2013年3月22日金曜日

El Greco

エル・グレコ展 (東京都美術館 2013/01/19-04/07) を見に行った (2013/03/21)。券を頂いていたので、それを無駄にせずに済んで、まずは良かった。もちろん中身も良かった。僕は絵画リテラシーがないので、「良かった」という以上の言葉は出てこないのだが、コンテクストの重要性を教えてもらったことが収穫だった。

展覧会の宣伝に使われているコピー「一度見上げたら、忘れられない。」は、それと大いに関係がある。展示された作品の中には見上げるような高い位置に置くことを想定して描いたものがあって、それらは見上げるように下から見た方が面白いのだが、会場の説明などがそういうことを親切に教えてくれていて、さっきも言ったように絵画リテラシーのない僕などには大変有り難かった。僕もご多分にもれず、エル・グレコといえば細長くデフォルメされた人体の印象が強かったが、これも下から見上げることを前提とした冷静な計算に基づくのだとすれば、ちょっと見方が変わる。そういえば、世俗的な肖像画だとそういう「くずし」はほとんどないもんね。

また、イタリア時代とトレド時代の同種のテーマの作品が並べて展示してあったのも面白かった。これは主催者が作ったコンテクストだけど、横に置いてある絵がその絵の見方に影響を与えるわけだ。

言語も同じで、どんな発話もコンテクストが前提となるが、外国人学習者にはそのコンテクストの特定が難しいことがある。話し言葉の場合コンテクストなんて自明じゃないかと思うかもしれないが、広い意味でのコンテクストを考えれば、そうでもないのだ。たとえば、こういう言い方はこういう時にする、ということを知らないと、こういう言い方の「文字通り」の意味は理解できても、今がこういう時だという理解に達しないと、話し手の意図をつかみ損なう。あるいは、こういう時じゃないのに、こういう言い方を使ってしまって誤解を与える、てなことがあり得るわけだ。で、こんなことが書いてある文法書があったりする: «El verbo querer en presente de indicativo con la intención comunicativa de pedir objetos tiene usos más limitados de lo que pudiera parecer a primera vista. Su uso implica siempre una relación informal entre los interlocutores o, por el contrario, una actitud más bien autoritaria por parte del que pide, que se presenta como alguien que quiere hacer valer sus derechos (F. Matte Bon, Gramática comunicativa del español, tomo II: 317)». 今まで無邪気に quiero を連発していたあなた、背筋が寒くなったでしょ?

話を戻すと、平日の昼過ぎだったので会場はそれほど混んでいなかった。見上げるべき作品の前で、しゃがんで見ている人も多かった。僕は、ここでしゃがむのは従順すぎると思ってためらったのだが、2周目ではやっぱりしゃがんで見てみた。確かによく分かるのだが、遠くで見てから近づいて立ったまま見るだけでも、ある程度効果は分かる。しゃがむのが苦手な人は試してみてください。