さて、もうお馴染みの『情熱でたどるスペイン史』は「二か国語」という言い方をしている。
スペイン・ナショナリズムの行き過ぎはもちろん問題ですが、この国はどの地域も隣接地域との混淆 ・交流・統合を通じた数百年におよぶ複合的性格の歴史を有しており、そうした複合的性格の諸地域のゆるやかな集まりが、現在のスペインという国家なのです。
そしてイベリア半島で中世以降創作されたロマンセーロを眺めれば、二か国語並存・常用の慣習を反映した文学があったことがわかります。純粋なスペイン=カスティーリャ文化など存在したためしはありません。地方文化のほうも、他の地域との積極的な交流から生まれたものばかりです。(池上 2019: 218-219)
そこは直してもらいたいが、じゃあどう直すか。ちょっと難しい。文脈的には、現代のスペイン・ナショナリズムと地域ナショナリズムの対立に関して「両者は裏表の関係にある」と言った後、地域ナショナリズムへの批判の準備をしているところ。分かりやすい文章ではないが、スペインの「複合的性格の諸地域のゆるやかな集まり」が持つ統合性や、各地域の「他の地域との積極的な交流」が意味する混淆性に重点があるようだ。
「ロマンセーロ」が騎士道物語の間違いだ (以前の記事 «Romancero» 参照) という点を踏まえると、著者が念頭に置いているのはカタルーニャ語で書かれた『ティラン・ロ・ブラン』とカスティーリャ語で書かれた『アマディス・デ・ガウラ』で、「二か国語」はこの両言語のことだということが想像できる。たしかに、当時イベリア半島にはカタルーニャ語が話される「国 (reino)」とカスティーリャ語が話される「国 (reino)」があり、その観点からは「二か国語」という言い方がギリギリ許容できなくはないという説明が成り立たないこともないという気はする。ただし、このような内容の本で使うべき言葉ではない。しかも、イベリア半島というのであれば、これらの騎士道物語が出版された1500年前後に話されていた言語はカスティーリャ語とカタルーニャ語だけではない。だから、半島の言語状況は「二」ではなく多言語的だった。
それから「並存・常用」はどういう意味だろうか。半島に複数の言語が存在した、という意味ならば、それだけのことではある。しかし、これらの言語は決して横並びの関係にあったのではない。1500年ごろのカタルーニャ語圏では、まだカスティーリャ語の圧力は強くなかったかもしれない。しかし、のちに「スペイン」として括られることになる地域では、カスティーリャ語が他の言語の上にかぶさる形で拡張していき、非カスティーリャ語圏のカスティーリャ語化が進むことになる。その力関係は「並存」では表せない。まあ、この部分は地域ナショナリズム批判の準備なので、非対称性を想起させる表現を意図的に避けたのかもしれないが。
- 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.