2019年5月30日木曜日

Cante, baile, toque

『情熱でたどるスペイン史』がフラメンコを扱った部分、もう少し。

完成した形では、歌 (カンテ)、ダンス (バイレ)、ギター (トーケ) の三要素が不可欠です。それらの三要素の相乗効果により、人間の体験の根っこにあるものをまざまざと表現するのです (池上 2019: 184)。

これは完全に間違っている。どのように間違っているのかというと、3要素が「不可欠」なんてことはない、というごく単純な話だ。だが、なぜかこんな風なことを言ったりする人が時々いる。さらに、最近はほとんど聞かなくなったが、カンテ・バイレ・トケの「三位一体」なんていう言い方がされていたこともある。なので、それを真に受けてこんなことを書いてしまった著者はむしろ可哀想だと思う。でもちょっと考えれば分かることなのにな。

カンテの完成した形はカンテだ。ギターの伴奏がつくことが多いが、無伴奏の形式 (トナ、マルティネテ) もある。カンテがカンテとして成立するためにバイレは必要ない。というか、バイレが無い方がカンテとしての完成度は高い。フラメンコの愛好者たちは、カンテ1人ギター1人で繰り広げられるカンテのリサイタルを好んで聴く。このような歌が主役のカンテと、踊りの伴唱は、心構えの点でも表現性の点でも、かなり異なる。前者を「前に出て歌う歌 cante p’alante」後者を「後ろで歌う歌 cante p’atrás」と言うこともある。当然、前に出て歌える人と後ろでしか歌えない人とでは格が違うということになっている。とは言え、これも向き不向きがあることで、ソロで才能を発揮しても踊り歌に必要なリズムがいまいちなんて人もいるという話だし、ソロでは大したことないけれど泣ける踊り歌を歌うカンタオルもいる。

ギターも、カンテやバイレの伴奏とギターソロの間に似たような違いがあるだろう。ギターソロが、要素数が少ないから完成度が低いと考える人はいない。たった1人で「人間の体験の根っこにあるものを」表現できるギタリストはいるわけだ。もちろん、伴奏の名手達がフラメンコ史を作ってきたことも忘れてはいけない。フラメンコ史はカンテを中心に語られるのが普通なので、カンテ伴奏の方がソロより扱いが大きいぐらいだ。そして、そういう名手達の伴奏は本当に本当に深い。

バイレも、完全な無伴奏で踊ることは可能だが、多くの場合ギターとカンテを伴う。想像するに、「三位一体」みたいな考え方はバイレのあり方として出て来たのだろう。つまり、バイレにとって普通と言って良いフォーマットにおいて演者間の関係が持つ重要性を指摘した言い方だったのではなかろうか。演者同士がうまい具合に助け合い刺激し合って良いパフォーマンスができるということはある。逆に、協働が上手くいかなければ、それぞれが十分に力を発揮できなかったりする。まあ、バイレに限った話でもフラメンコ固有の性質でもないはずだが。

あ、あとはパルマ (手拍子) は打楽器の一種と考えられる。だから三位一体じゃなくて四位一体だ。パルマのソロというのはないが、パルマだけの伴奏で歌うことも踊ることもできる。ギター1本の演奏にパルマが加わることもある。

クラシック音楽なら、ピアノソナタがピアノ協奏曲より完成度が低いという人はいないだろうと思う。『白鳥の湖』を観に行って歌がなかったのが残念と言う人もいないだろう。なぜ、フラメンコについては最初に挙げたような不思議な発言がまかり通るのだろうか。僕には、日本のフラメンコ受容がバイレ中心だったこと以外の説明が思いつかない。

浜田 (1983: 12) は「踊り、ギター、歌 –あるいは歌、ギター、踊り。ともかくフラメンコの小宇宙は、この三つでできあがっている。どれかひとつでも欠けたら、このジャンルは淋しくなってしまう」と言っているのだが、これは「ジャンル」の話をしているのだ。オーケストラの曲だけしかなかったら、クラシック音楽のジャンルは随分淋しいものになるだろうと言うのと同じことだ。浜田は続けて「と言っても、矛盾するようだが、この三つはそれぞれ独り立ちもできる」と言っている。いや、全然矛盾しないのだが、浜田は当時の日本のフラメンコの状況を念頭に、バイレのことしか頭にない読者を想定してこんな書き方をしたのかもしれない。近年はカンテについての知識が広まって来ているので、もう、こんな書き方をしなくて良くなっている (と思いたい) が、フラメンコに触れたことのない人たちにとっては、まだまだ「ジプシーのダンス」みたいなイメージなのだろうか。

  • 浜田滋郎, 1983, 『フラメンコの歴史』, 晶文社.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.