2014年7月27日日曜日

Otubre

Por ahí dicen que la Academia acepta setiembre y otubre. Para saber si es verdad o no, habría que saber lo que quiere decir exactamente eso de «la Academia acepta» estas formas, pero como no me es posible saberlo, voy a ver qué dice la Academia (o las Academias, para ser más exacto).

En la Ortografía académica de 2010 encuentro esta observación: «Como todas las consonantes oclusivas en posición final de sílaba, la /p/ tiende a relajar su articulación, pero se mantiene, más o menos debilitada, en la pronunciación culta. Solo en el caso de las palabras séptimo y septiembre el debilitamiento articulatorio de la /p/ llega a menudo, incluso en la pronunciación culta, hasta su completa elisión, de ahí la existencia de las variantes gráficas sétimo y setiembre, también válidas, aunque minoritarias frente a las formas etimológicas que conservan el grupo -pt- (pp. 187-188)». O sea que sí, escribir setiembre es válido y, por lo tanto, es difícil negar que la Academia acepte esta forma.

Antes no era así. En la Ortografía de 1999 «se recomienda conservar el grupo -pt- en palabras como séptimo, septiembre, etc. (p. 15)». La diferencia es clara. Y entre estas dos ediciones de la ortografía, está el DPD (2005), que dice: «Existe también la variante setiembre, reflejo en la escritura de la relajación de la p en la articulación de esta voz (→ p, 5); pero en el uso culto se prefiere decididamente la forma etimológica septiembre (s. v. septiembre)». Reconoce como variante la forma setiembre, pero da la impresión de que la descripción de la preferencia «en el uso culto» constituye una recomendación. En todo caso, no se puede concluir que antes de 2010 la Academia no aceptara la forma sin p, porque solo se trata de una recomendación o preferencia a favor de septiembre. Lo que sí es cierto es que ha habido un cambio de actitud sobre la variante setiembre: antes no se recomendaba y ahora es tan válida como septiembre.

Este cambio probablemente se debe al panhispanismo por el que actualmente se rigen las publicaciones académicas.

En cuanto a otubre, no he podido encontrar nada en la Ortografía de 2010. Si halláis algo, decídmelo. El DRAE (22ª ed., 2001) recoge otubre, pero como «desus.», es decir, que ya no se usa. No sé si se puede decir que la Academia acepta esta forma como actualmente válida. Me parece más bien que no, pero a falta de pruebas... De todas maneras, lo cierto es que la Academia no trata igual las formas setiembre y otubre.

Hay datos históricos que explica esta diferencia. La Academia ofrece el Corpus del Nuevo Diccionario Histórico del Español, donde puedes sacar estas cifras estadísticas:

septiembresetiembre
1064-1500 6 35
1501-1700 21 52
1701-1800 13 8
1801-1900 21 11
1901-2005 203 35

octubre otubre
1064-1500 17 77
1501-1700 32 68
1701-1800 25 2
1801-1900 34
1901-2005 273 1

Estos datos demuestran que, hasta el siglo XVII, las formas mayoritarias eran setiembre y otubre. A partir del XVIII, esta última cae en desuso, mientras que el uso de setiembre, ya menor que el de septiembre, experimenta un descenso más moderado.

******
Se ha corregido un error gramatical (2014/07/28).

2014年7月24日木曜日

iPat (2)

「促音+濁音」のつづき。もう少し検索してみた。

アイパットがあるからにはアイポット (iPod) もある。ラピットプロトタイピング (rapid) なんてのもある。ヘットホン、ヘットライト、ヘットライン (head...) も見つかる。ヘットマッサージもそうだろう。ついでに子どもの頃ロビンフットと言っていたことを思い出した。「義賊ロビンフット」で検索すると、やはり出てくる。オートバイの種類としてのネイキット (naked) も見える。スカットミサイル (scud) もある。それから pick のピックと紛れる危険のある pig もピックになりうる。単独の例も見つかったし、固有名詞として「ピックファーム」を名乗る養豚業者もいる。ヘッチファンドだって (hedge) 負けてはいない。

「ッブ」の例はなかなか難しい。これが清音化するならば「ッフ」になるはずだが、今のところ見つかっていない。無声化ならば「ップ」で、人名でリー・J・コッブ (Cobb) を「コップ」と表記したページがあった。

とりあえずこのくらい集めれば十分だろう。もちろん、ネット上の書かれた例を見ているわけだから、すべての例が無声の発音を反映していると考えるわけにはいかない。しかし、日本語母語話者として自分で普通に発音していたものもあるし、今見て違和感のないものもある。「促音+濁音」は現在でも不安定なのだ。

なお、これは規範の話ではない。規範があるとすれば、それは濁音を保つということだろう。清音化・無声化がそれに反する動きだとすれば、非促音形 (パブ、ハブ、ハグ、タグ、タブ、アド・・・) は濁音のまま日本語の音連続として落ち着くので、解決になりうる。

それにしても、「濁音+促音+濁音」のときだけ「促音+清音」になるという間違った記述の出所はどこなのか、そっちの方が興味深かったりする。「促音+濁音」から離れれば、目立つのはむしろ濁音への同化的変化だからだ。アボガド (avocado) と発音する人は多いし、ジギル (Jekyll) とハイドも普通だろう。僕は長いことハンフリー・ボガード (Bogart) と言っていたし、最初のうちはカート・ヴォネガッド (Vonnegut) だと思っていたような気がする。最後の例は、わざわざ「促音+濁音」のパタンを作っているわけだが、そう言えば人間ドッグ (dock) もある。

ふと思いついて検索したら Brad Pitt は正しいブラッド・ピットの他にブラッド・ピッド、ブラッド・ビット、ブラッド・ビッド、ブラット・ピット、ブラット・ピッド、ブラット・ビット、ブラット・ビッド、さらにはプラッド・ピット、プラッド・ピッド、プラッド・ビット、プラッド・ビッド、プラット・ピット、プラット・ピッド、プラット・ビッドが見つかる (プラット・ビットは、ざっと見たところ確実な例がない)。こうなると、同化というよりは有声無声の対立が機能していないと言ったほうが良いような気がしてくる。もちろん、対立はあるわけだが、濁音の体系上の位置を示していて興味深い。

2014年7月9日水曜日

Gustar ...

さて、このテーマもだんだん佳境に入ってきた。

El dominio de la guitarra le valió al padre Basilio su enorme fama en la época. El cisterciense, organista en el convento de Madrid, fue llamado por la reina María Luisa y por Carlos IV para que tocara el órgano y la guitarra en el Escorial, y tanto gustó que fue contratado en la Corte como maestro de la reina (Campo, Alberto del; Cáceres, Rafael, 2013, Historia cultural del flamenco: El barbero y la guitarra, Almuzara, p. 155).

上の例では gustar が与格も a ... の間接補語も伴わずに使われている。主語は明示されていないと考えるか、文頭の el cisterciense だと考えるか、いずれにせよ el padre Basilio のことだ。問題はもちろん間接補語の不在で、彼の演奏を気に入った人がいなければ解釈が成り立たない。学習者としてまずすべきことは、前後をよく見ることだ。そうすると la reina María Luisa と Carlos IV が見つかる。この人 (たち) が候補になるわけだが、その時点で持ち上がる問題は、それなら書き手はなぜこの人 (たち) を表す le(s) を入れなかったのかということだ。ゆるい言い方をすれば間接目的語の省略、そのメカニズムを説明する必要がある。

別の解釈の可能性もある。それは、間接補語が表現されていないのは、その指示対象が不定だからだ、というもの。つまり非人称 (不定人称) 読みだ。エル・エスコリアルにおける演奏を聞いたのは、王妃と国王だけとは限らない。気に入ったのも、2人だけとは限らない。もちろん、限られた人数であったに違いないし、「その人たち」を定として概念化することはできるが、そうしなくても彼の演奏が単に「うけた」と言うことは出来そうだ。僕が最初に思いついた解釈はこっち。

Para un aprendiente de español (o sea para mí), este ejemplo de gustar presenta dos posibles interpretaciones sobre la(s) persona(s) a quien(es) le(s) gustó: una, que son la reina y/o el rey y que el complemento dativo que los representaría está omitido; la otra es interpretación impersonal (como si se dijera: «la actuación del padre Basilio fue un gran éxito»). Como no soy hablante nativo, no sé decir si estas dos son realmente posibles ni cuál de las dos es más natural, pero me inclino a la segunda. Para adoptar la primera opción, habría que explicar las condiciones o el mecanismo de la omisión del pronombre, ¿no?

2014年7月2日水曜日

iPat

日本語では「促音+濁音」の組み合わせがもともと無く、これを持つ外来語は「促音+清音」として発音されることがある (「促音+濁音」を持つ方言もあるようだが)。良く知られたものとして「ベッド/ベット (bed)」がある (ただし、「ベット」はドイツ語の Bett から来ているという説もあって、『大辞林』はそれを採っている)。

この「清音化」が起こるのは、単に「促音+濁音」ということではなく「濁音+促音+濁音」だと説明しているページがあるのに気づいた。確かに、パッと思いつく例はそうなっている。「ベッド/ベット」しかり、「バッグ/バック (bag)」しかり、「ドッグ/ドック (dog)」しかり、「グッド/グット (good)」しかり・・・

だが、この記述は間違っている。「非濁音*+促音+濁音」だって清音化は起きるのだ。僕自身は「パッド (pad)」を「パット」として覚えたが、検索してみると、たとえば「肩パット」なんかは珍しくない。じゃあ「アイパット (iPad)」はどうかというと、やはり見つかるのだ。他には「ビリー・ザ・キット (Kid)」も出てくるし、「プレゼンテット・バイ (presented by)」も「タック (tag) を組む」も見つかる。「スクランブル・エック (egg)」も「濁音+促音」とは言えない。こういう例の中には入力ミスも含まれるだろう。しかし、全部がそうだとは考えにくい。

実は、このテーマについてあるスペイン人と話をして、やはり「濁音+促音+濁音」の話になったので、気になってgoogleaってみたというわけなのだが、予想以上に「清音化」の生命力は強いというのが感想だ。iPad のような新しい単語でも起こる、つまり今でも生きたプロセスなのだ。音韻体系は外からの影響でそう簡単に変わったりしないということか。

****************

補足 (2014/07/02)

* 「パッド/パット」のような「半濁音+促音」の例があるので「清音」を「非濁音」に直しました。「濁音/清音」と書きつつ、頭の中では「有声音/無声音」になっていました。反省。

2014年7月1日火曜日

Scarlatti

«Sonatas: Scarlatti por Cañizares». Juan Manuel Cañizares の新しいCD。格好良い。

スカルラッティはよく知っているわけではない。誰の曲か知らずに聞いて「あーこれすかるらってぃっぽい」と思ったりこともある程度にはイメージを持っていて、決して嫌いではないが、ちょっとうるさいという印象があって、特に好んで聞く作曲家ではない。その派手な技巧で飛び回るところをどうやって料理するのだろうと思って聞き始めたのだが、予想外に落ち着いた演奏で全然うるさくない。これなら何度聞いても良い。まあ、もともとそんなに良く知った作曲家ではないので「再発見」などと言うのは大げさすぎる。再会ぐらいだろうか。で、チェンバロによる演奏を引っ張りだして久しぶりに聞いてみたのだが、やっぱりちょっとうるさかった。チェンバロとギターの違いなのか、演奏者の個性なのか、選曲なのか、何か他の理由があるのかよく分からないが、とりあえず今のところ僕がスカルラッティを楽しく聞けるのはカニサレスのおかげである。それはお前がスカルラッティを分かっていないからだ、と言う人がいたら、それは受け入れるしかないが。

ドメニコ・スカルラッティ (Domenico Scarlatti, 1685-1757) はイタリア生まれだが、ポルトガルとスペインで活躍した。「彼が残した (一楽章制の短いものながら) 五百数十曲にも及ぶソナタは、すべて彼のイベリア定住後に書かれた (少なくともその後に出版を見た) のである (濱田滋郎, 2013,『スペイン音楽のたのしみ』音楽之友社, p. 123)」ということで、スペインと縁のある作曲家だ。カニサレスが彼を取り上げた理由もこの辺にあるのだろう。バロック期の音楽とフラメンコとの連続性を意識して演奏するのは最近ポッと出てきたアイデアではなく、クラシック (古楽) のほうでは結構前から行われていると思う。しかし、人気のあるフラメンコアーティストが参入してきたのは、最近の現象なのかもしれない。カニサレスの他には、例えばビオラ・ダ・ガンバの Fahmi Alqhai とカンタオールの Arcángel が組んでやったの («Las idas y las vueltas: Músicas mestizas», 2012) がある。この辺りに注目したフラメンコ研究が進展してきていることも、こういった動きを後押ししているに違いない。今読んでいる途中の Campo, Alberto del; Cáceres, Rafael, 2013, Historia cultural del flamenco: El barbero y la guitarra, Almuzara も、そんな本のひとつ。