2019年3月2日土曜日

Concordancia vizcaína

『情熱でたどるスペイン史』の、前回引用した部分に続いて、スペインの「複合的性格」の具体例が挙げられている。

レコンキスタや海外植民では、カスティーリャ王国の下でバスク人が大活躍しましたし、バスク地方内でカスティーリャ語がごく普通に使われていました。(池上 2019: 219)

ここまで引用しておいた方が、前回の引用部分は分かりやすくなったかもしれない。バスク地方で「カスティーリャ語がごく普通に使われてい」たのは、ローマの支配下で支配者とのインターフェース言語がラテン語になって以来続いてきたことの延長で、単純化して言えば、ラテン語がカスティーリャ語に変化したからだ。だから、バスク語とカスティーリャ語の関係は、それぞれが中世王国の言語だったカタルーニャ語とカスティーリャ語との関係とは異なるとは言える。

バスク地方のカスティーリャ語化の歴史も圧倒的に長い。萩尾 (2005: 92) によれば「紀元1世紀にバスク語が話されていた地理的空間は、北端がフランスのボルドー、東端がアンドラ、南端がスペインのサラゴサとソリアを結ぶ線、西端がサンタンデルとブルゴスを結ぶ線」だった。以来20世紀に至る「縮減」過程は萩尾 (ibid.) の地図が分かり易く示しているのだが、上手くスキャンできなかったので、現物に当たってぜひ確認して欲しい。

それでも、カスティーリャ語化の度合いは、17世紀の初頭にバスク人の喋り方が笑いの対象になる程度のものだった。次に引くのは、『ドン・キホーテ』の中の有名な一節、ビスカーヤ人の発言だ。

—¿Yo no caballero? Juro a Dios tan mientes como cristiano. Si lanza arrojas y espada sacas, ¡el agua cuán presto verás que al gato llevas! Vizcaíno por tierra, hidalgo por mar, hidalgo por el diablo, y mientes que mira si otra dices cosa. (DQ, parte 1, capítulo 8)
(https://cvc.cervantes.es/literatura/clasicos/quijote/edicion/parte1/cap08/cap08_03.htm)

これを注釈者は以下のように訳している。

¿Que no soy caballero? Juro a Dios, como cristiano, que mientes mucho. Si arrojas la lanza y sacas la espada ¡verás cuán presto me llevo el gato al agua! El vizcaíno es hidalgo por tierra, por mar y por el diablo; y mira que mientes si dices otra cosa. (nota 58)

牛島信明訳は

なに、わしが騎士でねえだと? わしゃキリスト教徒だで、神様に(ちこ)うて言うが、お前はひどい嘘っこきよ。お前が槍捨てて剣ぬきゃ、川に投げこまれた猫みてえに、あっという間におだぶつさ。ビスカヤ(もん)は、陸でも海でもどこでも武士(さむらい)で、そうでねえとぬかしゃ、そりゃまっかな嘘っぱちよ。(『ドン・キホーテ 前篇 (1)』156-157)

だが、これは文法的に整っていて、原文の味わいは出ていない。まあ、文法的に破格なところを尊重して訳したら、分かる日本語にならないだろうから、田舎者用の役割語を使って処理したのだろうけれど。ちょっと直訳を試みてみる。

わたし騎士なし? 神に誓ってキリスト教徒ぐらい汝嘘ついている。汝槍捨て剣抜かば、通りは汝が思いでするとすぐに分かるさ。陸でビスカーヤ人、海で郷士、悪魔にかけて郷士。ことを言うなら別の、汝ているぞ嘘つい。

最初の文は動詞がない。Juro で始まる文は tan ... como の形になっているのでそれを活かしたが、そうすると como cristiano が意味不明になる。Si lanza 以下の文は難物だ。条件節は lanza と espada に冠詞がないところが上手く訳せないが、目的語が動詞の前にある点はバスク語の語順を意識しているのかも知れなくて、そこを何とか出来たかも知れない。しかし、冠詞があればこの語順で中世の武勲詩みたいに響くかも知れないので、むしろそれを目指してみた。帰結節は、慣用句 llevarse el gato al agua = salirse con la suya 「猫を水に連れて行く = 自分の思い通りにする」が言いたいことだと注釈が言っている。「私が猫を水に連れて行く」と言うべきところを「水を汝が連れて行く猫へ」みたいな感じになっているわけだ。なので本当に意味をなさない日本語にしてみた (cuán presto のかかり方も、オリジナルではこう読める)。Por el diablo のところは、牛島訳のようなことだろうけれど、おそらく「悪魔にかけて」誓う=悪態をつく形式なのだと思うので、そう訳しておいた。後半の y mientes 以降は、語順が変なところを尊重した。

さて、このビスカーヤ人 (=バスク人) の言説、さっき言ったように、定冠詞があるべきところになかったり、目的語が動詞の前にあったりといった特徴がある。バスク語は名詞の定性を変化語尾の内部で表現する (しかもバスク語の定表現がカスティーリャ語の定表現と一致するわけでもない) ので、カスティーリャ語の定冠詞は習得しにくかったのかもしれない。また、バスク語の基本語順は一応SOVと言われていて、それが反映している可能性はある (mira que mientes であるべきところが mientes que mira になっているのもSOVの反映と見ることが出来る)。

それから、注釈によれば動詞が1人称単数であるべきだが2人称単数になっているところが1箇所ある (llevas)。バスク語の動詞には人称変化があるから、こんな間違いはしないだろうと思うのだが、もしかしたら、バスク語には主語や目的語ではない親称2人称単数 (聞き手) の標識が動詞の活用形の中に表示されるという現象があって (例えば https://nabasque.eus/old_nabo/Euskara/hika.htm 参照)、それと関係しているのかもしれない。まあそこまで考えなくても良いのだろうけど。

ともあれ、注釈によれば «A los vizcaínos se les atribuía un lenguaje convencional (nota 57)» で、当時バスク人を表す役割語が広く用いられていたようなので、このビスカーヤ人の言葉もリアルなバスク人カスティーリャ語を写していると考えない方がいい。重要なのはむしろ、バスク人の話し方について、当時こういうステレオタイプ的イメージがあったということだ。つまり、バスク人はカスティーリャ語を上手く話せないというイメージだ。

そこから concordancia vizcaína 「ビスカーヤ風(文法的)一致」という表現の説明もつく。これは、DRAE によれば «concordancia gramatical defectuosa o incorrecta (RAE & ASALE, 2014: s. v. concordancia)» で、一致ができていないのをこう呼んだわけで、バスク人のカスティーリャ語に対するステレオタイプが元になっている。

バスク地方で「カスティーリャ語がごく普通に使われてい」たことを否定する必要はないと思うけれども、非対称な言語接触下ではこんなことが普通に起こるということも覚えておきたい。


  • Miguel de Cervantes, Don Quijote de la Mancha, edición del Instituto Cervantes, dirigido por Fancisco Rico. https://cvc.cervantes.es/literatura/clasicos/quijote/default.htm
  • セルバンテス作/牛島信明訳, 2001,『ドン・キホーテ 前篇 (1)』, 岩波文庫, 岩波書店.

  • 萩尾生, 2005, 「バスク自治州におけるバスク語」, 坂東省次・浅香武和 (編), 『スペインとポルトガルのことば』, 同学社, 89-117.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • RAE & ASALE, 2014, Diccionario de la lengua española, 23ª edición, Espasa.