2015年7月29日水曜日

Puerto

てなわけで、『スペイン語学概論』の出版を祝って執筆者仲間で会食。場所は渋谷駅から遠くないところにあるバスク料理店サンジャン・ピエドポー。とても美味しく楽しい夕食だった。僕は料理の写真を撮る習慣を持たないので、どんなものを食べたかを見せることは出来ないが、今回のテーマは食べ物ではないので、特に影響はない。

店の名前はフランス語 Saint-Jean-Pied-de-Port に由来する。スペインとの国境近くにある町の名前だ (スペイン語では San Juan Pie de Puerto)。さてこの町、店内の壁にはってある地図で見たら海沿いにあるわけではない。それで puerto には「峠」という意味があることを思い出した。帰ってからオンラインで見た DRAE (22版) の «3. m. Paso entre montañas» にあたるだろう。ついでに «4. m. Montaña o cordillera que tiene uno o varios de estos pasos» というのがあることも分かった。もしかしたらこっちの意味で pie は峠に至る山の麓という感じなのだろうか?

iPad に入っているフランス語の辞書 (『プチ・ロワイヤル仏和辞典』第4版) は「港」の port とは別見出しの port で「(ピレネー山脈の) 峠」という説明をしている。ということは地域限定なわけだ。で、ラテン語学習アプリに入っている Lewis & Short の辞書で portus を引くと、峠にあたる語義は見当らない。なるほど、ラテン語に一般的な意味として存在していたわけではなかったことを認識。

じゃあ真面目に調べるしかない。職場で Corominas & Pascual の DCECH をチェック。すると、こんなことが書いてあった: «PUERTO, del lat. PŎRTUS, -ŪS, ’entrada de un puerto’, ’puerto’; pero en el  sentido de ’collado de la sierra’ y ’territorio serrano’, que es particular del castellano, con el catalán, mozárabe, vasco y gascón, el vocablo procede del sorotáptico PŎRTUS, de igual etimología indoeuropea que la voz latina, pero con un significado más semejante al de sus hermanos proétnicos, avéstico pərətuš ’pasaje, entrada, portillo’, gr. πόρος ’pasaje’, scr. pārti ’conduce al otro lado’, esc. ant. fjörðr ’paso de mar entre montañas’, etc. (s. v. puerto)».

ううむ、そうなるとこの sorotáptico という聞き慣れない言語の正体が問題になる。検索してみると、なんと: «El idioma sorotáptico o sorotapto (del griego σορός sorós 'urna funeraria' y θαπτός thaptós 'enterrado') es una lengua indoeuropea antigua presumiblemente hablada en la parte oriental de la Península Ibérica. El término sorotapto fue acuñado por Joan Coromines para referirse a la presunta lengua de los pueblos de los Campos de Urnas que ocupaban la península durante la Edad del Bronce. Las evidencias de la lengua serían de tipo toponímico, que apuntan hacia a (sic) una lengua indoeuropea precéltica (Wikipedia, s. v. Idioma sorotáptico)» とのこと。つまり Coromines (DCECH では Corominas になっているが、これはカスティーリャ語式の綴りで今は Coromines と書く方が普通みたいなので、それに従う) が作っ、いや説明のために存在を想定した言語なのだった。なのでこの説明は鵜呑みにできない。

なお、アストゥリアス語アカデミーのアストゥリアス辞典は «puertu, el: sust. Pasu [altu pel que se pasa o traviesa un monte, un cordal]. 2 Zona [alta d’un monte, d’un cordal con mayaes y pastu a onde se lleva’l ganáu]. 3 Sitiu [acotáu y abrigáu na costa, preparáu p’amarrar, pa cargar y descargar les embarcaciones] (DALLA, s. v. puertu)» としていて、山関連の語義を「港」より先に載せている。ガリシア語アカデミーの辞書は porto の2番目に «Punto xeográfico situado nunha zona elevada de montaña ou entre montañas, por onde resulta máis doado o paso de persoas e vehículos e a construción dunha vía de comunicación (DRAG, s. v. porto)» を載せている。ポルトガル語の手元の辞書は porto にこの語義を載せていないが、Wikipedia の passo de montanha の説明が: «Um passo (também, colo, porto ou portela) em terminologia de montanha é um acidente geográfico definido como o ponto mais baixo entre dois picos pertencentes à mesma aresta, facilitando a passagem através da cadeia de montanhas, o que corresponde a uma passagem ligando dois vales (Wikipedia, s. v. Passo de montanha)» となっていて、使われていることが分かる。

Corominas が対応するバスク語の単語として挙げているのは bortu だ。いかにも sorotáptico から来たような顔をしている。他に mendate というのがあって、こちらは mendi 「山」と ate 「とびら」の複合語だ («mendate, mendi-ate. Puerto de montaña. (OEH, s. v. mendate)»)。つまり puerto ではなくて puerta だ。なお、辞書をざっと見た限りではどちらにも「港」の意味はなさそうだ。

Saint-Jean-Pied-de-Port はフランスバスクに位置する。当然バスク語名がある。Donibane Garazi がそれだが、Donibane が San Juan にあたり、Garazi はフランス語で le pays de Cize と呼ぶ地方の名前で、この Garazi の出所はよく分からないが、とりあえず puerto は入っていないように見える。

2015年7月24日金曜日

Dos libros

の宣伝。



僕の担当は、『スペイン語学概論』の方は第18章「スペインの諸言語」、『概説 近代スペイン文化史』は第7章「国家語と地方語のせめぎあい」と第14章「創られるフラメンコの世界」。「スペインの諸言語」はスペイン以外のことも扱っているので、「スペイン語圏の多言語性」とでもした方が良かったかもしれない。「国家語と地方語のせめぎあい」も、タイトルから想像されるものより広いテーマを扱っていて、しかも時代的には本のサブタイトル「18世紀から現代まで」をずいぶんはみ出している。両方とも多言語性の話だが、異なる視点から書いたので、話はあまり重なっていない。ので、是非2冊とも買って読んでください。

フラメンコに関しては、スペインにおけるフラメンコ研究の進展ぶりを反映して日本語で書かれたものが非常に少ない現状を考えれば、この文章にも充分意味があるだろう。書いたのが少し前なので、僕自身の考えが変化しているところもあるのだが。

どちらの分野も日本でやっている人は多くないので、あなたもすぐにプロになれるかもしれない (食っていけるという意味ではない)。

2015年7月1日水曜日

Leyendo ¿se entiende la gente?

日本語を母語とする学習者 (日本人学習者) が比較表現を上手く扱えないことは前に書いた。そういう学習者は、たとえばこういうテクストに躓く。

Se suelen considerar como pioneras de la cortesía verbal las obras de Lakoff (1973), Brown y Levinson ([1978] 1987) y Leech (1983), provenientes de la tradición anglosajona. Estos trabajos poseen una gran deuda con estudios de carácter antropológico, filosófico y social, en los que fundamentan los deseos y las necesidades de imagen, de respeto, de libertad de acción y de aceptación social de las personas involucradas en la comunicación. En ese sentido, deberíamos retroceder más en la historia de las ideas para reconstruir las bases teóricas que alimentan los estudios pragmáticos de la cortesía verbal (Stuart Mill, Émile Durkheim, Erving Goffman, etc). (Albelda & Barros, 2013, La cortesía en la comunicación, Arco Libros, p. 5)

見て分かる通り、こんな文章を読むということはそれなりのレベルの学習者なわけだが、やっぱり más が表わしていることを上手く言語化できない場合が少なくないのだ。ー応解説しておくと、言語的なポライトネスの先駆的な研究として Lakoff とか Brown & Levinson とか Leech のものが挙げられることが多い (この時点で歴史を30-40年さかのぼっている) が、これらの研究の基礎となる考え方を理解するためには、歴史をさらにさかのぼって (言語学者ではない) Mill や Durkheim や Goffman の仕事をチェックする必要があるということだ。Lakoff までのさかのぼりが、表現されていない que 以下の内容にあたるわけだ。別の言い方をすれば、ここに2つある固有名詞のグループ間の関係を把握できなければ、このテクスト片を理解したことにはならない。

もちろん、うまく説明できないだけで分かっているという可能性はある。しかし、言語化できないということは分からないのと同じくらい、いやもしかしたらより大きな問題だろう。

ついでに言うと、この断片を理解するのに欠かせない文法事項がもう1つある。それは debería の使い方だ。この過去未来形を見たら、「必要がある」と言っているけれども実際にはやらないのだな、と思う必要がある。ためしにこの本の巻末にある参考文献欄を見てみると、さすがに Goffman は出て来るが、Mill と Durkheim は載っていない。やはりやってなさそうだ。

外国語の運用力というと喋ることと思っている人が多いかもしれないが、理解の側面がしっかり身についていなければまともな語学力とは言えない。比較はテクストの内容構成に直接かかわる重要な要素であることも多いはずだし、過去未来は書き手の事実認識を反映する。テクストの最低限の理解に、具体的な文法項目の知識が欠かせないわけだ。そして、このレベルのスペイン語が分からない人は当然このレベルのスペイン語を喋ることはできない。

この記事のテーマが今の学習者がいかに出来ないかということだと思われると困るので先を急ごう。問題はむしろ言語教育の方にあるのではないか。たとえば「フアンはペドロより金持ちだ」みたいなへなちょこな和文西訳を8000000回やっても上のテクストを読めるようにはならない。Debería を「しなければいけないだろう」と結びつけて放置していたら、この形は一生使えるようにならない。ではどうするか。実際の使用に触れるという意味で、テクストを読むことは非常に有益だし、とても効率的な学習方法だと僕は思っているが、読解の授業のやり方について良い案があるわけではない。文法の教科書は大幅に書き直したいと思っているところだが、イメージを形にする時間があるかどうか (もちろん、書き直したものが上手く機能するかどうかは、やってみないと分からない)。