2019年3月17日日曜日

Vinilo

学生時代 (35年か、もっと前)、音声学の授業で先生が概略こんなエピソードを披露した。

A: ヴァイオリンを「バイオリン」と書くなんてけしからん。
B: なんで?
A: だって、それじゃビニールみたいじゃないか。

で、みんなこれでドッと笑ったのだが、そうなのだ、ビニールは英語では vinyl ['vain(ə)l] でバイオリン violin [vaiə'lɪn] と同様 [v] の音で始まる。Aさんはそれを知らずに、というのがオチ。

なんでこんな昔の話を思い出したのかというと、「世界から『ヴ』が消える」というNHKの記事をFACEBOOKの友だちが紹介して、コメント欄は「ヴ」が消えることに反対な意見が大勢を占めるということがあったからだ。

記事の内容は、外務省が国名の表記を変更し、「セントクリストファー・ネーヴィス」が「セントクリストファー・ネービス」に、「カーボヴェルデ」が「カーボベルデ」になる、そして在外公館名称位置給与法から「ヴ」を使った国名表記が消えるという話だ。僕は、そのこと自体特に何とも思わなかったのだが、2003年の法改正以前は「エル・サルヴァドル」とか「ヴェネズエラ」とか「ボリヴィア」と表記していたそうで、これには少し驚いた。みなさんご存知のように、スペイン語では b と v は書き分けるが発音上の区別はない。だから、スペイン語業界ではずっとずっと前から「エル・サルバドル」「ベネズエラ」、「ボリビア」だ。2003年の改正も、また今回のも、より一般的な表記に合わせることが意図されているのだという。「ヴェネズエラ」などは今でも見ることがあるが、比較的最近まで国の機関が使っていたとはね。

公的機関が使うか使わないかは措いて、そもそも「ヴ」は必要なのだろうか。日本語の音韻体系において /b/ と /v/ の対立はないから、音韻と表記の関係という観点からは「ヴ」は必要ない。日本語母語話者でバイオリンの語頭音を [v] で発音している人は極めて少ないだろう (自分は [v] で発音しているという、音楽にも音声学にも造詣の深い友人がいるので、ゼロでないことは確かだが)。

また、「ヴ」で書いたからといって [v] の発音ができるようになるわけでもない。僕は子どもの頃「ヴ」を見たら [gw] のように発音していた。「ウ」を力んで発音すればそうなるでしょ? つまり僕は日本語の音韻レパートリーの中で表記に対応していそうな発音を勝手に割り振っていたわけだ。今は「ヴ」を見たら [v] のような発音をすることがあるかも知れないが、別にそうしなければいけないと思っているわけではない。

さて、書記法の厄介なところは、音韻との対応で話が終わらないことだ。かなりの程度音韻的なスペイン語正書法でも、発音上区別のない b と v を書き分ける (これは歴史的な経緯によるもので、一応語源に従って区別することになっている)。バイオリンは violín と書き、ビニールはタイトルに書いたように vinilo だ。それに対して、同様に /b/ と /v/ の対立がないバスク語の正書法は、スペイン語のものより音韻との対応度がより高く、biolin とか binilo とか書くけれども、外来語の中には v で書かれるものがある。特に固有名詞はそうで、ベネズエラは Venezuela だ。

日本語は漢字仮名交じりで書く伝統の中で、同音異義語を異なる漢字で区別したり、同じ単語を漢字で書いたりかなで書いたり、音韻との対応とは別のレベルで機能する区別があり、書き手の裁量に任される部分がある。「ヴ」もその中で「バ」行と共存していると考えることができる。つまり、「バイオリン」と「ヴァイオリン」の関係は「仮名」と「カナ」と「かな」の間の関係と似ていて、同じ語・同じ発音に対応する表記上のバリアントあるいはヴァリアントだということだ (表記を見なくても常に [v] で発音する個人がいたとしても、日本語に /v/ という音素がないのであれば、今の議論では「同じ発音」という言い方は成り立つ)。

「ヴ」の特殊性は、外来語専用文字ということだろうか。NHKの記事によれば福澤諭吉が広めたのだそうだ。ネットで検索してみると、福澤は自分が「ヴ」を創作したと言っているらしいが、実際にはそれ以前の用例が見つかるとのこと。とは言え、一般化したのは明治以降なのだろう。西洋の言葉を写すのに使ったという経緯があるからだろう、昔の僕にとっては「ヴ」を使った表記は「かっこいい」「知的な」印象を与えるものだったが、今では近代日本の西欧に対する憧れの残滓のように見える。他人が使うのを止める気もないが、自分から進んで使うことはない。ただし、固有名詞、特に人名については、慣用に従うということで構わないかなと思っている。例えば「ビラ・ロボス」より「ヴィラ・ロボス」の方が馴染みがあるので、あまり考えずに後者で書くような気がする。

というわけで、僕は完徹しない音韻対応主義者なのだが、物事は体系性が大事なので、「ヴ」派の人たちには次のような例で頑張って欲しいと思っている (列挙が体系的でも網羅的でもないことはお許しいただきたい): ヴィニール (またはヴァイナル)、ヴィタミン、ヴァレーボール、ヴァーサス、エレヴェーター、サーヴァー、カヴァー、カーヴ、カーナヴィ、ヴァレンタインチョコ・・・

あ、それから「ベートーヴェン」はお勧めしない。「ベートホーフェン」の方が良い。それが嫌なら「ベートーベン」で我慢することだ。