2019年9月29日日曜日

You are not evil

国連の Climate Action Summit における Greta Thunberg (グレタ・トゥ(ー)ンベリ) のスピーチが評判になっているので僕も聞いてみた。

いやあ、すごいなあ、と思ったのだが、僕がこのブログで取り上げるからには言語的な話題だ。でも «how dare you» の話ではない。僕が興味を引かれたのは、英語が持つ「反実仮想」という文法的な仕掛けだ。

学校英文法で今でも「仮定法過去」と言ってるのかどうか分からないが、だいたいそれのこと。スペイン語の学習文法書では、接続法過去 (過去完了) と直説法過去未来 (過去未来完了) が登場する「非現実的条件文」とかその応用みたいに扱われるあれだ。とりあえず「反実仮想」という、まあそれなりに使われているんじゃないかと思う用語で呼んでおくことにする。現代日本語には、文法的な仕組みとして反実仮想を示す手段がない。もちろん、反実仮想を言い表すことはできるが、文法的にそれが明確に表示されないので、文脈や語彙的な手段に頼ることになる。スペイン語文法の授業で「非現実的条件文」を日本語に訳すのに「もし・・・だったら・・・なのに」のようなパタンを使うのは、「はい、私はこの文が非現実的条件文だということが分かっています」という表明をしてもらうという以上の意味はほとんどない。

英語からでもスペイン語からでも、反実仮想をすっきり日本語に訳すのは難しい。しかし、上手く訳せようが訳せまいが、反実仮想の内容をちゃんと理解できることが学習者にとっては重要な課題だし、教える側は丁寧に取り組む必要がある (実際には取り組めていないので反省しなければいけない、という部分を言わなくても、「必要がある」の活用形で示すことができるのが英語やスペイン語なのだが)。

さて、グレタのスピーチにおける反実仮想をちょっと見てみよう。司会者の «What’s your message to world leaders today?» を受けて «My message is that we’ll be watching you» という言葉でスピーチを始め、そのすぐ後:
This is all wrong. I shouldn’t be up here. I should be back in school on the other side of the ocean.
ここで2回出てくる should が反実仮想の標識だ。と言うと意外に思う人もいるだろう。現代英語の should の使い方は色々あって、反実仮想じゃない例の方が多いのかもしれない。しかし、もともとは shall の過去形で、それが助動詞として使われて現在のことを指す用法の起源は明らかに「仮定法過去」と繋がりがある。手元の辞書は «In statements of duty, obligation, or propriety (orig. as applicable to hypothetical conditions not regarded as real), and in statements of expectation, likelihood, prediction, etc. (OUP 2007: s. v. shall, 15)» という風に、もとは現実と見なされない仮定的な条件について使われていたと説明している。

まあ、この例は反実仮想を持ち出さなくても、「夏休みが終わったので学校に行かなきゃいけない」のような解釈をする人はいないと思うが、実際にはニューヨークにいるわけで、大西洋の向こうで学校に通っているのが本来あるべき状態なのにそうなっていない、という当為と現実の乖離が反実仮想ということになる。

そして、反実仮想表現が興味深いのは、仮想と現実の2つを1度に簡潔に言うことができるだけでなく、仮想と現実の乖離がなぜ起きているのかの問いを聞き手・読み手に提起できる点だ。ここでは例えば、world leaders がちゃんと仕事していればここに来る必要もなかった、みたいな読みが喚起されたりする。レトリックの観点からすれば、たいそう便利な道具だと言えるし、対応する仕掛けがない言語に翻訳するのに骨が折れるのは当然だ。

次の例は、文法の教科書に出てきてもおかしくないような条件文。
You say you hear us and that you understand the urgency. But no matter how sad and angry I am, I do not want to believe that. Because if you really understood the situation and still kept on failing to act, then you would be evil. And that I refuse to believe.
あなたたちは私たちの声が届いていて事態の緊急性を理解していると言うけれど、私はそれを信じたくない、つまり、理解してないと思いたい、ということだろう。そして、あなたたちが事態を理解していないということを現実として措定することで、次の「仮定法過去」が可能になる。本当に理解した上でなお行動しないままなのであれば、という条件節は、実際には「事態を理解して」の部分だけが現実と乖離していて「行動しない」は現実だという解釈になるのだろうけれど、仮想的条件が設定された中での話なので、ひっくるめて「仮定法過去」で表現されている。そして、その (現実には成立していない) 条件が成立するならば、あなたたちは「邪悪」だということになる、というわけだ。僕の英語力では evil の語感がよく分からないので、ネット上に出回っている訳を借りてきたが、この帰結節の would は「だろう」と訳してはいけない。あくまで、現実と乖離した条件が成立したらそうなる、ということを表しているに過ぎない。仮想世界における論理的帰結だ。

そしてグレタは、そのこと、つまりあなたたちが事態を理解しつつ問題を放置している邪悪な連中であることを信じるのを決然と拒否する。議論の筋としては、理解しているとあなたたちが言う、しかし私は理解していないと思いたい、なぜならもし理解しているのならあなたたちは邪悪だということになるが、あなたたちが邪悪な存在だとは絶対に信じない、だからあなたたちが理解していないと考えざるを得ない、という感じだろうか。引用の最後の文は believe の目的語の that が前に出ているところがカッコいいと個人的には思うが、大事なのは refuse だろう。ここで断固として拒否されているのは、あなたたちを邪悪な存在として措定することだ。もしかしたら、彼女自身 world leaders が邪悪な存在に思えるぐらい深く悲しみ怒っているのかもしれない。しかし、にもかかわらず (no matter how sad and angry I am)、そういう世界観には立たない決意をしたのだろう。ただし、これは邪悪じゃない人たちみんなで仲良く頑張ろうねという話ではなくて、邪悪じゃないからには事態を理解してすべきことをせよ、それをしないなら・・・、という展開になる。これは彼女がそうだと決めた「現実世界」での話だから、終わり近くの «if you choose to fail us, I say we will never forgive you» が「仮定法過去」ではない現実的な条件文なのはよく分かる。

問題の反実仮想の条件文は、(彼女にとって) 存在する矛盾の要素を仮想世界と現実世界に分けて、見かけ上矛盾を解消することを通じて実際の矛盾の解消を求めるという、けっこう高度なレトリックの一部をなす。反実仮想というのは、非現実を談話の中に導入するのだけれども、実は徹底的に理詰めな表現なのだと言える (理詰めでなければ現実と仮想の乖離を明瞭に示すことはできない)。もちろん、彼女の世界認識を共有しない人はいるだろう。議論の文章なのだから、それは織り込み済みのはずだ。だから、批判や反論が出るのは当然だが、それらも理詰めで行われることが要求されるわけだ。

反実仮想は、日常生活に欠かせない婉曲表現と結びつく一方で、議論の筋を作るのに重要な働きをする。特に、スペイン語で言えば過去未来形、英語なら would の部分が、話し手・書き手の主張を表していない場合が多いのだが、学習者がそれを読み取れなかったりする。教える側がちゃんと対応しなければいけないと思うのだが、そもそも、そういうレベルの文章を読むところまで進めないことが多い。けっこう大きな問題だと思うのだが。

なお、ネット上でざっと見たところ、スウェーデン語の反実仮想条件文は英語のそれと似たやり方で作れるようだ。英語の if にあたる om に導かれる節内では動詞を過去形にする。帰結節では、英語の would に相当する skulle を使う。現代スウェーデン語では接続法はほぼ使われなくなっているが、英語の be にあたる vara の接続法過去形 vore が om 節内で使われるようだ (if I were の were がやはり接続法過去形だ)。


  • Oxford University Press, 2007, Shorter Oxford English Dictionary, MSDict Viewer Version 10.0.17.169 (iOS app)