2014年8月18日月曜日

Naturaleza A

Naturaleza を西和辞典で引くと「自然」のほかに「本性、本質」みたいな訳が載っている。そして例句 naturaleza humana には「人間性、人類」といった訳がついている (寺崎ほか編 2010『デイリーコンサイス西和和西辞典』三省堂、s. v. naturaleza)。形容詞の humano は「人間の (idem: s. v. humano)」ということだから「人間の本性」あるいは「人間が人間であるが故に持つ性質」で何の不思議もない。

では、これはどうだろうか: la naturaleza humana de Cristo. キリストの人間性?

こういうときに、辞書の訳語を出発点にして日本語で考えていくと大抵うまく行かない。テクストに即して文脈の中で考える必要がある。たとえばこんな感じだ: «La naturaleza humana de Cristo / La importancia de su naturaleza humana / La doctrina de su verdadera humanidad tiene la misma importancia que la doctrina de su divinidad. Jesucristo tenía que ser hombre para poder representar la humanidad caída. Si Jesucristo no era hombre verdadero, entonces su muerte en la cruz era un engaño. Tenía que poseer una naturaleza humana verdadera para poder morir por la humanidad».

キリスト教徒ではない僕が説明では不正確になることはまぬがれないが、まあ、キリストは神性を備えているとともに真の人間でもあったということだ。つまりキリストは人間であるという性質を備えており、その性質が su naturaleza humana なわけだ。僕は「キリストの人間性」という日本語からは、この意味を理解することができない。なので「キリストが人間であるということ」のように訳したくなる。キリスト教神学のほうでは「キリストの人性」という言い方があるようで、これは「神性」との対で使いやすいコンパクトな用語だが、日常的な日本語とは言えない。『現代スペイン語辞典』(iOS版 ver. 1.1.6: s. v. naturaleza) は naturaleza humana の訳として「人性、人間性;人類」を挙げているので、これで「正解」にたどり着く人は多いかもしれないが、理解を伴う保証はない。

この記事のテーマはキリスト教ではなくて、今見たような naturaleza の使い方の方だ。こういう使い方は決して珍しいものではない。また、似たような意味をもつ carácter にも同様の使い方がある。たとえば carácter (naturaleza) unilateral de la tregua 「停戦が一方的であること (naturaleza もあるが carácter が多い)」、つまり双方の合意による停戦ではなくて、片方が一方的に宣言したものだということ、とか naturaleza (carácter) multidimensional del universo 「宇宙の多次元性 (こちらは naturaleza の方が多い)」とか、naturaleza (carácter) mortal del ser humano 「人が必ず死ぬこと (これも naturaleza の方が多い)」とか、carácter (naturaleza) anticonstitucional de... 「・・・の違憲性」とか。

もうみんな気がついたと思うが、これらの例では naturaleza (carácter) A de N において ser(N, A) という関係が成り立つ: la tregua es unilateral; el universo es multidimensional; el ser humano es mortal; X es anticonstitucional. Cristo の例では «ser hombre» という言い方が出てくるが humano でも言える: «Cristo es humano y divino».

これは、1番最初の naturaleza humana では成り立たない、というか N がない。N のある例を見ておこう。La naturaleza física de la luz では、「光が物理的であること」という読みも不可能ではないだろうけれど、普通は「光の物理的性質」つまり物理学的に見た光の性質のことだろう。このように、naturaleza A (de N) には (少なくとも) 2通りの解釈あるいは構造があるわけだ。

それから、今問題にしている例は次のように言い換えることができる: la unilateralidad de la tregua, la multidimensionalidad del universo, la mortalidad del ser humano. キリストの例には «su verdadera humanidad» という言い方が出ているが、これを「人類」と訳してはいけない。「人間であること」だ。

たしかに humanidad を西和辞典で引いても「人間であること」という訳語は出て来ない。それから、『現代スペイン語辞典』(s. v. humanidad) は humanidad の語義2として「人間性、人間としての宿命;《宗教》人性」を載せていて、『西和中辞典』(iOS版 ver. 2.0.1: s. v. humanidad) は例句 «la humanidad y la divinidad de Jesucristo» の訳に「人性」を使っているので、それが目に留まれば正解を手に入れることはできるのだが、理解の問題は残るし、この humanidad の使い方は、別にキリスト専用でもないし宗教用語でもない。たとえば: «Atrás quedan las viejas polémicas por el famoso fragmento craneal del llamado «hombre de Orce» y la obsesión demostrada por su descubridor, Josep Gibert, por defender la humanidad del fósil, que acabó con divisiones y enfrentamientos entre sus discípulos y el declive de las investigaciones». ここでは、ある化石の人性、つまりこれがヒトのものかどうかが問題になっているわけだ。もちろん «la naturaleza humana del Hombre de Orce» という言い方もある。意味論を多少やってる人間としては naturaleza humana と humanidad が同じ意味だとは言わない。しかし、実用的には言い換えレパートリーと考えてよいだろうと思う。つまり naturaleza A は A + idad 相当の働きをすることができる場合があるということだ。

辞書に載っていない訳語を採用できるというのは、読解において必要なスキルだ。しかし、それがちゃんと身に付いていない学習者は多い。いや、辞書に載っていない日本語を使う学習者はいるのだが、それがテクストの理解に結びついていないことが多いのだ。きっと、辞書の日本語をつなぎ合わせたものを出発点に日本語だけを使って意味を考えながら訳文を生成しようとしているのだろう。それはテクストを理解するプロセスとは異なる。原文に沿っていくと自然と辞書から離れる、というのが目標だが、これを学習者に身につけてもらうことが出来ているかというと、正直自信がない。

一方、今問題にしている naturaleza や carácter の使い方は辞書に載せてしまえば良いことだ。パタンも特定できているし、例だってその辺にごろごろしている。とは言え、この2語だけ特別扱いするのも変だから、同じようなレベルの現象をもっと集めないといけない。僕は辞書編纂に近づけない体質なので気楽に言っているが、本格的にやろうとしたらかなりの大仕事になる。とりあえずは、この手の例を地道に記述していくことが必要だろう。

こういうのは、みんなでダラダラやればいい。各自が自分のペースで、ブログみたいなところで思いつきだけ書きとめてもいいし、少し真面目にコーパスを見て論文にしてもいいし。大げさな理論は要らないから、卒論で扱うことだってできる。それが、そのうち誰かが作る辞書に反映されるという寸法だ。

2014年8月11日月曜日

Afeitar

せっかく床屋の話が出たので髭をそる話。Barbero というのは見て分かる通り barba の派生語だから、髪切り屋ではなくて髭剃り屋だ (なお、今の床屋は peluquero で、こちらは peluca から派生しているから、語義的にはカツラ屋だったわけだ)。というわけで barbero の仕事は本来 afeitar することなのだが、実際にはもっと多彩な役目を担っていた。«Las sociedades modernas se caracterizaban por una fuerte división del trabajo, con profesionales especializados. Constituía un signo más de retraso pintoresco que en las barberías españolas se afeitase, se curase a un enfermo o se armara un jolgorio al compás de una guitarra (Campo, Alberto del & Cáceres, Rafael, 2013, Historia cultural del flamenco: El barbero y la guitarra, Almuzara, p. 453)».

というのは19世紀の話だが、床屋は伝統的に医療に携わっていて、それからこの本の副題にもなったように、ギターとの結びつきも強固だった。なお、上の例の se afeitase は se + 3人称単数の不定人称で、afeitar は他動詞だが、直接補語が表現されていない。表現しないことを通じての不定人称化だろう。つまり、主語も不定、直接補語も不定ということだ。こんな例もある: «Cuando el barbero afeita, también el mancebo toca la guitarra (459)».

今言ったように afeitar は他動詞で、直接補語には髭をそられる人が来る: «Karol Dembowski se sentirá profundamente defraudado con el barbero que lo afeita en una posada de Guadalajara, pues muestra una actitud muy poco maja, citando a Voltaire y a Fréret, y hablando mal de los carlistas, en vez de ponerle al día con sus cotilleos (465)».

客を主語にしたければ再帰動詞 afeitarse にすればよい。

«El diplomático inglés John Warren acude en 1850 en Sevilla a una barbería, no tanto para afeitarse, cuanto para contemplar a un Fígaro de cerca (465)».

«Por la importancia que da a las barberías y el conocimiento que muestra de su significado, es evidente que el británico las conocía bien y que las frecuentó, ya fuera para afeitarse, ya fuera para quitarse alguna muela, de las cuales reconoces haber dejado en España al menos dos; o, lo que es más probable, para pasar el tiempo, tal y como hacían muchos otros (469)».

«La gente acude naturalmente para afeitarse, pero también constituye la barbería un foco de reunión donde se comentan las noticias o se satiriza al personaje de turno (469)».

«Y allí vieron, invariablemente, cómo estos locales eran mucho más que lugares donde la gente acudía a afeitarse o a sangrarse (470)».

ええっと、でも afeitarse は自分で髭を剃るという意味ではないか、と思った人は偉い。でも、床屋に来た客がそこにあるカミソリを使って自分で髭を剃る場面を思い浮かべる必要はない。髭剃りを誰か専門家にやってもらうという事態に使うことができるのだ。これは afeitarse に限った話ではない。たとえば «Me he cortado el pelo» と言った人に対して、普通は「へ〜、自分で切ったの」と反応したりしないだろう。また再帰動詞特有の現象でもない。たとえば «Felipe II construyó el monasterio de El Escorial para conmemorar la victoria en la batalla de San Quintín» なんてのは実際に自分がやったんじゃないのに、という時によく引き合いに出される例だ。

もちろん、床屋に行かずに自分で剃ったってかまわないのだが:

«El capitán asegura que el barbero ha perdido parte de su importancia en las ciudades, dado que el progreso ha permitido que allí una gran parte de los hombres se afeitan solos en sus casas (456)».

«En España, el número de profesionales del afeitado era más elevado que en otros países, según Thomas Roscoe (1835: XIV), por la costumbre de los españoles de no afeitarse a sí mismos (463)».

この2例が面白いのは、solos とか a sí mismos とかをつけて自分で自分の髭をということを明示していることだ。この文脈では、床屋で剃ることとの対比があるので、つける必要があるのだろう。

さて afeitarse には「自分で髭を剃る」と「床屋で剃ってもらう」の2つの意味があるのだろうか。答えはもちろん意味の定義によるが、僕は少なくともこれは同じ afeitarse だと思っている。どちらも自分の意志で自分の髭を処理したのだ。手段としてカミソリを使ったか床屋を使ったかの違いはあるが、それはこの再帰動詞の再帰性にとっては付随的なことだ (それを付随的だと思わない人は、まあそれなりの分析をするのだろうけれど)。

2014年8月6日水曜日

Carmen + el barbero = el flamenco

ゲルハルト・シュタイングレス著、岡住正秀・山道太郎訳、2014、『そしてカルメンはパリに行った: フラメンコ・ジャンルの芸術的誕生 (1833-1865年)』彩流社(原著: Steingress, Gerhard, 2006, ... y Carmen se fue París: Un estudio sobre la construcción artística del género flamenco (1833-1865), Almuzara)。

訳者の岡住さんにいただいたので、宣伝をかねて紹介する。まだ原著も訳書も読んでいないので中身について触れることはできないが、著者 Gerhard Steingress は「1990年代初頭以来、従来のフラメンコ学は、様々な関連社会諸科学、具体的には民俗音楽学、文化人類学、社会学などの側からの客観的研究にとって代わられた。このパラダイムの変化 (日本語版緒言)」を牽引した研究者のひとりで、僕もフラメンコについて書くときには彼の仕事にずいぶんお世話になっている。

ということは、昔ながらの、そして日本でも広く受け入れられているフラメンコ理解にどっぷり浸かっている人が読むと、もしかしたらかなり違和感を感じるかもしれない。「でも、フラメンコってそういうことじゃないでしょ」と思う人もいるかもしれない。でも、そういうことなのだ。そういうことなのだということが90年代以降ますます明らかになってきているのだ。

まあ、案外みんな素直に受け入れてくれるかもしれない。でも、これは宣伝の文章なので、ちょっとばかり挑発的に書いてみたわけだ。ぜひ読んでみてください、特にバイレやってる人ね。

それからもう1冊、こちらはスペイン語の本: Campo, Alberto del & Cáceres, Rafael, 2013, Historia cultural del flamenco: El barbero y la guitarra, Almuzara.

別に gustar の例文が目当てで読んでいたわけではない。副題にあるとおり、床屋がフラメンコの形成に果たした役割がいかに大きかったかが分かるのだが、いやはや、知らなかったことばかり。もちろん、床屋の話だけではなく、フラメンコの成立を支える文化的背景が詳細に語られている。これからフラメンコのことを真面目に勉強しようと思う人は、これを読まなきゃだめだろうな。

ただし、ここで確認しておかなければいけないことがある。それは、これらの本の著者は研究者だということだ。研究者は、著書の中で特定のテーマについての自説を展開する人たちだ。彼らの説は、それが先端的であればあるほど、一般に共有されていない。そして、研究者の説は反論されるために存在する。だから、我々も批判的な態度でこれらの本に接しなければならない。

2014年8月2日土曜日

Gustar S

ここまでの話を整理しておくと、gustar は与格の代名詞を伴って使われることが多く、a ... の間接補語がある場合も代名詞の重複が起こるのが普通だ (とは言え、これは学習者としての経験からそう思っているだけで、統計的に確かめたわけではない)。しかし、もちろん a ... の間接補語があっても重複の起きない例や、そもそも間接補語が現れない例も見つかる。僕が見つけたそういう例では、主語が前置されているとも述べた。で、今回は主語が後置されている例を紹介しよう。

O que el padre Basilio, famoso por su guitarra, fuese recogido –como hemos dicho– en una Corte a la que gustaba celebrar lo castizo (Campo, Alberto del; Cáceres, Rafael, 2013, Historia cultural del flamenco: El barbero y la guitarra, Almuzara, p. 166).

Sin embargo, hubo a quien gustaron las jotas aragonesas (p. 294).

この2例の共通点は、関係節内の gustar だといういう点と、関係詞が間接補語だという点。関係節内での主語の位置は主節におけるものと別に考える必要がある。なお、関係詞が間接補語である場合、与格代名詞による重複は起こりうる («Hay a quien le gusta charlar en aulas vacías, en las que no hay nada ni nadie») が、義務的ではない («hay a quien gusta pasar necesidades»)。

Vestidos con «trajes típicos», entre los que gustaban especialmente los andaluces, se bailaban boleros, cachuchas, jotas, seguidillas y demás bailes, aclimatados al gusto burgués, y convertidos por mor del nacionalismo romántico en «bailes nacionales» (p. 437).

こちらは、関係節内の gustar という点では前の2つと同じだが、間接補語がない。

Tanto gusta a los espectadores la música del capitán de los gitanos que le sugieren la idea de comprar una guitarra de mejor calidad, para tocar en París o Londres (p. 302).

Además de la característica locuacidad, su vinculación con el juego y la sociabilidad en general, gustó a los románticos su afición a la guitarra que, junto con la navaja, constituían para Ford los símbolos principales del «género barbero» (p. 470).

この2例は主節の例なので、前の3つよりも面白い。どちらも間接補語はあるが与格代名詞はない。

さて、これらの例をふまえて与格なしの gustar 出現の要因を説明しなさい。という夏休みの宿題が出たら、あなたはどうしますか?