2023年9月4日月曜日

Lola de Valencia

「スペインのイメージ: 版画を通じて写し伝わるすがた」を見てきた (国立西洋美術館: 2023/08/29)。面白かった。チラシには「フラメンコ、闘牛、ドン・キホーテ、アルハンブラ・・・我々が思い浮べるスペインの「イメージ」の多くは、19世紀にこの国を訪れた旅行者たちによって作られたものでした」で始まる文章があって、この「作られたイメージ」が中心なのかと思っていたのだが、実際には「17世紀のリベーラからゴヤ、ピカソ、ミロ、タピエスと受け継がれるスペイン版画の史的展開」が主で、僕はフォルトゥニ以降現代までが特に面白かった。

とは言え、今回のテーマは「作られたイメージ」の方。作品リストからタイトルを抜き出してみると、「『杖をついた悪魔』カチューチャを踊るファニー・エルスラー (c. 1836)」、「ポーリーヌ・デュヴェルネーのカチューチャ (1837)」、「『ラ・ジターナ』マリー・タリオーニ (1840)」、「『パキータ』ディミエ (1846)」というのが、「スペイン舞踊」を踊る非スペイン人たちを描いた版画だ。

19世紀のある時期、パリやロンドンなどでスペイン風舞踊が流行するのだが、その事実とフランメンコの誕生を結び付けた先駆的な著作が Lavaur (1999) だ。この本の初版は1976年だが、1999年版の序文によれば «Su origen se remite a tres artículos publicados a partir de 1968 por el autor en varios números de la madrileña Revista de Ideas Estéticas. La versión completa, publicada por primera vez en 1976, quedó prácticamente “olvidada” —o más bien ignorada por la flamencología— (7)» とのこと。分量としてはカンテを扱った部分の方が多いのだが、今はバイレに集中しよう。1830年代にスペインの外で流行った踊りが cachucha で、ロンドンでフランス人の Pauline Duvernay (1812-1894) が踊って当ったのが記録としては早いらしい (Lavaur 1999: 110)。1836年にはパリで Marie Taglioni (1804-1884) が cachucha を踊る (idem: 112)。Taglioni はイタリア人の父とスエーデン人の母との間にストックホルムで生れた (Wiki)。同年、やはりパリで El diablo cojuelo に出演し cachucha を踊って評判になったのがウィーン生れの Fanny Elssler (1810-1884) だ (idem: 113)。これで上の4つの版画のうち3つについて踊り手の紹介が済んだ。3人とも cachucha を踊っているわけだ。

実は1834年にスペイン人舞踊手によるスペイン舞踊公演がパリで行われている。そのカンパニーで cachucha を踊ったのが Dolores Serral (??-??) だ。男性舞踊手の Mariano Camprubí たちと一緒だった: «a partir de este momento y durante muchos años, Camprubí y Serral serían personajes emblemáticas del baile español en París (Steingress 2006: 89)»。ところが、彼らの踊りはパリの批評家たちを圧倒しなかった: «pero no pensamos que ellos fueran rivales peligrosos para nuestros compatriotas. Su bolero, su zapateado, son ejecutados con rigor, con una energía calurosa, pero uno no sabría negarlo, son monótonos (ibid.)»。本場物がフランス風スペイン舞踊に勝てないという話、なかなか。

殘る1人はバレエ Paquita における Aurélie Dimier (1827-?) だが、この人は Lavaur の本にも Steingress の本にも登場しない (たぶん)。Paquita は現在通しで上演されることはないようだが、1846年にパリで初演された。主役の Paquita を演じたのは Carlotta Grisi (1819-1899) で、Dimier ではない。Grisi はこの頃 Elssler などに代って人気を得た踊り手。Dimier は1836年から1846年までパリ・オペラ座で学び、また踊っていたが、その後アメリカ合衆国や南米、オーストラリアに行っている。1854年にはチリのバルパライソに定住、その地で亡くなった。版画のモデルになったのは彼女がパリ・オペラ座にいた最後の年で Paquita 初演の年。大きな役ではなかったのかもしれない。

さて、展示されていた版画のうち、上に挙げなかったものが1枚ある。マネ作の「ロラ・ド・ヴァランス (1863)」だ。フランス語で Lola de Valence と書かれると何処の人?、という感じになるが、スペイン人。そう、Lola de Valencia のこと。Lavaur (1999: 117-118) は彼女と Dolores Serral をごっちゃにしているように読めるが、別人。Lola de Valencia の本名は Dolores Melea で、1862年にパリに来ている。Serral のパリ公演から30年ぐらい経っているのだが、この時も Mariano Camprubí が一緒で、Lavaur もこれに騙されたのだろうか。Lola de Valencia の公演は、パリにおけるスペイン舞踊ブームの最後を飾るものだったようだ («Con la aparición de Lola de Valencia se cerró el ciclo del triunfo de los bailes españoles en París en este período cronológico (1833-1865) (Steingress 2006: 192)»)。

ところで、これらの踊り手はロマンティック・バレエや escuela bolera の人たちで、フラメンコというわけではない (時代的にもまだ早い)。これがどのようにフラメンコに繋がるかは、Lavaur や Steingress の本を読んでほしい。Steingress の方は邦訳もある。ちなみに Steingress の本の表紙を飾るのはマネによる Lola de Valencia (油彩バージョン)。

  • Lavaur, Luis (1999). Teoría romántica del cante flamenco. Signatura.
  • Steingress, Gerhard (2006). ... y Carmen se fue a París. Almuzara.
Dimier 関連

2023年8月21日月曜日

El segundo hijo

このブログでよく取り上げている性 género の話。

En febrero de 1890 nace el segundo hijo del matrimonio, Pastora Pavón Cruz, concretamente en la calle Butrón, según su partida de nacimiento (Bohórquez 2007: 54).

Pastora という名前から el segundo hijo が「娘」だということは分ると思うが、もう少し詳しく見ると、この Pastora はカンタオラの Niña de los Peines (1890-1969) のこと。彼女には Arturo という兄がいる (1882-1959)。彼も非常に優れた歌い手だったというが、録音が残っていない。

つまり Pastora は2番目なのだが1番目が男なので、男女混合の hijos の中の2番目ということで el segundo hijo なのだと考えると分りやすいだろう。これが「男性の無標性」の表れなわけだが、なんかすっきりしないという人も多いだろう。

さて、息子を表すのに hijo varón というありふれた言い方がある。娘はじゃあ hijo mujer かなと思うが、これを見たというはっきりした記憶がない。検索してもなかなか確実な例に行き当たらないのだが、1つ見つけた。

La alta preferencia por un primer hijo varón (pss de 0.924 y 0.834), manifestada tanto por los solteros masculinos como los femeninos, y por un segundo hijo mujer, (pss de 0.301 y 0.269), coincide con lo informado para otras poblaciones, y tal vez es el reflejo de varios factores, entre los que puede mencionarse la influencia de la familia de origen, ya que en ésta el promedio de las PSS fue de 0.513 y de 0.468 en el primer y segundo miembros (Garza-Chapa et al. 1989: 42).

言っていることは良く理解できないのだが、未婚者の希望として最初のこどもは男、次に女 (一太郎二姫) という傾向があるということのようだ。

というわけで hijo mujer が言えるということはやはり hijo の無標性の表れだと言える。しかし母語話者にとって hijo mujer が当たり前の言い方なのかどうかは分らない。

  • Bohórquez Casado, Manuel, 2007. Tomás Pavón. El Príncipe de la Alameda, Pozo Nuevo.
  • Garza-Chapa, R; Jiménez-Contreras, JA; Riojas-Valdés VA, Cerda-Folres RM, 1989. «Preferencias sobre la composición familiar entre jóvenes de Monterrey, México», Salud Pública de México, 31, 32-45. https://saludpublica.mx/index.php/spm/article/view/109/102

2023年7月24日月曜日

Solo (4)

Solo (と este, esta, etc.) とアクセント記号 tilde についての続報。DPD 第2版の暫定版が RAE のホームページに上がっているのに気づいたので、結論部分だけ紹介しておこう。
  1. Es obligatorio escribir sin tilde el adverbio solo en contextos donde su empleo no entrañe riesgo de ambigüedad.
  2. Es optativo tildar el adverbio solo en contextos donde, a juicio del que escribe, su uso entrañe riesgo de ambigüedad.

基本的に同じルールが指示詞にも適用される。
  1. Es obligatorio escribir sin tilde los demostrativos este, ese, aquel (y sus femeninos y plurales) en contextos donde su uso no entrañe riesgo de ambigüedad.
  2. Es optativo tildar los usos pronominales de los demostrativos este, ese, aquel (y sus femeninos y plurales) en enunciados donde, a juicio del que escribe, su empleo entrañe riesgo de ambigüedad.

予告通り、solo の場合は副詞と形容詞 (指示詞の場合は代名詞と形容詞) の間の曖昧さが生じない場合はアクセント記号をつけてはいけない、そして曖昧な場合は副詞の solo に (代名詞の este, ese, etc. に) tilde をつけても良い (つけなくても良い) ということだ。つまり、どんな場合でもアクセント記号をつけなくていいので、学習者は安心して欲しい。教える側としては、学習者が「書き手たる私が曖昧だと判断したのでアクセント記号をつけた」と言い張ったときにどうするかの方針を決めておいた方が良いかもしれない。

  • Real Academia Española y Asociación de Academias de la Lengua Española: Diccionario panhispánico de dudas (DPD) [en línea], https://www.rae.es/dpd/tilde, 2.ª edición (versión provisional). [Consulta: 2023/07/24].

2023年7月19日水曜日

La bebé

ネット上で新聞を読んでいたら、la bebé という表現を見た。男の子でも女の子でも el bebé だったはずだが、と思って RAE のサイトで確認すると、
で、«m.» だからやっぱ男性名詞だなと思ったのだが、いや待て、«U. t. c. m. y f.» じゃないか。つまり女性名詞としても使われると書いてあるのだ。これを見落としたのだろうが、紛らわしい書き方だと思い、とりあえず Fundéu が何と言っているかをチェックした。

すると «la bebé, femenino válido» という記事 (2018/12/27) に次のような記述があった。
Aunque en los principales diccionarios de lengua española bebé aparece solo como masculino (el bebé, sea niño o niña), en el español contemporáneo, especialmente en los países hispanohablantes de América, esa voz se ha transformado en común en cuanto al género. Así, y conforme a la Nueva gramática de la lengua española, son válidas las formas la bebé y una bebé cuando nos referimos a una niña.
(https://www.fundeu.es/recomendacion/bebe-sustantivo-de-genero-comun/)

なるほど。実際 iOS 上の『西和中辞典』、『現代スペイン語辞典』、『スペイン語大辞典』、Oxfort Spanish Dictionary では bebé は男性名詞としか書かれていない。

そして一応 DLE のアプリも見てみたら、なんと «U. t. c. m. y f.» が無い (Actualización 2022. 2023/07/19現在)。RAEのサイトのやつも同じバージョンのはずだが、人知れずアップデートしているみたいだ。

  • 宮城昇ほか (編), 1999, 『現代スペイン語辞典』改訂版, 白水社 (iOS版, LogoVista 電子辞典 2013-2016, ロゴヴィスタ).
  • Oxford University Press, 2008 (2017) Oxford Spanish Dictionary, MSDict Viewer Version 1.0.18.169
  • RAE, 2014 (2022), Diccionario de la lengua española, 23.ª edición (actualización 2022). https://dle.rae.es/
  • 高垣敏博 (監修), 2007, 『西和中辞典』第2版, 小学館 (iOS版, 物書堂, 2010, ver. 2.6.3)
  • 山田善郎ほか (監修), 2015, 『スペイン語大辞典』, 白水社 (iOS版, LogoVista 電子辞典 2017-2018, ロゴヴィスタ).

2023年7月11日火曜日

No solo es que

Jidequín 氏の記事:
https://note.com/jidequin/n/nc249535a01c5
に興味深いスペイン語が引用されている: «No solo es que estén lejos de lo que defiende el PP, sino que en un porcentaje muy alto son un delirio».

スペインの総選挙で Partido Popular (PP) と Vox の関係が注目されている中、PPの Borja Sémper が Vox のプログラムについて論評したもので、大雑把に言うと Vox の選挙公約は「PP の主張とかけ離れているだけでなく、妄言度が高い」ということになる。

もちろん、興味深いのは PP と Vox がどうなるかではなくて、ここに estén という接続法の形が使われているということだ。接続法が現れたのは no があるから、もう少しちゃんと言うと es que が否定のスコープに入っているからで、特に珍しいことはない (学習者は «no es que 接続法» と覚えよう) のだが、solo があるおかげで que 以下の内容は否定されていない。今 es que が否定のスコープに入っていると言ったが、no は solo だけを否定している (es que 以下は否定のスコープに入っていない) のではないか、とあなたは思わなかっただろうか。僕は思った。で、検索してみた。

Google で "no solo es que" を見てみると、直説法の例もあるが、接続法の方が多そうな印象だ。だが、もう少しちゃんと数を見たいので RAE の CORPES XXI を見てみる。そうすると "no solo es que" は62件、うち接続法が44、直説法が18で、やはり接続法の方が多い。直説法の例を1つだけ紹介しよう:

  1. Y esto nos parece que está muy bien, aunque está claro que no sirve para nada, como la tozuda realidad nos demuestra: no sólo es que persisten los conflictos armados, sino que basta mirar a nuestro alrededor para comprobar que vivimos en una sociedad cada día mas crispada, más violenta y agresiva, donde poder vivir juntos y en paz es cada día mas complicado.

数は少ないが直説法の例はあるので、論理的には否定されていない内容を「事実だと断定し、聞き手にむけて主張する (福嶌 2019: 29)」直説法で表すことはできるわけだ。しかし、テクスト的には、その後に来る sino que 以下の方が情報価値が高いだろうから、前半は「事実だという断定・主張をしない (ibid.)」接続法を使った «No (solo) es que 接続法 sino que 直説法» というパタンが定着しているのかもしれない。この接続法を否定のスコープで説明するか、否定に頼らず情報構造で説明するかだが、僕は no の存在が大きいと思うので、否定がらみで考えてみたい。

ついでに «no solo creo que» を CORPES XXI で見てみると5件ヒットした。重複があるので実質4件だが、直説法2、接続法2という結果。それから «no solo es cierto que» は1件だけ見つかり、これは直説法だった。前者を Googlea ってみると、194,000件という数字が出るのだが、最初のページだけ重複を除いて数えると、直説法が5、接続法が1。後者の Google 検索はなんと5,900,000件という数字が出るのだが、実際には1ページ目の8つしか確認できない。そのうち7つが直説法だった。というわけで、数が少ないので断定はできないが、creer や ser cierto の場合は直説法の方が多いのかも知れない。同じ «no solo .... que» の環境でも接続法の出現度が異なる可能性があるということだ。

  • REAL ACADEMIA ESPAÑOLA: Banco de datos (CORPES XXI) [en línea]. Corpus del Español del Siglo XXI (CORPES). <http://www.rae.es> [2023/07/11]

  • 福嶌教隆, 2019, 『スペイン語のムードとモダリティ』, くろしお出版.

2023年7月5日水曜日

Esperar que ind.

数日前のこと。職場で、ある教科書に Espero que trataréis みたいな «esperar que 直説法» の例が登場しているということが話題になった。普通 esperar は接続法を導入する動詞として教科書に出てくるが、直説法が現れることもあるということを知らない学習者は多いだろう。しかし、たとえば福嶌 (1995: 341) は esperar について「+接続法: 「期待する」という願望の意味」、「+直説法: 「好ましい出来事が起こると思う」という意味」で、「ただしその違いが微妙な場合もある」としている。その上で次の例を示している。
  1. Espero que vengan a verme. 彼らが私に会いに来てくれることを願っている。
  2. Espero que vendrán a verme. 彼らが私に会いに来てくれると思う。

また、RAE & ASALE (2010: §25.3.3b) は pensamiento / intención の違いによる直説法・接続法の交代を次のように説明している:
Pensamiento > intención: Con el indicativo, el contenido de la oración subordinada manifiesta lo que se cree o se piensa: Yo pensaba que tenía tiempo de escapar (Hernández, F., Nadie); con el subjuntivo, por el contrario, expresa una toma de postura o una decisión: Inicialmente estaba pensado que participaran los dos equipos sevillanos con un tercer rival (Razón [Esp.] 2/9/2002). Podría vincularse también a este proceso la alternancia modal con los verbos confiar (en) y esperar, visible por ejemplo en Espero que tendremos el gusto de verlo otra vez (Quiroga, H., Amor), frente a Espero que vuelva (Martín Gaite, Visillos). Cabe pensar en estos casos en una traslación semántica desde la afirmación de lo que se cree o se presenta como cierto, aunque sea en el futuro, hasta la expresión de un sentimiento de esperanza, que constituye una noción intencional.

なお、日本では esperar を「願望」の動詞に分類するのが一般的だが、スペインでは「感情」の動詞とするのが普通。たとえば Borrego et al. (1985: 104) は esperar と接続法の組み合わせを «‘tener esperanza’: sentimiento» とし、直説法との組み合わせを «‘creer’: percepción» と説明している。

さて、僕は «esperar que 直説法» の例を García Lorca の書簡の中で見たことがあり、実際に使われた例を知っていたけれど、スペイン人に尋ねてみたら esperar は接続法でしょ、と言われた経験がある。なので、件の教科書がどういう意図で «esperar que 直説法» を採用したのか分らないが、初級レベルでこのパタンを学習者に見せる必要はないと思っている。

それはそれとして、久しぶりにこのパタンのことを思い出したので、ロルカの実例を確認することにした。彼の1986年版の全集の cartas の部分、手入力でデータは作ってあるので、
/[Es]spero que/
で検索してみた。その結果、直説法が37件、接続法が5件見つかった。なんとロルカは直説法派だったのだ。

直説法の例を見てみよう。
  1. Espero que me escribirás en seguida. (710)
  2. Espero que pronto podré ir a Barcelona. (966)
  3. Espero que no habéis olvidado mis señas: (829)
  4. Yo espero que me escribiréis todos y que vuestras cartas sean largas y tendidas, que me escribirán las niñas, y que tendrá noticias de todos. (828)
3は、手紙によく出てきそうな (実際ロルカがよく書いている) パタン。4は従属節動詞の主語が主節の主語と同じな例。また、従属節動詞の時制は未来が多いが、5は現在完了という珍しい例。そして6は直説法と接続法が並んで出てくる例。

今回は例だけ紹介。個々の例、とくに6の分析は面白くなると思うが、老後の楽しみのために取っておくことにしたい。

  • Borrego, J; Asencio, J. G. & Prieto E. 1985, El subjuntivo. Valores y usos, SGEL.
  • 福嶌教隆, 1995, 「動詞—法」, 山田善郎 (監修) 『中級スペイン文法』, 白水社, 18章, 332-351.
  • RAE & ASALE, 2010, Nueva gramática de la lengua española. Manual, Espasa Libros.

  • García Lorca, Federico, 1986, Obras completas, Tomo III, Edición del cincuentenario, Aguilar.

2023年5月10日水曜日

Tío abuelo

フラメンコに関わる美意識を共有し、その判断が信頼できる人たちのお薦めがあったので、Juana Amaya を観にガルロチに行ってきた (2023/05/06/13:00)。良かった。僕はバイレはよく分からないので彼女の踊りを形容する語彙がないのだが、何と言うか、力んでいないのに体からエネルギーがワーッと出てくる感じに触れて、やっぱり来て良かったと思ったのだった。

Juana Amaya のことは何も知らなかったので、行く前にネットで検索してみた。本名 Juana García Gómez、1968年 Morón de la Frontera の生まれというのが多数派 (異なる情報も存在する)。Morón は、ある種のフラメンコが好きな人にとっては、今の日本語で言えば聖地みたいな所だが、その聖性を代表する存在がギタリストの Diego del Gastor (Diego Amaya Flores, 1908-1973) だ。そして Juana にとって Diego は tío abuelo に当たるのだという。

Tío abuelo はアカデミアの辞書によれば «tío, a abuelo, la: 1. m. y f. Hermano de uno de los abuelos de una persona (RAE 2014 (2022), s. v. tío)» で、「おおおじ (大伯父・大叔父)」のことだ。Diego から見て Juana は sobrina nieta ということになる («sobrino, na nieto, ta: 1. m. y f. Nieto del hermano de una persona (RAE 2014 (2022), s. v. sobrino)»)。実は sobrino nieto は日本語で「てっそん (姪孫)」と言うのだということを、つい最近知った。

さて、フラメンコ関係のものを読むと tío abuelo がそれなりの頻度で出てくるのだが、単に tío と書かれることがある。最初は情報が混乱しているのかと思ったりしていたのだが、どうもそうではない。たとえば Juana Amaya を扱ったこのページ
https://elartedevivirelflamenco.com/bailaores77.html
には2008年の新聞記事らしきもののコピーがあり、記事の見出しは «Juana Amaya rinde hoy homenaje a su tío Diego del Gastor en la Fundación Cajasol» だが、本文中には «el guitarrista «Diego del Gastor», tío abuelo de la bailaora» というパッセージが見える。オリジナル記事は検索で出てこなかったが、コピーが正確だとすると、書き手は tío abuelo と分かった上で tío と書いていることになる。

というわけで、既に分かっている場合は abuelo を補って読めば良いのだが、おおおじなのかおじなのか分からない状態で tío とだけ言っているこのページ
https://elcorreoweb.es/historico/amaya-ensalza-al-gran-diego-del-gastor-IFEC127197
を見たら混乱するかもしれない。

ちなみに、こちらの記事は Juana が Diego の «Sobrina-nieta» だと言い (ハイフンはアカデミア的には不要)、
https://elpais.com/diario/2000/09/10/andalucia/968538141_850215.html
こっちは «sobrina» だと言っている。
http://www.buenosairesflamenco.com/tia-juana-la-del-pipa-remedios-amaya-y-juana-amaya-gitanas-al-arte-de-su-vuelo-xx-edici-n-2926

なので tío や sobrina が出てきなら気をつけないといけないわけだが、今回この記事を書くためにアカデミアの辞書を確認していたら、tío は «m. y f. Hermano de uno de los padres de una persona» や «m. y f. Cónyuge del tío de una persona» (この辺は日本語の「おじ・おば」に当たるだろう。«cónyuge del tío» はおじさんの配偶者だけでなく、おばさんの配偶者も含んだ言い方だ) の他に «m. y f. tío segundo» や «m. y f. tío abuelo» という語義も載っている (ちなみに tío segundo は «m. y f. Primo de uno de los padres de una persona» つまり親のいとこ)。

ここまで読んでスペイン語は緩いとかいい加減だとか思った人もいるだろう。気持ちは分かるし実際ちょっと不便なのだが、これは基本的には言語ごとに概念化の仕方が異なるということの反映なのだと思う。つまり、スペイン語の tío は日本語の「おじ」より意味の範囲が広くて、tío abuelo や tío segundo は tío の一種 (下位区分) なのではないか、ということだ。そこで、スペイン語のネイティブに tío abuelo は tío か、言い換えれば tío の下位範疇か、と尋ねてみた。答えは、違う、tío abuelo は tío abuelo だ、ということで、こちらの期待通りには行かなかったのだが、tío abuelo は abuelo よりは tío に近いという答えは得られた。もう少し粘ってみる価値はあるかも知れない。

親族名称は決して「自然な」区分を表しているわけではない。池上嘉彦がポリネシアの言語の例を紹介して「このような言語では〈父〉と〈父方のおじ〉、〈母〉と〈母方のおば〉はそれぞれわれわれの言葉での「チチ」、「ハハ」なみに扱われ、一方、同じように〈おじ〉や〈おば〉であっても、〈父方のおば〉と〈母方のおじ〉とは別扱いで、〈父〉や〈母〉なみには扱われない (池上 1978: 213)」と言っている。日本語に置き換えると、お父さんもお父さんの兄弟も「お父さん」で、お父さんの姉妹は「おばさん」、お母さんとお母さんの姉妹が「お母さん」で、お母さんの兄弟は「おじさん」という感じだろうか。これだけの情報だと、「おじさん」「おばさん」の範囲が日本語より狭いということになる (本当にそうかは分からない)。そのかわり「お父さん」と「お母さん」の範囲が広いわけだ。一方、ラテン語では父方のおじ・おば patruus, amitia と母方のおじ・おば āvunculus, mātertera を区別する。こういう言語の話者は「日本語って緩い」と思うのかもしれない。

  • 池上嘉彦, 1978, 『意味の世界』NHKブックス330, 日本放送出版協会.
  • RAE, 2014 (2022), Diccionario de la lengua española, 23.ª edición (actualización 2022). https://dle.rae.es/