文字の間にスペースを入れる習慣のない人は、上のような無様な”entrecomillado”を晒すことになる。

それを防ぐ簡単な方法は、全角文字と半角文字 (漢字・かなとローマ字、邦文と欧文) の間には常に (半角) スペースを入れるということだが、もうひとつの手は、ワープロに任せず “ と ” を自分で入力することだ。これらの文字はキーボード上の見えるところにはないが、入力の仕方はある。僕は Mac 上で Spanish-ISO を使って欧文を入れているが、それぞれ option + 8 と option + 9 で出る。shift + 2 とほとんど変わらないし、オートコレクト機能のないソフトでも入力できる。僕はふだんワープロを使わないので、この入力方法が必須だ。Windows で同様に簡便な入力方法があるかどうか知らないので、各自調べること。もしないのならばスペースを忘れない習慣をつける必要がある。マクロの書ける人は、これらを挿入するマクロを作って入力しやすいキーに割り当ててもいいだろう (”entrecomillado” を “entrecomillado” に変換するマクロを作ってもいいが、それはこの記事の趣旨と合わない)。

あるいは、オートコレクト機能を外して " を使うのも悪くない。つまり "entrecomillado" にするということだが、タイプライターでものを書いていた頃はこうだったわけだし、”entrecomillado” よりずっとカッコいい。

僕は ”entrecomillado” を見るたびに、どうして直さないんだろう、気持ち悪くないんだろうか、と思う。内容には関係のない瑣末なことには違いないが、”entrecomillado” がみっともないだけでなく、まともな “entrecomillado” と混ざっているのがまた見苦しい。これは美意識の問題でもあるが、体系的思考の問題でもある。書記上の一貫性・体系性の欠如を放置して平気でいられるというのが、僕には理解できないのだ (それを美意識と呼ぶことに異論はないが)。

だから長い間ずっと不思議に思っていたのだが、数日前にふと思い当たったことがある。もしかしたら ”entrecomillado” と書いている人たちはこれがワープロのオートコレクト機能が働いた結果だということを知らないのかもしれない。本当は " という文字を入力しているとは知らず、これはそういうものだと思っている、いや特に何も思っていないのかもしれない。まあ、それでも書記上の一貫性・体系性の欠如を放置している点は変わらないし、ついでにワープロに対する主体性の放棄という点も見過ごしてはいけないと思うが、これならば僕にとってより理解しやすい現象になる。そういう人たちに対しては、”entrecomillado” は “entrecomillado” に直すべきだということをまず言わなければならない。そしてワープロが彼らの知らないところで勝手に " を “ か ” に変えていることを分かってもらう (試しに “ か ” が現れた直後に編集メニューで「元に戻す」を選んでみるとよい)。あとは各自好みの方法で現象に対処すればいいのだが、ワープロではなくエディタで文章を書くというオプションを提示するのが、長い目で見れば親切かもしれない。

そういえば、«puerto» の話で引用した DCECH は ’puerto’ のような書き方をしていて気持悪い。その時は引用なのでその通りにしたが、本来 ‘puerto’ のように書くべきだ。なんでこんな風にしてあるのかは分からないが、真似はしないように。

2015年12月27日日曜日

Gran crónica del cante 18

僕の原稿が遅れに遅れ、各方面に迷惑をかけたのだが、なんとか年内に完成。ほっ。曲目はこちら


今回の特集はガロティン。僕の友人の知り合いに、僕が勤務する大学のスペイン舞踊部のファンがいて、毎年の大学祭を楽しみにしているらしい。その人が僕の友人に、あの帽子をかぶって踊る踊り良いですよね、と言うのだそうだ。そうやってフラメンコを知らない人にも認知されているガロティンだが、今のフラメンコにおける位置づけは周辺的だ。ところが、20世紀の初頭、これがずいぶん流行したらしい。素人のお嬢さんたちが競ってこの踊りを習っている様子を風刺した記事が1911年に書かれている (Gelardo Navarro 2014: 133-5) ほどだ。そして、その記事の中でガロティンが baile gitano と形容されているのも興味深い。我々のCDには Mochuelo が歌った «Garrotín gitano» が収録されているが、ガロティンとヒターノの組み合わせを意外に思う人も多いだろう。まあ、新聞やレコードのタイトルなんか、ちゃんとした知識なしに書いている可能性もあるのだが、フラメンコとジプシー概念の関係は一部の人々が思っているほど単純なものではないし、不変でもない。

特集の担当は僕ではないので、以上はCDの解説には載っていない番外的補足。僕はガロティンが大好きで、Rafael Romero と Niña de los Peines が泣けるガロティンの双璧だと思っている。それから Tomás Pavón がレパートリーとしていたという記述 (Bohórquez 2000: 321, 2007: 132) もあって、聞いてみたかったと思う。今回の録音はガロティンが大いにはやっていた頃のもので、それぞれ楽しいが、やっぱり別格の Pastora 以外では Niño de Medina がすごい。

自分が担当した部分での発見は Niño de Alcalá と Niña de la Alfalfa。原稿を書くために集中して聴かなかったとしたら、素通りしていただろう。特に la de la Alfalfa が素晴らしい。


  • Bohórquez Casado, Manuel, 2000, La Niña de los Peines en la Casa de los Pavón, Signatura.
  • —, 2007, Tomás Pavón: El príncipe de la Alameda, Pozo Nuevo.
  • Gelardo Navarro, José, 2014, ¡Viva la Ópera Flamenca!: Flamenco y Andalucía en la prensa murciana (1900-1939), (Colaboración: Mª Amparo Fernández Darós), Universidad de Murcia.
(2015/12/28 加筆)

2015年9月10日木曜日

Tu número (que no es mío)

ふと気がつくと「マイナンバー制度」が始まるということでいろいろなところでこの言葉に遭遇するようになった。で、このダサい名前どうにかならないのかと思う。前々から批判の多いカタカナ語の使用がみっともないというのはもちろんだが、たとえば以下のようなことが起こるのも格好悪い。



個人的には「あなたのマイナンバー」って誰の番号? とか言ってみたいところだが、英語かぶれだと思われたくないのでやめておく。そう、「マイ」というのはれっきとした日本語で、「マイカー」や「マイホーム」といった語 (だろうか) の構成要素として何十年も使われ続けているのだ。もちろん英語の my が借用されたものだが、外来語として定着する過程で日本語の体系に合わせた変容を遂げている。つまり、元の my にあった所有の観念は受け継ぎつつ、1人称という概念は捨て去ったのだ。これは、日本語に人称という文法 (形態論的) 範疇がないのが影響しているだろう (とはいえ、同様のことが言えるはずの数については単数所有者という意味が残っているような気もする。本当は、僕のこの直観が実態に即しているかどうかも含めてちゃんと分析しないといけないが)。

ちなみに、人称とか数とかの文法範疇がなくても言語として困ることはない。日本語でも必要に応じて話し手や聞き手やその他を表現することは難なくできるし、なにかが1つなのか複数あるのかも言う必要があれば言えるわけだ。こういう文法範疇を備えた言語の方が高級だなんてこともない。

「マイ」は僕の嫌いな日本語だが、みんなが普通に使っているのなら仕方ない。ただ、1人称単数の英語 my と、その制限がない日本語「マイ」の違いを英語教育できちんと確認する必要はあるだろう。偽りの友ってやつだ。

2015年8月14日金曜日

Gran crónica del cante 17



曲目はこちら

今回は Niña de los Peines 級の大物はいないが、チラシ風の言い方をすれば実力派ぞろい (本当は「実力派」ってのがどういう流派あるいは派閥なのか分からないのだが)。Guerrita, Niño del Museo, Niño de Utrera の3人は年齢も近く、オペラ・フラメンカに出演したりと共通点が多い。一応説明しておくと、オペラ・フラメンカというのは、物語的な筋があるわけではなく、出演者がそれぞれのレパートリーを歌うという興行形態のもの。もとは Vedrines という興行主が自分の企画につけた名前だが、すぐに普通名詞化した。歌われたレパートリーは当時流行のファンダンゴ一色だったわけではなく、幅広い種類のカンテが歌われていた。ソレアやシギリージャといった本格的なレパートリーもその例外ではない。オペラ・フラメンカを堕落の象徴のように捉える見方がかつては支配的だったが、それも中身をよく知らずに決めつけていた側面があり、今ではより客観的評価がされるようになってきている (少なくとも研究者の間では)。

また、Guerrita, Niño del Museo, Paco (Niño) Isidro は La copla andaluza という劇場作品に出演しているという共通点を持つ。これは一応筋のある作品で、1928年の暮れに初演されて大ヒットし、後に映画にもなった。Niño de Utrera はこれには出ていないようだが、やはりいくつか劇場作品に出演している。

さらに、Imperio Argentina は1930年代に絶大な人気を誇った歌える女優、Lola Flores はその後の世代でやはり一世を風靡した大スターだ。2人とも純粋にフラメンコだけという人ではない。特に Imperio Argentina は Blas Vega と Ríos Ruiz の辞書に見当らないので、基本的には別ジャンルの人だと認識されているわけだ。しかし、こういう人が自分が主演する映画の中でフラメンコを歌ったという事実自体が非常に重要なのだ。映画、ラジオといったメディア、それを言うならレコードもそうだが、これとフラメンコの関係は、何となく人々が思っているであろうよりもずっと密接なのだ。劇場や大観衆向けのオペラ・フラメンカも含め、こういう形でフラメンコが多くの人々が楽しめるジャンルになったわけだ。

もちろん、さっき述べたように、この時代のフラメンコを評価しない人たちも多いのだが、マーケットが大きくなれば売れることだけを目指した薄いパフォーマンスが増えることは想像できるし、ファンダンゴの隆盛はカンテをよりお喋りに・センチメンタルにしたかもしれない。でも、このCDの演唱を聞いてみれば、皆それぞれ個性があって上手い人たちだということが分るはずだ。ひとり、時代の流れと距離を置いていた (あるいは流れの方が寄って来なかった) ようなのが Paco el Boina だが、言わばよりプーロなこの人と他の人たちの間に芸術的レベルという点で違いがあるとも思えない。

今回のメンバーの中で気に入った歌い手を1人選べと言われたら、ちょっと迷うが Guerrita にしておこうか。タランタがいい。特集の Niño Isidro はまだ聞き込んでいないのだが、Paco Toronjo につながる道筋が確かに見えたのが収穫。


Blas Vega, José & Ríos Ruiz, Manuel (1990), Diccionario enciclopédico ilustrado del flamenco, 2ª edición, Editorial Cinterco.

2015年8月13日木曜日

Esofagogastroduodenoscopia

Por primera vez en mi vida he «tragado» este instrumento (solo parte de él, para quien lo dude). En realidad me lo introdujeron por la nariz (por el orificio derecho, para ser exacto). El nombre es muy largo, pero el examen solo duró una media hora. No dolió nada, aunque cuando la punta del instrumento pasó por la garganta tuve un natural reflejo de náusea muy ligero y durante el esofagogastroduodenoscopiaje sentía la presencia de algo duro en la garganta (claro, ahí estaba).

Por algo lo hice: en el chequeo anual me detectaron anomalía en el estómago y en el duodeno, y me mandaron a hacerme un examen más detallado. El resultado: gastritis crónica leve y una úlcera duodenal ya cicatrizada, o sea, poca cosa. En cuanto a la helicobacteria pylori, hay que esperar unos días el resultado de la prueba para saber si reside en mi estómago.

Ya era hora de que me trataran como es debido: como una persona respetable con una enfermedad crónica, ¿no?

「胃カメラを飲む」という言い方がある。でも最近のやつは鼻から入れるんだから「飲む」じゃないだろうという線でこの記事を書き始めたのだが、最初にカメラの先端が喉を通るときにやはりちょっと入りにくくて、看護師さんに「ぐっと飲み込んでください」と言われたことを思い出した。もちろん言われた通りにしたので、やはり飲んだのだろう。『大辞林』(iOS版) の「飲む」の定義は「口の中の物を腹の中へ入れる」だが、「食べる」との対比においては「噛まずに」という特徴があるはずだ。「腹の中に入れる」という点については、嚥下つまりゴクンという喉の動きが必要なのではないか。意味論的には意図的動作ということであって嚥下時の喉の動きが関与的というわけではないとは思うが、今回僕が胃カメラを飲んだのだとすれば、飲むことにとって重要なのは喉を通すということで、口からというのはプロトタイプ的特徴ということになるのかもしれない。

2015年7月29日水曜日

Puerto

てなわけで、『スペイン語学概論』の出版を祝って執筆者仲間で会食。場所は渋谷駅から遠くないところにあるバスク料理店サンジャン・ピエドポー。とても美味しく楽しい夕食だった。僕は料理の写真を撮る習慣を持たないので、どんなものを食べたかを見せることは出来ないが、今回のテーマは食べ物ではないので、特に影響はない。

店の名前はフランス語 Saint-Jean-Pied-de-Port に由来する。スペインとの国境近くにある町の名前だ (スペイン語では San Juan Pie de Puerto)。さてこの町、店内の壁にはってある地図で見たら海沿いにあるわけではない。それで puerto には「峠」という意味があることを思い出した。帰ってからオンラインで見た DRAE (22版) の «3. m. Paso entre montañas» にあたるだろう。ついでに «4. m. Montaña o cordillera que tiene uno o varios de estos pasos» というのがあることも分かった。もしかしたらこっちの意味で pie は峠に至る山の麓という感じなのだろうか?

iPad に入っているフランス語の辞書 (『プチ・ロワイヤル仏和辞典』第4版) は「港」の port とは別見出しの port で「(ピレネー山脈の) 峠」という説明をしている。ということは地域限定なわけだ。で、ラテン語学習アプリに入っている Lewis & Short の辞書で portus を引くと、峠にあたる語義は見当らない。なるほど、ラテン語に一般的な意味として存在していたわけではなかったことを認識。

じゃあ真面目に調べるしかない。職場で Corominas & Pascual の DCECH をチェック。すると、こんなことが書いてあった: «PUERTO, del lat. PŎRTUS, -ŪS, ’entrada de un puerto’, ’puerto’; pero en el  sentido de ’collado de la sierra’ y ’territorio serrano’, que es particular del castellano, con el catalán, mozárabe, vasco y gascón, el vocablo procede del sorotáptico PŎRTUS, de igual etimología indoeuropea que la voz latina, pero con un significado más semejante al de sus hermanos proétnicos, avéstico pərətuš ’pasaje, entrada, portillo’, gr. πόρος ’pasaje’, scr. pārti ’conduce al otro lado’, esc. ant. fjörðr ’paso de mar entre montañas’, etc. (s. v. puerto)».

ううむ、そうなるとこの sorotáptico という聞き慣れない言語の正体が問題になる。検索してみると、なんと: «El idioma sorotáptico o sorotapto (del griego σορός sorós 'urna funeraria' y θαπτός thaptós 'enterrado') es una lengua indoeuropea antigua presumiblemente hablada en la parte oriental de la Península Ibérica. El término sorotapto fue acuñado por Joan Coromines para referirse a la presunta lengua de los pueblos de los Campos de Urnas que ocupaban la península durante la Edad del Bronce. Las evidencias de la lengua serían de tipo toponímico, que apuntan hacia a (sic) una lengua indoeuropea precéltica (Wikipedia, s. v. Idioma sorotáptico)» とのこと。つまり Coromines (DCECH では Corominas になっているが、これはカスティーリャ語式の綴りで今は Coromines と書く方が普通みたいなので、それに従う) が作っ、いや説明のために存在を想定した言語なのだった。なのでこの説明は鵜呑みにできない。

なお、アストゥリアス語アカデミーのアストゥリアス辞典は «puertu, el: sust. Pasu [altu pel que se pasa o traviesa un monte, un cordal]. 2 Zona [alta d’un monte, d’un cordal con mayaes y pastu a onde se lleva’l ganáu]. 3 Sitiu [acotáu y abrigáu na costa, preparáu p’amarrar, pa cargar y descargar les embarcaciones] (DALLA, s. v. puertu)» としていて、山関連の語義を「港」より先に載せている。ガリシア語アカデミーの辞書は porto の2番目に «Punto xeográfico situado nunha zona elevada de montaña ou entre montañas, por onde resulta máis doado o paso de persoas e vehículos e a construción dunha vía de comunicación (DRAG, s. v. porto)» を載せている。ポルトガル語の手元の辞書は porto にこの語義を載せていないが、Wikipedia の passo de montanha の説明が: «Um passo (também, colo, porto ou portela) em terminologia de montanha é um acidente geográfico definido como o ponto mais baixo entre dois picos pertencentes à mesma aresta, facilitando a passagem através da cadeia de montanhas, o que corresponde a uma passagem ligando dois vales (Wikipedia, s. v. Passo de montanha)» となっていて、使われていることが分かる。

Corominas が対応するバスク語の単語として挙げているのは bortu だ。いかにも sorotáptico から来たような顔をしている。他に mendate というのがあって、こちらは mendi 「山」と ate 「とびら」の複合語だ («mendate, mendi-ate. Puerto de montaña. (OEH, s. v. mendate)»)。つまり puerto ではなくて puerta だ。なお、辞書をざっと見た限りではどちらにも「港」の意味はなさそうだ。

Saint-Jean-Pied-de-Port はフランスバスクに位置する。当然バスク語名がある。Donibane Garazi がそれだが、Donibane が San Juan にあたり、Garazi はフランス語で le pays de Cize と呼ぶ地方の名前で、この Garazi の出所はよく分からないが、とりあえず puerto は入っていないように見える。

2015年7月24日金曜日

Dos libros

の宣伝。



僕の担当は、『スペイン語学概論』の方は第18章「スペインの諸言語」、『概説 近代スペイン文化史』は第7章「国家語と地方語のせめぎあい」と第14章「創られるフラメンコの世界」。「スペインの諸言語」はスペイン以外のことも扱っているので、「スペイン語圏の多言語性」とでもした方が良かったかもしれない。「国家語と地方語のせめぎあい」も、タイトルから想像されるものより広いテーマを扱っていて、しかも時代的には本のサブタイトル「18世紀から現代まで」をずいぶんはみ出している。両方とも多言語性の話だが、異なる視点から書いたので、話はあまり重なっていない。ので、是非2冊とも買って読んでください。

フラメンコに関しては、スペインにおけるフラメンコ研究の進展ぶりを反映して日本語で書かれたものが非常に少ない現状を考えれば、この文章にも充分意味があるだろう。書いたのが少し前なので、僕自身の考えが変化しているところもあるのだが。

どちらの分野も日本でやっている人は多くないので、あなたもすぐにプロになれるかもしれない (食っていけるという意味ではない)。

2015年7月1日水曜日

Leyendo ¿se entiende la gente?

日本語を母語とする学習者 (日本人学習者) が比較表現を上手く扱えないことは前に書いた。そういう学習者は、たとえばこういうテクストに躓く。

Se suelen considerar como pioneras de la cortesía verbal las obras de Lakoff (1973), Brown y Levinson ([1978] 1987) y Leech (1983), provenientes de la tradición anglosajona. Estos trabajos poseen una gran deuda con estudios de carácter antropológico, filosófico y social, en los que fundamentan los deseos y las necesidades de imagen, de respeto, de libertad de acción y de aceptación social de las personas involucradas en la comunicación. En ese sentido, deberíamos retroceder más en la historia de las ideas para reconstruir las bases teóricas que alimentan los estudios pragmáticos de la cortesía verbal (Stuart Mill, Émile Durkheim, Erving Goffman, etc). (Albelda & Barros, 2013, La cortesía en la comunicación, Arco Libros, p. 5)

見て分かる通り、こんな文章を読むということはそれなりのレベルの学習者なわけだが、やっぱり más が表わしていることを上手く言語化できない場合が少なくないのだ。ー応解説しておくと、言語的なポライトネスの先駆的な研究として Lakoff とか Brown & Levinson とか Leech のものが挙げられることが多い (この時点で歴史を30-40年さかのぼっている) が、これらの研究の基礎となる考え方を理解するためには、歴史をさらにさかのぼって (言語学者ではない) Mill や Durkheim や Goffman の仕事をチェックする必要があるということだ。Lakoff までのさかのぼりが、表現されていない que 以下の内容にあたるわけだ。別の言い方をすれば、ここに2つある固有名詞のグループ間の関係を把握できなければ、このテクスト片を理解したことにはならない。

もちろん、うまく説明できないだけで分かっているという可能性はある。しかし、言語化できないということは分からないのと同じくらい、いやもしかしたらより大きな問題だろう。

ついでに言うと、この断片を理解するのに欠かせない文法事項がもう1つある。それは debería の使い方だ。この過去未来形を見たら、「必要がある」と言っているけれども実際にはやらないのだな、と思う必要がある。ためしにこの本の巻末にある参考文献欄を見てみると、さすがに Goffman は出て来るが、Mill と Durkheim は載っていない。やはりやってなさそうだ。

外国語の運用力というと喋ることと思っている人が多いかもしれないが、理解の側面がしっかり身についていなければまともな語学力とは言えない。比較はテクストの内容構成に直接かかわる重要な要素であることも多いはずだし、過去未来は書き手の事実認識を反映する。テクストの最低限の理解に、具体的な文法項目の知識が欠かせないわけだ。そして、このレベルのスペイン語が分からない人は当然このレベルのスペイン語を喋ることはできない。

この記事のテーマが今の学習者がいかに出来ないかということだと思われると困るので先を急ごう。問題はむしろ言語教育の方にあるのではないか。たとえば「フアンはペドロより金持ちだ」みたいなへなちょこな和文西訳を8000000回やっても上のテクストを読めるようにはならない。Debería を「しなければいけないだろう」と結びつけて放置していたら、この形は一生使えるようにならない。ではどうするか。実際の使用に触れるという意味で、テクストを読むことは非常に有益だし、とても効率的な学習方法だと僕は思っているが、読解の授業のやり方について良い案があるわけではない。文法の教科書は大幅に書き直したいと思っているところだが、イメージを形にする時間があるかどうか (もちろん、書き直したものが上手く機能するかどうかは、やってみないと分からない)。

2015年5月27日水曜日

Contos da miña terra

de Rosalía de Castro. Regaloume este exemplar o propio tradutor. Moitas grazas, Takiño. O seu título dá a entender que é unha colección, pero trátase dun só conto. Así que o lin nun par de viaxes no tren de volta do traballo.



A dicir verdade, a tradución deixa moito que desexar, pero iso non lle quita o mérito que ten esta publicación. É unha edición bilingüe, é dicir, co texto orixinal. Nun país onde case non coñece ninguén a Rosalía, é inmensamente de agradecer podermos acceder á súa obra en ambos os dous idiomas.

O conto gustoume. «O conto do que Rosalía parte [...] era desde a súa orixe un conto misóxino. O conxunto das alteracións efectuadas sobre a base do conto popular traballan nunha dirección non estritamente recreadora, senón rompedora: darlle un papel novo á muller no conto e pór de relevo unha lectura feminista do mesmo («Limiar» da esta edición, escrito por Anxo Angueira, p. 9)». Gustoume o conto precisamente porque tiven a mesma impresión.

2015年5月13日水曜日

Silabificador

本当は malamente (2) を書くはずなのだが、とにかく忙しくて取りかかれない。忙しくて疲れているので小テストを作っていてタイプミスをする。単語を音節に分ける問題の答えで a-e-ro--ne-a みたいなやつだから、スペルチェッカーに引っかからない。大した間違いではないが、訂正したりする手間もあるし、また間違わないように神経を使うので、さらに疲れる。このまま行くと面倒な間違いをしかねない。

なので、スペイン語の単語を音節に分けるプログラムを書いた。これで、元の単語がちゃんと書けていれば自動的に clo-ro-fluo-ro-car-bo-no みたいなのを生成してくれる。まず Ruby で書いたのだが、せっかくだから JavaScript 版も作ってみた。翻訳は手作業でやったが、プログラムのほぼ全部が正規表現を使った置換で、正規表現自体は書き換える必要がなかったから、機械的な置き換えですんだ (セミコロンのつけ忘れに気づかずしばらく往生したが)。

ここにあるので試してみて下さい。

音節分けのプログラムとしては本当に最低限で、ちゃんと分けられない場合も少なからずあるが、日常業務のストレス軽減のためには十分だ。気力があったらバージョンアップするかも知れない。

そういえば、これが僕の JavaScript デビュー作だ。と言うか HTML+JavaScript だが、ユーザーインターフェイスに HTML を使うのは、真剣な検討に値する。JavaScript については、今回は簡単だったので手で書いたが、別の言語で書いて JavaScript にコンパイルする方が良いかも知れない。

2015年4月30日木曜日

Malamente (1)

振り返ってみると、カンテらしきものを習い始めてもう20年ぐらいになる。その割に上手くなってないのだが、クラスの外ではほとんど練習していないし、そもそも上手くなろうと思っていないので当然だ。僕としては、カンテに対する理解を深めることと、ついでに仲間うちで楽しむことが目的で、それ以外の用途に使うことは基本的にない。知らない人の前で歌ったことは何度かあるが、それは何か特殊な事情があってそうせざるを得なかったからだ。もちろん、上手ければ特殊事情に配慮して人前で歌ってもいいのだが、ちょっとそういうレベルじゃない。だから出来るだけそういうことはしたくない。まあ、それで自分自身が楽しかったことがないとは言わないが、やりたくてやったのではないし、下手なくせに出たがりだと思われるのも癪なので、ここで言い訳めいたことを書いているわけだ。

上手くなろうと思っていないと言っても、今のままで良いと思っているのではない。当面の (と言っても生きているうちに達成できるとも思えない) 目標は、下手なスペイン人のように歌えるようになることだ。もちろん、上手いスペイン人のように歌えればその方が良いに決まっているが、「上手い」と「スペイン人のように」を独立したパラメータとして扱うことが可能だと仮定すると、どちらを優先すべきか僕にとっては自明のことだ。上手い日本人のように歌うことに興味はないので、「上手い」は当面 (多分生きている間は) 忘れていい。

さて、では「スペイン人のように」はどのようになのか。ひとつには当然言葉の扱いがある。(アンダルシアの) スペイン語としてちゃんと発音することが第一だが、それを音楽にのせるのは簡単なことではない。日本語ネイティブとして、u や l/r などの分節音の発音、tr のような音の組み合わせにはもちろん気をつけねばならない。だが、強勢 (アクセント) の実現もそれに劣らず重要だ。実を言うと、日本人のカンテを聞いていてこの点が気になることが多い。つまり、アクセントのあるべき所にアクセントが聞こえない歌い方をする人が少くない (そこから推して僕も気をつけなきゃと思っている) のだが、スペイン人のを聞くと大抵はちゃんと強勢が聞こえるので、やはりスペイン語としての発音をしっかり身に付ける努力をする必要があるわけだ。単語単独の発音では日本語的発音でも強勢らしきものを実現することはできるが、実は自然なイントネーションで文中の単語にスペイン語らしい強勢をつけられる学習者は多くない。歌についても同じことが言える。歌の中では単語の強勢がメロディーの高いところに来るとは限らないし、音楽上の強拍と一致する保証もないので、ごまかしがきかないのだ。

問題は、スペイン語の強勢を実現するにはどうすれば良いのかという情報が少ない、と言うか無いことで、僕も「よく聞いて真似る」ぐらいしか思いつかない。で済ますのも何なので、ひとつだけ言っておこう。音声学が明らかにしてきたことは、スペイン語の強勢と最も相関度の高い物理的特性はピッチ、つまり音の高さの変動だということなのだが、日本語ネイティブの学習者はこの科学的成果を無視した方が良い。発音を学ぶ立場からは、とにかくスペイン語のアクセントはそこが強いのだと信じて発音することが大事だ。単に音高の動きがあるとかではなくて、そこにエネルギーの集中と解放があり、それこそが強勢の本質なのだと。これは僕自身の学習者としての経験と学習者や同業者の発音の観察から導き出した (現時点での) 結論だ。

だから上手くなってる暇なんかないわけ。

2015年4月20日月曜日

Metátesis

統一地方選挙でうちの近所も選挙カーが廃品回収を名乗る車と競争を始めた。その様子をぼんやりと聞いていた日曜の昼下がり、僕はあることに気づいて愕然とした。そう、僕は「お騒がせ」を「おさがわせ」と発音しているのだった。

ショックだったのは、そのように発音していたことではなくて、今までそれに気づかなかったことだ。確かに発音のしにくい語だという意識はあって、前からよくつっかかっていたのだが、それは「おさわがせ」と「おさがわせ」が鎬を削っていたからなのだろう。よく考えると、僕自身実際にどっちの発音を多くしていたのか分からないけれども、今の感覚だと「おさがわせ」の方が楽に発音できて違和感も少ない。

まあでも、「お騒がせ」なんてもともと使わないか。

と思ったとたん、「おさわがせ」の方が自然に感じられるようになって来た。頼りにならない話だが、ネイティブなんてそんなもんだ。ほら、また「おさがわせ」の方が良くなって来た。

2015年4月18日土曜日

Comparando

日本語には比較級がない。「リンゴの方が安い」とか「リンゴよりも安い」のように、名詞の方をマークすることで比較を表すことができるので、別に不都合はないが、形容詞が無印のままであることと、これから紹介する現象は、もしかしたら関係しているかもしれない。

スペイン語では形容詞をマークすれば比較表現になる。たとえば «son más baratas» だけで比較表現としては一人前だ。ところが日本語話者のスペイン語学習者 (以下「日本人学習者」) の中にはこれを「とても安い」と訳す人が珍しくない。もちろん比較級は学習ずみだ。原因として考えられるのは、日本語の比較表現が名詞、と言うか正確には比較されるものに相当する項をマークすることで成り立つということだ。「~の方が」と「~よりも」の両方を含む概念として「比較項」という言い方を使うことにするが、«son más baratas» には比較項が明示されていない。「より安い」という訳が教科書的だが、硬いし、これだけでは落ち着かない。というわけで、文脈を見て補う必要が出てくる。「その方が安い」とか「リンゴより安い」とか。しかし、ご想像どおり、学習者たちはなかなかそういうことをやってくれない。

日本人学習者がスペイン語の比較は認識できるが上手く日本語にできないのか、それとも比較自体を捉えそこなっているのか、よく分からない。ただし、特に長めの文になると、比較項があってもそれを無視して、と言うか捉えそこなって「とても安い」と言う学習者もいるので、もしかしたら後者なのかもしれない。いずれにせよ、授業では más があったら que を探せ、que がなかったら文脈を見ろと言うのだが、体系的に練習する時間はなかなか取れない。読む授業をもっと充実させる必要があるのだが・・・

この文章を一旦書き終えたあと、比較項を表現せずしかも日常的な言い方で「もっと安い」があることに気がついた。だが、比較項がイメージできていないと訳文として思いつくのは難しいかもしれない。それに、「もっと〇〇」は単純な比較表現ではないように思える。まあでも、逆に言えば比較項を喚起する力が強い表現だということだから、上手く使えば比較級習得の助けになるかもしれない。

2015年3月5日木曜日

Superlativo

2つ前の記事で、英語の «apples are cheapest in autumn» に相当するスペイン語はたとえば «otoño es la época en la que las manzanas son más baratas» で、これは比較級だと書いた。しかし、別の考え方もあり得る。この más baratas は関係節の中にあり、先行詞が定冠詞を伴う定表現なので、この定冠詞つまり la época の la と más baratas を合わせて最上級と見なすというものだ。これは特に珍しい考え方ではない。定義の仕方は違うけれども、アカデミアは «el edificio más alto» みたいなのを construcción superlativa simple と呼び、«la habitación que tiene más camas de todo el albergue» とかを construcción superlativa compleja あるいは de relativo と呼んでいる (RAE & ASALE 2010, §45.5.2a)。

僕自身は、これを比較級と書いたことからも分かるとおり、アカデミア等とは異なる見方の方が面白いと思っている。僕らの教科書では «María es la que más temprano se levanta de la familia» や «Ramón es el que tiene más dinero de la familia» に「最上級の意味」という説明をつけているのだが、単に「最上級」としていないのは、そのあたりにも理由がある (学習者向けに「最上級」を複雑にしたくないということもある)。これは定表現と比較級の組み合わせと考えれば良い。それならば、一歩進めて «el edificio más alto» も定表現プラス比較級と考えることができる。さらにもう一歩進めて «el más alto» を定の比較級と考えることにも問題はない。この «el más alto» を Halliday & Hasan のように elliptical な表現と見なせば、つまり名詞が隠れているのだと考えれば、3つのパタン全て比較級を含む定名詞句構造だということになる。従って「最上級」はない、というわけだ。これも特に珍しい考え方ではない。

しかし、この2つの見方は真っ向から対立しているわけではない。アカデミアの construcción という言い方は、これを統語論的に捉えていることを示していて、形態論的に定義できる英語などの最上級と同じレベルのものがスペイン語にあるとは言っていない。だから construcción superlativa を最上「級」と訳すのは不適切かもしれない。一方、最上級がないという説も、「1番・・・」という概念を表す手段がないと言っているわけではない。だから、どちらも同じことを言っている面があって、その意味では言葉使いの問題、「最上級」あるいは「級」の定義の問題だと言ってもいい。

学習者にとっては「それ」が使えるようになればよいのだから、名前は何でも良い。しかし、研究の世界に一歩足を踏み入れると用語や定義の問題を無視することは出来なくなる (卒論や学期末のレポートも立派な研究だ)。僕は、言いたいことがちゃんと伝わるのならあまり神経質になる必要はないと思う方だけれども、ちゃんと伝わるというのは実際かなり珍しいことだし、若手の発表などを見ていると、言いたいことが自分にも良く分かっていないのではないかと思われることがままある。そういう時は、自分が使っている用語や概念について少し考えてみた方がいい。

そうしてみると、結局すべては自分の依拠する理論・枠組み次第だということが分かる。僕のまわりには理論というと拒否反応を示す人が多いので、多少婉曲に枠組みと言うことにするが、今見ている最上級みたいな問題だと、何らかの枠組みを前提にしない限りどっちでも良いということになってしまうだろう。そして確かにどっちでも良いのだ。枠組みを考えないのならば。でも、枠組みがなければ考えるということ自体が成り立たないんじゃないだろうか? で、僕は定の比較級という考え方が面白いと思うわけだが、それは定表現という観点から、より広い文脈に置いて比較という現象を見ることができ、同時に比較という切り口から定表現を眺めることができるからだ。枠組みの効用というか、これを意識する意味は正にここにある。全体の中に位置づける意志と言えばいいか。



  • RAE & ASALE, 2010, Nueva gramática de la lengua española. Manual, Espasa.



  • 2015年2月19日木曜日

    Marianas

    と言えば el Niño de las Marianas (Luis López Benítez, 1889-1963) をまず思いうかべるが、de las Marianas を芸名 (なのかあだ名なのか) として持っていたのは彼だけではない。El Cojo de Málaga (Joaquín José Vargas Soto, 1880-1940) が若いころ el Cojo de las Marianas と呼ばれていた (Hita Maldonado 2002: 68) ことはCDの解説に書いた。そして、今読んでいる本に la Niña de las Marianas というカンタオーラの名前が出て来た (Gelardo Navarro 2014: 142)。1911年12月30日付の El Eco de Cartagena 掲載の記事で、«célebre cantadora» と形容されているのだが、それ以上のことは分からない。調べれば何か分かるかもしれないが、とりあえずメモだけしておこう。

    1910年前後は marianas が流行っていた頃だ。その後忘れられたが、最近少し復活の兆しがあるらしい。日本にもこれをレパートリーにしている若手がいる。よろこばしいことだ。

    • Gelardo Navarro, José, 2014, ¡Viva la Ópera Flamenca!: Flamenco y Andalucía en la prensa murciana (1900-1939), (Colaboración: Mª Amparo Fernández Darós), Universidad de Murcia.
    • Hita Maldonado, Antonio, 2002, El flamenco en la discografía antigua: La International Zonophone Company, Universidad de Sevilla.

    Corregido un error (2015/02/19).

    2015年2月14日土曜日

    (The) cheapest

    次のペアも面白い:

    a. Apples are the cheapest in autumn.
    b. Apples are cheapest in autumn.

    著者によれば «In (a) we may fairly ask ‘the cheapest what?’; the cheapest is an elliptical group presupposing some item such as fruit. Example (b) is however not elliptical; it is like apples are cheap, and the domain of the superlative is provided by te time element within the clause, ie ‘cheaper in autumn than at other times’ (p. 164)» だそうで、the cheapest が elliptical という指摘自体が面白いのだが、それはおくとして、日本語なら「(a) 秋、リンゴは1番安い果物だ (リンゴは秋の果物の中で1番安い)」と「(b) リンゴは秋が1番安い」ぐらいになるだろうか。

    スペイン語の最上級は常に定なので、つまり定冠詞かそれに類する限定詞が必須なので、英語の (b) みたいな不定の最上級というのはない。定冠詞を取ったら比較級になってしまう。そして «(a) las manzanas son las más baratas en otoño» は (b) を表すことはできない。ネイティブスピーカーによれば、(b) 相当のことを言おうと思ったら «otoño es la época en la que las manzanas son más baratas» とかにせざるをえないようだ。形としては比較級だ。検索してみると «las naranjas son más baratas en invierno» というのが見つかった。英語の不定の最上級とスペイン語の比較級に重なりあう部分があるということになる。

    日本語話者として気をつけなければならないのは、「(b) リンゴは秋が1番安い」を «(a) las manzanas son las más baratas en otoño» と訳さないようにすることだ。これを明示的に載せている教科書は、我々のを含めて、ないのではなかろうか。

    Halliday, M. A. K., & Hasan, Ruqaiya, 2013, Cohesion in English, Routledge (first published 1976 by Pearson Education Limited).

    Dos diferentes

    僕はシステミックな人ではないので Halliday を読み込んでいるわけではないが、けっこう好きだったりする。前の記事では不定冠詞を問題にしたが、原文で問題になっているのは different の機能で、見た目は語順にあらわれる。つまり different two か two different かの違いだ。スペイン語のネイティブにきいてみたが、スペイン語ではこういう芸当はできないようだ。Dos colores diferentes と dos diferentes colores という語順の違いは、今見ている英語における区別には対応しない (diferentes dos は言えないようだ)。

    もちろん、言おうとして言えないことはない。ネイティブスピーカーが un par diferente de colores (a different two colours にあたる) というのを考えてくれた。他にもいろいろあるだろう。ポイントは、英語のように最小に近い違いでこれら2つの異なる概念を表し分けるようになっていないということだ。しかも、それで特に不便なわけでもない。

    実は英語でも a different two colours と two different colours が完全に領域を分け合っているわけではないらしい。つまり、後者は前者の解釈にもなりうる (p. 80)。ということは、「互いに異なる」という解釈に一義的に決まる言い方にするには何か工夫が必要だということになる。

    2015年2月4日水曜日

    A different three

    今 Halliday & Hasan の Cohesion in English を読んでいる。目的はもちろん結束性の勉強だが、英語の学習にもなる。たとえば、こんな例文に出くわして驚いたりしているところだ。

    a. They were a different two colours.
    b. They were two different colours. (p. 80)

    この2つは意味が異なる。著者によれば: «The first means ‘different from the two referred to’, the second ‘different from each other’ (ibid.)» ということだ。僕は、意味が違うのはいいとして、不定冠詞の a が複数形名詞についているのを見てぎょっとしたのだった。これは単数形につくものではないのか? 手元の辞書や文法書をちらっと見てもそれらしい記述が見当らなかったので放ってあったのだが、160ページにも «a different three people» というのが出て来たので、もう少し真面目に見たら、学習辞典に載っていた: 「〚a(n)++数詞+複数形C名詞〛(特定数をひとまとめにして) 1つの (『ウィズダム英和辞典』第3版, iOSバージョン 2.1.2, s. v. a, an)」。持っているものはちゃんと見ないといけない。反省。

    複数のものをひとまとめにしているということは想像できたが、上の例ではいまひとつイメージがわかない。検索したらこんなのが出てきた。A Different Three Rs for Education: Reason, Relationality, Rhythm というタイトルの本で、伝統的な3つの R つまり «reading, ’riting, and ’rithmetic» (「読み書きそろばん」だ) に加えて、副題にある別の3つを提案しているようだ。

    そういえば another も複数形名詞の前に来れるのを見て感心したことがあるのを思い出した。ちゃんと体系的にできているのだった。英語も勉強しないと。

    Halliday, M. A. K., & Hasan, Ruqaiya, 2013, Cohesion in English, Routledge (first published 1976 by Pearson Education Limited).

    (añadido la referencia bibliográfica: 2015/02/04:23:02)

    2015年1月25日日曜日

    Rôma[jz]i

    K:
    Omoi tatte kunrei siki / Hepburn siki (to iu ka, dai 2 hyô no uti Hepburn siki ni ataru tuzuri o saiyô sita mono) henkan program o tukutta. Tuide ni Hattori Sirô ga teian sita sin nihon siki ni mo taiô sita. Swift de kaita hutatu me no program da. Sekkaku da kara rômazi de bunsyô o kaite miru. Ima kore wa kunrei siki de kaite ite, hoka no hutatu no hôsiki ni henkan sita mono o sita ni haritukeru koto ni suru.

    Mae ni kanagaki o site mita toki ni mo itta kedo, rômazigaki de mo (to iu ka, mazu rômazigaki de) mondai ni naru no ga wakatigaki da. Kono bunsyô no wakatigaki wa ii kagen de, ikkan site iru to wa kagiranai si, kaki kata ni toku ni syutyô ga aru wake de mo nai.

    Sate, kunrei siki to sin nihon siki wa sorezore kotonaru on'in kaisyaku ni motozuite kotonaru mozi no tukai kata o site iru. Hepburn siki no mozizukai wa on'in teki to wa ienai tokoro ga aru wake da ga, ima no nihongo no on'in teki keikô o han'ei dekiru kanôsei o motte iru koto wa mae ni kaita.

    Kô iu hanasi ni nazimi no nai hito muke ni itte oku to, on'in kaisyaku (sono gengo no oto no taikei ga dô natte iru ka) ni wa yuiitu no tadasii kotae ga aru wake de wa nai. Riron teki wakugumi ni yotte, mata kenkyûsya ni yotte, teizi sareru kaisyaku wa kotonari uru. Sore kara, hitotu no kaisyaku ni yuiitu no seisyohô (mozizukai) ga taiô suru wake de mo nai si, kotonaru kaisyaku ga kanarazu kotonaru mozizukai ni musubituku wake de mo nai.

    Izure ni seyo, on'in taikei no ue de no kubetu o kabusoku naku kaki wakeru no ga risô da ga, kakareta rekisi no nagai gengo de wa, musiro kore ga muzukasii. Nihongo no kanagaki de wa, oto no kubetu ga nai no ni kaki wakeru baai ga aru (まじか (¿en serio?) vs. まぢか (muy cerca) nado). Rômazigaki no baai wa, Hepburn siki ga on'in teki kubetu to wa tigau riyû de betu no mozi o tukattari suru ga, sore de mo onazi oto o tigau tuzuri de kaki wakeru yô na koto wa nai. Kanagaki yori wa on'in teki to iu koto ni naru.

    H:
    Omoi tatte kunrei shiki / Hepburn shiki (to iu ka, dai 2 hyô no uchi Hepburn shiki ni ataru tsuzuri o saiyô shita mono) henkan program o tsukutta. Tsuide ni Hattori Shirô ga teian shita shin nihon shiki ni mo taiô shita. Swift de kaita futatsu me no program da. Sekkaku da kara rômaji de bunshô o kaite miru. Ima kore wa kunrei shiki de kaite ite, hoka no futatsu no hôshiki ni henkan shita mono o shita ni haritsukeru koto ni suru.

    Mae ni kanagaki o shite mita toki ni mo itta kedo, rômajigaki de mo (to iu ka, mazu rômajigaki de) mondai ni naru no ga wakachigaki da. Kono bunshô no wakachigaki wa ii kagen de, ikkan shite iru to wa kagiranai shi, kaki kata ni toku ni shuchô ga aru wake de mo nai.

    Sate, kunrei shiki to shin nihon shiki wa sorezore kotonaru on'in kaishaku ni motozuite kotonaru moji no tsukai kata o shite iru. Hepburn shiki no mojizukai wa on'in teki to wa ienai tokoro ga aru wake da ga, ima no nihongo no on'in teki keikô o han'ei dekiru kanôsei o motte iru koto wa mae ni kaita.

    Kô iu hanashi ni najimi no nai hito muke ni itte oku to, on'in kaishaku (sono gengo no oto no taikei ga dô natte iru ka) ni wa yuiitsu no tadashii kotae ga aru wake de wa nai. Riron teki wakugumi ni yotte, mata kenkyûsha ni yotte, teiji sareru kaishaku wa kotonari uru. Sore kara, hitotsu no kaishaku ni yuiitsu no seishohô (mojizukai) ga taiô suru wake de mo nai shi, kotonaru kaishaku ga kanarazu kotonaru mojizukai ni musubitsuku wake de mo nai.

    Izure ni seyo, on'in taikei no ue de no kubetsu o kabusoku naku kaki wakeru no ga risô da ga, kakareta rekishi no nagai gengo de wa, mushiro kore ga muzukashii. Nihongo no kanagaki de wa, oto no kubetsu ga nai no ni kaki wakeru baai ga aru (まじか (¿en serio?) vs. まぢか (muy cerca) nado). Rômajigaki no baai wa, Hepburn shiki ga on'in teki kubetsu to wa chigau riyû de betsu no moji o tsukattari suru ga, sore de mo onaji oto o chigau tsuzuri de kaki wakeru yô na koto wa nai. Kanagaki yori wa on'in teki to iu koto ni naru.

    S:
    Omoi tatte kunrei siki / Hepburn siki (to iu ka, dai 2 hyô no uci Hepburn siki ni ataru cuzuri o saiyô sita mono) henkan program o cukutta. Cuide ni Hattori Sirô ga teian sita sin nihon siki ni mo taiô sita. Swift de kaita hutacu me no program da. Sekkaku da kara rômazi de bunsyô o kaite miru. Ima kore wa kunrei siki de kaite ite, hoka no hutacu no hôsiki ni henkan sita mono o sita ni haricukeru koto ni suru.

    Mae ni kanagaki o site mita toki ni mo itta kedo, rômazigaki de mo (to iu ka, mazu rômazigaki de) mondai ni naru no ga wakacigaki da. Kono bunsyô no wakacigaki wa ii kagen de, ikkan site iru to wa kagiranai si, kaki kata ni toku ni syucyô ga aru wake de mo nai.

    Sate, kunrei siki to sin nihon siki wa sorezore kotonaru on'in kaisyaku ni motozuite kotonaru mozi no cukai kata o site iru. Hepburn siki no mozizukai wa on'in teki to wa ienai tokoro ga aru wake da ga, ima no nihongo no on'in teki keikô o han'ei dekiru kanôsei o motte iru koto wa mae ni kaita.

    Kô iu hanasi ni nazimi no nai hito muke ni itte oku to, on'in kaisyaku (sono gengo no oto no taikei ga dô natte iru ka) ni wa yuiicu no tadasii kotae ga aru wake de wa nai. Riron teki wakugumi ni yotte, mata kenkyûsya ni yotte, teizi sareru kaisyaku wa kotonari uru. Sore kara, hitocu no kaisyaku ni yuiicu no seisyohô (mozizukai) ga taiô suru wake de mo nai si, kotonaru kaisyaku ga kanarazu kotonaru mozizukai ni musubicuku wake de mo nai.

    Izure ni seyo, on'in taikei no ue de no kubecu o kabusoku naku kaki wakeru no ga risô da ga, kakareta rekisi no nagai gengo de wa, musiro kore ga muzukasii. Nihongo no kanagaki de wa, oto no kubecu ga nai no ni kaki wakeru baai ga aru (まじか (¿en serio?) vs. まぢか (muy cerca) nado). Rômazigaki no baai wa, Hepburn siki ga on'in teki kubecu to wa cigau riyû de becu no mozi o cukattari suru ga, sore de mo onazi oto o cigau cuzuri de kaki wakeru yô na koto wa nai. Kanagaki yori wa on'in teki to iu koto ni naru.

    2015年1月6日火曜日

    Tabla 2

    というわけで、かな入力の練習中。まだまだ途轍もなく時間がかかるが、慣れたらローマ字入力よりストロークが少なくなるはずなので、より速くなるはずだ。それに、かな1字1ストローク (濁音・半濁音は2ストローク) というのは、なんだか清々しい。

    前の記事で僕は訓令式でローマ字入力していると書いたが、一貫していないことに気づいた。「シャ・シ・シュ・シェ・ショ・チャ・チ・チュ・チェ・チョ」は確かに sya, si, syu, sye, syo, tya, ti, tyu, tye, tyo と入力しているのだが、「ジャ・ジ・ジュ・ジェ・ジョ」は ja, ji, ju, je, jo と打っている。これはヘボン式。「ツ」は tu 「フ」は hu で入れているので、ジャ行だけ例外ということになる。まあ、この方が純訓令式よりストロークが少ないという言い訳は成り立つ。

    これは入力方式の話。ストレスなく打ててまともな結果が出ればどんなやり方でも構わないとは言える。しかし、日本語のローマ字表記という問題になると話は別だ。僕も言語研究者のはしくれだから、ヘボン式より訓令式の方が日本語の音韻体系に即した良い方法だと思っている。しかも、後者が内閣訓令 (1954) で優先的に扱われている方式で、国際標準にもなっている (ISO 3602)。これに従わない理由はないはずなのだが、僕も多くの日本人と同様ヘボン式で書くことがほとんどだ。自分の名前に含まれる「シ」は shi で書いているし、勤め先の住所は Fuchu とか Asahi-cho とか書く。で、実はローマ字表記の問題が頭をかすめるたびに自分の中にある理論と実践の齟齬に居心地の悪さを感じていたわけだ。しかし、最近ヘボン式 (というか第2表の部分的適用) で良いのではないかと思うようになった。

    一番大きな理由は慣用。数からいえば圧倒的にヘボン式が優勢だ。世の中には音韻的に非常に合理的な正書法を持った言語もあるが、全然そうじゃない言語もある。多少不整合があっても、簡単に覚えられてみんなに受け入れられる書き方の方がいい。ヘボン式は最良の解ではないが許容範囲だろうし、使用実績は十分だ。

    もう少し音韻的な面から考えてみる。拗音を「子音 + y」と解釈するか単一の口蓋化子音と解釈するかで説明の仕方が多少変わるが、ここでは後者でやってみる。現代日本語には非口蓋化子音と口蓋化子音の対立がある (直音/拗音)。しかしこれは /i/ の前で中和し、音声的には口蓋化子音で実現される。/s/-/s'/ (口蓋化を ' で表す) を例にとると、こんな感じだ:

    /a//i//u//e//o/
    /s//sa/ [sa]/Si/ [ɕi]/su/ [sɯ]/se/ [se]/so/ [so]
    /s'//s'a/ [ɕa]/s'u/ [ɕɯ]/s'e/ [ɕe]/s'o/ [ɕo]

    さて、/i/ の前での子音の実現が口蓋化子音だというのは「シ」「チ」では見えやすい。これは他の子音にも、それほど分かりやすくないかもしれないが、あてはまる。たとえば「タチツテト」と「ナニヌネノ」を繰り返して言ってみよう。「タチ」のところと「ナニ」のところで舌の動きがだいたい同じなのではなかろうか。

    中和しているので [ɕi] を si と表記することに問題はない。音声的実現に即して「シャ」と同じ書き方をするのもありだろう (たとえば syi とか shi とか)。ただし、だったら kyi や nyi と書かないと一貫性に欠ける。今のところ、この中和が機能しなくなって /si/-/s'i/ の対立が生まれる気配はなさそうだが、「チ」と「ティ」、「ジ (ヂ)」と「ディ」はもしかしたら音韻化してきているかもしれない。「チ/ティ」の対立について、口蓋化子音の方 [tɕi] を /ti/ と解釈し、非口蓋化子音の方 [ti] に何か別の解釈を施すという手もあるが、今採用している枠組みでは「チ」を /t'i/ として「ティ」を /ti/ と解釈するのが素直だろう。そして、ヘボン式の chi はこの解釈を反映した表記として利用しうる (ti を「ティ」に使うことができる)。

    ローマ字の話をここまでずっとかな入力でしてきた。スピードが出ないので、書きながら書きかけの文 (センテンス) を頭が推敲し始める。書いてる途中の文を書き直していると、ちっとも前に進まない。面白い経験だが、疲れる。この記事が全体としてまとまりのない印象を与えるとすれば、多分そのせいだ。

    2015年1月1日木曜日

    Optional

    Swift で注意を引くのが Optional type だ (「オプション型」とか「オプショナル型」とかの訳がある)。大雑把にいえば、当該の型と nil を合わせたものというイメージで、文字列を例にとれば、たとえば文字列を返すべき関数がうまく値を返せないときに nil を返すようにすることができる。しかし Swift は型にうるさい言語だから、ときに文字列ときに nil (これは文字列型ではない) を返すような関数は書けない。なので文字列と nil を含んだ型を使うことになる。ただし、これは単純な文字列型とは異なるので、扱い方も多少ことなる。対話環境で確認してみる。
    
      1> var a:String = "a" /* String */
    a: String = "a"
      2> var b:String? = "b" /* Optional */
    b: String? = "b"
      3> println(a)
    a
      4> println(b)
    Optional("b")
      5> println(b!)
    b
      6> a = nil
    repl.swift:6:5: error: type 'String' does not conform to protocol 'NilLiteralConvertible'
    a = nil
        ^
    
      6> b = nil
      7>7 b
    $R0: String? = nil
    
    
    オプション型の変数を宣言するときは ? を付ける。変数をそのまま印字すると、文字列そのものではなくて Optional("b") が出力される。文字列を取り出すには ! を付ける必要がある。文字列型の変数 a には nil を代入することはできないが、オプション型の b には代入できる。面倒くさい? 確かに。僕はこの概念には Ocaml で触れて少しは慣れているので有り難みも分かるが、区別の必要があるしタイプ量も増えるので、特に初めての人は面倒に感じるだろう。Swift の開発者もそう思ったのか、! を使わなくても比較演算子が使えたり、nil のチェックを条件にできる if-let 構文が用意されたりしている。ただ、これは痛し痒しで、簡単になる部分もあるが覚えるべきことが増えるという面もある。僕は今回オプション型が直接 == で比較できることを知らずに使ってしまい (つまり文字列のつもりで比較しようとして)、それでもエラーにならないので戸惑った。一方 if-let は nil チェックと unwrap を同時にやってくれる秀逸な構文だと思う。比較演算子と違って、文脈を見ないとどういう型を扱っているのか分からないというようなこともない。他にも使い所の決まった便利な書き方があるようだが、それが学習を複雑化しないことを願うのみだ。

    さて、今までずっと「オプション型」という言い方をしてきた。最初に言ったように Optional type の訳で、この optional は名詞だ。それを素直にカタカナ化すれば「オプショナル」ということになる。「オプション」は optional の日本語訳の可能性としてあるだろうか? 意味を考えれば「nil化可型」とか (nullable type といういい方もあるらしい)、「データがないかもしれない型」とか (Haskell では Maybe という型があるらしい)、使えそうにない名前が思い浮かぶ。僕が「オプション」と言っているのは、多分 Ocaml が option と言っている影響だろう。あとは、日本語の名詞として「オプショナル」に馴染みがないからか。まあ、誰かが決めてくれれば良い。

    本題から外れるが、これを書いているあいだ何度も「オプチョン」と入力しては消していた。僕はいわゆる訓令式でローマ字入力しているので sy と打たなければならないところを ty と打ってしまうわけだ。もちろん英語の綴りに引きずられた結果だから、こういう目に合うとかな入力擁護派の主張ももっともだと思えてくる。今年の目標としてかな入力に習熟するというのを立ててみようかな。