2019年2月15日金曜日

¿Quién dice eso?

前の記事で見た「常軌を逸した」というくだりについてもう少し考えてみる。文脈を広げて再引用すると、こうだ。

中世以来、スペインじゅうに奇跡をなすマリアをまつった教会があり、大勢の巡礼者を集めてきました。16・17世紀には、民衆たちの信仰心をとりこむ場として、さらに多くの礼拝堂・教会が、聖母マリアの顕現・奇跡の現場に建てられました。また、聖母マリアをさす ¡Santísima Virgen! や ¡Virgen! を、驚きや困惑の場面 (英語の Oh my God に近いニュアンスでしょうか) やさまざまな挨拶のなかで唱えるなど、常軌を逸したスペイン人の熱狂的マリア崇拝は外国人を驚嘆させました。 (池上 2019: 134)

外国人を驚嘆させた「スペイン人の熱狂的マリア崇拝」が、間投詞化した Virgen だけを指すのか、その前にある教会の建設なども含むのかという問題はあるが、そこはとりあえず考えないでおく。前回「常軌を逸した」が著者の判断だと読むのが自然だと思うと書いたが、文脈を広げても、それを否定する材料はない。ただし、「常軌を逸した」と思ったのは外国人でしょ、という反応があっても不思議には思わない。それを予想した上で、前の記事は書いた。

実際には、外国人が「常軌を逸した」と言い、その判断を著者が受け入れていると理解するのが穏当な読み方ではないだろうか。もし、著者は外国人の言ったことを単に報告しただけで賛成はしているわけではないというのだったら、書き方が悪い。少なくとも僕にはそう読めない。仮に外国人の発言に賛成していないのなら、例えば「スペイン人の熱狂的マリア崇拝は外国人には常軌を逸したと感じられ」とかなんとか書かないとだめだろう。

学生の書いたものを見ていて頻繁に出会うのが、書き手が出典と一体化してしまったような文章だ。添削する方としては「これは誰の考え?」と聞いてから直し方を考えることになる。今の例だと、「常軌を逸した」と「熱狂的」が外国人による評価なのか、書き手の評価なのか、それとも両方なのかを見極めないと直しようがない。

論文であれば、その外国人というのが誰なのかを明記して引用する形にするだろうから、この問題は生じない (はずだ)。しかし、その手が使えない場合は、出典に枠をはめる工夫をしなければいけない。でないと、自分の考えを出典に乗っ取られてしまうことになる。僕も気をつけなければと思う (自分の書いたものだと、思い込みがあるので、不備に気づきにくいだろうけれど)。

まあでも、誰が言った (言っている) にせよ、「常軌を逸した」というのはやっぱりどうも・・・

  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.