2022年11月21日月曜日

Tengo que no reconocerla

今年 (2022年) の外語祭のスペイン語劇は『血の婚礼 (Bodas de sangre)』。

なので (一部だが) 読み返した。改めてロルカの紡ぎ出す言葉の力に感嘆し、外国語学習においても文学を読むことは大きな意義があるよな、と思ったのだった。あまり知られていないと思うが、今のCEFRは文学を読むことも言語活動のひとつとして能力記述の対象にしている。そう、契約書が読めるとか論文が書けるとかだけが言葉の使い道ではないのだから。

さて、この作品の終わり近く、母親と村の女がいるところに花嫁が現われる。すると:

Vecina: (Viendo a la novia, con rabia.) ¿Dónde vas?

Novia: Aquí vengo.

Madre: (A la vecina.) ¿Quién es?

Vecina: ¿No la reconoces?

Madre: Por eso pregunto quién es. Porque tengo que no reconocerla, para no clavarla mis dientes en el cuello.

母親の台詞はさらに続くのだが、ここで面白いのが tengo que no reconocerla の語順だ。教科書にはこういうのは出てこない。僕もこの作品との付き合いは40年近くになるが、今回初めて意識した。

とは言え、すでに deber についてはそういう例を見ていたので、別に驚きはしなかった。ちょっと長くなるが、引用しよう:

Tal vez esta disertación suscite críticas y contradicciones. Pero los españoles somos proclives a las aventuras quijotescas y nunca me ha detenido en mi camino el temor a enfrentar discusiones y censuras, cuando he estado convencido de que me asistía la razón. Amo, además, tan férvidamente a Europa, mi gran patria, que no puedo vacilar en arriesgar cualquier peligro si puedo contribuir a evitar la crisis previsible de la civilización por ella creada y del hombre en ella forjado. Destronada de su función rectora, aun puede y debe servir a la humanidad como guía espiritual. Mas, para seguir cumpliendo esa misión, debe no olvidar una de las lecciones de la historia: el hombre es libertad; dejará de serlo, dejará de ser hombre, si la pierde, y conservándola puede alcanzar lo que he llamado y vuelvo a llamar su plenitud histórica. (Sánchez-Albornoz 1977: 129)

内容はともかく、最近多い気取り (かっこつけ) ばかりが目立つ文章とは異なり、落ち着いて均整のとれた文章だと思う。そこで debe no olvidar 「忘れないことをしなければならない」が目を引くわけだが、no debe olvidar で済むところを敢えて「することの禁止」ではなく「しない義務」の存在を際立たせようとしたのだろう。

『血の婚礼』の母親の言葉もおそらくそうで、私は no reconocerla しなければいけない、つまり彼女が誰か分らないでいる必要がある、ということだ。母親は、花嫁が入って来たのを見て「あれは誰?」と尋ねる。村の女が「分らないの?」と返す。それに対して「だから (=分らないから) 誰だって聞いてるのさ」と答える。なぜなら花嫁だと分っていたら彼女の首に噛み付くだろうから、それをしないために分らないでいなければならないからだ。本当は花嫁だと分っているのだが、分らないことにしているわけだ。

ところが、長南実訳は「そいつの首っ玉に、食らいつかないためには、だれなのか知らなきゃならんのさ」で、no が無視されたような訳になっている。もちろん誤訳だ。一方、牛島信明訳は「本当は、誰なのか知らずにいなけりゃいけないの、さもないとその女の喉もとにあたしの歯を突き立てることになるからね」で、本当は分っているけどというところまで訳で表現しようとしているが、「本当は」のせいで、かえってちょっと分りづらくなっている。

さて、「法動詞 verbos modales」の中には poder のように no の位置が明瞭に意味の違いを表すものがある:

  1. Juan no puede estar en su habitación.
  2. Juan puede no estar en su habitación. (Bravo 2017: 58. 一部改変)

1は「いてはいけない」で2は「いなくてよい」、あるは「いるはずがない」と「いない可能性がある」という対立がある。

一方 deber や tener que の場合は no がこれらの動詞の前にあるときに2通りの解釈が可能だ:

  1. Juan no debe hablar francés. (Bravo 2017: 59)

Bravo によれば、3は「話してはいけない」の他にも、文脈によっては「話さなければいけないということはない」という読みも成り立つらしい。後者の解釈は、教科書などには載っていないが、Bravo の説明を読むと、確かにそういう場合もありそうだ (文脈は限られそう)。

No tener que は、「しなくてよい」しか載せていない教科書もあるが、「してはいけない」の例もある。

  1. Los estudiantes no tienen que matricularse tarde (si quieren tener plaza). (Bravo 2017: 59)

これは、遅れて履修登録しちゃいけない (遅れずに登録しないといけない) と読まないと通じない。

日本の学習書で no tener que が「してはいけない」になり得るという記述をしている例を1つだけ挙げておこう。

否定形については、no deber は「〜してはいけない」という意味ですが、no tener que と、no hay que には「〜してはいけない」という意味と、「〜する必要がない」という意味があります (上田2011: 241)。

というわけで、no tener que (や no deber) の解釈は文脈に依存することが分かった。この事実は、さっき言った「しない義務」を明示するために tener que no (deber no) という語順を選択する可能性を開く。そうしなくても、文脈があるから聞き手が解釈に困ることはまずないだろうが、選択肢があることは話し手にとって重要になり得る。Bravo (2017: 59) は deber no と haber de no の例を挙げているが、tener que no もありますよ、という話。

あ、語劇は11月23日16:00から。お時間のある人は是非どうぞ。

  • Bravo, Ana, 2017, Modalidad y verbos modales, Arco Libros.
  • Sánchez-Albornoz, Claudio, 1977, Siete ensayos, Planeta.
  • 上田博人, 2011, 『スペイン語文法ハンドブック』, 研究社.

2022年11月14日月曜日

Les niñes

Jidequín 氏による記事に les niñes という表現が引用されている:
https://note.com/jidequin/n/n56e962773d48

そこで氏が les niñes を「トランスジェンダーの子供たち」と書いていたので、違うんじゃないかとコメントしたら、早速対応してくれた。今 (2022/11/13:11:26) は「男でも女でもない子供」と「どちらの性でもないこども」になっている。

実は、これを見て最初は「これでも不足」と思ったのだった。僕の理解では les niñes は男も女も、どちらでもない場合もどちらでもある場合も含むからだ。しかし、今のスペイン語の記述的観点から事態はもっと複雑だということが判ったので、以下報告しよう。

スペイン語の名詞は必ず男性か女性か、性 (género) という文法的属性を持つ。本 libro が男性でテーブル mesa が女性という具合で、これは性の一致という文法現象として現れる。定冠詞をつけると、それぞれ el libro, la mesa になるというのがその例だ。これだけなら学習者にとって面倒な暗記事項のひとつでしかないが、自然の性 (sexo) やジェンダーを持つ存在を指す名詞も文法的な性を持つので、この文法現象が例えばLGTBQな人たちにとって問題だという議論が出てきている (もちろん全然問題じゃないという人も多い) わけだ。これは大きく lenguaje inclusivo という観点から論じられている。

たとえば生物学的な sexo は男性だが性自認が女性で、自分を niño と言わなければならないのが辛い、niño と呼ばれるのが苦痛だという場合がある。あるいは男か女か揺れ動いたり決らない場合もある。しかし、今のスペイン語では niño か niña のどちらかにしないと文法的にまともな表現が産出できない。そこで色々な工夫が登場することになるのだが、les niñes はそのひとつで、最近よく目にするようになった。

それより前に多かったのが o と a を合わせたような格好に見える @ を使うもの (l@s niñ@s) や x を使うもの (lxs niñxs) だが、これらの手段の弱点は発音ができないということだ。なので、これらは (インフォーマルな) 書き言葉専用ということになる。それに対して les niñes は発音できるので、インクルーシブな流れに敏感な政治家がスピーチで使ったりすることで世間の注目を浴びることになる。

その筆頭がアルゼンチンの大統領 Alberto Fernández だろう。彼は2019年、大統領候補だった時に «cada chico, cada chica, cada chique» と言って話題になった。今年の9月には、彼がツイッターで «un chique» と書き、それを RAE に「通報」した人がいて、当然 RAE は lenguaje inclusivo として e を使うことに批判的だから、男性形が「包括性」を示すと答えるという事件があった。

Alberto Fernández のツイートは «Que un chique no pueda estudiar porque no cuenta una computadora, la verdad es postergarlo, frustarlo (sic)» となっていて、直前の un から chique が男性名詞として使われていることが分る。そして、文脈からは un chique が男女を問わない (男も女もそれ以外も含めた) 包括的 (総称的) な意味で使われていることも分る。一方、このツイートに対して chique って何?、という反応 (多分大部分は修辞疑問) があるのだが、それに対して次のような「真面目」な回答が見つかる: «Un chique o niñe es un sujeto que no se siente representade por el sexo masculino o el femenino, es decir que no se identifica con los pronombres El ó ELLA»。この回答は「男でも女でもない」という Jidequín 訳に沿ったものだ。また、件のツイートに載っている動画で Fernández は un chico, una chica, un chique を並べて使っていて、「男でも女でもない」読みが可能だ。ということは、 chique には、男性女性の区別に関与しない非性の用法と、男性・女性・非性という対立する3項の1つという用法があるということになる。

スペイン語の文法的性の体系は、男性優位にできている (言語学的には男性が無標だと言うわけだが)。「男」を表わす el hombre が「人間」を意味できたり、男性複数形が男女の混ざった集団を表わせたりする。後者については、たとえば novios = novio + novia (カップル、新郎新婦) とか -o と -a で男女が区別されるペアに限らず padres = padre + madre (両親) のように語基が異なる場合にも適用される。

実際のテクストから1つだけ例を挙げると、«tanto el profesor como el alumno son agentes activos del proceso de enseñanza-aprendizaje (Wikipedia: «Profesor»)» に出てくる el profesor と el alumno は男女を問わない「先生と生徒」を表している。こういう例はけっこう多い。

今のところのスペイン語:
chico
chicochica

さて、このような言語的特徴に対して、スペイン語世界は伝統的に女性を表すという形で対抗してきた。20世紀前半から、職業名詞の女性形を作る動きが盛んで、それは今のアカデミアの姿勢にも受け継がれている。男の大統領が el presidente なのに対して女の大統領は la presidenta で、-e と -a で男女が対応するという比較的少ないパタンではあるが、標準的な形として定着している (この形に文句を言う人もいないわけではない)。また、いつ頃からの現象なのか僕はよく分からないのだが、たとえば los ciudadanos で「市民」全体を表現できるところに los ciudadanos y las ciudadanas と言うことがある。このパタンについてはアカデミアは los ciudadanos だけで十分という立場だが、アカデミアが明示的に「人工的で不必要」と言っているということは、それなりに広まっているということだ。女性を表示することによって男性の無標性という名の優位性を相対化しようというわけだ。

ところが、昨今のLGTBQを巡る動きでは、男にせよ女にせよ性の表示自体が問題視される。性を表示しようとしてきた20世紀からの動きと、それを否定する最近の動き。これらがどう衝突してどう折り合うのか、記述者にとっては大変興味深い。そして、3つ目の項としての非性の表示というのが、その鬩ぎ合いのひとつの結果なのではないだろうか。

chique を含む体系:
chique
chicochicachique

もちろん、ここで非性名詞の誕生を予言したいわけではない。文法的な性の体系は強固だから、les niñes が一時的な現象に終わって跡形も残らず消える可能性もある。男性が無標であるという「純粋に体系的」な話も良く分かる。しかし、言語は人が使うことを通じて変化する。Les niñes がスペイン語の体系にどういう影響を与えるのか、与えないのか、僕が生きているうちに結果を見ることは出来ないだろうけれど、何と言うか、楽しみだ。