2013年11月27日水曜日

Don

CSIC (Consejo Superior de Investigaciones Científicas) には高等学術研究院という訳があるので、vicepresidente を副院長という風に紹介した。高等学術研究院はスペイン国立の研究機関で、スペイン最大、ヨーロッパ第3の規模を持つ。分野は人文社会自然科学をカバーする。そこの副院長ということは、つまり偉い人に会って来たわけだ。どのくらい偉かったのかというと、運転手さんに don José Ramón と呼ばれていたのだった。

僕みたいな生活をしていると、こういう don を聞く機会はめったにない。もしかしたら、自然な状況で聞いたのは初めてかもしれない。貴重な経験であった。でも、と言うか、だから、1年生向けの文法教科書のかなり前の方で、don は敬称として個人名につけ、定冠詞はつけない (señor が姓につき、定冠詞が要るのに対して) というのを載せているのだが、そんなに急いで導入することはないという気がしてきた。

2013年11月24日日曜日

Buen precio


出張中、スペイン在住の卒業生と話をしているときに、その人の口から「いい値段」という表現が飛び出した。僕が「それは buen precio の直訳だね」と言い、ああなるほど、ということになった。

スペイン語で buen precio と言えば買い手にとって良い値段、つまり安くてお得な値段のことだ。それに対して、最近の日本語で「いい値段」と言うと、高いという意味になるのが普通のような気がする。その人はお買い得の意味で「いい値段」という言い回しを使ったので、僕はスペイン語の直訳だねと言ったわけだ。

「いい値段」が「高い」になるのは、たいてい「いい値段する」のような形で使われるときという印象がある。他の組み合わせでは、安いという解釈が自然な場合もあるだろう。たとえば「いい値段で買った」はどうだろうか? 僕自身は「いい値段」が高いという意味で使われるのを聞くたびに、かすかな違和感を覚えるので、そんなに前からある使い方ではないのかもしれない。まさか buen precio という言い方を覚えてから僕の日本語感覚が変化したなんてことはないだろう。何はともあれ、ネイティブスピーカーの記憶なんてあてにならないから、本当に気になったら、ちゃんと調べないといけない。

Especialista


サラマンカで日西大学学長会議(2013/11/07-08)というのがあって、行って来た。もちろん僕は学長ではない。学長のお供、鞄持ちというやつだ。いや、学長の鞄を持ったりはしなかったので、念のため。

その機会を利用して、同窓会のマドリード支部の人たちと会ったりもしたし、他にもいくつか訪れたところがあって、結構忙しかったのだが、スペイン在住の卒業生にいろいろと世話になりながら滞りなく出張を終えることができた。

さて、訪問先のひとつCSICで印象に残ったことがある。学長とは旧知の副院長のオフィスに行ったのだが、彼はただの鞄持ちである僕についての情報を事前にチェックしていたのだった。僕の名前をさらっと発音するというわけにはいかなかったが、こちらの自己紹介を待たずに僕のことを especialista en flamenco と言ったのだった。

最近スペイン語で書いた論文と言えばフラメンコ関連のものなので、これは分かる。語学の論文もスペイン語で書かなきゃな、と思ったりしたのだが、この言い方がどこまで本気だったのか、つまり僕がフラメンコ研究だけをやっていると認識されたのかどうかは分からない。いずれにせよ、これから会う人の研究分野をチェックするというのは、見習いたいなと思う。

時々、スペイン語学の専門家であるはずの僕がなぜフラメンコをやるのか、あるいはどのようにしてそのようなことが可能になるのか、尋ねられることがある。僕としては、フラメンコも語学も同じだ、ということで答えになるだろうか。フラメンコ史は言語史と同じ方法論でできる。カンテはスペイン語で歌われるから、そのテクストの研究は形容詞不要のただの文献学だ。

たとえば、世の中には記述的なスペイン語学とスペイン語教育学の両方をやっている人たちがいる。この2つは一見似たような分野だという印象を与えるが、目標も方法論もかなり違う。僕は記述屋だけれど、現場の教師としてスペイン語教育について考えていることはあり、自分なりの工夫をしたりしている。そのレベルでなら、スペイン語教育に関する文章も書いてる。しかし、スペイン語教育の研究者ではない。自分にはその準備がない。それに対して、さっきも言ったが、フラメンコの研究については今まで僕が勉強してきた範囲で対応できる。と言うか、対応できる範囲のことをやっている。つまり、研究領域という意味では、僕にとってはフラメンコよりもスペイン語教育の方が遠いのだ。

2013年11月16日土曜日

David Palomar

ちょっと時間が経ってしまったが、David Palomar カンテ・コンサート(2013/10/26, 18:00, 於スタジオ・カスコーロ、東京フラメンコ倶楽部主催)。ギターはエンリケ坂井。

カディス出身のカンタオール、この土地のカンテを中心に歌ってくれて、楽しく充実したコンサートになった。アレグリアス、タンギージョ、ブレリア・デ・カディスといった「いかにも」なレパートリーでは、コンパスに乗りながらの自由さが印象的。ティリティタンとかトロトトンとか、それだけで、もう面白い。もちろん、地元の歌を面白く歌うだけのカンタオールではない。聞き慣れないところでは、ソレアの中にエル・チョサスのを入れたり(エル・チョサスだということは後から知ったのだが)、ファルーカの途中でミロンガみたいにちょっと長調になる(多分バルデラマ)のをやったり、いろいろな歌を知っている。カディスに戻ると、マラゲーニャ・デル・メジーソでも、その辺ではあまり聞かない歌詞を歌っていたし、プレゴン・デ・マカンデの前にロマンセをつけたりしていた。もちろん、知識だけではなくて、それをカンテとしてちゃんと聞かせるだけの力量を十分に備えたカンタオールだ。ギターがエンリケ坂井さんだったこともあって、久しぶりにストレスなしに聞き通せるリサイタルであった。

今回は東京フラメンコ倶楽部の趣味もあって、David Palomar がいかに伝統的なカンテをよくするカンタオールであるかを確認する内容になったが、彼のCD、特に2枚出しているうちの新しい方は、表面的にはバリバリ今風だったりする。よく聞けば歌い方にブレがなくて伝統に深く根ざしたカンテだということが分かるのだが、サウンド的に受け付けないという人も多いにちがいない。それ以前にジャケットのデザインだけで却下してしまう人も多いだろう。僕はより実験的な2枚目の方が好きだと本人に言ったら、あれはスペインでもなかなか評価してもらえなくて、遠く離れた東京に理解者がいるとはね、と言っていた。

僕は普段ギター以外の楽器が入ったカンテは聞かない。カンテの微妙なニュアンスを活かすには、歌い手ひとり伴奏者ひとりのフォーマットが最も適していると思っている。David のCDについては、いろいろな試みとは独立に聴けるカンテになっているというのが僕の感想で、実験の成果を評価しているわけではない。しかし、アルティスタがいろいろな試みをする(したくなる)のは自然なことだし、どんどんやればいいと思う。それが単なる試みで終わるか、新たな伝統の一部となるか、時間が経てば分かることだ。

もうひとつ David が言っていたのは、歌詞の社会的な内容だ。これも、あまり評価されない原因らしい。僕も社会的なフラメンコに特に興味があるわけではないから、評価しない人の気持ちは、まあ、分かる。政治的な立場を異にしていて歌詞の中身に共感できない人もいるのだろう。しかし、アルティスタが自分の芸術的良心に従って表現したいことを表現するのならば、それを止める理由もない。もちろん、その歌詞がフラメンコの伝統の一部となる可能性はゼロではない。