2013年3月28日木曜日

ひらがな





と いう わけ で、かんじ を つかわず に かいて みる。かな だけ で かく ばあい は、わかちがき が ひっす だ が、どこ で すぺーす を いれる か が もんだい に なる。たんご ごと に きる と いう の が げんそく だ が、たんご の きれめ は ねいてぃぶ すぴーかー に とって も やっかい な もんだい な の だ(すぺいん ご の sino と si no の ちがい が ねいてぃぶ に は むずかしい なんて こと も おもいだして みよう)。もちろん、せいしょほう の るーる が ある の なら それ に したがえば いい の だ が、いま は てきとう に やって みよう。

かんじ を ようご する ろんきょ として、どうおん いぎ ご(どうおんいぎご?)の かきわけ が あげられる こと が ある。でも、どうおん いぎ ご は どの げんご に も ある し、ごかい が しょうじる よう なら、べつ の いいかた を さがす だけ の こと だ。かんじ は、くち で いったら もんだい が しょうじる よう な ばあい に、しかくてき に その もんだい を かいひ する の に やくだつ。しかし、みよう に よって は、もんだい を おおいかくし、はなしことば の ひょうげん を きたえる きかい を うばって いる と も いえる。

ううむ、すぺーす の いれどころ は、やっぱり よく わからない。それから(それ から?)、かんじ かな へんかん を ぜんてい と した にゅうりょく しすてむ で は、べた の かながき は かえって むずかしい。つかれた の で、きょう は ここ まで(なお、すぺーす は ぜんかく で いれて、あと で はんかく に いっかつ へんかん した)。



Kanji

Kanji quiere decir caracteres chinos. Como es bien sabido, se usan en el sistema de escritura japonés junto con los kana (silabario con dos subsistemas, hiragana y katakana). «Junto con» aquí significa literalmente «junto con», es decir, que en un texto suelen coexistir kanji, hiragana y katakana. Con solo esto ya suena a complicado, pero hay otros factores que complican más el sistema de escritura japonés. Y una amiga española critica vigorosamente el uso de kanji al escribir japonés, que, con el silabario que tenemos, se puede representar todo lo que lingüísticamente pertinente.

Creo que tiene razón. Podríamos prescindir de kanji.

Sé que hay enamorados de los kanji, extranjeros y japoneses, y también reconozco que hay una tradición que se basa en las posibilidades expresivas de estos caracteres. Un kanji no solo representa una o más palabras, una o más pronunciaciones, sino también una serie de asociaciones fonológicas, semánticas, pragmáticas, visuales, estéticas, etc., que forma parte de la cultura lingüística japonesa. Abandonar los kanji implica abandonar esta riqueza cultural. Sí, soy consciente de ello.

Pero, por lo menos como experimento, creo que sería interesante probarlo. A mí me cansa a menudo tener que pensar en la corrección en el uso de kanji.

2013年3月24日日曜日

Quiero


前回は無理矢理 querer の話を入れたが、ちょっと補足。この動詞は重要な基本単語だし、不規則動詞でもあるので、我々が教科書を作るときにまず思い浮かべるアイテムのひとつだ。しかし、直説法現在1人称単数の quiero の使い方がけっこう難しいのだ。前の記事の引用から言えることは、quiero を使える/使えない相手と状況があるということで、その点についての配慮なしに quiero の例文をばらまくべきではないだろう。たとえ例文自体は適切なものであっても、その例文の示唆する状況が学習者に理解されないならば、やはり困るわけだ。僕も、4月から使う教科書から quiero を1つ削ったのだが、まだダメな例文が残っているかもしれない。

こないだの引用は querer に名詞句の直接目的語が続く場合 (pedir objetos) の話だったが、僕は querer + 不定詞や querer que + 接続法のパタンに関して、学習者の不適切な使用に対するネイティブスピーカーのコメントを聞いた記憶がある。大まかに言えば、quiero じゃなくて quisiera や me gustaría を使うべきだということだが、場合によっては相手との関係よりも事柄の現実味が問題になるのだろう。

もちろん quiero を教えないわけにはいかない。しかし、文法の教科書が文法の教科書だからという理由でこの点に無関心で良いはずもない。というわけで、気づいたところをちょっとずつ直しているのだが、まだまだ先は長い。

2013年3月22日金曜日

El Greco

エル・グレコ展 (東京都美術館 2013/01/19-04/07) を見に行った (2013/03/21)。券を頂いていたので、それを無駄にせずに済んで、まずは良かった。もちろん中身も良かった。僕は絵画リテラシーがないので、「良かった」という以上の言葉は出てこないのだが、コンテクストの重要性を教えてもらったことが収穫だった。

展覧会の宣伝に使われているコピー「一度見上げたら、忘れられない。」は、それと大いに関係がある。展示された作品の中には見上げるような高い位置に置くことを想定して描いたものがあって、それらは見上げるように下から見た方が面白いのだが、会場の説明などがそういうことを親切に教えてくれていて、さっきも言ったように絵画リテラシーのない僕などには大変有り難かった。僕もご多分にもれず、エル・グレコといえば細長くデフォルメされた人体の印象が強かったが、これも下から見上げることを前提とした冷静な計算に基づくのだとすれば、ちょっと見方が変わる。そういえば、世俗的な肖像画だとそういう「くずし」はほとんどないもんね。

また、イタリア時代とトレド時代の同種のテーマの作品が並べて展示してあったのも面白かった。これは主催者が作ったコンテクストだけど、横に置いてある絵がその絵の見方に影響を与えるわけだ。

言語も同じで、どんな発話もコンテクストが前提となるが、外国人学習者にはそのコンテクストの特定が難しいことがある。話し言葉の場合コンテクストなんて自明じゃないかと思うかもしれないが、広い意味でのコンテクストを考えれば、そうでもないのだ。たとえば、こういう言い方はこういう時にする、ということを知らないと、こういう言い方の「文字通り」の意味は理解できても、今がこういう時だという理解に達しないと、話し手の意図をつかみ損なう。あるいは、こういう時じゃないのに、こういう言い方を使ってしまって誤解を与える、てなことがあり得るわけだ。で、こんなことが書いてある文法書があったりする: «El verbo querer en presente de indicativo con la intención comunicativa de pedir objetos tiene usos más limitados de lo que pudiera parecer a primera vista. Su uso implica siempre una relación informal entre los interlocutores o, por el contrario, una actitud más bien autoritaria por parte del que pide, que se presenta como alguien que quiere hacer valer sus derechos (F. Matte Bon, Gramática comunicativa del español, tomo II: 317)». 今まで無邪気に quiero を連発していたあなた、背筋が寒くなったでしょ?

話を戻すと、平日の昼過ぎだったので会場はそれほど混んでいなかった。見上げるべき作品の前で、しゃがんで見ている人も多かった。僕は、ここでしゃがむのは従順すぎると思ってためらったのだが、2周目ではやっぱりしゃがんで見てみた。確かによく分かるのだが、遠くで見てから近づいて立ったまま見るだけでも、ある程度効果は分かる。しゃがむのが苦手な人は試してみてください。

2013年3月13日水曜日

Diferente


Vario の記事に対してコメントをいただいた。その中で diferente はどうなのか、と質問された。

そこで少し考えてみる。全部憶測だから眉に唾をつけながら読んで欲しいが vario と diferente は違う。これをスペイン語にすると «Vario y diferente son diferentes; Vario es diferente de diferente» は言えると思うが «Vario es vario de diferente» は言えないような気がする。

どういうことかと言うと、diferente は「・・・と違う」つまり他との差異を表すのが基本で、異なる相手 (de ...) を必要とする。De 以下を言わないこともあるが、その時は文脈で分かるはずだ。日本の学習文法では一般的な用語ではないが、こういう必須要素を項という。たとえば他動詞に対する直接目的語 (comprar un libro とか) は項だ。で diferente は de... という項をとる (a... が出てくることもある)。

それに対して、僕の感じでは vario は異なる相手を表す項を持たない。ということは vario が表す「異なり・変異」は内部的な変異ということになるはずだ。だとすれば、これが単数形で使われることが少ないのも理解できる。CREA で vario を検索すると50例で、たとえば «Del vario abanico de tendencias» とか «este mundo vario y multiforme» とかが内部的変異の例として分かりやすい。それに対して varios は34075例出てきて、検索条件を絞らないと例文を見ることができない。そう、複数形なら、ひとつの集合にある要素間の差異がその集合の内部的変異と考えることができるわけだ。

それに対して diferente は単数でも複数でも「他との差異」が表現される。単数の場合は単純に de... との差異だが、複数になると事情はちょっと複雑になる。まず、その複数のものがひとかたまりになって他と異なるという読みがある。たとえば las chicas son diferentes de los chicos とか。もうひとつの可能性は、複数の要素間の異なりという解釈。たとえば son hermanos, pero muy diferentes とか。なので son diferentes だけだとどちらの読みになるかは分からない。文脈次第ということになる。

これは diferente の特殊事情ではなくて、複数性が持つ一般的な性格だ。たとえば Juan y María se casaron は、ぱっと見たら Juan と María が夫婦になったと思うのが普通だろうけど、この2人が兄弟だと知っている人が聞いたら、それぞれ別の相手と結婚したと考えるだろう。あるいは Juan y María se casaron el mismo día だったら、やっぱりこの2人が夫婦になったとは聞こえないだろう。

さて、出発点は「いくつかの」の varios を「様々な」と訳す学習者の話だった。僕の日本語では「様々な」は数が多い感じがするのでピンと来ないのだが、日本語話者の一般的な感覚がどうなのかは分からない。「さま・ざま」や「いろ・いろ」などに見られる繰り返しは複数性だけではなくて要素間の差異を表しているような気がするので varios と重なる部分は確かにあるのだろう。

2013年3月10日日曜日

Vosotros


前の記事で触れたシンポジウムで僕自身は大したことは喋らなかったが、ネタ集めのために日本の大学用のスペイン語教科書をチェックしていて驚いたことがある。

スペイン語の人称代名詞は、相手を表す形が単数では tú と usted の2種類 (地域によっては vos と usted の2種類、あるいは tú, vos, usted の3種類) ある。複数形は、スペインでは vosotros と ustedes の2種類あるが、中南米では ustedes だけになる。つまり、中南米では複数形において親疎の区別がない。これを大学のいわゆる2外の教科書がどう扱っているかというと、比較的最近出版されたものの中から適当に20冊選んで見た中では、みんな vosotros を載せていて、その中で「中南米では vosotros を使わない」的な注記をしているものは、ちらほらあるだけだ。つまり、スペイン式の体系しか扱っていない教科書が圧倒的に多いのだ。なお単数の vos の存在については、たまたま見た中では1冊だけ言及していた。

報告では、スペイン中心と形容したのだが、むしろ、できるだけ中身を削るという姿勢の教科書が多いということなのかもしれない。とは言え、どうせ削るのなら vosotros をやめて中南米式の体系で通すという手もあるだろうと思うのだが、大学の教科書としては冒険なのだろうか (社会人向けのコースなら十分ありそうだが)。確かに、すべての受講者が中南米のスペイン語を志向しているという保証がない状態では、vosotros を教える方が安全に思えるというのは分かる。見ておいて使わないということはできるが、存在を知らないのでは出会ったときに対処のしようがないからだ。でも、ちょっとした注記さえないのでは、学習者には選択の余地がない。結局現場で教師が説明するのなら、注記を省く意味もない。

というわけで、もっと中南米指向の教科書があれば面白いのにと思っていたのだが、数日前あることに気づいた。僕の勤める大学には言語文化学部と国際社会学部があって、後者では募集が地域単位なので、ラテンアメリカ地域専攻と西南ヨーロッパ第2専攻それぞれに定員がある。そして、ラテンアメリカの方が定員が多い (どちらもスペイン語とポルトガル語を合わせた数)。一方、言語文化学部は言語単位での募集で、学生はさらに地域を選ぶのだが、地域別の数は特に制限があるわけではない。で、2012年度言語文化学部でスペイン語を地域言語として入って来た学生のうち、8割方が西南ヨーロッパ第2を選択している。つまり大部分がスペインを選んでいるのだ。もちろん、これは入学前の指向であって、入ってから1年近くたった今地域を選ばせたら、より均衡のとれた割合になる可能性はある。しかし、始める段階でのこの偏りがマーケットの実情であるとすれば、大学の教科書がスペイン寄りなのは単にそれを反映しているだけなのかもしれない。もちろん、そうだとしても、このままでいいとは思わないのだが。

2013年3月4日月曜日

役割語


外国語教育学会のシンポジウムに出てきた (2013年3月2日、東京外国語大学)。それぞれの報告がそれぞれ興味深かったが、日本語教育についての報告でキーワードとして使われていたのが「役割語」。詳しくは、この用語の提唱者である金水敏さんの文章にゆずることにするが、一応定義を抜き出してみると「ある話し方を聞くと、それを話している人の人物像が頭に思い浮かべられるとき、あるいは、ある人物像を示されると、その人が話しそうな話し方が思い浮かべられるとき、その話し方のことを「役割語」と呼ぶ」ということだ。ひとつだけ例を引用すると、「おお、そうじゃ、わしが知っておるんじゃ」から老人を思い浮かべるといった具合だ。

報告では、日本語学習の動機としてアニメやマンガが多い現状で、この手のメディアに登場する役割語を日本語の規範という観点からどう扱うかという議論が展開し、もちろんそれ自体は興味深かったのだが、聞きながら僕が思い出したのはスペイン語における役割語だ。日本のマンガ・アニメほどはっきりしたものがあるかどうかはともかく、どの言語にも「それを話している人の人物像が頭にうかぶ」ような言語的特徴はあるに違いない。スペイン語における役割語についての研究も既にあるようだ。僕が思い出したのは El laberinto del Fauno (邦題「パンズ・ラビリンス」) の Fauno で、彼は主人公の女の子をお姫様として遇していて、彼女に対して vos を使っている。厳密に言えば上の定義に当てはまる役割語とは言えないかもしれないが、現代人が普通の状況では使うことのないこの vos は、時代がかった物語世界や身分社会を想起させるのだろう。ところが、僕が持っている日本盤DVDの日本語字幕は、この特徴をうまく反映していないと思った記憶がある。

ところで、この vos はまだ生きている。たとえば、去年スペイン滞在中に気づいたのだが、スペイン国会の上院で、議員が本会議で (おそらく最初の仕事として) 憲法を遵守するという宣誓をするにあたり、議長が «¿juráis o prometéis acatar la Constitución?» という質問をし、それに対して «Sí, juro» あるいは «Sí, prometo» と答えるという儀式がある。ここの juráis や prometéis は vosotros ではなくて vos に対応する活用形だ。もちろん自然な発話ではなくて定型文を繰り返しているだけなわけだが、特定の状況で特定の機能を果たしているのだから、現代語のレパートリーに含まれると言ってよい。