2019年9月21日土曜日

Vocal àtona

前回までカスティリャ語のカナ表記について書いてきたが、もとはと言えばカタルニャ語の固有名詞をどう表記するかという話をしていたのだった。今回は Montsalvatge (3) で論じたことを補足して、先に進む準備をしたい。

カタルニャ語の無強勢母音体系は、大きく西部 (5母音体系) と東部 (3母音体系) に分かれる。バルセロナの方言は東部に属するので、伝統的に後者の体系が標準的と見なされてきた。その体系を単純にカナに対応させた3段式に従えば、Barcelona は「バルサロナ」となる。一方、綴りも考慮に入れた5段式では「バルセロナ」になる。5段式は西部の体系の素直な転写と重なるが、西部式ということではなくて、綴りを考慮した汎カタルニャ語圏的な方式だということは確認しておきたい。

木村 (1989: 193) は「原語のスペリングがわかるような書き方」が「スペイン語よりもむしろ英語、ポルトガル語のような母音弱化の著しい言語の表記において問題になる。たとえばポルトガル語の川の名 Douro の語末の -o は弱化して [u] と発音されるが、だからと言ってこれを「ドウル」と表記するよりは、スペリングを尊重して「ドウロ」と書いた方が、実用的である」と言う。ここで実用的というのは、元の綴りが分かって便利だということだろうか。なお、彌永 (2005) は「o (/u/, /o/, /ɔ/) は一律に「オ」と表記するという原則に立つ (167)」という点で木村と一致するが、「かつての二重母音 /ow/ は、短母音 /o/ に置き換わり、現代の標準的な発音では姿を消しました。[...] しかしながら、二重母音を保っている方言もあり、注意深い発音では、二重母音で発音することもあります (35)」と述べ、「無強勢の ou には「オ」、「オー」あるいは「オウ」、強勢のある ou には「オー」をあてる表記がよいと思われます (172)」としていて、それに従えば Douro は「ドーロ」になる。

彌永 (2005: 166) の「先人が行ってきた方法は、 [...] ポルトガル語の語を可能なかぎりローマ字表記された日本語と見立てて翻字してしまう方法と言って良いでしょう。原音を離れるかもしれませんが、この方法によって、ポルトガル語の方言的変異をはじめ、さまざまなポルトガル語のありかたを排除したカタカナ表記が可能になり、元のポルトガル語がすぐに頭に浮かぶ表記が行われてきました」という観察は興味深い。音声学・音韻論を知っているからこそ出来る、「原音」離れに対する評価かもしれない。

話が少しずれた。木村が英語やポルトガル語について言っていることがカタルニャ語にも当てはまることは今更説明する必要もない。元綴りの復元可能性については、特にウ段の使用が事をややこしくする。例えば Coromines を3段式で「クルミナス」と書いたとしよう。元の綴りを知らない人にとっては「クル」が coro なのか curu なのか、coru なのか curo なのか、あるいは cro なのか cru なのか、はたまた cor なのか cur なのか分からない。

また少しばかり脱線するが、ここで思い出すのはフランス語の ou に対応するカナ表記が「ウー」であることだ。僕は長年、例えば「ブールヴァール」に2個も「ー」が出てきて間延びするなぁと思っていたのだが、綴りの復元性から意味のある「ー」だということに気づいた。元綴りは boulevard だが、「ブー」が少なくとも b や be ではないことが分かるのだ。もちろん、真似してカタルニャ語で「クールーミナス」と書けば良いと思う人はいないだろうけど。

話を戻すと、綴りを考慮するやり方は伝統的に特に珍しいわけではなく、「原音」を重視した表記より劣っているとも言えない。

ここで、3段式と「原音」の関係に触れておこう。Montsalvatge (3) で僕は「[u] についてはオ段の可能性もあり、日本語話者がカナ表記を発音した時により元の音に近くなる場合も考えられる」と書いた。つまり「クルミナス」よりも「コロミナス」の方が Coromines の音声により近くなるかもしれない (かどうか本当は分からないが) ということだ。また「カタルーニャ語の [ǝ] は僕の耳にはアに聞こえることが多い」と書いたが、実際にはアに聞こえないこともある。例えば Generalitat が僕の耳に綺麗に「ジャナラリタッ」に聞こえることはまずなくて、最初の音節が「ジェ」に近い発音は珍しくない。もちろん、僕の耳が綴りに引きずられている可能性はある。しかし、[ǝ] は日本語のアイウエオのどれとも異なるということは確認しておく必要がある。結局、3段式の表記は東部方言無強勢母音の3母音体系を3段のカナに対応させた音韻体系の翻訳なのであって、音声の転写ではないのだ。だから、3段式と5段式の違いは、音声と綴りという単純な対立には解消できない。少なくとも、3段式が「発音に忠実」みたいな思い込みはなくしていきたい。

次回以降、カタルニャ語の話をするときは5段式で「コロミナス」とか「ジェネラリタット」とか「モンサルバッジェ」みたいな書き方をすることにしたい。これは単なる実験で、提案とか主張とかの意図はない。まあ3段式が主流っぽいので、別のやり方もあるということを示す意味はあるかもしれない。


  • 彌永史郎, 2005, 『ポルトガル語発音ハンドブック』, 大学書林.
  • 木村琢也, 1989, 「フアンとマリーア –スペイン語固有名詞のカタカナ表記に関する二つの問題点–」,『吉沢典夫教授追悼論文集』, 191-199.