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2019年3月13日水曜日

Ingratos

『情熱でたどるスペイン史』、レコンキスタや海外植民でバスク人が活躍し、バスク地方でカスティーリャ語が普通に使われていたというの直後に次の文章が来る。

これをおもしろくないと思うのはスペイン・ナショナリスト以上に地域ナショナリストでしょう。彼らは知ってか知らずか、言語を根拠に民族のちがいを言いつのり、非カスティーリャ化、反中央集権主義の政治運動を遂行してきました。(池上 2019: 219)

僕は「知ってか知らずか」の意味が良く分からないのだが、地域ナショナリズムへの批判的姿勢が表れていると読んで先に進むことにしよう。上の引用から punto y seguido で次の言明がある。

さらにカタルーニャの織物工業と重化学・機械工業やバスクの造船、製鉄、金属加工、冶金(やきん)などをてこにした経済的繁栄は、もともとその興隆(こうりゅう)を支援してきたスペイン全体の事業のおかげでもあるのに、貧しい地域に流れる自分たちの税金を取りもどしたい民族主義者たちは、それに忘恩で応えています。(ibid.)

これと同じような話はスペインの友人の口から聞いたことがある。広く行われている議論なのだろう。だが、「忘恩」とはまたすごい単語が出てきたものだ。地域ナショナリズム、あるいは民族主義者たちを批判するのは、それなりの根拠があってのことだろうから、全然問題ない。だが、当事者でない、かつ歴史学者である著者が、こんなに感情的にスペイン・ナショナリズムに肩入れしたような表現を使うのはどうしてなんだろう。かなり不思議だ。

一方、次の引用はどうだろうか。

だが国王に対し、インディアス顧問会議は決然と反対する。世襲化は、国王がせっかく手にした新しい空間を、インディオに対して絶対的な権力をもつ封建領主エンコメンデロに独占させることになる。インディオの改宗事業は断絶するばかりか、忘恩の徒たる連中は、王からの独立を図ることになろう。顧問会議は代替の案として、・・・ (高橋・網野 2009: 164)

ここにも「忘恩」が出てきてちょっとドキッとするが、ちゃんと読めば、「世襲化は・・・図ることになろう」の部分は著者の考えではなくてインディアス顧問会議の言い分だということが分かる。「・・・と言った」みたいな引用標識がないので、表現としては上級編かもしれない。初心者は真似しないほうがいいだろう。こういう書き方はスペイン語の文章でも時々お目にかかるので、読むときには注意しよう。

僕は「忘恩」は理解語彙のうちだが自分で使った覚えがない。スペイン語で何と言うのか自信がないので和西辞典で「忘恩」をひくと名詞 ingratitud が出ていて、形容詞は ingrato のようなので、タイトルにはこっちを使った。だが、このスペイン語も自分で使った記憶がなく、ニュアンスもよく分からない。

そこで CORPES XXI で ingrato を検索すると、男女単複合わせて1145例出てきた。だが、大半は「不快な」とか「報われない」とか物事に言及する用法のようで、最初の20例のうち人 (almas を含む) に言及しているのは5例のみだった。そうすると全部で250例ぐらいという予想が可能で、多くないことは確かだ。実例としては «Así están las cosas, hay que dar gracias de que haya trabajo, no hay que ser un ingrato» なんてのがある。ただ、これを「忘恩の徒」と訳せるかどうか分からない。もしかしたら「不平を言っちゃいけない」ぐらいの、人に対する恩義とは違う話なのかもしれない (コーパスで見られる範囲の文脈をを見た限りでは、そんな感じがする)。

というわけで、ingrato が結構多義的であることだけは分かった。

  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • REAL ACADEMIA ESPAÑOLA: Banco de datos (CORPES XXI) [en línea]. Corpus del Español del Siglo XXI (CORPES). ‹http://www.rae.es› [consultado: 2019/03/08]
  • 高橋均・網野徹哉, 2009, 『ラテンアメリカ文明の興亡』, 世界の歴史18, 中公文庫, 中央公論新社.

2019年2月16日土曜日

Oficialización

『情熱でたどるスペイン史』シリーズ。ちょっとしつこいような気もするが、もう少し続けたい。今回は19世紀を扱った章の、こんな記述。

教育体制の整備、カスティーリャ語の公用語化なども推進されていきます。(池上 2019: 201)

「カスティーリャ語の公用語化」というのが何のことなのか分からない。カスティーリャ語は19世紀の段階では既に公用語になっていると言って良いのではなかろうか。公用語を公用語化すると何が起るのだろうか。

ひとまずスペイン継承戦争 (1701-1714) 後のスペインに関する記述を見てみよう。

バレンシア、アラゴンに続いてカタルーニャにたいしても「征服権」が適用された。ここにアラゴン連合王国のすべての諸国はそれぞれの「地方特別法、諸特権、慣例、慣習」を無効とされて、新組織(ヌエバ・プランタ)王令 (新国家基本令とも訳される) に基づいた制度的改編がおこなわれた。スペイン王国はこれまでの「複合王政」と別れを告げて、オリバーレスの夢であったカスティーリャの法制にそったかたちで、国家としての政治的・法的一元化を達成したのである。もっともフェリーぺを支持したバスク地方とナバーラは、「免除県」としてひきつづき地方特別法を享受した。(立石 2000a: 186-187)

こうやって、勝者の制度が「征服」された諸国に導入されて中央集権的な体制が成立したわけだが、言語に関しては次のような記述がある。

地域的特殊性の強いカタルーニャでは、バレンシアのように民法の廃止にまではいたらなかったが、司法行政の分野においてカタルーニャ語を使用することは禁じられた。王権の意図は、カタルーニャのコレヒドールへの秘密訓令書 (1717年) にみられるように、「カスティーリャ語の導入を最大の配慮のもとにおこなう」ことであったが、じっさいに民衆を言語的・文化的にカスティーリャ化する手だてを講じることはできなかった。(立石 2000a: 187)

つまり、カタルーニャの民衆はカタルーニャ語を使い続けたのだが、行政の言語がカスティーリャ語に統一されたという点が極めて重要だ。18世紀のこの時点でカスティーリャ語が公用語ではなかったと主張するのは相当に難しい。

ちなみに、この辺りにことについて池上は

フェリペに逆らったアラゴン連合王国のすべてのフエロ (地方特別法) が無効とされ、独自議会、ジェネラリタート、百人会議などは廃止されて、政治・行政・司法がカスティーリャの法制に沿って一元化されていきました (池上 2019: 151)

と述べているけれども、言語には触れていない (「カスティーリャの法制」の中に言語が含まれると読むことはできる)。

次に18世紀の教育におけるカスティーリャ語の状況について見てみよう。

1768年には、初等教育とラテン語、修辞学の教育はカスティーリャ語で行うようにという勅令が出されている。また、1780年に認可された初等教育者組合の規約には、全国の学校で王立アカデミーの文法を使って児童の教育を行い、ラテン語は必ずカスティーリャ語文法を学んでから始めるように定められた。 (川上 2015: 167)

当時の就学率の低さを考慮すれば、スペイン中のこどもたちがみんなカスティーリャ語に触れたとはとても言えない。しかし、制度的には初等教育の言語も、やはりカスティーリャ語であるわけで、この言語が公用語でないと言うのはかなり難しい。

もちろん、公用語であるカスティーリャ語の普及度という別の問題は存在する。カスティーリャ語圏では話し言葉レベルでの同言語の普及の問題はないが、就学率や識字率は問題にできる (「1900年になっても識字率は4割に達せず、学齢期の児童の6割は就学していなかった (立石 2001b: 240-241)」)。カタルーニャ語に関しては、Joan Coromines が1950年に書いた («Aquest opuscle es va escriure l’any 1950 (Coromines 1982: 7)») 文章に、以下の記述がある (動詞の現在形に注意)。

Els més educats parlen el castellà amb un accent fort i inconfusible, i els altres és ben clar que solament se’n serveixen amb treballs i molt sovint en forma ben incorrecta; en resta encara un bon nombre, no menys d’un 20%, sobretot dones, que no el saben parlar, i cosa d’un 5% (en zones apartades) que a penes l’entenen. (Coromines 1982: 13)

1950年時点での Coromines の認識では、カタルーニャ語話者の20パーセントがカスティーリャ語を喋れず、5パーセントぐらいは理解も覚束ないという状況だった。19世紀には、この数値はもっと高かったはずだ。だから、「教育体制の整備」とともにカスティーリャ語の浸透が図られたのだろう。しかし、それは「公用語化」とは呼ばない。

いや、これは「公用語」と「公用語化」の定義の問題だと言われれば、ええっと、まあ、そうだ。だったら定義を示して欲しい。池上が、僕が理解するのとは異なる意味でこれらの用語を使っていることは確かだが、一体どういう意味なんだろう。ちょっと想像力が追いつかない。

  • Coromines, Joan, 1982, El que s’ha de saber de la llengua catalana, Editorial Moll.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • 川上茂信, 2015, 「国家語と地方語のせめぎあい」, 立石博高 (編)『概説 スペイン近代文化史』, ミネルヴァ書房, 第7章, 161-181.
  • 立石博高, 2000a, 「啓蒙改革の時代」, 立石博高 (編), 『スペイン・ポルトガル史』, 山川出版社, 第1部第4章, 183-204.
  • 立石博高, 2000b, 「アンシャン・レジームの危機と自由主義国家の成立」, 立石博高 (編), 『スペイン・ポルトガル史』, 山川出版社, 第1部第5章, 205-241.

2019年2月15日金曜日

¿Quién dice eso?

前の記事で見た「常軌を逸した」というくだりについてもう少し考えてみる。文脈を広げて再引用すると、こうだ。

中世以来、スペインじゅうに奇跡をなすマリアをまつった教会があり、大勢の巡礼者を集めてきました。16・17世紀には、民衆たちの信仰心をとりこむ場として、さらに多くの礼拝堂・教会が、聖母マリアの顕現・奇跡の現場に建てられました。また、聖母マリアをさす ¡Santísima Virgen! や ¡Virgen! を、驚きや困惑の場面 (英語の Oh my God に近いニュアンスでしょうか) やさまざまな挨拶のなかで唱えるなど、常軌を逸したスペイン人の熱狂的マリア崇拝は外国人を驚嘆させました。 (池上 2019: 134)

外国人を驚嘆させた「スペイン人の熱狂的マリア崇拝」が、間投詞化した Virgen だけを指すのか、その前にある教会の建設なども含むのかという問題はあるが、そこはとりあえず考えないでおく。前回「常軌を逸した」が著者の判断だと読むのが自然だと思うと書いたが、文脈を広げても、それを否定する材料はない。ただし、「常軌を逸した」と思ったのは外国人でしょ、という反応があっても不思議には思わない。それを予想した上で、前の記事は書いた。

実際には、外国人が「常軌を逸した」と言い、その判断を著者が受け入れていると理解するのが穏当な読み方ではないだろうか。もし、著者は外国人の言ったことを単に報告しただけで賛成はしているわけではないというのだったら、書き方が悪い。少なくとも僕にはそう読めない。仮に外国人の発言に賛成していないのなら、例えば「スペイン人の熱狂的マリア崇拝は外国人には常軌を逸したと感じられ」とかなんとか書かないとだめだろう。

学生の書いたものを見ていて頻繁に出会うのが、書き手が出典と一体化してしまったような文章だ。添削する方としては「これは誰の考え?」と聞いてから直し方を考えることになる。今の例だと、「常軌を逸した」と「熱狂的」が外国人による評価なのか、書き手の評価なのか、それとも両方なのかを見極めないと直しようがない。

論文であれば、その外国人というのが誰なのかを明記して引用する形にするだろうから、この問題は生じない (はずだ)。しかし、その手が使えない場合は、出典に枠をはめる工夫をしなければいけない。でないと、自分の考えを出典に乗っ取られてしまうことになる。僕も気をつけなければと思う (自分の書いたものだと、思い込みがあるので、不備に気づきにくいだろうけれど)。

まあでも、誰が言った (言っている) にせよ、「常軌を逸した」というのはやっぱりどうも・・・

  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.

2019年2月9日土曜日

Veneración

ときどき学生に対して注意していることのひとつが、用語はちゃんと使おうね、ということだ。僕は、専門用語を使わずに文章が書けるのならその方が良いと思うけれど、現実には不可能だろう。特定の分野の話をするときには、その分野で使われる用語を使った方が言いたいことがより速く正確に伝わる。用語を使いこなせるようになるまで勉強するのは面倒だが、まあそれが勉強ということだ。

前の記事で、『聖母マリア賛歌集』を「スペインに広まっていたマリア信仰 (池上 2019: 67-68)」に関係づけるテクストを紹介して、「崇敬」ではなくて「信仰」と言っている点を問題にした。なぜかと言うと、「教会用語においては、神およびキリストに対する礼拝 (〔ギ〕latreia) と、人間である聖母マリアや聖人に対する崇敬とを区別する伝統がある (上智学院 1996-2010: 「崇敬」の項)」からだ。つまり、カトリック的には聖母マリアは崇敬の対象であり、特に理由がないのなら、それに従っておけば良い。スペイン語では veneración が名詞で、動詞なら venerar だ。

ちなみに「信仰」については次のような説明がある。

カトリック神学において信仰は希望 (spes) および愛 (caritas) とともに対神徳の一つに数えられる。それらが対神徳と呼ばれるのは、それらによって我々が神へと正しく秩序づけられるかぎりにおいて神が対象 (objectum) であること、それらが神によってのみ我々に注ぎ込まれること、聖書に含まれている神的啓示によってのみ我々に知られることに基づくのであるが、それらが必要とされるのは、人間の究極目的である至福は人間に自然本性的に備わった能力によっては到達不可能であるということに基づく。(同書: 「信仰」の項)

ここから、カトリックでは「マリア信仰」という言い方は成り立たないという予想ができる (実際そうかどうかは未確認)。なので、やはり「崇敬」を使っておくのが無難だ。

さて、話はここからだ。今までの説明は、あくまでカトリック的文脈においての話。聖母マリアについて書くときに、それとは異なる立場や視点から物を言っても良いわけだ。そういう視点から「マリア信仰」と言う方が自分の考えが良く伝わると思うのならば、そうすることを妨げるものはない。その場合は、ただし、無難な「崇敬」ではなく敢えて「信仰」を選んだ理由を明記する必要がある。「信仰」の定義も欲しい。それをしないと、ただ無知なだけだと思われるのが目に見えている。

別の例をあげれば、僕の授業でカタルーニャ語やバスク語を方言と呼ぶ期末レポートがなかなか無くならない。授業を聞いていたのなら、これらは言語と呼ばれるなにものかであって、方言ではないということは明白だと思うのだが、現実にはそうではないようで、毎年毎年、自分の力不足を痛感させられる。もちろん、このようなレポートに良い点はつけない。しかし、もし授業で話したのとは異なる意味で「方言」という用語を使っていて、その定義を明示しているのであれば、仮に定義に問題があっても高い評価をあげたいところだ (ずっと待っているのだが、そういうレポートは未だ現れていない)。

用語は面倒だが、書き手の思考を明確にするのに役立つ。学生諸君には、是非しっかり勉強してほしい。

話を「マリア信仰」に戻すと、池上はこの表現についての説明はしていない。何か独自の視点から新たな「信仰」の考察をしているわけではなさそうだ。他のページには「マリア崇敬 (池上 2019: 134)」や「聖母崇敬 (idem: 170)」といった言い回しが見られる。ならば、「崇敬」に統一しておくのが良い。

おっと、もうひとつ、「崇拝」という語も使われている。でも「常軌を逸したスペイン人の熱狂的マリア崇拝は外国人を驚嘆させました (池上 2019: 134)」ってのはどうだろう。この書き方だと、「常軌を逸した」は著者の判断だと読むのが自然だと思うのだが、良いんですかね、そんなこと言って。

  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • 上智学院新カトリック大事典編纂委員会 (編), 1996-2010, 『新カトリック大事典』, 研究社.

2016年1月10日日曜日

Más espacios

スペイン語の正書法では、囲む記号 signos dobles の前後にスペースを置き、囲む要素との間にはスペースを入れない、というのが前回までの話。

La primera grabación se titula Bailes españoles e interpreta tres cantes (tientos, tangos de Málaga y soleá por bulerías) y en ella intervienen la Cañeta y José Salazar, Gaspar de Utrera, Manolo Maera y Paco Aguilera y los bailaores Paco Aguilera hijo, Rafael el Negro y Farruco. En la segunda grabación, titulada Repompa de Málaga, es ella la protagonista con cuatro cantes (“El rey faraón”, por bulerías; “Vino a mí, lo perdoné”, también titulado “Celosa”, cantado en fandangos por soleá; “¡Ea, Cayúo!”, por tanguillos y “Dinero”, por bulerías), con el baile de Farruco y la guitarra de Paco Aguilera (Roji et alii, 2012: 89).

見て分かるように、この手の記号同士の間にはスペースを入れない。また、疑問符と感嘆符も同じ扱いになる («Los signos de interrogación y de exclamación se escriben pegados a la primera y a la última palabra del periodo que enmarcan, y separados por un espacio de las palabras que los preceden o los siguen; pero, si lo que sigue al signo de cierre es otro signo de puntuación, no se deja espacio entre ambos (RAE & ASALE, 2010: 388)»)。

さて、スペースに関して気をつけなければいけないことはまだある。たとえばコンマの前にはスペースを入れないが、後にはスペースを入れる («La coma (,) es un signo de puntuación que delimita unidades lingüísticas inferiores al enunciado. Se escribe pegada a la palabra o el signo que la precede y separada por un espacio de la palabra o el signo que la sigue (idem: 302)»)。そんなの当り前だと言ってはいけない。実際、コンマの後にスペースを入れない学生は珍しくないのだ。ピリオドの後にスペースを入れない例はそれより少ないが存在する。コロン : の後にスペースを置かない例は非常に多い。コンマの前にスペースがあるように見えることも、手書きではお目にかかる。さすがに、行頭にコンマを持って来た例を見たときは僕もびっくりしたが、つまりそういう書き方をする学生さえいるということだ。

原因は、前の記事にも書いたが、日本語の書記体系とスペイン語 (ローマ字アルファベット) の体系の違いを認識していないところにある。ちゃんと教えない方が悪いということになるが、スペースは日本語ではレイアウトの一部 (全角カッコや句点の後の空白はマスというレイアウト空間の中にある要素) であるのに対して、ローマ字アルファベットにおけるスペースは単語などの書記単位を区切る、それ自体が機能単位なのだ。たとえば 3,5 と 3, 5 は意味が異なる。前者は1つの数値 (さんてんご) だが、後者は2つの数だ。もちろん、この程度の違いを無視したって大抵の場合理解に支障はない (sino と書いてもみんなちゃんと si no だと分かるのと同じだ) し、al enunciado.Se escribe と書いても、見づらいだけで sino 対 si no のような問題は起こらない。でも僕は体系の話をしているのだ。スペースは見やすくするため (だけ) にあるのではない。スペースは意味を持っているのだ。あれこれの場合にスペースを入れるか入れないかを覚える必要はもちろんあるけれど、その意味と、意味を支える体系を把握することが本当は重要なのだ。

  • RAE & ASALE, 2010, Ortografía de la lengua española, Espasa Libros.
  • Roji, Paco; Soler Díaz, Ramón & Fernández, Paco, 2012, La Repompa de Málaga, Paco Roji y Ramón Soler Díaz.

2016年1月4日月曜日

Un espacio, porfa.

なんてことを言っているうちに、おやおやこんな例が: «So she gently persuaded me that music was fine—not just fine, in fact, it was great, she said—”But why not do both?”, she offered (Ernst 2015: pos. 253)».

僕の持っている Word (for Mac, ver. 15.17.1) と Pages (ver. 5.6.1) は - の後も – の後も — の後も " を “ に変換してくれるが、別の記号を使ったのか、Word のバージョンが古いのか、別のワープロを使ったのか、とにかく日本の学生諸君と同じ罠にはまってしまったわけだ。売り物なんだから編集者仕事しろよと言いたいところだが、そういうチェックをしない出版社 (出版形態) なんだろうか。

さて、ダッシュには — (em-dash, u2014) と – (en-dash, u2013) がある。アカデミアの正書法では両者を使い分けていないが、記述からは em-dash が想定されているようだ («La raya es un signo de puntuación representado por un trazo horizontal (—) cuya longitud suele equivaler, en tipografía, a un cuadratín (blanco tipográfico cuyo ancho mide en puntos lo mismo que el cuerpo o tamaño de letra que se esté utilizando) (RAE & ASALE 2010: 373)»)。僕自身は実は em-dash が長く思えることが多いので、en-dash を使っている。許して下さい。

英語では em-dash の前後にスペースを入れないようだが、スペイン語では事情が異なる。基本的には引用符と同じ扱いだ («al igual que el resto de los signos dobles, las rayas de apertura y de cierre se escriben pegadas al primer y al último carácter del periodo que enmarcan, y separadas por un espacio del elemento que las precede o las sigue (ibid.)»)。なのでこんな感じになる (em-dash で): «El segundo festival de música mexicana es —¡cómo ponerlo en duda!— el acontecimiento musical más importante del año (ibid.)».

重要なのは、ここで言う signos dobles には引用符の他にカッコ類が含まれるということ。たとえば «Los paréntesis se escriben pegados al primer y al último carácter del periodo que enmarcan, y separados por un espacio del elemento que los precede o los sigue, salvo cuando encierran segmentos de palabra (idem: 364)» てな具合だ。しかし、と言うか予想通りと言うか、カッコの前にスペースを入れない学生が僕の回りには多い。理由は多分単純で、引用符の場合と同様、日本語ではスペースを入れないからだ。全角の()は見た目には前後に空きがあるが、文字としてのスペースがあるわけではない。半角の()ではそれがなくなるが、日本語の表記としては許されなくもないだろう (僕も特定の文脈で使うことがある)。そういうベースがあるのだから、スペイン語の書記法は日本語と異なるのだということを理解してもらう必要がある。本当は、それより前に多くの学生が習ってきている英語の書記体系が日本語のものと異なる発想で成り立っていることを伝える必要があると思うのだが、中学・高校の英語ではキーボードを使うことはないのだろうか。

カッコの前にはスペースを入れてね。

  • Ernst, Edzard, 2015, A Scientist in Wonderland, Imprint Academic, Kindle version.
  • RAE & ASALE, 2010, Ortografía de la lengua española, Espasa Libros.

2016年1月3日日曜日

Entrecomillando comillas (2)

引用符の使い方についてアカデミアの正書法は次のように言っている:

Las comillas son un signo ortográfico doble del cual se usan diferentes tipos en español: las comillas angulares, también llamadas latinas o españolas (« »), las inglesas (“ ”) y las simples (‘ ’). / [...] En los textos impresos, se recomienda utilizar en primera instancia las comillas angulares, reservando los otros tipos para cuando deban entrecomillarse partes de un texto ya entrecomillado. En este caso, las comillas simples se emplearán en último lugar: / «Antonio me dijo: “Vaya ‘cacharro’ que se ha comprado Julián”». (RAE & ASALE, 2010: 380)

というわけで、僕もこのおすすめに従って «» を優先的に使っている。時々この角引用符を全角の 《》 で代用する人がいるが、 este《entrecomillado》no はダサダサなので是非やめたい (este «entrecomillado» sí)。Mac の (ハード的には) 日本語キーボード上で入力ソースを Spanish-ISO にしたときの入力方法を書いておくので、知らなかった人は参考にしてください。

記号キーコード (Unicode)
«option + shift + :00AB
»option + shift + ]00BB
option + 8201C
option + 9201D
option + shift + 82018
option + shift + 92019
option + shift + z2039
option + shift + x203A


念のために補足しておくと、表中の : は日本語キーボード上で見える文字。Spanish-ISO 的には ´ (combining acute accent) で、同じく ] は ç になる。つまり右手の小指を右に向って伸ばせばいい。また、 ‹› は «El origen de las comillas es la diple (‹ ›), signo angular que hoy solo presenta funciones auxiliares (ibid.)» と言われているやつだろう。不等号 <> とは異なる。時々見ることがある程度なので、僕も option + shift + 左下の方 ぐらいの記憶しかなく、これを出したいときにはとりあえずその辺を打ってみることにしている。これ (‹entrecomillado›) を全角 (〈entrecomillado〉) や不等号 (全角 <entrecomillado> 半角 <entrecomillado>) で代用する人がいるが、やめた方が良い。

これだけ便利な Spanish-ISO だが、序数に使う上付の ª, º と不等号 <> がないのが玉に瑕。特に後者はプログラミングには欠かせないので痛い。だが、幸いなことに Karabiner というソフトが Spanish-ISO 上でも <> が入力できるようにするオプションを用意しているので、そのお世話になっている。

さて、引用符の使い方でもう一つ大事なことがある。それは «Las comillas se esriben pegadas al primer y al último carácter del periodo que enmarcan, y separadas por un espacio del elemento que las precede o las sigue; pero si lo que sigue a las comillas de cierre es un signo de puntuación, no se deja espacio entre ambos (ibid.)» ということだ。つまり引用の前にスペース、後には句読点などが続かない限りやはりスペースを入れるということ。開き引用符の後、閉じ引用符の前にはスペースを入れない (ここはフランス語と異なる) ことも覚えておくとよい。

  • RAE & ASALE, 2010, Ortografía de la lengua española, Espasa Libros.

2015年12月31日木曜日

Entrecomillando comillas

卒論の原稿へのコメントがー段落したところで、毎年直面しているある瑣末な問題について。

卒論に限らないのだが、学生たちの書いたものには ”entrecomillado” のような引用符の使い方が多く見られる。気持ちに余裕があるときは、こういう例はいちいち “entrecomillado” に直せと指示するのだが、その元気がないこともある。違いが分からないという人のために一応確認しておくと、前者は両方とも ” になっているので僕が始めのを “ に直させるということだ。つまり、学生たちが《 」かっこつき」》のように書いているのを僕が《「かっこつき」》にしろと言って回っているわけ。

この現象は欧文環境では起こらない: «el “entrecomillado” está bien» し、邦文環境でも「こんな “entrecomillado” は大丈夫」のような場合は現れない。出て来るのは「そんな”entrecomillado”はダメ」みたいな場合だ。違いが分からない人は、自分でもダメな”entrecomillado”をやっている可能性が高いと思うが、そう、引用符の前後のスペースの有無が決め手なのだ。欧文では起こらないと書いたが、スペースを入れなければ «el”entrecomillado” no está bien» になるだろう。

こんな書き方をしたので、学生が意識してそう書いているのではないと僕が思っていることは分ると思う。犯人はワープロのオートコレクト (自動置換) 機能だ。この機能がオンになっていると (たいていなっている)、たとえば " (日本語キーボードでは shift + 2) を入力すると文脈に合わせて “ か ” に置き換えてくれるというわけだ。まあ便利と言えば便利だが、さて " を使いたいときはどうすれば良いのか僕は知らない。問題は、この置き換えが常に使い手の意図通りに行くとは限らないということだ。で、全角文字と半角文字の間にスペースを入れる習慣のない人は、上のような無様な”entrecomillado”を晒すことになる。

それを防ぐ簡単な方法は、全角文字と半角文字 (漢字・かなとローマ字、邦文と欧文) の間には常に (半角) スペースを入れるということだが、もうひとつの手は、ワープロに任せず “ と ” を自分で入力することだ。これらの文字はキーボード上の見えるところにはないが、入力の仕方はある。僕は Mac 上で Spanish-ISO を使って欧文を入れているが、それぞれ option + 8 と option + 9 で出る。shift + 2 とほとんど変わらないし、オートコレクト機能のないソフトでも入力できる。僕はふだんワープロを使わないので、この入力方法が必須だ。Windows で同様に簡便な入力方法があるかどうか知らないので、各自調べること。もしないのならばスペースを忘れない習慣をつける必要がある。マクロの書ける人は、これらを挿入するマクロを作って入力しやすいキーに割り当ててもいいだろう (”entrecomillado” を “entrecomillado” に変換するマクロを作ってもいいが、それはこの記事の趣旨と合わない)。

あるいは、オートコレクト機能を外して " を使うのも悪くない。つまり "entrecomillado" にするということだが、タイプライターでものを書いていた頃はこうだったわけだし、”entrecomillado” よりずっとカッコいい。

僕は ”entrecomillado” を見るたびに、どうして直さないんだろう、気持ち悪くないんだろうか、と思う。内容には関係のない瑣末なことには違いないが、”entrecomillado” がみっともないだけでなく、まともな “entrecomillado” と混ざっているのがまた見苦しい。これは美意識の問題でもあるが、体系的思考の問題でもある。書記上の一貫性・体系性の欠如を放置して平気でいられるというのが、僕には理解できないのだ (それを美意識と呼ぶことに異論はないが)。

だから長い間ずっと不思議に思っていたのだが、数日前にふと思い当たったことがある。もしかしたら ”entrecomillado” と書いている人たちはこれがワープロのオートコレクト機能が働いた結果だということを知らないのかもしれない。本当は " という文字を入力しているとは知らず、これはそういうものだと思っている、いや特に何も思っていないのかもしれない。まあ、それでも書記上の一貫性・体系性の欠如を放置している点は変わらないし、ついでにワープロに対する主体性の放棄という点も見過ごしてはいけないと思うが、これならば僕にとってより理解しやすい現象になる。そういう人たちに対しては、”entrecomillado” は “entrecomillado” に直すべきだということをまず言わなければならない。そしてワープロが彼らの知らないところで勝手に " を “ か ” に変えていることを分かってもらう (試しに “ か ” が現れた直後に編集メニューで「元に戻す」を選んでみるとよい)。あとは各自好みの方法で現象に対処すればいいのだが、ワープロではなくエディタで文章を書くというオプションを提示するのが、長い目で見れば親切かもしれない。

そういえば、«puerto» の話で引用した DCECH は ’puerto’ のような書き方をしていて気持悪い。その時は引用なのでその通りにしたが、本来 ‘puerto’ のように書くべきだ。なんでこんな風にしてあるのかは分からないが、真似はしないように。