2014年10月26日日曜日

Son son somni

Najat El Hachmi を読んでいるのは、たまたま勤め先の図書館にあった薄い非言語学系の本だったからで、著者や中身について事前に知識があったからではない。いま、必要があってカタルーニャ語をかじり直しているところで、この言語との接触を増やすのが目的で手に取ったのだった。でも、いったい誰が図書館に入れたのだろう。

カタルーニャ語は仕事で文献を読むのには使っているから、知らない言語ではない。しかし、いわゆる日常会話となるとからきしだ。容易に想像できると思うが、外国語学習における到達目標として一番ぐらいに易しいのは専門書の読解だ。特に似た言語を既にある程度知っていれば、用語なんかもほぼそっくりだったりするから、辞書を引く必要もほとんどない。なので、もう少し難しい本に挑戦しているというわけだ。

さて、カタルーニャ語の辞書を眺めていて、明らかに「初級レベル」のことで知らなかった (覚えていなかった?) ことに出くわして驚いたのだったが、それを説明するにはスペイン語から始める必要がある。スペイン語で Tengo sueño と言うと「眠い」で、Tuve un sueño だと「夢を見た」ということに普通はなるだろう。しかし、ポルトガル語では前者を Tenho sono (Estou com sono の方がよく見るか?) と表現し、後者は Tive um sonho になる。つまりスペイン語が sueño の1語で済ませているところをポルトガル語では sono 「眠気」と sonho 「夢」を区別する。ガリシア語の sono / soño も同様。イタリア語の sonno と sogno もそうみたいだ (辞書には sonno に詩的用法の「夢」が載っているが)。僕は最初ポルトガル語の sono と sonho の区別がなかなか身に付かなくて、反対にしてしまったりしていたのだが、最近ようやく慣れて来た。

さてカタルーニャ語ではどうか。眠いときには Tinc son で夢を見たら Vaig tenir un somni で、ポルトガル語と同様の区別がある。だから、それだけでは驚かない。最初の驚きは、この son が女性名詞だということ (上に挙げた言語では男性名詞)。なので Tengo mucho sueño / Tenho muito sono / Teño moito sono / Ho molto sonno に対して Tinc molta son になる。まあ、とは言え言語間の名詞の性の不揃いは別に珍しいことではないから、驚いたというのは言い過ぎだ。本当は son に男性名詞と女性名詞があることに驚いたのだ。たとえば「深い眠り」は un son profund で、男性名詞として使われている。他の言語では un sueño profundo / um sono profundo / un sono profundo / un sonno profondo だから、性の変化はない。

まとめると、「眠り」「眠気」「夢」という3つの概念を、カタルーニャ語は son (m), son (f), somni で区別する。ポルトガル語・ガリシア語・イタリア語は「眠り・眠気」「夢」の2つにまとめて sono/sonho, sono/soño, sonno/sogno で表現する。スペイン語は sueño で全部に対応する。言語学の教科書に出てくる「恣意性」のわかりやすい例ということになる。

castellanoportuguêsgalegoitalianocatalà
sueñosonosonosonnoson (m)
son (f)
sonhosoñosognosomni



«La vida es sueño» を「人生は眠い」と訳して笑ってもらえるのはスペイン語学習者のみに許された特権なのだ。

2014年10月19日日曜日

És catalana

前回の続きだが、もう少し言語的な話。"estadounidense de origen japonés" で検索してみると、中村修二や南部陽一郎をそう形容しているテクストが見つかる。なぜか江崎玲於奈や下村脩がそうなっているものも引っかかるが、この2人は日本国籍のようだ (アメリカで研究している・いたのでそう思われたのだろう)。これは「日本出身の米国人」と訳してよいだろうか。ちょうど estadounidense de origen español で Severo Ochoa が出てきたりするのと同じだ。他には mexicano de origen español で検索するとスペイン内戦がきっかけでメキシコに亡命した人の名前 (Rodolfo Halffter とか) がヒットする。この場合 "X de origen Y" のほか "Y nacionalizado X" という言い方もある。

だが、de origen Y を「Y出身」と訳してはいけない例も見つかる。さっきの estadounidense de origen japonés で引っかかる名前の中には Francis Fukuyama (シカゴ生まれ) や Isamu Noguchi (ロサンゼルス生まれ) もあるし mexicano de origen español の中には作家の Jordi Soler (メキシコ・ベラクルス州生まれ) もある。つまり「Y系」とでも訳したほうがいいような場合だ。Francis Fukuyama に関しては japonés nacionalizado americano としているテクストも見つかるが、たぶん誤解に基づく記述なのだろう。

というわけで X de origen Y だけでは出身地がどこか分からない。それだけではない。Najat El Hachmi はカタルーニャ語版のウィキペディアでは «és una escriptora catalana i mitjancera cultural d'origen amazic» となっているのだが、amazic は日本ではベルベルと言っている人たちのことで、ベルベル人は複数の国にまたがって住んでいるから、国名という意味での出身地の手がかりにはならない。彼女の場合はモロッコ生まれだが d’origen amazic を「モロッコ出身」と訳すわけにはいかない。やはりここは「ベルベル系」になるのだろうか。ちなみに Jo també sóc catalana を半分ぐらいまで読んだところでは、労働許可がないので仕事探しに苦労する話が出てくるので、16歳の頃はスペイン国籍ではなかったということは分かるが、今の国籍は (徹底的に調べたわけではないので) 分からない。

なお、Najat El Hachmi に関するスペイン語版のウィキペディアの記述は «es una escritora de origen marroquí establecida en España» で、国レベルの形容になっているところが、独立国を持たないカタルーニャやベルベルというレベルで記述しているカタルーニャ語版と大きく異なる。

2014年10月15日水曜日

¿Es japonés?

そう、今頃あの中村さんの話だ。ノーベル物理学賞のニュースは、たまたまその時いた飲食店のテレビを通じて知った。家に帰ってからインターネット上のニュースをチェックしていたら «Os xaponeses Isamu Akasaki, Hiroshi Amano e Shuji Nakamura, este último nacionalizado estadounidense, foron distinguidos hoxe co Premio Nobel de Física 2014 por inventar o diodo emisor de luz LED, anunciou a Real Academia das Ciencias de Suecia (Galiciaé)» という記述に出くわして、初めて彼が米国籍だということを知ったのだった。その後、日本では米国籍の事実が報道されていないという話がネットを賑わせていることも分かった。

僕は日本人が何人受賞したとかいう話には興味がないし、何年かぶりの物理学賞受賞なんていう報道にはオリンピックじゃあるまいしと思って笑ってしまったのだが、これはオリンピックみたいなものだと言う人がいて、言われてみればそうかもしれない。僕は日本人がいくつメダルをとったとかいう話に興味がないので、まあ似たようなものだ。もちろん、これは賞やメダルをとった人が立派だと思うことと矛盾しない。

さて、僕は外国のメディアの報道を通じて中村さんの国籍について知ったわけだが、知人がブログで「たいていの国のメディアはアメリカ合衆国の市民権を獲得している中村修二をアメリカ人としている」と書いているのを見て、また「あれっ」と思った。彼の言う「たいていの国」がどこのことなのか分からないが、たとえば前掲のガリシア語メディア (国としてはスペインだ) は見出しで «Tres xaponeses, Nobel de Física por inventar o diodo de luz LED» と言っていて、彼を xaponés と見なしていることは明らかだ。これを「日本人」としているとして良いのだろうか。多分良いのだろう。そして、記事の本体に入って米国に帰化したと書いている。これは「アメリカ人」と書いてある方に数えていいのだろうか。多分いいのだろう。ではスペインは「たいていの国」の中に入るのか入らないのか。

El País は «Tres científicos de Japón obtienen el galardón» と言っておいて、後の方で «Nakamura, 1954, tiene nacionalidad estadounidense» と国籍を明示している。前置詞句 de Japón は形容詞 japoneses と交換可能な場合もあるが、この場合はそうではないと考えることもできる。なので、この記事は中村さんを日本人として報道していないと読むことは可能だ。El País はスペインの新聞だから、スペインは「たいていの国」に入るのだろうか。多分入るのだろう。

ポルトガルの新聞 Público は «A invenção dos LED azuis valeu esta terça-feira o prémio Nobel da Física de 2014 a três cientistas japoneses: Isamu Akasaki e Hiroshi Amano, da Universidade de Nagóia, no Japão, e Shuji Nakamura, da Universidade da Califórnia em Santa Barbara, nos EUA» と言っていて、中村さんがアメリカの大学にいることは書いてあるが、国籍の話は僕が理解できた範囲では出て来ない。

Jornal do Brasil は «Com o trabalho dos três japoneses, foi possível conseguir o LED branco, pois eles desenvolveram a luz azul» と言っておいて、先の方で «Akasaki (85 anos) e Amano (55), ambos da Universidade de Nagoya, e o norte-americano Nakamura (60), que desde 1994 se transferiu da Universidade japonesa de Tokushima para a de Califórnia, são os responsáveis pela descoberta e criação das lâmpadas» としている。徳島大学からカリフォルニアに移ったとしているところには目をつぶることにして、さて、ここでは中村さんは何人 (ナンニンと読まないでね) とされているのか。まず três japoneses の1人であることは確かだが、はっきりと norte-americano と書いてある。日本人でもあり、アメリカ人でもある?

Il Giornale d’Italia は «Si tratta dei tre scienziati giapponesi Akasaki, Amano e Nakamura» とだけ言っていて、アメリカ国籍の話は出て来ない。

ドイツ語は辞書が引ける程度だが、ちょっと見てみると Spiegel が3人を日本生まれと書いている: «Der Nobelpreis für Physik geht in diesem Jahr an die gebürtigen Japaner Isamu Akasaki, Hiroshi Amano und Shuji Nakamura». 後のほうで «Nakamura reagierte sehr überrascht auf die hohe Auszeichnung: "Unglaublich", sagte der Japaner, der heute in den USA lebt und als Professor an der University of California in Santa Barbara arbeitet» と言っていて、アメリカに住んでいることは伝えているが、国籍の話は多分していない。

Spiegel は物理学賞の出身地 (Geburtsort) 別の受賞者数と研究地? (Forschungsstandort) 別の数字を挙げていて、日本はそれぞれ10と9だ。この違いは中村さんの存在に起因するのだろうか。

さて、このごく限られた、そしてヨーロッパに偏ったサンプルからは「たいてい」中村氏をアメリカ人としているという印象は得られない。むしろ思いのほか日本人扱いが多いというのが僕の感想だ。しかし、ここから「たいていの国のメディアが彼を日本人としている」という結論は出てこない。こんな小さなデータからそんな一般化が出来るはずはないし、そもそもこれらのサンプルは国を代表していないのだから、一般化に加えて議論のすり替えをしないと、「たいていの国」なんて言えないのだ。このことは、おそらく僕の知人の断言にも当てはまる。僕の推測では、彼は少数の報道を見ただけで不用意に誤った一般化を行い、うっかり「国」という要素を議論に滑り込ませて「たいていの国のメディア」と書いてしまったのだ。

こういう粗忽な議論をやってしまう可能性は誰にでもある。僕も気をつけたい。皆さんも気をつけて。

2014年10月6日月曜日

Gustavo Dudamel / Wiener Philharmoniker

グスターボ・ドゥダメル指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (2014年9月25日、サントリーホール)。曲目はリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』とシベリウスの交響曲第2番。

ウィーンフィルは初めて聞いたが、とにかく響きの美しいオーケストラだ。音に濁りがなくて柔らかい。でもガラス細工の透明感みたいなものとは違う。はりつめた緊張感は皆無で、ステージ上の音合わせも、まあ一応やっときますか的にさっと済ませるのだが、 (本気出してなさそうな) 余裕の中であれだけの響きが出るのは、さすが。小泉文夫が「純正調の見事なハーモニー (『世界の民族音楽探訪』実業之日本社、p. 234)」と呼んだのがこれなのかもしれない (僕は美しいと思ったが、その理由までは分析できない)。

ドゥダメルを聞くのはシモン・ボリバル、ミラノ・スカラ座に続いて3回目。3回とも楽しく聞かせてもらったのだが、正直なところ、彼についての印象ははっきりしない。最初のシモン・ボリバルの来日公演は、良くも悪くも若いという印象だった。あとの2回は、オペラ (『リゴレット』) は楽しめたし、スカラ座オケも良かったし、ウィーンフィルは素晴らしかったし、公演が面白かったと断言することはできるが、ドゥダメルってどんな指揮者?と問われたら何と答えていいか困る。来年ロサンゼルスフィルと来るようなので、それを聞けばイメージがはっきりするかもしれないが、行こうかどうしようか。いずれにせよ、1981年生まれだから、まだまだこれからの成長を期待すべき人だ。

アンコールはヨハン・シュトラウスのポルカ。曲はサントリーホールのHPによれば「J.シュトラウスI: アンネン・ポルカ op. 137 と J. シュトラウスII: ポルカ・シュネル『雷鳴と稲妻』op. 324」(だが、アンネン・ポルカをgoogleaってみるとII世の op. 117 となっている。僕はこの辺りに不案内なので、ポルカだということは分かったが、アンネン・ポルカだったのか他の曲だったのかは分からない)。うかつにも、こういうアンコールが来ることを予想していなかったのだが、ヘレスと言えばブレリア、ウィーンと言えばワルツ・ポルカじゃないか。これを忘れちゃいけない。