2019年6月4日火曜日

Calamares

先日、某ファミリーレストランで食事をした時に、メニューに「カラマリフリット」というのがあるのに気づいた。イカを輪切りにしたのを揚げたやつのことだが、イタリア語で calamari は calamaro の複数形、fritto は単数形なので、輪切りにされた複数のそれのうち1つだけが揚げてあるのだろうかという議論になった。申し訳ないことに、この仮説を検証することはしなかったが、期待が裏切られて calamari fritti が出て来る可能性が高い。

だが、本当の問題は、この複数形は何の複数なのかということだ。スペイン語でも calamares fritos と複数形で言うので、これ以降 calamar / calamares の話にする (イタリア語の複数形とスペイン語の複数形が同じ理由で表れているとは限らないので)。さっきは、輪切りになった「それ」の複数形だというような書き方をしたが、実際そうだという保証はない。もしそうならば、その輪っかを1つつまんで un calamar とか、2つ食べて me he comido dos calamares と言えておかしくないはずだが、どうなんだろうか、という問題だ。ネット上の画像で見ると、calamar と単数形で言っているのは輪切りになっていないやつだ。

複数形というのは、単純なようでいて実は難しい。ネイティブには当たり前に思えるらしく、具体的で詳しい研究が見当たらない。Calamares fritos は何となく複数っぽい感じがするけれど、輪切りとは別のところに理由がないと断定はできない。あるいは puré de patatas とかはどうだろうか。直接見えるわけではないが、材料に複数のジャガイモを使っているのだろうか。それとも何か別の要因があるのだろうか。幸い、この辺りのことを調べている人がいるので、僕は何もしなくて良さそうだ。その人の研究成果が美味しい論文になるまでお腹を空かせて待つことにしたい。

2019年6月2日日曜日

Pasión

Pasión さて、『情熱でたどるスペイン史』の話も、そろそろ終わりにしたい。なので、最後を飾るに相応しいテーマが欲しい。導入として、フラメンコの歌について語ったこれなんかはどうだろうか。

愁訴(しゅうそ)するようなしゃがれ声、エネルギッシュに押し出される言葉。最初ごく小さく音節が長くのばされたうめき声が、やがて耳をつんざく悲嘆の声へと増大し、ついで急速なテンポに押しせまってきます。しかし最後には臆病風(おくびょうかぜ)にとらわれたかのようにおとろえ、くずれていくのです。怒りと憤懣(ふんまん)が悲哀とあきらめに交替し、荒涼たる悲しげな感情が歌い手をつらぬいていきます。(池上 2019: 184-185)

いやはや、想像力の豊かなこと。僕はカンテを聞いてこんな感想を持ったことはない。まあ、踊りの中には前半ゆっくりで後半テンポが上がる構成になっているものがあるので、それを拾っている部分があるのかもしれない。だが、最後の臆病風や悲哀とあきらめはどこから来たのだろうか???

前にも書いたが、フラメンコの歌詞の内容は多様だ。悲嘆と怒りと憤懣と悲哀とあきらめと荒涼たる悲しげな感情みたいな単純な分類に収まったりはしない。「ジプシーの魂のさけびのようなほの暗いカンテ形式 (池上 2019: 186)」と形容されたりするシギリジャでさえ、こんな歌詞で歌われることがある。

Delante de mi mare
no me digas na,
porque me dice muy malitas cosas,
cuando tú te vas.

「お母さんの前では話しかけないで。あなたが行った後ひどいこと言うんだから」ぐらいの意味だと思うが、母親が自分の恋人を気に入っていない時の魂の叫びなのだろう。こんな歌詞が、例えば「俺は今誰にも看取られずに病院で死んでいく」みたいな歌詞と同じメロディーで歌われるのが、フラメンコの面白いところ。カンテを味わうには形式だけ分かってもだめ、歌詞だけ分かってもだめ、ということなんだけど、それを悲嘆とか叫びとか臆病風とかで纏めないで欲しいと切に願う次第だ。

さて、今回のテーマはフラメンコではない。次の例を見るためにこの本の冒頭に戻る。

皆さんは、スペイン人というとどんなイメージを思い浮かべるでしょうか? 何と言っても情熱的な民族ということではないでしょうか。のんびりと悠長(ゆうちょう)で質素な生活をしている人たちが、ある時、いきなり情念のとりことなって大それた行動に走るのを目にすると、だれもが一驚(いっきょう)してしまいます。(池上 2019: iii)

僕はこの文章を見て一驚した。前半の「情熱的な民族」というステレオタイプが出てくるところは、一般的にそうなのかもしれないので良いとして、「のんびりと」以下は何の話をしているのか全然見当もつかない。そういう人を見たら誰もが一驚するのかもしれないが、これってスペイン人のことなのか??? こんな人いたっけ???

もちろん、多くない僕の知り合いの中に普段は悠長で質素な生活を送っているのに突然情念の虜になって大それたことをしでかすようなスペイン人がいないことは、そういうスペイン人が存在しないことを意味しない。しかし、著者はこのスペイン人像を本の冒頭に置いたわけだから、それなりに広く受け入れられたイメージだと考えているはずだが、僕はイメージのレベルでもこういうのには馴染みがない。

さっきの臆病風にせよ、この大それた行動に走る人にせよ、僕にとってかなり不思議なスペイン像は、「スペインとスペイン人を創っていった歴史は、フラメンコや闘牛に表れた情熱だけではなく、より深い意味での情熱の生成とともにあった (池上 2019: v)」という著者の考えに基づくものであるわけだが、その種明かしが本の最後の方にある。

それはサルバドール・デ・マダリアーガという現代スペインの作家・外交官が唱えている特性に近いものです。彼は『情熱の構造』(1929年) という書物で、フランス人が「思考の人」、イギリス人が「行動の人」であるのに対し、スペイン人の最大の特徴が「情熱の人」であるところにあるとしています。そしてその情熱とは、興奮を覚えながらも自分たちの内部を通り過ぎるままに放置する「生の流れと一致した感情」です。(池上 2019: 232)

なるほど、というわけでマダリアガの本を探した。勤め先の図書館には、池上が参照した邦訳版はなかったが、スペイン語版 (Ingleses, franceses, españoles) があったのでそれを借りて読んだ。僕の読んだ版は1969年にブエノス・アイレスで出たものだが、もともと1928年に英語で出版され、翌1929年にスペイン語版が出たのだそうだ (Wikipediaによる)。で、引用にある通り、イギリス人は hombre de acción フランス人は hombre de pensamiento そしてスペイン人は hombre de pasión という話なのだが、ここでの pasión は acción と対比的に用いられていて、能動に対する受動に力点が置かれている。読んだ印象としては「受動の人」、「成り行きまかせ (=「自分たちの内部を通り過ぎるままに放置する」)」だ。それは、悲嘆の叫びを上げたと思ったら臆病風に吹かれてしまうとか、突然大それたことをしでかすとかいうイメージと親和性がある。つまり、これらの「スペイン人」は実際に著者が出会った人ではなくて、マダリアガの考えに影響を受けた空想の産物なのだと考えれば辻褄が合う。

で、マダリアガの本だが、率直な感想を言えば、トンデモ本。1928年の時点では、当時のスペイン知識人のスペイン探しや raza (人種とか民族とか訳される) の概念の通用度からして、普通に受け入れられたのだろうけれど、今真面目に取り合うべきレベルの本ではない。邦訳でどう訳しているのか分からないが、raza española なんてものを自明視して、その carácter nacional の実在性を主張する本から、何が期待できるだろうか。でも、ステレオタイプの特徴は、何かしら「ああ、そうだよな」と思わせる部分があることなので、これを読んで感心する人はいるんだろうな。んー。

  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • Madariaga, Salvador de, 1969, Ingleses, franceses, españoles, Editorial Sudamericana.