2019年4月27日土曜日

Modo de mi

『情熱でたどるスペイン史』における「高速タップ」の分析は終えたので、続きを見るために「はじめに」の部分を再引用する。

スペイン人の情熱が集約されたような芸能に、フラメンコがあります。激しいリズムの舞踏(ぶとう)と高速タップ、民族の悲哀(ひあい)を訴えるメロディーと歌詞、(たましい)の奥底からしぼり出されるようなしゃがれ声、薄暗いホールのなかで演じられる情熱のパフォーマンスに感化され、私たち観客の体内でもしだいに電流のボルトが上昇して、胸がいっぱいになってきます。私はこれまで、二度フラメンコを見る機会に恵まれましたが、いずれも圧倒的な感銘(かんめい)を受けました。(池上 2019: iii)

まず意味不明なのが「民族の悲哀」だ。例えば「人生の悲哀」と言えば、生きることが内包する、生きる人が経験する悲哀のことだろう。「サラリーマンの悲哀」はサラリーマンであることに起因するものだろうか。だが、「民族」はどうか。民族であることが内包する、民族が経験する、民族であることに起因する、という言い方が変なことから分かるように、「民族の悲哀」は意味をなさない。

ここまで読んで「そんなことはない、意味が通じる」と思った人は、おそらく具体的な「〇〇民族」を念頭に置いている。「あなたはサラリーマンですか」という問いが成立するのに対して「あなたは民族ですか」は成り立たないが、「あなたは〇〇民族(の人)ですか」はOKだ。心優しい読者つまりあなたは、「〇〇」を補って読んでいるのだ。研究者は意地悪な読者になる訓練を受けているので、こういう書き方にはツッコミを入れる。あなたは「〇〇」に何を入れただろうか? 「スペイン」? それとも「ジプシー」? それは著者の意図と一致しているだろうか? と言うか、なぜ著者は「〇〇」を書かなかったのだろうか?

一方、「人生の悲哀」は人生特有のもので、人ではない神や猫は人生の悲哀を持たないと考えられる。自営業者はサラリーマンの悲哀を経験しない。まあ、「悲哀」は専門用語ではないので、厳密に考えるとかえって現実から遠ざかることになるかもしれないが、意味の方向性は大体そういうことだ。そうなると、仮に「〇〇民族の悲哀」なんてものがあるとしたら、それは「××民族」にとっては無縁のものだろう。つまり〇〇民族であるからこその悲哀であるはずで、でなければわざわざそんな言い方はしない。

まあ、「〇〇」の想像はつく。それは多分「ジプシー」だ。実際、「ジプシーの悲哀」はネット上でもゴロゴロしていて、言い古された陳腐な表現だと言って良い。もちろん、その陳腐さは意味不明な省略を許す理由にはならない。

さて、とりあえず「民族の悲哀」を「〇〇民族 (多分ジプシー) の悲哀」と解釈することにして、さらにそれが何を意味するか深く考えないことにするが、その「悲哀を訴えるメロディーと歌詞」も、やはり意味不明だ。メロディに何の訴えを聞き取るのも自由だし、2回ぐらいのショー見物でステレオタイプ的なイメージを発見して喜んでいる人に説教するのは本意ではないが、これは研究者が異文化に言及する時に使うべき表現ではなかろう。

伝統的なフラメンコには曲という概念がない。あるのは「形式」で、スペイン語では estilo とか palo とか言う。例えばソレアとかアレグリアスとかタンゴとか言っているものがそれだ。大雑把に言うと、これらはリズム、調性、メロディなどによって特徴づけられる。ソレアもアレグリアスもリズム的には12拍子だが、調性の上では前者がミの旋法 (後述)、後者が長調という点で異なり、それぞれ複数のメロディが伝承されている。アレグリアスは12拍子・長調のカンティニャスというグループに属するが、同グループ内の他の形式とはメロディで区別できる。そして、いくつか例外と言ってよい場合はあるものの、メロディと歌詞は1対1対応しない。つまり、同じメロディで色々な歌詞を歌うのが普通だし、ある歌詞が異なるメロディで歌われることも珍しくない。さらには、複数の形式で歌われる歌詞さえある。

ここから言えることは、メロディや形式は具体的な意味を持たないということだ。つまり、メロディは〇〇民族の具体的な状況を、悲哀であれ何であれ、表現していない。同じメロディが、人生の悲哀を表現した歌詞で歌われることもあれば、恋心を訴える歌詞で歌われることもある。形式という器が、歌詞が扱う範囲も含めて基本的な「気分」を持ってはいるが、そしてそれは形式の理解にとって重要ではあるが、メロディが何かを訴えるようなこととは全然別の話だ。

もし彼が「民族の悲哀を感じさせるメロディー」とか言ったのであれば、個人の感じ方の問題でしかないので、こんな文章を書く必要もなかったのだが、フラメンコを聞いて悲哀とか哀愁を感じる人は少なくないようだ。これには恐らく、ミの旋法が関わっている (「ミの旋法」は modo de mi の訳だが、別の言い方もある)。浜田 (1983) が1章割いて論じているほどのテーマで、僕もその内容を十分に理解している訳ではないが、とりあえず、長調でも短調でもない旋法だ。長調がドを主音にし、短調がラを主音にするのに対して、ミの旋法はミを主音とする。試しに音階が出せるものでミファソラシドレミを出してみたら、ドレミファソラシドよりはラシドレミファソラに近いという印象を持つ人が多いのではなかろうか。これがフラメンコが感じさせる哀感の原因のひとつであることは間違いない。

ミの旋法を東洋的と感じる人もいて、アラブの影響が考えられたりした時期もあったようだ。しかし、ミの旋法「を地中海諸国にひろめたのがアラビア人ではなく、それより古い –おそらく遥かに古い– 時代から普及して (浜田 1983: 91-94)」いたようで、「少なくとも南欧 (ことにスペイン) では、「長・短両調型」ではない、いわゆる「古代旋法」の昔風な民謡群のうち、いちばん普遍的でかつ歴史が古い、強力なもの (idem: 94)」だという。実際、長調・短調の体系は比較的新しく、ヨーロッパの「1600年頃までの音楽はいわゆる「教会旋法」に基づいてい (東川 2017: 191)」た。しかも、教会旋法の中のフリギア旋法と呼ばれるものがミの旋法とよく似ている (似てはいるが違うらしい。どう違うのか僕は理解していない)。つまり、ミの旋法は古くから西洋で使われていた旋法の一種で、特に東洋的なわけでもないし、この旋法自体に特定の「民族の悲哀」が込められていたりもしないわけだ。

メロディと旋法についてはこのくらいで切り上げて、「民族の悲哀を訴えるメロディーと歌詞」の後半、歌詞については次回 (多分) 取り上げることにしよう。

  • 浜田滋郎, 1983, 『フラメンコの歴史』, 晶文社.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • 東川清一, 2017, 『音楽理論入門』, ちくま学芸文庫, 筑摩書房.

2019年4月20日土曜日

Braceo

『情熱でたどるスペイン史』の著者も「高速タップ」しか見ていないわけではない。

はなやかで不思議な高速リズム、緊張感あふれるダンスはどうでしょう。一瞬音楽に先立つように動く手には指先まで感情がこもっていて、手と胴があえて異なったリズム・動きをすることもあるそうです (池上 2019: 186)

やっぱり「高速」なのだが、そんなに速いですかね。ブレリアとかで本当に速いのはあるけど、一部だし、例えば踊りのソレアみたいに、これカンテの人よく歌えるなと思うぐらい遅いのもあったりする。あ、もしかしたら、著者が言っているのはテンポのことではなくて、刻みの細かさのことか。まあ、いずれにせよ、フラメンコがフラメンコであるためには、速い必要はないことに早く気づいてもらえたらと思う。

「不思議な」については、どうコメントしたものか。フラメンコで使われるリズム・パタンに不思議なものはない。馴染みがないものを「不思議」と言うのは、インフォーマルな話し言葉では許容されるかもしれないが、ここでこんなこと言うとフラメンコの神秘化に加担しかねないので、気をつけて欲しかった。

さて、「手」はスペイン語で mano で「腕」は brazo だ。前に書いた通り踊りには詳しくないので、バイレで mano を使うことを何と言うのか知らない。腕を使う方は braceo と言う。足と腕で zapateado と braceo になり、形が揃っていないのが気になる人のために言っておくと、実は zapateo という言い方もある。-eo の形も -eado の形も -ear で終わる動詞からの派生語として考えることが出来る。ついでにギターのラスゲアドにも似たような状況がある。

zapatearzapateozapateado
bracearbraceo
rasguearrasgueorasgueado

この2種類の形 (-eo と -eado) が区別なく同じように使われているのか、それとも何らかの違いがあるのか、僕は分からない。アカデミアの辞書では、どちらも «Acción y efecto de [xxx]ear» となっているのだが、それで直ちに使用上の区別がないとは断言できない。前回書いたように zapateado には踊りの種類としての使い方もあるので、その部分はもちろん重ならないのだが、rasgueado にはそういうことはなさそうだ。

実際の使い方がどうなのかは、ネイティブのフラメンコたちに聞いてみないことには分からないが、純粋に派生語の形態論の観点から言うと、zapateado が個々の足さばきではなくて踊りの種類を表せることについては説明がつくかも知れない。アカデミアの文法は «Se forman un buen número de sustantivos denominales que designan grupos o conjuntos con los sufijos -ado / -ada (RAE & ASALE 2009: §6.13g)» と言っている。つまり -ado の形は集合的な意味を表し得るのだ。そのページの例の中に zapateado はないので、僕の憶測に過ぎないのだが、まとまりを持った一連のサパテオがひとつの踊りを構成するという成り立ちなのかも知れない。僕の言語学者的先入観によれば、他の場面でも -eo が個別的で -eado が集合的という使い分けの傾向が期待されるが、そんな期待は裏切られることも多い。言語体系が提供する区別の可能性を、ネイティブスピーカーが利用する必要を感じないということなんだろう。

手の話に戻ろう。白状すると、池上が manos の話をしているのか brazos について語っているのか判断がつかない (最初読んだ時には braceo の話だと思い込んでいたのだが、そうとは限らないことに気づいた) し、彼が何を言わんとしているのかよく分からない。「一瞬音楽に先立つように動く手」については何となくイメージが湧くような気もするが、著者の意図が理解できている自信はない。「手と胴があえて異なったリズム・動きをする」と言われると、「不思議な」現代舞踊みたいなものが思い浮かんでしまうが、まさかそういう話ではないはずだ。誰か分かる人、教えてください。

その後「この足拍子はサパテアードとよばれ、一般のタップとちがって (池上 2019: 186)」という説明があり、サパテアドのことを知っていたんだと思ってちょっと安心する。しかし「一般のタップ」って何なんだろう。これに従えば、サパテアドは非一般のタップということになるわけだが、知っている人があったら教えて欲しい。

そして「足拍子のほか、指鳴らしや手拍子で調子を取ります (池上 2019: 187)」とのことだが、「指鳴らし (pitos)」や「手拍子 (palmas)」は踊り手の所作の一部なのだから、「調子を取る」みたいな表現はやめといたほうが良いのではなかろうか。

ところで、

Zapatear, no lo olvidemos, es incompatible con el braceo, de modo que su completo desenvolvimiento ha sido estigmatizado entre las mujeres, que se han visto limitadas a técnicas menores de pies: «marcar», «puntear», «escobillas» en momentos muy concretos del protocolo de los bailes, «pateos» o golpes en el suelo en los tránsitos entre sus partes consecutivas (Cruces Roldán 2003: 176)

という観察は興味深い。サパテアドとブラセオが両立しないというのは、踊ったことのない僕にとっては、言われて初めて気づいたようなものだが、サパテアドが男の踊りを特徴づけ、優雅なブラセオを見せるべき女の踊りには不似合いだとされてきたという点が重要だ。この論考は、タイトルからも分かる通り、ジェンダー論の視点から批判的にバイレにおける「女性らしさ」について考察しているもので、日本ではこの手の研究がほとんど紹介されていないから、ここに挙げておく。僕自身はちゃんと目を通していないので、そのうち読まなきゃとは思っているのだが、さて。

  • Cruces Roldán, Cristina, 2003, ««Cintura para arriba». Hipercorporeidad y sexuación en el flamenco», Más allá de la música. Antropología y flamenco (II), Signatura Ediciones, 167-204.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • RAE & ASALE, 2009, Nueva gramática de la lengua española, Espasa Libros.

2019年4月11日木曜日

Zapateado

カナ表記で音引きを使わない実験を少し続けてみようかと思う。ただ、カナ表記の話自体は、思ったより回数がかかりそうなので、一旦中断して『情熱でたどるスペイン史』に戻る。そう、終わっていなかったのだ。

僕は歴史が専門ではないので、例えば「カスティーリャ王国による半島全体の統一 (池上 2019: 79)」のような言い方に対してコメントするのはやめて、自分が少し勉強した分野についてちょっとばかり書いておきたい。タイトルから分かる通り、フラメンコについてだ。

スペイン人の情熱が集約されたような芸能に、フラメンコがあります。激しいリズムの舞踏(ぶとう)と高速タップ、民族の悲哀(ひあい)を訴えるメロディーと歌詞、(たましい)の奥底からしぼり出されるようなしゃがれ声、薄暗いホールのなかで演じられる情熱のパフォーマンスに感化され、私たち観客の体内でもしだいに電流のボルトが上昇して、胸がいっぱいになってきます。私はこれまで、二度フラメンコを見る機会に恵まれましたが、いずれも圧倒的な感銘(かんめい)を受けました。(池上 2019: iii)

これが、「はじめに」の最初のページに書いてある。う〜ん・・・

だが、タブラオのショーみたいなものを2回見たのが彼のフラメンコ経験の全てであるのなら、まあ許そう。その程度の経験でこれだけステレオタイプを羅列出来る度胸は別として、広く流布しているフラメンコのイメージはこんなもんだろうから、そこから一歩も出ていないからといって著者を責めてもしょうがない。

それにしても、なんでみんなそんなにサパテアド (!) が好きなんだろうな。フラメンコのバイレは、と言うかフラメンコに限らず踊りというものは、もちろん全身で踊るものだけれど、足さばきに目を奪われて全身の表現を見ないのは初心者にありがちなことだ。だが、スペイン人が撮った映像などでも、だんだん踊りが盛り上がって来て、さあここは全身を写して欲しい、という時に足だけアップになるというようなことは、残念ながら少なくない。僕はバイレにすごく興味があるわけでもないし、詳しくもないのだが、これじゃ表現 (つまりアルテ) が見えないじゃないかと思うわけだ。サパテアド習得用の教材ビデオじゃあるまいし。

歴史を遡ると、16世紀には既に zapateado という踊りがあったようだ。しかしフラメンコ的なバイレとしての zapateado は19世紀半ばに出て来たのだという。

Baile español muy antiguo, conocido ya en el siglo XVI, gracioso y vivo, de pasitos ligeros que a menudo se alternan con taconeo, generalmente realizado por mujeres o por parejas. Tiene poco que ver con el que se baila en la actualidad, del mismo nombre. // 2. Baile palpitante, sobrio de actitudes, de gran entidad flamenca, que surge a mediados del siglo XIX. Consiste en una combinación rítmica de sonidos que se efectúan con la punta, el tacón y la punta (sic; ¿planta?) del pie y es interpretado por hombres o, a veces por mujeres con el atuendo masculino de pantalón y chaquetilla corta. Actualmente el zapateado flamenco se intercala en la mayoría de los estilos, tanto por hombres como por mujeres, a veces quedando la guitarra en silencio, para resurgir junto a los demás elementos de acompañamiento en el momento de su mayor intensidad o remate. (Blas Vega & Ríos Ruiz 1990: s. v. zapateado)

検索するとメキシコでも zapateado が踊られているようだが、これがスペインに於ける16世紀以来のものや19世紀半ばからのものとどう関係するのか、僕は分からない。いずれにせよ、スペインでは19世紀の段階で zapateado は踊りの名前だった。そして男踊りだったわけだ。サラサテやグラナドスやトゥリナが作曲した zapateado は、これに発想の源があるのだろう。

で、この19世紀的な zapateado がどんな踊りだったのかが想像できる動画がある。zapateado Roberto Ximénez (あるいは Pilar López) で検索すると出てくるので、見てみて欲しい。名前の通りサパテアド中心と言うかそれしかしていないような踊りだが、Roberto Ximénez のこれは実に見事だ。«El Zapateado del perchel, que entra en los cánones más clásicos del flamenco, lo baila Roberto Ximénez con la limpieza y elegancia que transmite Pilar López a todos sus bailarines (Manuel Ríos Ruiz, 2002: II-263)» という評がある。もちろん、Ríos Ruiz が言うように、ピラル・ロペス舞踊団による上品で完成度の高い舞台作品であるということは忘れるわけにはいかない。普通に踊られていた zapateado は、もっと表面的な技見せ芸のようなものだったのではなかろうか。なお、「歌のつかないレパートリー (浜田 1983: 373)」に入るということは zapateado の特色のひとつだ。

さて、今のフラメンコでは、サパテアドは演目としてではなく技法として、踊りの形式や男女を問わず多用されている。しかし、今紹介したような歴史的変遷を見ても分かる通り、池上が「高速タップ」と呼んだような技法はバイレ・フラメンコの弁別的特徴ではない。つまり、それ無しでもバイレ・フラメンコは成立する。極端な例だが、試しにネット上で検索して Enrique el Cojo のバイレを見て欲しい。芸名の Cojo は、子どもの頃の病気がもとで脚が悪かったことからついた (Blas Vega & Ríos Ruiz 1990: s. v. Cojo, Enrique El) のだが、「高速タップ」は仮にやりたくてもできなかっただろう。しかし彼の踊りのなんとフラメンコであることか。僕は生で見ていないが、実際に見た人たちからその感動を聞いたことはある。せっかくだから活字になった賛辞を紹介しよう。実は、日本でグラン・アントニオと呼ばれることの多い Antonio el Bailarín についての文章なのだが。

思いのほか太りぎみで、ズボンもだぶだぶに見えた彼 (= Antonio: 引用者) が、舞台に立って初めの挨拶から絶妙の()をもってスッと横向きになり片手を挙げるポーズをしたとき……背筋を電気が走ったことを忘れない。いつも判で押したように技術で踊るバイラオールたちには出せない味、人間が踊るフラメンコの醍醐味が、この大家にはあった (ちなみに、もう一度、私はそのような醍醐味 —さらに深く、純な……— に思わず酔わされ、涙の出そうな感激をおぼえた。1981年、脚のわるいセビーリャの老匠エンリケ・エル・コホが日本へ来て踊ったときである)。(浜田 1983: 376)

横を向いて片手を挙げるだけで人を感動させるアントニオもすごいが、エンリケ・エル・コホはさらに深いということで、アントニオについて語っているところに入れるのはどうかと思わないでもないが、浜田さんよっぽどこれを言いたかったのだろうな。

もちろん、「高速タップ」に罪はない。足が動いて素晴らしい踊りをする人たちだっているわけだ。なので、床の速叩きしか能がない三流のバイラオレスは無視することにして、サパテアドを技法としてちゃんと評価することは必要だろう。それは、しつこいようだが、足さばきばかりに注目するのをやめることでもある。

なお、フラメンコの踊りを「舞踏」と呼んでいる例を時々見るけれども、「舞踊」が普通だろう。もちろん「踊り」で全然構わない。「舞踏」と聞くと、僕なんかは日本の現代舞踊の一種を思い浮かべてしまう (池上にとってはヨーロッパ中世の「死の舞踏」の方が近しいのかもしれない)。ブトーとフラメンコを掛け合わせたようなことをやってる人はいるかもしれないけどね。

  • Blas Vega, José & Ríos Ruiz, Manuel, 1990, Diccionario enciclopédico ilustrado del flamenco, 2.a, Editorial Cinterco.
  • 浜田滋郎, 1983, 『フラメンコの歴史』, 晶文社.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • Ríos Ruiz, Manuel, 2002, El gran libro del flamenco, Calambur.