2019年7月14日日曜日

Vocal larga

カスティリャ語固有名詞のカナ表記で音引き「ー」を使わない実験を続けている (実は今、「カスティーリャ」と書いたことに気づいて後から「ー」を消した)。さすがに幾つかは「ー」を入れたほうが断然良いと感じられるのだが、もう少し続けてみたい。

さて、カスティリャ語やカタルニャ語には母音の長短の区別がない。したがって、カナ表記で長母音を表す「ー」を使う必要は、原則として、ないはずだ。しかし、実際には「ー」が多用されている。なぜだろうか。

一番分かりやすい理由は「そう聞こえるから」というものだろう。実際、そう感じている人は多いかもしれないが、実は音声学的データは必ずしもそれを裏付けてくれない。

安富 (1992) は、日本人学習者がカスティリャ語の単語を聞いて「聞こえた通りに片仮名で書く (82)」という実験をしている。その結果を見ると、「ー」を使わない例が多い。同じ単語でも人によって「ー」を使う使わないの揺れが見られるものがあるが、使わない方が多い。11人のうち、例えば tapa は全員が「タパ」、caro は「カロ」が9人、「カーロ」が2人、という具合だ。唯一「ー」派の方が多かったのが vino で「ビーノ」が8人だった。この実験はカスティリャ語を大学で専門に勉強している3・4年生の学生が対象なので、その学習歴が結果に影響した可能性はあるが、長くは聞こえないという傾向があるとは言えるだろう。

また、木村 (1989) はカスティリャ語固有名詞のカナ表記について提案をしているのだが、そこでナバロ・トマスの有名な本のデータを紹介している。木村の言い方によれば「強勢母音の長さと、その音節タイプ・語内での位置との関係 (196)」だ。

  1. 長い:
    • Aguda の語 (n, l で終わる語を除く) papá, matar
  2. 半長:
    • Aguda の語で n, l で終わる語 sultán
    • Llana の語で、開音節 pasa
  3. 短い:
    • Llana の語で、閉音節 pardo
    • Esdrújula の語 páramo

ここで aguda は最後の音節にアクセントがある語、llana は最後から2番目の音節、esdrújula は最後から3番目の音節にアクセントのある語のこと。つまり、アクセントのある音節の母音と言っても、単語のどの位置にあるか、開音節か閉音節かによって長さが異なるわけだ。また、母音の長さを単語内部の位置と強勢の有無で分類したデータ (同じナバロ・トマスの本からのもの) も紹介している。

無強勢・語頭音節64ms
無強勢・語中・強勢より前58ms
強勢106ms
無強勢・語中・強勢より後50ms
無強勢・語末音節114ms

木村は「強勢音節の母音と語末音節の母音が長く、他が短いというはっきりした特徴が見られる。その長さの比率はほぼ2対1である (196)」と言っていて、確かにその通りなのだが、語末の無強勢母音が一番長いという点に注意が必要だ (木村はこの点には何故か言及していない)。だから、それに従えば Castilla は「カスティーリャー」と書いてもいいんじゃないか、ということになる (もちろん誰もそんな主張はしていない)。

これらのデータを踏まえて、木村は「語末・強勢・開音節は長音で表記する (196)」という規則を立てる。つまり、安心して長いと言えるのは最後の音節にアクセントがあってしかも母音で終わっているとき、ということだ。これに従えば Panamá, Perú は「パナマー」「ペルー」ということになる。確かに「ペル」は僕も書きたくない。

木村の提案の特色は、しかし、カスティリャ語の母音の長さと日本語表記における「ー」の使用をある意味で切り離す点にある。彼が依拠するのは、日本語における外来語のアクセントパタンだ。大雑把言うと、これらの語では終わりから3番目の拍にアクセント核があるという傾向がある。「アクセント核」というのは日本語の音韻論で使われる用語だが、大雑把に言うと、これがある拍までは高く発音され、その後は低くなる。この傾向に合わせて「言語の強勢音節の核母音を含む拍が、終わりから3拍目に来るように (198)」長音のしるしを入れるというのが彼の提案だ。

例えば Gómez は「ゴメス」で「ゴ」が高くその後下がる「ゴ↓メス」になる (アクセント核の直後、下がり目に「↓」を入れて示す)。一方 Felipe を「フェリペ」と書くと「フェ↓リペ」と読む人が続出することが予想されるが、「フェリーぺ」にすると「フェリ↓ーぺ」と発音してもらえるだろう。「ー」を入れることで「リ」を終わりから3拍目にした効果だ。

木村の提案はより詳細で、具体例に対応するための細則もあるので、興味のある人は現物を見て欲しい。僕は、これを見たときは巧みだと思って随分感心したのだが、今では基本的な考え方を共有していない。つまり、日本語なのだから「フェ↓リペ」で構わないと思っている (僕自身は「フェリ↓ペ」と発音するが、異なるアクセントパタンが問題になるとは思えない)。木村は「日本人がスペインの首都の名前を言っているのに、それを聞いたスペイン人が一体どこの話なのだろうなどと考えこむようでは困るのだ (193)」と言うのだが、日本語なんだから構わないのではないだろうか。木村は「マ↓ドリ」を念頭においているようだが、「マドリ↓ード」でも他の言い方でも、日本語ではこう言うのだと学び、慣れてもらえば良いだけのことだ。

もう1つ問題なのは、日本語のアクセント核とカスティリャ語の強勢を同じようなものと考えて良いのかということだ。日本語のアクセントは下降によって表現される。そして、最後に高いところを核と呼んでいるので、そこが「強い」ように思えるかもしれないが、それが果たしてカスティリャ語の強勢のように強く発音されているのか、おそらく検証されたことはない。僕は、日本人学生のカスティリャ語発音を聞いていて、アクセントのあるところを高く発音していても、それが必ずしも強く聞こえないという印象を持っているが、カスティリャ語のネイティブがどう感じるのか、興味のあるところだ。

石橋 (2006: 19) は「スペイン語のアクセント付音節は英語のそれとは異なり、(他の音節と比べて) つねに「長く、高いピッチで」発音されるとは限らない」と述べて、「ー」の使い方について独自のルールを用いている。常に長く高く発音されるとは限らないというのは英語でもそうだから、その点は修正する必要があるけれども、特にアクセントのあるところが周りの音節より低いことがあるという指摘は重要だ。単語単独の発音だと、平叙文の、最初のアクセントで上がり、最後のアクセントで下がるというイントネーションに近いパタンになる。アクセントが1箇所しかないので、そこで上がって後は下がるということになり、たまたま強勢音節が1番高くなるというだけの話だ。

さらに、木村も認める通り、「ー」の使用が全てを「解決」する訳でもない。例えば「ペルー」は「ペ↓ルー」になり、アクセント核は「ルー」とは一致しない。こういう場合、「ぺ」の高さと「ルー」の長さのどちらがカスティリャ語ネイティブのアクセント知覚に寄与するか、調べる価値はあるかもしれない。

というわけで、「ー」によってアクセント核・下降の位置をコントロールすることでカスティリャ語の単語のアクセントを「再現」する試みは、それほど有意義だとは思えない。もちろん、日本語の表記として無理がなく、カスティリャ語の発音に近いものが得られるのならば、「ー」の使用を妨げる理由もないのだが。

  • 石橋純, 2006, 『太鼓歌に耳をかせ –カリブの港町の「黒人」文化運動とベネズエラ民主政治』, 松籟社.
  • 木村琢也, 1989, 「フアンとマリーア –スペイン語固有名詞のカタカナ表記に関する二つの問題点–」,『吉沢典夫教授追悼論文集』, 191-199.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • 安富雄平, 1992, 「スペイン語の母音の持続時間: 日本語の長音との比較において」,『ロマンス語研究』, 25, 81-86.