2014年5月13日火曜日

Absalón

学生に「アサロンプレスミア」の歌詞について尋ねられた。CDを持っていないと言うので貸すことにして、久しぶりに聞いた: Baile flamenco Vol. 1 (OFS, BF-5047) 所収のセビジャーナスだ。歌っているのは José Anillo。

歌詞カードがついているので、歌を覚えるのは難しくないだろう。ただし、意味はどうか。固有名詞がいろいろ出てくるので、僕も自分用のメモとして書いておこう。

1番は歌詞カードではこう始まる: ASALÓN PRESUMÍA. ちゃんとした書き方では Absalón になる。日本語ではアブサロムだ。ダビデ王の息子で旧約聖書の『サムエル記下』に登場する。

2番はこうだ: DALILA INFAME / MIENTRAS SANSÓN DORMÍA. これは問題なし。Dalila は日本語ではデリラ、Sansón はサムソンになる。旧約聖書『士師記』に登場する。

ここまでは聖書に題材を求めた sevillanas bíblicas だが、後半は違う世界に入る。3番の3・4行目: SEGUNDO MARCO ANTONIO / DELANTE DE CLEOPATRA. マルクス・アントニウスとクレオパトラも特に問題ない。

4番はちょっと苦労した: PERDIÓ TARTINO / LA DIADEMA DE ROMA で始まるのだが、検索しても ?Tartinus のようなのは出てこない。結局タルクイニウス (Tarquinius) のことだと気づくのにずいぶんかかった。スペイン語では Tarquino (あるいは Tarquinio)、ローマが共和制になる前の最後の王のことだろう。こんな文献があることも分かった。

面白いのは、CDでは確かに Tartino と歌っているように聞こえること。つまり、トランスクリプションの誤りではなくて、歌詞の伝承の過程で名前が変形してしまったということだ。特に珍しいことではないはずだが、文献学的事実として記録しておく価値はある。なお Absalón / Asalón は Tarquino / Tartino と比べるとスペイン語の音韻体系に合ったより自然な変化だ。

さて、José Anillo のが悪い訳ではないけれども、世の中にはもっと良いセビジャーナスの演唱がたくさんある。Sevillanas bíblicas で僕にとって忘れがたいのは Paco Toronjo が映画 Sevillanas で歌ったもの。これに歌詞の字幕をつけた奇特な人がいて、ネット上で見ることができる。それを見ると、もっと面白いことが起こっていることが分かるのだ。1番は La vio el rey David / a Betsabé en el baño で始まる。ダビデ王とバト・シェバ(バテシェバ)の話だ。Betsabé は標準的な綴りだが、トロンホは Beisabé みたいな感じに発音している。これもスペイン語的には自然な現象。面白いのは Hubo misterio / en la carta de Urías の部分で、トロンホは la carta de Hungría と歌っているのだ。Urías ウリヤは Betsabé の夫の名前。旧約聖書にハンガリーが出てくるはずはないのだが、これが口承の面白いところだ (なお、くだんの字幕では1番の最後が seguro y fiero となっているが、トロンホは según yo infiero と歌っている。それを変える必要はないと思うのだが)。さらに3番の Dalila infame はどうも Lalila と言っているよう聞こえる。

もちろん、こういった現象がこの演唱の価値を下げたりはしない。歌詞が「正しい」かどうかと、カンテが与える感動は別次元の話だ (もちろん、これはガイジンが歌詞の意味を知らずに歌うことを正当化したりしない。これも完全に別次元の話)。僕にとって、トロンホのこの演唱は泣けるセビジャーナスの筆頭格で、学生諸君も若手が教材用に吹き込んだ薄いやつじゃなくて、こういうのをしっかり聞き込んで欲しいなと思ったりする (歌えというのではない。聴くだけで良いのだ。聴くことが大事なのだ)。

実は Betsabé に関しては面白い話がまだある。でも、それはまたの機会にとっておこう。

(学生が読むことを想定して、歌詞の引用やそのもとになったエピソードへの言及は最小限にとどめた。自分で調べてね)