2014年5月25日日曜日

屋島

代々木果迢会 (代々木能舞台、2014年5月23日18時30分)。『屋島』のシテは小早川修。

なんだか久しぶりに能を見たような気がしたのだが、4月27日に同じ小早川さんのシテで『俊寛』を見ている (銕仙会能楽研修所) のだから、なぜなのか。今年初めての果迢会だったからか?

能の演劇性を深く追求した観世寿夫の流れをくむだけあって、銕仙会系の人は演技をする。小早川修は特に感情表出の強烈さが特徴かなと思う。そのせいで体が揺れたり、時には (こないだの『俊寛』はちょっとそうだったのだけど) 生々しすぎるような印象を受けたりすることもあるが、僕は好きだ。今回の『屋島』では、前シテの「錏引き」のところがすごかった。まだ後半もあるのにそんなに飛ばして大丈夫なのか、と心配したほどだ。でも、この部分は景清の話で、後シテは義経の弓流しがメインで景清は出てこないから、それで良かったのだろう。

仕舞では、浅見真州さんが視線の方向を変えるだけで全体の空気を変えるという、これもすごいことをやっていた。能だから、顔の表情で演技することはない。その代わり、顔の角度が感情を表す重要な要素になる。だが、もちろん、単にこの角度に傾ければこの感情が表現できるなどということはない。ある程度パタンとかお約束とかがあるにせよ、結局は演者の力量の問題だ。

演技しない能も、うまい人のには本当に清々しい美しさがある。だからどっちのアプローチがより良いということではないと思うのだ。僕も、小早川さんの『俊寛』や、やはり銕仙会の女流が演じた『葵上』が生々しすぎると感じたのは、能の表現に一定の抽象度を期待しているからなのだろう。まあ、見る側にとっては慣れの問題で、良いものであれば演技しようがしまいが生々しかろうがどうだろうがその良さが分かるようになるだろうとは思っている。なお、演技するしないというのは他に良い言い方が思いつかないから使っているので、分かる人には分かるけど分からない人には分からない種類の話になっているかも。