2013年4月27日土曜日

Los muertos también pueden morir.



スペイン国営放送 (RTVE) のサイトでテレビのニュースを見ていたら、アナウンサーが «al menos 11 muertos han muerto» と言った。もちろんすぐに «11 personas» と言い直したのだが、こういう例に遭遇すると、やはりほっとする。ネイティブスピーカーとは言い間違いをする存在なのだ。だから、我々非ネイティブも、気楽に間違えながら喋れば良い。と言っても、なかなか気持ちが切り替わらないのが実情だが。

でも、なぜ «11 muertos han muerto» は変なのだろうか。日本語でも「死人が11人死んだ」は変だから (変だよね)、あまり深く考えたことはないが、これは話者の間で人は1度死んだらさらに死ぬことはない (1度生き返ればまた死ぬことはできるが、それとは意味が異なる) という了解があるからだろうか。意味論的には [-muerto (+vivo)] から [+muerto (-vivo)] への変化で、状態はこの2つしか考えられない。死者が死んで [++muerto] とかになったりはしない。1度休講にした授業をさらに休講にすることはできない (やっぱり授業やりますと言ってからまた休講にすることはできるが、それとは意味が異なる) のと似た話ということだろうか。

2013年4月20日土曜日

Podría haber + pp.


ボストンの爆弾テロの容疑者が拘束されたという記事を読んでいて、こんなパッセージが目にとまった。

Podría haberse dado a la fuga en un coche verde de la marca Honda con matrícula de Massachussettes 16GC7, se informaba. O estar agazapado en cualquier rincon (sic) de Watertown, como resultó suceder  (Elpais.com: 2013/04/20).

Poder の過去未来形 (podría*) と不定詞の完了形 (haber + 過去分詞) の組み合わせは「することが出来たのにしなかった (過去の非実現)」を表すと教えているが、この例はそうではない。実際にはそうじゃなかったということは確かだが、ここでは容疑者がすでに車に乗って逃げてしまったのかも知れないし、まだ町のどこかに隠れているのかもしれないという過去のある時点 (se informaba) での可能性あるいは推量が述べられているだけなのだ。

過去未来形の用法には、大きく分けて2つの類型がある。ひとつは過去を基準点にしたもの、もうひとつは現在を基準にしたもの (正確には、基準点として現在/過去の対立がないもの)。前者は過去から見た未来 (Rojo/Veiga の indicativo-0) と過去の不確実 (indicativo-1) に分かれる。後者は非現実や婉曲を表す (indicativo-2)。«Podría haber + pp.» が過去の非実現を表すのは、非現実の用法 (indicativo-2) の場合で、基準は現在にある。現在から見ているから、結局しなかったということが言えるわけだ。

それに対して今問題にしている例の場合、基準点は se informaba によって言及されている過去の時点だ。また、podría 以下は informar された内容だから、その時点で「結局そうではなかった」と言ったと解釈するわけにもいかない。つまりこれは過去の時点での推量を表す (indicativo-1)。Poder 自体が可能性を表すので、それにさらに不確実性・推量を加えるのはよけいな感じもするが、こういう例はそれなりに出てくるという印象がある (日本語でも「ありうるかもしれない」なんてつい言ってしまうことがあるが、客観的な可能性と主観的な推量を分けて考えることができるかもしれない)。

前にも書いたが、過去未来形の用法は学習者にとって難関で、基準点を軸に整理してみせても、なかなかピンと来てくれない。何か良い方法はないものだろうか。

2013年4月19日金曜日

Orejón


Naranjito de Triana が歌った tango de Triana (1968年 (多分) に出たLP Naranjito de Triana 所収) に、こんな歌詞がある。

Ya vienen bajando / por las escaleras / pimientos y tomates / XXX y brevas ...

この XXX が問題。僕は torrejones と教わり、確かにそう聞こえるのだが、これでは内容的に落ち着かない。文脈から考えて野菜や果物系のものが来て欲しい。しかし、手元の辞書などを見る限り、torrejón にそういう意味はなさそうなのだ。いつか時間があったら torrejón にそれ系の意味がある (あった) かどうかチェックしたいと思っていたのだが、先日ふと思い出して大先輩に聞いてみた。すると即座に、あれは orejones だとの返事。Naranjito の torrejones は、もとの歌詞が良く理解されず変形したものだろうということだった。

そういえば Esperanza Fernández は2007年の録音 (Recuerdos 所収) で orejones と歌っている。Orejón は「干した桃[アンズ](『西和中辞典』)」という意味があるから、内容的にはぴったりだ。僕は、もしかしたら torrejón にはかつて干した果物のような使い方があって、それが忘れ去られた結果の合理化かもしれないと思っていたのだが、話はむしろ逆なのかもしれない。

フラメンコに限らないだろうが、人から人へ伝えられていく過程で変形していき、歌詞の意味が通らなくなったと思われるものがある。この torrejones もその例だということになるのだろう。歌う側からすれば、自分にとって筋が通るように歌詞を変えて歌えばよいだけの話だが、研究者としては、意味不明になった歌詞をきちんと記録しておかなければならない。つまり、ふつうに文献学しましょうということだ。

2013年4月17日水曜日

Arte popular


坂東省次(編著)2013『現代スペインを知るための60章』明石書店。執筆者のひとり、エンリケ坂井さんに頂いたので、とりあえず「スペイン民俗芸術の華–フラメンコ」という章だけ読んだ。

ぜひ読んで欲しいので詳しい紹介はしないが、スペインという文脈に置いたフラメンコ (スペインの中、でもフラメンコの外からの目) という視点があって、これはありそうであまりなかったんじゃないかと思う。もちろんエンリケさん自身が経験したエピソードがいくつか紹介されていて大変面白い。

フラメンコはヒターノが作ったとも読めるパッセージがあって、研究者の端くれとしてはそのまま賛成するわけにはいかないが、アルティスタの書いた文章なのだから、これはこれで良いのだ。その理由は『アンダルシアを知るための53章』のフラメンコの章に書いたので参照されたし (宣伝)。

2013年4月6日土曜日

つるかめ


くしゃみをした人にたいして、スペイン語では Jesús とか Salud とか声をかける。日本語では何と言うのかと聞かれて、その場にいた日本人と日本語のできるスペイン人の一致した見解としては「何も言わない」ということになった。西和辞典で jesús や salud を引くと「お大事に」という訳が出ているが、これはあくまで訳例であって、くしゃみという状況における日本語話者の典型的な言語行動を記述しているわけではない。西和で hola を引いたら「やあ」が出てくるが、人に会ったときに「やあ」という日本語話者はどのくらいいるのだろうか。それと同じことだ。くしゃみに対して間髪を入れずに「お大事に」と言う例がないとは断言できないが、普通ではないだろう。少なくとも僕は何も言わない。そういう言語習慣を持っていないから、スペイン語で jesús と言う場合でも、ネイティブのタイミングよりも一呼吸か二呼吸遅れる。

ところが、白水社の『和西辞典』(改訂版、随分前の電子辞書版)には「つるかめ」という見出しがあって、その中の「〜〜」つまり「つるかめつるかめ」の説明が「[くしゃみをした人に] ¡Jesús! / ¡Salud!」となっている。なんだ、我々日本語話者もちゃんとくしゃみ対応表現を持っているではないか。とは言え、僕は実際に聞いた記憶はないし、僕が尋ねた日本語話者も知らないという。「くしゃみ」のもとになった「くさめ」がくしゃみをしたときに唱える呪文だったようなので、何か言う習慣は確かに存在していたのだろうが、「く(っ)さめく(っ)さめ」にせよ「つるかめつるかめ」にせよ、今では多くの人の日常言語行動のレパートリーには含まれないということだ。むしろ、和西辞典に「つるかめ」という見出し語(「つる」の中ではない)があることの方が興味を引く。どういう経緯でこの項目が選ばれたのか、誰がこれを書いたのか。そして、これを書いた人は普段「つるかめつるかめ」と言っているのか。