2026年3月3日火曜日

Buen día

2月の後半、ちょっとスペインに行ってきた。10年ぶりぐらいなので、コレハワタシノシッテイルスペインデハナイ感満載のなかなか面白い滞在だった。その感じについての色々はそのうち書くかもしれないし書かないかもしれないが、1つだけ言っておくと、マドリッドの地下鉄の車内で化粧をしている人を目撃した。これはこれでどうかとは思うのだが、それだけ街が安全だということだろう。実際、通りを歩いていても、僕がそれなりの期間滞在していた40年ぐらい前と比べて雰囲気が緩かった。

さて本題。サンティアゴ・デ・コンポステラの本屋で頑張ってガリシア語で喋ってガリシア語で書かれた本を買い、店員さんから親切な対応ををしてもらって店を出ようというときに、彼から «Bo día» と言われた (bon に近い感じに聞こえたのだが、これは別のテーになるので今回はパス)。これはカスティリャ語の buen día にあたる。Buenos días にあたる bos días もあり、実際今回も聞いたのだが、頻度の差とか使い方の違いがあるのかは分らない。Real Academia Galega の辞書では bo día が «Saúdo que se emprega desde a mañá ata a hora de xantar. Bo día, Maruxa! (s. v. día)» で、bos días は «Bo día. Cando se entra nun sitio hai que dar os bos días. (ibid.)» という風なので、これを見る限りでは bo día がメインということになりそうだが、正直実際どうなっているのかは分らない。

実は、以前サンティアゴ・デ・コンポステラに居たときに、街中でカスティリャ語の buen día を挨拶として聞いたことが何度かあった。しかも、僕の記憶に残っているのは、別れるときの挨拶だ。その時は、buen día はアルゼンチンあたりで使われるし、でもそっち出身というわけでもなさそうだし、別れるときに buen día と言うことがあるのかな、という程度の認識で、それ以上追求しようとは思わなかった。今回 bo día を聞いて、言語は異なるわけだが、昔ときどき聞いた buen día のことを思い出したのだった。

そういう、今風に言えば脳が活性化した状態だったからか、その後に行ったマドリッドの街で聞こえてきたのだ、buen día が。この発言は僕に対してのものではなく、その人の姿も見ていないのだが、文脈からは明らかに別れ際の挨拶だった。男性で、音声的にはいわゆるスペインのスペイン語のように聞こえた。

サンティアゴ・デ・コンポステラの buen día とマドリッドの buen día を同列に扱うのは危険だが、とりあえず buen día について確認しておくことに意味はあるだろう。

で、 NGLE はこんな風に言っている。

  • «Predomina en el español general buenos días sobre su variante buen día ([...]). La fórmula buen día era la forma leonesa tradicional y se emplea en el español de México, Centroamérica y el área rioplatense. Su distribución geográfica es algo más irregular en otras áreas, ya que está en desuso en unas (Chile), pero en auge en otras (Perú) (§32.6b)»
  • «La variante buen día apenas se usa en el español europeo. En Puerto Rico y otros países antillanos se suele preferir buenos días para los saludos y buen día para las despedidas. Con las restricciones mencionadas, ambas fórmulas se utilizan para despedirse en la mayor parte de los países hispanohablantes, aunque con diferente extensión y pujanza (§32.6c)»

これで分るのは、buen día が広く使われる地域とそうでない地域があるということと、buen día が別れるときの挨拶として使われやすい地域があること。そもそもスペインではほとんど使われないということだが、逆に言えばゼロというわけではないと読める。そして、その少ない buen día が主に別れ際に出現するという可能性を検証の対象にすることは出来るだろう。

まあ、データも少な過ぎるし、地元民の発言だったという確証もないので、今のところ何も言えないと言うしかないのだが、スペインでも buen día が聞かれることがあるというのは事実なので、もうちょっと眺めていようかと思う。

  • González González, M. (dir.): Dicionario da Real Academia Galega. A Coruña: Real Academia Galega. <https://academia.gal/dicionario> [Consultado: <2026/03/03>]
  • RAE & ASALE, 2025, Nueva gramática de la lengua española, edición revisada y ampliada. (versión Kobo)

2026年1月25日日曜日

Pienso, luego diptongo

前々回の話を書いた後、深入りしなかった言語学的な部分を補っておこうと思って書き始めていたのだが、勉強のし直しにちょっと時間がかかった。

カスティリャ語 (スペイン語) の初級文法で出てくる語根母音変化動詞というやつがある。negar が niego になる e/ie が交替するやつ、volver が vuelvo になる o/ue が交替するやつ、そして medir が mido になる e/i が交替するやつだ。あと jugar / juego, adquirir / adquiero みたいのもあるが、教科書でパタンとして提示するのは最初の3つだろう。

このうち e/ie と o/ue の交替は、ラテン語の短い ĕ ŏ がカスティリャ語で二重母音 ie ue に変化したことと関係がある。

ラテン語カスティリャ語
強勢あり強勢なし
īii
ĭee
ē
ĕie
āaa
ă
ŏueo
ōo
ŭ
ūuu

とは言え、そうなったのは強勢があるところの話で、無強勢の場合は二重母音にならなかった。そうすると、ラテン語で短い ĕ (ŏ) を持っていた項目はカスティリャ語では強勢の有無によって ie (ue) になったり e (o) になったりすることになる。例えば siete / setenta, sierra / serrano, nueve / noventa, bueno / bondad とかは、この現象と関係がある。そして、動詞の場合は活用形によって問題の母音が強勢を持ったり持たなかったりするので、交替が起きるというわけだ。例えば negar の直説法現在だとこんな感じ。

ラテン語カスティリャ語
inf.negārenegar
1sgneniego
2sgnegāsniegas
3sgnegatniega
1plnegāmusnegamos
2plnegātisnegáis
3plnegantniegan

前の記事ではラテン語の動詞に言及するのに辞書の見出し語形である直説法現在1人称単数形を使っていたが、今回は後述の文献にならって不定詞を挙げることにした。また、アクセントのある母音を太字にしておいた。ラテン語とカスティリャ語の対応する動詞の形式間でアクセントの位置が一致するとは限らないが、上の場合はたまたまそうなっている。ちなみに negar と同じ活用をする denegar に対応するラテン語 dēnegāre の直説法現在は dēnegō, dēnegās, dēnegat, dēnegāmus, dēnegātis, dēnegant で、このままでは deniego, deniegas, ... にはならない。イタリア語の denegare には denego パタンと denego パタンの両方があるようだが、カスティリャ語では活用形のアクセントの位置は画一的に決まっている。

基本的にはカスティリャ語はラテン語のアクセントの位置を良く保っている («Throughout the development from Latin to Spanish, the position of the accent is highly stable; the accent of a Spanish word falls on the same syllable it occupied in the Latin ancestor of that word (Penny 2002: §2.3.1, 1678/15873)») のだが、動詞体系の圧力は大きいということだ。

ここまでは入門書に書いてあるレベルの話だが、実は e/ie (o/ue) が交替する動詞は、ラテン語の ĕ (ŏ) を持つものとは限らない。この交替のパタンが ĭ, ē (ŭ, ō) つまりアクセントのある位置で e (o) になるはずの母音を持つ動詞にも拡がったのだ。類推というやつだ。例えば rigāre > regar (riego) や cōlāre > colar (cuelo) (Penny 2002: §3.7.8.1.4, 5661/15873)。逆に ĕ (ŏ) なのに交替が起きなくなった vetāre > vedar (vedo), apportāre > aportar (aporto) のような例もある (Penny 2002: §3.7.8.1.4, 5690/15673)。

さて、本来 ie にならないはずなのに交替する動詞の例として挙げられるものの中に pensar がある。Penny (2002: §3.7.8.1.4) も寺﨑 (2011: 164) も、長い ē を持つ pēnsāre という形を挙げている。 Väänänen (1968: 113) も、カスティリャ語の ie/e とは異なる文脈だが pēnsāre としている。ところが、辞書を見ると Lewis & Short も VOX のも研究社のも penso あるいは pensō つまり e が短いのだ。正直に言うと、僕は辞書の表記の通り pensō の e は短いと思っていたので e/ie 交替に何の疑いも持っていなかったのだが、不勉強を反省した。

辞書と概説書の食い違いを説明するのが代償延長 (alargamiento compensatorio) という現象だ。ラテン語の pensāre がカスティリャ語の pensar になったという話をしているわけだが、実は pensar よりも正統というか順当な変化結果があって、それは pesar だ。何故こっちの方が順当なのかというと、ラテン語の -ns- は -n- が落ちて -s- になったからだ。この -n- の脱落は既に紀元前3世紀に見られ («La conversión en muda de la n delante de s [...] es uno de los rasgos más constantes en los textos “vulgares”. Lo documentan las inscripciones de todas clases desde el siglo III a. C. (Väänänen 1968: 113)»)、脱落の際にその代償として前の母音が長くなった («At a very early period n in such an environment had lost its consonantal value (a common development in many languages) and had been replaced by a mere nasalization of the preceding vowel, which was at the same time lengthened by way of compensation for the lost consonant (Allen 1978: 28)»)。この発音は古典期の教養ある人たちにも見られた («In popular speech the nasalization was eventually lost, and we are told that even Cicero used to pronounce some such word without an n (Allen 1978: 28)»)。しかし正式な書き言葉では -n- が保たれ、それが識字層の発音にも影響を与えた («in the official orthography the n was preserved or restored, and this has its effect on most educated speech of the classical period (Allen 1978:29)»)。つまり古典ラテン語の頃は -n- のない普通の発音と -n- のある頑張った発音があったわけだが、後者の場合でも前の母音は長かった («the classical pronunciation WITH n also has a long vowel (Allen 1978: 29)»)。Allen は consul を例に、次のようにまとめている: «prehistoric cŏnsul ; early Latin cō̃sul; classical colloquial cōsul; classical literary cōnsul (Allen 1978: 30)»。

というわけで、辞書の記述は恐らく伝統的な見方に従っていて、言語学的に実際の発音だと推定されるものを表していない。古典期のラテン語 pensare の発音は実際には pēsāre あるいは pēnsāre だった。前者は素直に pesar になり、もとが長い ē を持つので e/ie の交替もない。一方 pensar は、Väänänen (1968: 113) が «doblete “culto”»、Corominas & Pascual (1980-91: s. v. pesar) が «duplicado semiculto» と呼ぶように (半) 教養語で、この動詞が示す e/ie の交替は短い ĕ に由来するものではなく、類推によって生じたものだということになる。

ラテン語 -ns- が関わる例としては、他に monstrāre > mostrar がある。辞書では monstrō の最初の母音は短いが、Penny (2002: §3.7.8.1.4, 5639/15873) は mōnstrāre としている。カスティリャ語の mostrar は pesar と同様 -n- の無い「自然な」形だが、もとが長い ō で母音の交替がないはずのところ pensar と同様に交替のあるグループに吸収されたということになるだろう。

今回はこのくらいにして medir や pudrir の話は次回に回すことにするが、あっ、タイトルの diptongo は名詞ではなくて diptongar の活用形です、念のため。

  • Allen, W. Sydney, 1978. Vox Latina. A Guide to the Pronunciation of Classical Latin, 2nd edition, Cambridge University Press.
  • Corominas, Joan & Pascual, José A., 1980-91. Diccionario crítico etimológico castellano e hispánico, Gredos.
  • Lewis, Charlton T. & Short, Charles, 1879. A Latin Dictionary, Clarendon Press.
  • 水谷智洋 (編), 2009. 『羅和辞典〈改訂版〉』, 研究社. (versión iOS, 物書堂)
  • Penny, Ralph, 2002. A History of Spanish Language, 2nd edition, Cambridge University Press. (versión Kindle)
  • 寺﨑英樹, 2011. 『スペイン語史』, 大学書林.
  • Väänänen, Veikko, 1968. Introducción al latín vulgar, versión española de Manuel Carrión, Gredos.
  • Vox, 1992. Diccionario ilustrado latino-español español-latino, Biblograf, 19ª edición.

2026年1月10日土曜日

Lo que se denomina

NHKのラジオニュースを聞いていたら、国連安保理でアメリカ合衆国の国連大使がマドゥロが「非合法ないわゆる大統領」だと言ったという日本語が聞こえてきた。この「いわゆる」の使い方は変だと思うのだが、オリジナルは so-called だろうということは想像がついた。そこで検索してみると、アメリカ国務省のページに彼の発言が載っていて、予想通り so-called を使っていた。

Colleagues, Maduro is not just an indicted drug trafficker; he was an illegitimate so-called president. He was not a head of state.
(https://usun.usmission.gov/remarks-at-a-un-security-council-briefing-on-venezuela-2/)

手元にある『ウィズダム英和辞典』では so-called は次のように説明されている:

  1. ...と称する、かっこ付きの、自称...の (実際にはその表現に当てはまらないと話し手が思っていることを示す)
  2. いわゆる、世間一般に言われる

挙げられている語義はこれだけではないが、とりあえずこの2つがあれば話はできる。上の発言での so-called が最初の意味で使われているのは明らかで、日本語の「いわゆる」では、少くとも僕にとってはそのニュアンスが出ない (文脈上そのように理解はされるけれども)。

そこで確認のためにNHKが使った表現をチェックしたら、大統領が「かっこ付き」になっていた。ラジオではかっこは聞こえなかったのだが。

アメリカのウォルツ国連大使はマドゥーロ大統領について「彼は非合法ないわゆる“大統領”で、国家元首ではなかった。だからこそ、残虐な政権から逃れた何百万ものベネズエラ人が世界中で祝っているのだ」と述べ、軍事作戦を正当化しました。
(https://news.web.nhk/newsweb/na/na-k10015019591000)

せっかくなので、この so-called はスペイン語でどうなるのか考えてみよう。まず、上の英語を ChatGPT と Gemini に訳させてみた。結果は以下の通り:

  • ChatGPT: Colegas, Maduro no es solo un narcotraficante acusado; fue un supuesto presidente ilegítimo. No era jefe de Estado.
  • Gemini: Colegas, Maduro no es solo un narcotraficante acusado; era un supuesto presidente ilegítimo. No era un jefe de estado.
  • Gemini (alternativa): ...el así llamado presidente...「いわゆる〜と呼ばれる」という「So-called」の直訳に近い表現です。

両者ともまず supuesto を使ってきた。Gemini は「その他のバリエーション」も出していて、so-called に対して «así llamado» を提案している。

Supuesto について手元の西和辞典は次のように説明している。

  • 『西和中辞典』
    1. ⦅多くは+名詞⦆ 仮定の, 推測 [想像] に基づいた; うわさの, ...の嫌疑のある (=presunto)
    2. ⦅+名詞⦆ 自称...
  • 『現代スペイン語辞典』
    1. にせの: bajo un nombre ~ 偽名を使って
    2. [+名詞] 想定された
    3. 自称...
  • 『スペイン語大辞典』
    1. 偽りの, にせの: 1) bajo un nombre ~ 仮名で, 偽名を使って. 2) 自称...
    2. [+名詞] の容疑 (嫌疑) がかかった

どれも「自称」を挙げていて、とりあえず我々の目的に適う。ちなみにスペインの辞書は

  • DLE
    1. Considerado real o verdadero sin la seguridad de que lo sea
  • Moliner (多分初版)
    1. Participio adjetivo de “suponer”
    2. Se aplica a un nombre cuando la cosa de que se trata lo lleva indebidamente o, por lo menos, hay la sospecha de que ocurre así: “El supuesto príncipe”. *Pretendido, pseudo, sediente, seudo

で、アカデミアのは今問題になっているニュアンスについての言及がないが、Moliner はしっかり拾っている。

ちょっと話がずれるが、個人的には『現代』と『大辞典』の「にせの」が気になった。Nombre supuesto という例は DLE や Moliner の記述にはひとまず見つからない。だが、Enciclopedia jurídica というサイトに説明があった。


つまり nombre supuesto という表現は「偽名」に相当するし、Moliner の説明と矛盾しないわけだが、 supuesto が名詞の後ろにあって so-called の訳語に対応する使い方ではないと考えられる。辞書の記述が supuesto の前置・後置に関してもう少し精度を上げてくれると助かるな。

Gemini が提案した así llamado だが、手元の西和辞典には載っていないようだ。そのかわり llamado には「...という名の」や「いわゆる」がある (「自称」はない)。一方、Moliner は así llamado を載せている:

  • llamado, -a Participio de “llamar”. Conocido por cierto nombre que se expresa: “Un país llamado Liliput”.
    Así llamado. Expresión muy frecuente: “Así llamado del nombre de su descubridor”. A veces, implica que el nombre de que se trata está aplicado con impropiedad. *Falso.

そして時に、その呼び方が相応しくないというニュアンスを帯びるようだ。

さて、アメリカの国連大使の発言についての報道を見てみると、supuesto も llamado も見つかる (así llamado はざっと見た限りでは見当らない)。


あるいは「かっこ付きの」にした例もある。


しかし、印象としては so-called を無視している例が多い。


この文脈では ilegítimo があれば充分だろうから特に問題はないということはある。

さて、いくつか例を見ているうち、アメリカ国務省がスペイン語訳を出していることが分った。これだ。

Distinguidos colegas, Maduro no es solo un narcotraficante imputado; sino que también fue lo que se denomina un presidente ilegítimo. Él no era un jefe de Estado.
(https://www.state.gov/translations/spanish/declaraciones-durante-sesion-informativa-sobre-venezuela-en-el-consejo-de-seguridad-de-la-onu)

ええっと、これはどうなんだろう。素直に読めば「合法性を欠く大統領と呼ばれるもの」になりそうで、オリジナルは「合法性を欠く、そう名乗っているだけの大統領」のはずだから、ちょっと違うのではないだろうか。まあ、この文章に責任を持つ組織が自分で訳したのだから、僕がどうこう言う筋合いでもないのだが。

  • 井上永幸ほか (編), 2019. 『ウィズダム英和辞典』第4版, 三省堂. (versión iOS, 物書堂)
  • 宮城昇ほか (編), 1999. 『現代スペイン語辞典』改訂版, 白水社. (versión iOS, ロゴヴィスタ)
  • Moliner, María, s. f., Diccionario de uso del español, Gredos (primera edición 1966-67). (https://www.ellibrototal.com/ltotal/ & versión iOS, Fundación El Libro Total)
  • REAL ACADEMIA ESPAÑOLA: Diccionario de la lengua española, 23.ª ed., [versión 23.8.1 en línea]. <https://dle.rae.es> [2025/01/10]
  • 高垣敏博 (監修), 2007. 『西和中辞典』第2版, 小学館. (versión iOS, 物書堂)
  • 山田善郎ほか (監修), 2015. 『スペイン語大辞典』白水社. (versión iOS, ロゴヴィスタ)

2026年1月3日土曜日

Pudrido

前回の記事について、グアテマラ在住の卒業生から、自分の住んでいるあたりでは pudrir も podrir も聞くこと、もしかしたら pudrido もあるかもしれないというコメントをもらった。この人はマヤ系のケクチ語 (q’eqchi) が話されている地域に住んでいて、pudrido を言うとしたらスペイン語を母語としていない人が多いからなのかも、とも言っていたのだが、これは別にそういうわけでもなさそうだ。

アカデミア的には pudrir も podrir も pudr- 系と podr- 系両方の形を持っているが、pudr- 系しか現れない活用形がある (直説法現在と命令法で -u- にアクセントがある形と接続法全部)。そして過去分詞は逆で、podr- 系の podrido しか表に載っていない。だが、アカデミアが表に入れないことは、必ずしもその形が存在しないことを意味しない。現に、前の記事の引用: «En español culto europeo predominan las formas en -u- en toda la conjugación, con la excepción del participio. En la norma culta americana también se prefieren las formas en -u-, pero se registran igualmente las variantes con -o- (RAE & ASALE 2025: §§4.15, 54)» に見られるように、これは «culto» なスペイン語の話なのであって、そうではない「民衆的な」「俗語的な」スペイン語に現れないという保証はないわけだ。

というわけで CORPES XXI で pudrido, pudridos, pudrida, pudridas を検索してみると、1例だけだが見つかった。

Peor lo lleva Susana, porque está saliendo con un chico que la tiene «pudrida y achicharrá», ... (2007, Esp.)

小説の一部だが、引用符のおかげでこれが標準的な言い回しではないことが見てとれる。規範的なスペイン語なら podrida y achicharrada ということになるだろう。

21世紀に入ってからはこんな感じだが、それ以前はどうか。CDH で探すと35例見つかった。CORPES XXI のと合せて36個を表にしてみる。

pudridopudridospudridapudridas
1379Es1
1562Es1
1570Es1
1576Mx6439
1602Es1
1605Es1
1611Es2
1611Fi1
1614Es1
1619Es1
1632Es1
1890Ur1
1995Es1
2007Es1

1576年の22例はすべて同一のテクストからのもの (SAHAGÚN, FRAY BERNARDINO DE, Historia general de las cosas de Nueva España)。1611年の2つも同一の作品に現われた例。

20世紀の唯一例も面白い。

La Madre ¡Bueno, pues sí, lo tengo, y con él mucho más; ha sido un mal bicho conmigo, y por lo que a mí respecta, se hubiera podrido en la calle. ¿Se dice podrido o pudrido? Bueno, es igual; corrompido. No, corrompido no, que corrompido ya estaba; bueno, se hubiera muerto de asco en cualquier rincón de la calle. (Al padre) ¿Me oyes? ¿Me oyes?

この例は戯曲 (MÁRQUEZ, JORGE, La tuerta suerte de Perico Galápago) の中の科白で、La Madre が (多分) 裁判の場で喋っているところ。「彼」は夫で、前後の文脈を見ることができた範囲で想像すると、このクズな夫について本心を言うとその辺で野垂れ死にすればよかった (のに家に置いて世話をした) みたいなことを言っているみたいだ。で、まず se hubiera podrido と言った後、裁判のようなお固い場なので「正しく」言えたかどうか気になって podrido と pudrido どっちだっけ、となったのだろう。つまり pudrido が存在しなればこの科白は出てこない。

一応まとめると、pudrir/podrir は元々 -o- を持つはずの動詞だが、yod の影響で一部の形が -u- になり、それが yod のない形にまで広がった。Medir などの e/i 交替を見せる動詞では全て -i- に置き換わることはなく、交替のパタンが定着したが、subir や pudrir/podrir は -u- による規則動詞化の道を進む。Subir はその過程が完遂したが pudrir は過去分詞 podrido を始め podr- 系の形が生き残っている。だが、これは現代語の規範から見た景色にすぎない。実際には pudrido もあるし、かつては midir や midido もあった。そのうち pudrir という規則動詞が誕生しないと断言することはできない。

  • RAE (2013): Corpus del Diccionario histórico de la lengua española (CDH) [en linea]. <https://apps.rae.es/CNDHE> [2026/01/03]
  • RAE: Banco de datos (CORPES XXI) [en línea]. Corpus del Español del Siglo XXI (CORPES). <http://www.rae.es> [2026/01/03]
  • RAE & ASALE, 2025, Nueva gramática de la lengua española, edición revisada y ampliada. (versión Kobo)

*表の整形 (2026/01/04)

2026年1月1日木曜日

Pudrir o podrir

随分前 (今確認したら2013年) に動詞の活用形を生成するプログラムを Ruby で書いた。Moodle に練習問題を上げたり、小テストなどの準備に使ったり、日常業務の遂行のために無いと困るツールとなった。2025年3月に退職して、仕事で使うことはなくなるだろうと思っていたが、たまたま某大学の非常勤で初級スペイン語を教えることになり、また利用している。

さて、このプログラムは「小テストを作るために取り敢えず動くものを急ごしらえで作った (川上 2013: 65)」もので、不十分な点がいくつかある。例えば erguir の直説法現在1人称単数形には yergo と irgo の2形があるが、とりあえず yergo しか出てこない。つまり、複数の形式が「正しい形」として認められている場合でも、1つの形しか生成できないのだ。ちなみに erguir は語根母音変化動詞だが、e が ie になるパタン (yergo) と e が i になるパタン (irgo) が併存していて、母音変化が関係するすべての活用形において両方のパタンが生きている。なお、DLE では両方の形が並記されているが、NGLE は ye のパタンのみを表に入れ、注で «Son poco usadas, pero correctas igualmente las formas irgo (RAE & ASALE 2025: §4.15, 33)» としている。

まあ、初級の授業をやっている限りでは特に不自由はないのだが、この冬休み、思い立ってプログラムの改良に着手し、複数形式の生成に対応した。基本的には NGLE のモデルに挙げられているものを DLE で確認しのだが、前述の erguir (33) の他に placer (48), yacer (71) などがあてはまる。Placer は直説法単純過去と接続法過去の3人称単数形で、規則的な plació, placiera/-se の他に plugo, pluguiera/-se がある (NGLE の表は pluguiera/-se の置きどころが変なので DLE に従う)。Yacer は直説法現在1人称単数形が yazco, yasgo, yago の3つ。これに対応して接続法現在と命令形も複数の形式を持つ。

もう1つ、タイトルに挙げた pudrir と podrir が複雑な問題を提供する。NGLE は pudrir/podrir として1つの表 (54) で扱っている。で、たとえば不定詞は pudrir o podrir で、直説法単純過去は pudrí o podrí, pudriste o podriste, pudrió o podrió, pudrimos o podrimos, pudristeis o podristeis, pudieron o podieron となっている。つまり pudrir の直説法単純過去1人称複数形も podrir のそれも pudrimos と podrimos の2つで、pudrimos の不定詞も podrir の不定詞も pudrir と podrir の2つということだ。

このプログラムは取り敢えず、たとえば hablamos が hablar の直説法現在または単純過去であるとか sienta が sentar の直説法現在あるいは sentir の接続法現在というような、活用形から複数の可能性を導き出すことはできない。なので pudrimos から pudrir と podrir の両方を示すことは当面諦めて、pudrir と podrir を別のエントリーで扱うことにした。ただし、生成する活用形は完全に同一だ。というわけで、pudrir と podrir はそれぞれ erguir や yacer と同じように振る舞うことになった。

のでプログラム改良は取り敢えず一段落なのだが、ひとつ大変なことに気付いたのだ。僕は今までずっと、接続法過去形は直説法単純過去 (点過去) の3人称複数形を元に作ることができ、その意味で不規則は無いと言ってきた。今行っている非常勤先で使っている教科書にも同じ趣旨の記述がある。ならば pudrir/podrir の直説法単純過去3人称複数形 pudrieron, podrieron から接続法過去 pudriera/-se, podriera/-se が作れるはずだが、NGLEDLE も pudriera/-se 系の形しか挙げていない。つまり pudrieron から作ることはできるが podrieron からは駄目なわけで、これはある種の不規則に他ならない。従って、僕は30年以上にわたって事実と異なることを教室で言い続けていたことになる。分った上で隠していたわけではなく、この例を認識していなかったので、けっこうショックだ。

さて、pudrir/podrir のこの不規則性に僕が気付いていなかったのは単なる不勉強のせいとは言い切れない (不勉強なのは確かだが)。『西和中辞典』のアプリ版は pudrir の全活用形を挙げているが、過去分詞が podrido であること以外は規則的な形しか載っていない。Podrir については過去分詞 podrido のみ記載されている。『現代スペイン語辞典』と『スペイン語大辞典』はどちらも、pudrir の項で過去分詞を podrido とし、podrir の項では「不定詞・過去分詞としてのみ」としている。つまり、pudrir は過去分詞だけが podrir から持って来たような不規則形で、podrir は不定詞と過去分詞しかない欠如動詞というわけだ。

この扱いの元になったであろう記述は Esbozo に見つかる: «A diferencia de e/i (I), la variación o/u (II) no aparece nunca sola, sino concurriendo siempre con o/ue (IV). Los antiguos verbos en -o-ir con variación o/u han adoptado la vocal -u- en todas las formas, a diferencia de los en -e-ir con variación e/i. Contrasta hoy, por eso, la flexión de mido ... medimos ... miden con la de subo ... subimos (ant. sobimos)... suben. Solo el verbo pudrir conserva de una manera muy incompleta la antigua variación, por su infinitivo podrir (muy frecuente en América), que alterna con pudrir, y por su participio podrido, la única forma que se ha salvado hasta ahora de la nivelación vocálica (RAE 1973: §2.12.3, p. 288, fn. 68)».

どういうことかと言うと、pudrir/podrir や subir は medir が e/i の母音交替をするのと同様に o/u の交替があったのだが、結局 u に統一された (podrir と podrido を除く) という話だ。端折って説明すると、medir はラテン語に遡れば mētior で、長い ē はカスティーリャ語では基本的に e になるが、直説法現在1人称単数形では、後ろの音節に生じた yod のせいで -e- が -i- になり、e/i の交替につながった (RAE 1973: §2.12.3, p. 276, fn. 10)。Subir の元になった sŭbeō も pudrir/podrir の元になった pŭtreō も短い ŭ を持つので、これはカスティーリャ語で o になるはずのところ yod の影響で -u- になって o/u の交替につながる。しかし、e/i の交替が現代まで続いているのに対し、o/u の交替は -u- に揃うことで消滅した。とは言え -u- への統一は完全ではなく、podrir と podrido は残り、不定詞は pudrir/podrir の併存、過去分詞は podrido だけという状況に到ったというわけだ。

これが1973年当時の RAE の見解で、日本の辞書も恐らくそれに従っている。しかし、その後の研究の進展で podr- 系の形が生き残っていることが確認されたのだろう。NGLE は2009年の初版から直説法現在の1・2人称複数と直説法のその他の時制すべて、そして命令法の vos, vosotros/as (言い換えれば直説法と命令法において語根にアクセントがない場合すべて) について pudr- と podr- を並記している。表に付けられた注では «En español culto europeo predominan las formas en -u- en toda la conjugación, con la excepción del participio. En la norma culta americana también se prefieren las formas en -u-, pero se registran igualmente las variantes con -o- (RAE & ASALE 2025: §§4.15, 54)» としていて、podr- 系が主にラテンアメリカに見られるということが分る。

注意すべきなのは、pudrir/podrir における o-u の併存は、medir などに見られる e/i の交替と大きく分布が異なるということだ。通時的な観点からは、ある時期まで medir と subir, pudrir/podrir は同じメカニズムに乗って変化したと言えるかもしれないが、その後辿った道が異なるように、現在の medir と pudrir/podrir は完全に異なるパタンに従っているのだ。

そういうことで、これからは接続法過去形の作り方を説明するときは「不規則は無いと考えといて問題ない」とか言うことにしたい。

  • 川上茂信, 2013, 「Moodle に対応したスペイン語動詞活用形生成プログラムの開発」, 『東京外国語大学論集』87, 63-82. https://tufs.repo.nii.ac.jp/records/6536
  • 宮城昇ほか (編), 1999. 『現代スペイン語辞典』改訂版, 白水社. (iOS version, ロゴヴィスタ)
  • RAE, 1973, Esbozo de una nueva gramática de la lengua española.
  • RAE & ASALE, 2009, Nueva gramática de la lengua española.
  • RAE & ASALE, 2025, Nueva gramática de la lengua española, edición revisada y ampliada. (versión Kobo)
  • RAE, Diccionario de la lengua española, 23.ª ed., [versión 23.8.1 en línea]. <https://dle.rae.es> [2025/12/31].
  • 高垣敏博 (監修), 2007. 『西和中辞典』第2版, 小学館. (iOS version, 物書堂)
  • 山田善郎ほか (監修), 2015. 『スペイン語大辞典』白水社. (iOS version, ロゴヴィスタ)

*ラテン語の長音記号を付加 (2026/01/03)

2025年10月22日水曜日

La primera primera ministra

日本で初めての女性首相が誕生した。そこで先ず気になるのは「初の女性首相」はスペイン語で何と言うかだ (先ず気になるのはそんなことじゃないという人が大半だということは知っているが、このブログはこういう所なのでご容赦いただきたい)。

学習者的に思い付くかもしれないタイトルのような言い方はしないだろう。Primera ministra は女性形だが、これは文法的な理由でこうなっているだけだから「女性」首相の訳としては不十分だ。どこかに mujer とかが欲しい。と思ったのだが、検索すると «la primera primera ministra» が出てくるので、例によって予想は外れたわけだ。

気を取り直して別の言い方を探してみると、El País は «la primera mujer al frente del Gobierno» と言っていて、primera の重複を避けている。これはスペイン語の文体感覚として良く分る。他のサイトでも «la primera mujer en liderar el gobierno de Japón» とか «la primera mujer líder de Japón» とか «la primera mujer en ser elegida primera ministra» とか «fue elegida primera ministra de Japón, la primera mujer que lo consigue en la historia del país» とかが見つかる。一方 «la primera mujer primera ministra» という表現も出てきて、和文西訳的にはこのへんが落とし所かなと思う。

ついでに ChatGPT 君に聞いてみたら «la primera mujer primera ministra» という答えが返ってきた。

さて、ちょっと昔話をすると、サッチャー (イギリス初の女性首相) の時は la primer ministro とか la primer ministra とか、結構揺れがあった。Fundéu が2016年に正しいのは la primera ministra だという記事を出しているので、10年前も揺れていたようだ。今はどうなっているのか、高市首相の誕生で例も集めやすくなるかもしれない。

女性形の問題は、文法性を持たない日本語を母語とする者にとって面倒でもあり興味深いテーマだが、上に挙げた El País の記事に «la 104ª primera ministra japonesa» という表現がある。これが「104番目の女性首相」ではなくて「(女性である) 104番目の首相」だということは明らかだが、文脈を離れれば前者の読みも可能性として存在する。実際、イギリスのメイ首相を «la segunda primera ministra británica tras Margaret Thatcher» と呼んだ例が見つかる。以前、女性である「第二子」に対して «el segundo hijo» と言っている例を紹介した (https://vocesenredadas.blogspot.com/2023/08/el-segundo-hijo.html) が、takaichi と 104 で雑に検索した限りでは男性形を使った例は見つからなかった。

まあ面倒だ。

2025年2月8日土曜日

Dineros

Joselero de Morón が、ブレリア («Nació de gitano rico», A Diego el del Gastor, en Morón 所収) の締めで dineros と歌っていると教えてもらった。こんな感じだ。

Ay que te quiero,
te quiero te quiero,
sin interés de ningunos dineros.

カンテでは複数形の -s が聞こえないことも多いが、この例では ningunos があるので間違いない。つまり、単数形ならば ningún dinero になるはずで、音としては ninguno dinero としか聞こえないとしても、これは ningunos dineros だと解釈できるわけだ。

え、dinero って複数形になるの?、と思った人も少くないだろうと思うが、現物があることだし、まあ、なるわけだ。問題はそのなり方だが、今回確認してみてちょっと意外なことがあったので少し報告したい。

僕は dineros と聞くと Antonio Muñoz Molina の Plenilunio を思い出す。その中に dineros が出てくるのだが、分厚い本なので探し出すのは容易ではない。大分前に読んだ小説で、内容もほとんど覚えていない。そう、dineros が出てきたこと以外は。

こういう時はとりあえず検索してみるのが常道。で、なんとこの作品の中身を検索できるサイトが存在した。僕の欲しかった例もすぐに見つかった。

Dice wáter siempre, nunca cuarto de baño, los dineros en vez del dinero, y los huesos de la boca en vez de los dientes, y dice hacer de cuerpo y regoldar y paéres en vez de paredes, qué bestia, parece que se hubiera criado en un cortijo, en una cueva de la sierra. (183)
(https://archive.org/details/plenilunio0000muno)

これは、ある登場人物 (A) の視点で別の登場人物 (B) を語っている場面。Bは年配の男性で、僕のおぼろげな記憶ではAの父親か何かなのだが、AはBを嫌悪している。入れ歯をその辺に置くとかガス代をけちるとかの記述に続いて、言葉遣いのダサさをあげつらう場面だ。歯のことを「口の骨」と言うというのはちょっとびっくりだが、hacer de cuerpo は defecar のこと、regoldar は eructar のことで、この2つは DLE に載っている。一方 paeres (アクセントは要らない) はカンテではお馴染みの形だ。

こういう文脈で dineros を見たので、僕は dineros が社会言語学的にそのように価値付けられた形だとずっと思っていた。今回それを確認しようと思って DPD を見たのだが、非推奨に関する記述どころか dinero という見出し自体がなかった。そこでもう少し検索してみると、RAE がこんなことを言っていることが分ったのだ。

Dudas rápidas
¿Es válido usar «dineros» en plural?
Aunque dinero, como sustantivo no contable, se usa normalmente solo en singular, puede usarse en plural con fines expresivos; por ejemplo, en Hizo sus buenos dineros en ese negocio.
(https://www.rae.es/duda-linguistica/es-valido-usar-dineros-en-plural)

表現上の意図 (fines expresivos) があると複数形になり得るということで、どういう表現上の効果があるのかは書いてないのだが、少なくとも非推奨形と言っていないことは確かだ。

この記事は NGLE の §12.2f を引き合いに出しているので、そっちも見てみる。

se emplea dinero en el español general con plural estilístico, como en Otra modalidad es el financiamiento con dineros del Ministerio (Vasco, Estado), pero su uso como nombre contable (dos dineros, tres dineros) es raro fuera de la lengua medieval: […] peche diez sueldos y tres dineros (Sánchez Valladolid, Crónica). (RAE & ASALE 2009: §12.2f)

一般的なスペイン語で文体的複数形が使われるということだが、どんな文体的効果があるのかは分らない。いずれにせよ、まあ普通のスペイン語のうちという話だ。僕の認識は、そういう意味では偏ったものだったということになる。

あと大事なのは、この場合、複数形ではあるけれど複数性はない、つまり数えていないということだ。可算名詞としての dinero は中世を除けば稀と言っているのはそういうことだ。数える名詞につく ninguno が単数形 (ningún libro) なのに対し、我々の例が複数形 (ningunos dineros) になっているのは、むしろこの形の不可算性を表しているとも言える。

もともと dinero の語源であるラテン語の dēnārius は「10」に関わる意味を持つ形容詞で、硬貨の名前でもあった。そこから「お金」の意味でも使われていたようだ。中世スペインでも dinero という名前の硬貨があったようだ。当然硬貨は数えられる。こういう事情と、「お金」という不可算の概念が絡み合って今に至るということなのだろう。

なお、NGLE は ropa/ropas も同じ箇所で説明している。Ninguno との関係では、No tengo ningunas ganas. における複数形も同様に考えることができる。というわけで、数えない複数形、不可算複数形というワクワクの止らない世界にようこそ。

まあ、教える立場からすると面倒が増えるだけだけど。

  • Real Academia Española & Asociación de Academias de la Lengua Española, 2009. Nueva gramática de la lengua española. https://www.rae.es/gramática/

2025年1月8日水曜日

¿Creer de ...?

ある同業者から聞いた話。彼が担当する授業で、学生が『西和中辞典』の以下の記述をベースに和文西訳をしてきたので面喰ったという。

  • ((de + 人 que + 直説法 〈人〉を・・・であると)) みなす。
    (1) Creo de Juan que es muy aplicado. 私はフアンをとても勤勉だと思っています。
    (高垣ほか 2007: s. v. creer)

例によって、辞書にはない例文番号を振っておいたが、うーん、見れば言っていることは分るが、僕には思いつかない言い回しだし、別に学生に書いて欲しいパタンではない。上の語義は5番目 (他動詞として最後) のもので、その学生はちゃんと辞書を読んだわけなので褒めるとして、もっと初歩的な、たとえば Creo que Juan es muy aplicado. がサラッと出てくるように指導したいところだ。

その指導方法は追い追い考えることにして、今関心を引くのは、この (僕にとっては) 見慣れない構文が辞書の語義として採用されていることだ。まず実例が欲しいので RAE のコーパス (CORPES XXI) で、以下の条件で検索してみる。

  • Lema: creer
  • Forma: de (distancia 1, derecha)
  • Forma: que (intervalo 5, derecha)

結果は269例。しかし『中辞典』が説明しているパタンのものは無かった。やはり頻度は低そうだ。

そこでパタンを分解して «de + 人» だけに注目 (que の機能は無視) すると、6例が当てはまった。

  • (2) Si cree de mí lo que dice, no puede quererme.
  • (3) Qué más da lo que crean de ti,
  • (4) ¿Qué te has llegado a creer de mí?
  • (5) ¿qué crees ahora ya / a los veintiocho creo / de la gente que viene ahora de diecisiete / de quince?
  • (6) Es curioso cómo muchas mujeres admiramos a nuestro marido según su comportamiento, creemos de él cosas que no se ajustan a la realidad, idealizamos una imagen que no es verdadera.
  • (7) Nuestro humanismo será una conquista heroica pues deberá partir de menoscero. De lo que Europa hizo y nos llevó a creer de nosotros. Que éramos bárbaros, seres ajenos a la cultura.

なお (5) は creo de la gente と読むのではなくて qué crees ... de la gente で、gente の後の que は関係代名詞。

従って、creer の直接目的語になるのは:

  • lo que ...: (2, 3, 7)
  • qué: (4, 5)
  • cosas que... (6)

だ。(7) については、文法的には Europa の直前にある lo que が直接目的語だが、その内容が次の文 Que éramos... で説明されている。なので、『中辞典』のパタンに一番近いとは言える。

結局、これは『中辞典』が示しているよりも一般的な

  • creer de A B (A について B と思う・信じる)

というパタンで、直接目的語の B の部分がたまたま名詞節なのが (1) の Juan の例だということなのではないか。だとすると、直訳は「私はフアンについて彼はとても勤勉だと思う」になり、別に語義として立てる必要もなくなるのではないか。(4) が再帰の creerse になっているのも、creer の普通の使い方「思う」が再帰の「思い込む」になっただけだと考えれば、特別な説明は要らなくなる。さらに、(6) の訳は「思う」より「信じる」が良さそうで、「思う」と「信じる」を別の語義だとすれば、この de A は creer(se) の特定の語義に限らず、と言うか、creer(se) に限らず見られる「について」であるに過ぎないのではないだろうか。

さて、他の辞書はどうか。

  • [判断] ・・・だと思う:
    ...
    iv) [+ de]
    (8) De ellos ella cree cualquier barbaridad.
    彼女は彼らならどんな無茶でもやりかねないと思っている
    (宮城ほか 1999: s. v. creer)

パッと見、訳としては「彼らについて彼女はどんな出鱈目なこと (を聞いて) も信じる」ぐらいが適切かなと思うが、文脈が分らないので何とも言えない。僕の学習者とてしての勘が正しければ、(8) は (6) と同じパタンだが、辞書の訳が適切なのだとしたら、何を根拠に「やりかねない」を補ったのかは僕の理解を超える。

『中辞典』にせよ『現代』にせよ、僕から見れば不思議な記述をしているわけだが、元ネタは例によって Moliner だ。

  1. Aceptar alguien como verdad una cosa cuyo conocimiento no tiene por propia experiencia, sino que le es comunicado por otros: [...]
  2. («en») *Pensar que cierta cosa es buena o eficaz: [...]
  3. «*Juzgar». Creer de algo o alguien que es cierta cosa que se expresa con un adjetivo o con un nombre: ’No le creo tan inteligente como dicen. Cree virtud lo que es comodidad. Creo deber mío advertírselo’. (Puede expresarse lo mismo con una oración no atributiva, con un complemento con «de»: ’
    (9) Creo de él que es sincero.
    (10) Creo de mi deber advertírselo’.)
    (Moliner 1981: s. v. creer)

Moliner は「信じる」と「思う」を語義としては分けていないが、「判断する (juzgar)」は別立てにしている。これはきっと構文の問題で、直接目的語を補語 (属詞) だと判断するという、いわゆる SVOC のパタンを取るからだろう。

それはそれで良いのだが、カッコの中がぶっ飛んでいる。同じことが非属詞的文と de ... で表現できる、と言うのだ。「非属詞的文 oración no atributiva」は、多分 SVOC の C じゃないということだと思うので、構文的には異るが言ってることは同じということなのだろう。例 (9)、『中辞典』のやつと同型の Creo de él que es sincero は、「彼について正直だと思う」で良いはずだが、Lo creo sincero と同じことだと Moliner は言うわけだ。『中辞典』はこれに乗っかっていることになる。

ここまでは、まあ良い。しかし、次の例 (10) Creo de mi deber advertírselo は、ここに置かれているのだから Lo (= mi deber) creo advertírselo にならなければいけないはずだが、ならないでしょ。これはむしろ逆で、カッコの前にある例と同様の普通の SVOC パタンだ。つまり Lo (= advertírselo) creo de mi deber とか Creo que es de mi deber advertírselo で言い換えられる内容だろう。

なお es de mi deber + inf. は CORPES XXI では出てこないが、CDH では19世紀の例が4つ見つかる。

  • (11) es de mi deber dar cuenta á los Representantes de aquella Nacion (1826)
  • (12) tanto como Juez de Israel, cuanto como hermano caritativo del hombre es de mi deber separar a Romea del terreno de la causa en cuanto a matrimonio (1854)
  • (13) y es de mi deber hablarte de él. (1867)
  • (14) y yo creo que es de mi deber acompañarle. (1869)

Google 検索でも出てくるので、現代でも一応使われていることは分る。

Creo de mi deber + inf. 自体は CORPES で1例、CDH で18例出てきた (やはり19世紀のが多い)。CORPES の例は古いテクストの引用だ。

  • (15) V. E. está muy mal... creo de mi deber decirle que disponga lo que crea conveniente

Lo creo de mi deber は CORPES にも CDH にもなかったが、Googleでは見つかる。とは言え、まず出てくるのが Juan Valera (1824-1905) の文章なので、やはり古い。

  • (16) a pesar del profundísimo respeto que V. E. me inspira, me atrevo a decirle, porque lo creo de mi deber, que el antiguo cocinero lo estaba engañando (uv.mx)

ということは、de mi deber が古い表現なので Moliner が分析を間違えたということなのだろうか。良く分らないが、いずれにせよこの de は (9) の de él の de とは異ることは示せたと思う。

Moliner の批判にスペースを取られたが、話を戻すと、creer de A que ind. という「構文」を措定する意味は無いし、それを一般化した creer de A B も特に取り上げる必要はない。「について」の de がたまたま creer と一緒に現れただけだと思えばよい。そう言えば『スペイン語大辞典』にはそういう語義も例文もない。適切な判断だと思う。

  • 宮城昇ほか (編), 1999. 『現代スペイン語辞典』改訂版, 白水社. (iOS version, ロゴヴィスタ)
  • Moliner, María, 1981, Diccionario de uso del español, reimpresión, Gredos (primera edición 1966-67).
  • Real Academia Española: Banco de datos (CORPES XXI) [en línea]. Corpus del Español del Siglo XXI (CORPES). <http://www.rae.es> [2025/01/07]
  • Real Academia Española (2013): Corpus del Diccionario histórico de la lengua española (CDH) [en linea]. <https://apps.rae.es/CNDHE> [2025/01/08]
  • 高垣敏博 (監修), 2007. 『西和中辞典』第2版, 小学館. (iOS version, 物書堂)
  • 山田善郎ほか (監修), 2015. 『スペイン語大辞典』白水社. (iOS version, ロゴヴィスタ)

2025年1月6日月曜日

Se trata de tratarse (2)

前回は「僕が普段使っている日本の辞書」つまり僕のスマホに入っている西和辞典を見たが、範囲を少し広げて検討を続けたい。

まずは『レクシコ 新標準スペイン語辞典』。

  • 問題はある、これは (de: の) ことである; (con: と) 交際する、つきあう
    (上田 2020: s. v. tratar)

最初の「問題はある」は意味不明だが、「問題は [・・・で] ある」のつもりだったのだろうか。であれば相変らずの「問題」だが、「これは (de: の) ことである」は良い。「問題」と「交際」の間に埋もれていて、かつ非人称であるという説明がないのが問題だが、前回見た [葡伊仏]和に近いレベルの記述があることが確認できて少し安心した (問題は『レクシコ』をどれだけの人が使っているかということだが)。

『レクシコ』が非人称の tratarse de とそうではない tratarse de を並べているのは、スペース節約が大事な小型辞典だから仕方ない面がある。しかし、前回見た『中辞典』の定義を思い出そう。

  • 3人称単数で 《de + 名詞 / de + 不定詞 / de que + 直説法・・・について》扱う、取り上げる; 問題は・・・である。
    (高垣ほか 2007: s. v. tratar)

この「扱う、取り上げる」は果して ser 相当の tratarse de に宛てたものなのだろうか。そうだとしたらダメな説明だが、もしかしたら人称的な tratar de が «se + 3人称単数» で現れたものが念頭にあるのかもしれない (後者も非人称であることに変わりはないが、用法としては区別すべきだ)。だとしたら、ここでも異るものがセミコロンで区切られて並んでいるということになる。

もうひとつ見ておこう。例文には前回からの通し番号を振った。

  • 《3人称のみ + de》話題 [問題] は・・・である。
    (22) ¿De qué se trata? 何の話なの?
    (23) En la reunión se trató de muchas cosas. 会議では多くのことが問題になった。
    (24) Se trata de un espinoso asunto. やっかいな問題を取り上げている。
    (25) Se trata de no herir su amor propio. 問題は彼の自尊心を傷つけないことだ。
    (原ほか 2006: s. v. tratar)

文法的な説明として「3人称のみ」というのは3人称複数も有り得ると読めるので良くない。「話題は」は「問題は」や「話は」よりも「このテクストの今の文脈で」という読みを引き出しやすいかもしれないが、まあ、たいした違いはないか。

問題は例文の訳だ。(22) は (1, 4, 10, 11) と同様で、なんでそんなに辞書編纂者に好かれるんだろうと思うが、まあ特に問題はない。(23) は、我々が問題にしている非人称の tratar se de (= ser) ではなくて、tratar de 「扱う」が «se + 3人称単数» で現れたものと解釈すべき、つまりここにあってはいけない例だ。「問題になった」という訳は頑張って入れたのだろうが、「問題は・・・だ」とは意味が異ることにも注意しよう。

(24) は我々の tratarse de で解釈できるが、であれば「(それは) やっかいな問題なのだ (「問題」は asunto の訳)」ぐらいが相応しい。(25) もそうで、「問題は」を削除して『大辞典』のように「要は」とかにするか、「彼の自尊心を傷つけないようにということだ」みたいにした方が良い。

ということで、2つの tratarse de を区別する必要がある。
  1. tratar de B → tratarse de B 「(人が)Bを扱う (se + 3人称単数)」
  2. tratarse de B 「(Aは)Bだ (= ser)」

我々の tratarse de は後者で、これは勿論前者を元に派生した用法だろうが、辞書に載せる意味は充分ある。一方もとの「(人が)Bを扱う」は tratar de 「扱う」から自動的に導き出せるので、他の動詞の «se + 3人称単数» の非人称用法と同様、本来は辞書に登録しなくてもよいはずだ。ただ、2つの tratarse de の違いを学習者に意識してもらう目的で記述するのはありだろう (もちろんちゃんと区別が分るように分けて書く必要はある)。

我々の tratarse de (= ser) に対しては「問題」を使うのは問題だということ、そして『レクシコ』なかなかやるじゃんということで、この話題 [話・問題] は取り敢えず終えることにしたい。


  • 原誠ほか (編), 2005. 『クラウン西和辞典』, 三省堂.
  • 高垣敏博 (監修), 2007. 『西和中辞典』第2版, 小学館. (iOS version, 物書堂)
  • 上田博人 (編), 2020. 『レクシコ 新標準スペイン語辞典』, 研究社.

2025年1月1日水曜日

Se trata de tratarse

学生に tratarse de (se trata de ...) の使い方を解説すべき事態になったのだが、(久し振りに) 記事にした方が良いと思われたので、今これを書いている。

まずは、以下のテクストを日本語に訳してみよう (上記の事態とは無関係な例文を選んだ)。

Determinar de manera axiomática si el fandango de África Vázquez es el que grabó el Mochuelo es andar por a cuerda floja con temor a caerse. Sin embargo, las sospechas fundadas de que así sea nos pueden llevar a dar por válido que aún sin saberlo con rotundidad, sí podamos afirmar que se trata de un cante nacido y criado en Granada aunque registrado por un sevillano (Conde 2018: 123r)

África Vázquez (1864/65-??) は Granada 県 La Peza で生れた歌い手で、彼女が作ったファンダンゴ (本人の録音は無い) について、Sevilla 生れの Mochuelo (1871-1936/37?) が録音した物かそれかどうか、確証はないが、まあそうだと言っていいんじゃないかみたいなことだ。フラメンコ研究ではよくある話で、誰それのファンダンゴとか誰それのソレア (シギリジャ、マラゲニャ、・・・) とか、沢山あるのだが、たとえばそのメロディーを本当にその誰それが作ったのか、誰それ本人の録音が無い場合、断言できない。で、間接証拠 (sospechas fundadas) を元に推測することになるわけだ。

なので、超絶慎重な言い回しを尊重して訳してみると、「アフリカ・バスケスのファンダンゴがモチュエロの録音したものなのかどうか議論の余地なく決定するのは、落ちる心配をしながら綱渡りをするようなものだ。しかし、そうであるという根拠のある疑いが、決定的には分らないとはいえ、以下のように断言できることが妥当だと判断することを可能にする: セビジャ生れの歌い手によって録音されたとはいえ、se trata de グラナダで生れ育ったカンテ」ぐらいになるだろうか。

さて se trata de だが、文脈から判断して「~だ」と訳せると考えることが妥当だと判断した人が多いと予想することが可能だと思うことに無理はないように見えるのではなかろうか。そして、それは DPD の次の記述によって根拠づけることができるだろう。

En forma pronominal y seguido de un complemento con de, se emplea como impersonal ―siempre en tercera persona del singular―, con sentido equivalente a ser, refiriéndose a algo anteriormente mencionado (DPD, s. v. tratar)

つまり tratarse de が ser と同等の意味で使われるという話だ。DPD の記述は、これは非人称なので3人称複数にしたり、明示的な主語を付けたりしないでね、と続くのだが、ser なら「AはBだ」だろうに tratarse de は非人称で無主語だから「Bだ」しか表さない。そこで効いてくるのが「前に言及された何かについて」という部分だ。その「何か」つまり前の文脈にある「それ」が「Aは」に相当するわけだ。我々の例で言えば、モチュエロが録音したアフリカ・バスケスのファンダンゴ (という確証はないが、とにかく「それ」) のことだ。

ところが、僕が普段使っている日本の辞書には ser 相当という説明が載っていないのだ。学習者が上手く訳せないのも無理はない。僕は自力で読めるようになるまで随分年数がかかった。DPD の記述を見つけて「これは学生に対する説明に使える」と思ったのは割と最近のことだ。

では、それらの辞書 (『西和中辞典』『スペイン語大辞典』『現代スペイン語辞典』) の記述を確認してみよう。
  • 3人称単数で 《de + 名詞 / de + 不定詞 / de que + 直説法・・・について》扱う、取り上げる; 問題は・・・である。
    (1) ¿De qué se trata? 何の話ですか。
    (2) Se trata de que las cifras de la investigación son erróneas. 問題はその調査の数値が間違っていることです。
    (3) No se trata de eso. そういう問題じゃない。
    (高垣ほか 2007: s. v. tratar)
  • [3人称のみ。+ de] 話 (問題) は…である:
    (4) ¿De qué se trata? 何の話ですか?
    (5) Se trataba de un viaje. 話はある旅行についてだった。
    (6) Se trata de encontrar una solución. 要は解決法を見い出すことだ。
    (7) Si solo se trata de eso, no hay peligro. それだけのことなら危険はない。
    (8) Desde lejos no pude adivinar que se trataba de Juan. 私は遠くからではそれがフワンかどうか見分けがつかなかった
    (山田ほか 2015: s. v. tratar)
『現代スペイン語辞典』の記述は solo にアクセントがあること以外は『スペイン語大辞典』と同じなので省略 (一応別の辞書なんだけど、良いんだろうか)。また、例文には出典にはない番号を振っておいた。

『中辞典』の「扱う、取り上げる」は、我々の文脈には合わない。問題は「問題は・・・である」である。学習者 (かつての僕) はこれに飛びつくのだが、これはダメだ。「問題は・・・グラナダで生まれ育ったファンダンゴだ」では何の話なのか分らなくなる。『大辞典』の「話は」も、そのままでは使えない。

例文の訳も検討しよう。(1, 4) は一見良さそうだが、「何 (のこと) ですか」の方が適切な場面がありそうだ。(2) の訳を適切だと思う人は多いかもしれないが、この例文は罪深い。ここの「問題は」は、直すべき、解決すべき問題 (problema) のように読めるが、それは que 以下の内容がたまたまそうだからであって、tratare de の責任ではない。Tratarse de が「問題は」で訳せる場合があるとすれば、前の文脈で出てきた、今テクスト上で扱っている・問題にしている、という意味であって、それが困ったことだとか解決しなきゃいけないとか問題点だとかいうことではない。従って (2) の訳としては「その調査の数値が間違っているということです」の方が良い。なお、『中辞典』は de que + 直説法という記述をしていて、これ自体は問題ないのだが、de que + 接続法もあることを追記した方がよい (個人的な印象では接続法の方が馴染がある)。直説法の場合が「ということ」を事実として報告するのに対して、接続法では「ということ」が概念として提示される。場合によっては「べき」とか「ように (したい)」みたいに訳すことも可能だろう。一応例を挙げておく。

Al final de la sesión de lectura individual, se pueden leer fragmentos cortos o algún cuento breve que nos hayan producido una emoción especial. Lo puede hacer el profesor y cualquiera de los alumnos, de forma que se favorezca el diálogo de los libros entre sí. En este mismo sentido, se puede abrir un espacio para comentar o recomendar algún libro que se esté leyendo. Se trata de que los lectores cuenten voluntariamente sus sensaciones e impresiones sobre un libro leído que haya sido de su agrado. A determinadas edades, las recomendaciones que hacen los compañeros suelen ser mejor acogidas que las que hacen los profesores. (RAE: CORPES XXI, Esp. 2001)

例文 (3) は、まあそう訳せる文脈もありそうだが、「そう (いうこと) じゃない」の方が適用範囲が広いだろう。

『大辞典』の例文 (4-8) には「問題」が使われていないので問題が少ない。だが「話」が嵌らない文脈は多いので、説明としては五十歩百歩だ。例文を読まずに最初の訳語だけを見てすます学習者が多いことを考えれば、例文の訳をいくら工夫しても報われない可能性が高い。(5) は「話は・・・についてだった」と訳していて、それが適切な文脈もあるだろうが、我々の関心からすれば「(それは)旅行なのだった」ぐらいの訳が欲しい。(6) は tratarse de + 不定詞の例だが、接続法の場合と同様「ということ」が概念として提示されていると考えてよい。ここで「要は」が提示された概念の「べき」的解釈の結果出てきた訳なのか、前文脈を受けた「要するに」なのか、いずれにせよこの訳は「あり」だ。もちろん tratarse de + inf. が常に「要は」で訳せるとは限らない。

(7) には tratarse de に明示的に対応する訳語がない。これは正に tratarse de の適切な訳だ。この訳を学習者が見ない低くない可能性を考えると、本当にもったいない。最初の「話 (問題) は…である」を「…である」にしてくれれば良かったのに、と思う。(8) では「それが」が補われていて、(5) で要望したことが実現されている。これも有り得る訳だ。ただし、「フワンかどうか見分けがつかなかった」よりは「フアンだということが分らなかった」の方が良いのではないだろうか。

さて、類似の表現を持つ他の言語についても見てみよう。最初はポルトガル語。

  • [非人称的に。+ de] 問題は…である、ここで扱うのは…である、それは…である:
    (9) É um assunto delicado. Trata-se da questão racial. 微妙なテーマだ、つまり人種問題のことである。
    (10) De que se trata? 何のことですか?
    (池上ほか 2005: s. v. tratar)

ここでも「問題は」が出てくるが、注目すべきは「それは…である」だ。例文 (9) も「つまり」で前文脈を承けている。いいじゃないか。

イタリア語。

  • 非人称動 ((si tratta di の形で))
    1. ・・・である、・・・のことである; 大切である
      (11) Di che cosa si tratta? 何のことですか
      (12) Non si tratta di uno scherzo. 冗談ではない
      (13) Non si tratta solo di parlare, ma di agire. 話すだけでなく行動が大事だ。
    2. ・・・にかかわる; 危うくなっている
      (14) Si tratta di vita o di morte. それは生死にかかわる問題だ
      (15) Si trattava del suo onore. 彼の名誉がかかっていた。
    (池田ほか 1999: s. v. trattare)

まず出てくるのが「・・・である」だ。そういうことだ。

フランス語。

  • s’agir ((非人称構文で))
    1. ((il s’agit de qn/qc)) …が問題である、…に関することである; (本や講演などで) …が主題である、取り上げられている
      (16) J’ai des ennuis; il s’agit de mon fils Pierre. 困ってるんだ。息子のピエールのことなのだが
      (17) Lisez cet article: il s’agit de votre dernie livre. この記事をお読みなさい、あなたの新しい本が取り上げられていますよ
    2. ((il s’agit de qc)) (★qc は一般に不定冠詞付きの名詞) ((先行する内容を受けての説明)) それは…である、それは…に相当する […を意味する]
      (18) Le gouvernement a décidé de voter ce projet de loi: il s’agissait d’un choix épineux. 政府はその法案を採択することに決めた、それは難しい選択であった
    3. ((il s’agit de 不定詞; il s’agit que 接続法)) …することが重要 [必要] である、…しなければならない
      (19) Il s’agit de parvenir à un accord. 合意に逹することが肝要なのだ
      (20) Il s’agit que vous soyez prudent sur ce point. あなたはこの点について慎重でなければいけない
      (21) Il ne s’agi plus de discuter. もう議論をしている場合ではない
    (倉方ほか 2010: s. v. agir)

こちらは「問題」が最初に出てくる。例文 (16) はその問題が前文脈に属すことを示唆しているが、学習者がそれに気付く可能性は低い。だが、2番目の語義で「先行する内容を受けての説明」という DPD の記述と同様の説明がされている。これは大いに評価できる。

というわけで、葡伊仏とも、2冊の西和辞典よりも良い記述をしていることが分った。スペイン語も頑張らないとね。

  • Conde González-Carrascosa, Antonio, 2018. De Graná, granaína. Diputación de Granada.
  • 池田廉ほか (編), 1999. 『伊和中辞典』第2版, 小学館. (iOS version, 物書堂)
  • 池上岑夫ほか (編), 2005. 『現代ポルトガル語辞典』改訂版, 白水社. (iOS version, 物書堂)
  • 倉方秀憲ほか (編), 2010. 『プチ・ロワイヤル仏和辞典』第4版, 旺文社. (iOS version, 物書堂)
  • 宮城昇ほか (編), 1999. 『現代スペイン語辞典』改訂版, 白水社. (iOS version, ロゴヴィスタ)
  • Real Academia Española: Banco de datos (CORPES XXI) [en línea]. Corpus del Español del Siglo XXI (CORPES). <http://www.rae.es> [2025/01/01]
  • Real Academia Española y Asociación de Academias de la Lengua Española: Diccionario panhispánico de dudas (DPD) [en línea], https://www.rae.es/dpd/tratar, 2.ª edición (versión provisional). [2024/12/31]
  • 高垣敏博 (監修), 2007. 『西和中辞典』第2版, 小学館. (iOS version, 物書堂)
  • 山田善郎ほか (監修), 2015. 『スペイン語大辞典』白水社. (iOS version, ロゴヴィスタ)

2023年9月4日月曜日

Lola de Valencia

「スペインのイメージ: 版画を通じて写し伝わるすがた」を見てきた (国立西洋美術館: 2023/08/29)。面白かった。チラシには「フラメンコ、闘牛、ドン・キホーテ、アルハンブラ・・・我々が思い浮べるスペインの「イメージ」の多くは、19世紀にこの国を訪れた旅行者たちによって作られたものでした」で始まる文章があって、この「作られたイメージ」が中心なのかと思っていたのだが、実際には「17世紀のリベーラからゴヤ、ピカソ、ミロ、タピエスと受け継がれるスペイン版画の史的展開」が主で、僕はフォルトゥニ以降現代までが特に面白かった。

とは言え、今回のテーマは「作られたイメージ」の方。作品リストからタイトルを抜き出してみると、「『杖をついた悪魔』カチューチャを踊るファニー・エルスラー (c. 1836)」、「ポーリーヌ・デュヴェルネーのカチューチャ (1837)」、「『ラ・ジターナ』マリー・タリオーニ (1840)」、「『パキータ』ディミエ (1846)」というのが、「スペイン舞踊」を踊る非スペイン人たちを描いた版画だ。

19世紀のある時期、パリやロンドンなどでスペイン風舞踊が流行するのだが、その事実とフランメンコの誕生を結び付けた先駆的な著作が Lavaur (1999) だ。この本の初版は1976年だが、1999年版の序文によれば «Su origen se remite a tres artículos publicados a partir de 1968 por el autor en varios números de la madrileña Revista de Ideas Estéticas. La versión completa, publicada por primera vez en 1976, quedó prácticamente “olvidada” —o más bien ignorada por la flamencología— (7)» とのこと。分量としてはカンテを扱った部分の方が多いのだが、今はバイレに集中しよう。1830年代にスペインの外で流行った踊りが cachucha で、ロンドンでフランス人の Pauline Duvernay (1812-1894) が踊って当ったのが記録としては早いらしい (Lavaur 1999: 110)。1836年にはパリで Marie Taglioni (1804-1884) が cachucha を踊る (idem: 112)。Taglioni はイタリア人の父とスエーデン人の母との間にストックホルムで生れた (Wiki)。同年、やはりパリで El diablo cojuelo に出演し cachucha を踊って評判になったのがウィーン生れの Fanny Elssler (1810-1884) だ (idem: 113)。これで上の4つの版画のうち3つについて踊り手の紹介が済んだ。3人とも cachucha を踊っているわけだ。

実は1834年にスペイン人舞踊手によるスペイン舞踊公演がパリで行われている。そのカンパニーで cachucha を踊ったのが Dolores Serral (??-??) だ。男性舞踊手の Mariano Camprubí たちと一緒だった: «a partir de este momento y durante muchos años, Camprubí y Serral serían personajes emblemáticas del baile español en París (Steingress 2006: 89)»。ところが、彼らの踊りはパリの批評家たちを圧倒しなかった: «pero no pensamos que ellos fueran rivales peligrosos para nuestros compatriotas. Su bolero, su zapateado, son ejecutados con rigor, con una energía calurosa, pero uno no sabría negarlo, son monótonos (ibid.)»。本場物がフランス風スペイン舞踊に勝てないという話、なかなか。

殘る1人はバレエ Paquita における Aurélie Dimier (1827-?) だが、この人は Lavaur の本にも Steingress の本にも登場しない (たぶん)。Paquita は現在通しで上演されることはないようだが、1846年にパリで初演された。主役の Paquita を演じたのは Carlotta Grisi (1819-1899) で、Dimier ではない。Grisi はこの頃 Elssler などに代って人気を得た踊り手。Dimier は1836年から1846年までパリ・オペラ座で学び、また踊っていたが、その後アメリカ合衆国や南米、オーストラリアに行っている。1854年にはチリのバルパライソに定住、その地で亡くなった。版画のモデルになったのは彼女がパリ・オペラ座にいた最後の年で Paquita 初演の年。大きな役ではなかったのかもしれない。

さて、展示されていた版画のうち、上に挙げなかったものが1枚ある。マネ作の「ロラ・ド・ヴァランス (1863)」だ。フランス語で Lola de Valence と書かれると何処の人?、という感じになるが、スペイン人。そう、Lola de Valencia のこと。Lavaur (1999: 117-118) は彼女と Dolores Serral をごっちゃにしているように読めるが、別人。Lola de Valencia の本名は Dolores Melea で、1862年にパリに来ている。Serral のパリ公演から30年ぐらい経っているのだが、この時も Mariano Camprubí が一緒で、Lavaur もこれに騙されたのだろうか。Lola de Valencia の公演は、パリにおけるスペイン舞踊ブームの最後を飾るものだったようだ («Con la aparición de Lola de Valencia se cerró el ciclo del triunfo de los bailes españoles en París en este período cronológico (1833-1865) (Steingress 2006: 192)»)。

ところで、これらの踊り手はロマンティック・バレエや escuela bolera の人たちで、フラメンコというわけではない (時代的にもまだ早い)。これがどのようにフラメンコに繋がるかは、Lavaur や Steingress の本を読んでほしい。Steingress の方は邦訳もある。ちなみに Steingress の本の表紙を飾るのはマネによる Lola de Valencia (油彩バージョン)。

  • Lavaur, Luis (1999). Teoría romántica del cante flamenco. Signatura.
  • Steingress, Gerhard (2006). ... y Carmen se fue a París. Almuzara.
Dimier 関連

2023年8月21日月曜日

El segundo hijo

このブログでよく取り上げている性 género の話。

En febrero de 1890 nace el segundo hijo del matrimonio, Pastora Pavón Cruz, concretamente en la calle Butrón, según su partida de nacimiento (Bohórquez 2007: 54).

Pastora という名前から el segundo hijo が「娘」だということは分ると思うが、もう少し詳しく見ると、この Pastora はカンタオラの Niña de los Peines (1890-1969) のこと。彼女には Arturo という兄がいる (1882-1959)。彼も非常に優れた歌い手だったというが、録音が残っていない。

つまり Pastora は2番目なのだが1番目が男なので、男女混合の hijos の中の2番目ということで el segundo hijo なのだと考えると分りやすいだろう。これが「男性の無標性」の表れなわけだが、なんかすっきりしないという人も多いだろう。

さて、息子を表すのに hijo varón というありふれた言い方がある。娘はじゃあ hijo mujer かなと思うが、これを見たというはっきりした記憶がない。検索してもなかなか確実な例に行き当たらないのだが、1つ見つけた。

La alta preferencia por un primer hijo varón (pss de 0.924 y 0.834), manifestada tanto por los solteros masculinos como los femeninos, y por un segundo hijo mujer, (pss de 0.301 y 0.269), coincide con lo informado para otras poblaciones, y tal vez es el reflejo de varios factores, entre los que puede mencionarse la influencia de la familia de origen, ya que en ésta el promedio de las PSS fue de 0.513 y de 0.468 en el primer y segundo miembros (Garza-Chapa et al. 1989: 42).

言っていることは良く理解できないのだが、未婚者の希望として最初のこどもは男、次に女 (一太郎二姫) という傾向があるということのようだ。

というわけで hijo mujer が言えるということはやはり hijo の無標性の表れだと言える。しかし母語話者にとって hijo mujer が当たり前の言い方なのかどうかは分らない。

  • Bohórquez Casado, Manuel, 2007. Tomás Pavón. El Príncipe de la Alameda, Pozo Nuevo.
  • Garza-Chapa, R; Jiménez-Contreras, JA; Riojas-Valdés VA, Cerda-Folres RM, 1989. «Preferencias sobre la composición familiar entre jóvenes de Monterrey, México», Salud Pública de México, 31, 32-45. https://saludpublica.mx/index.php/spm/article/view/109/102

2023年7月24日月曜日

Solo (4)

Solo (と este, esta, etc.) とアクセント記号 tilde についての続報。DPD 第2版の暫定版が RAE のホームページに上がっているのに気づいたので、結論部分だけ紹介しておこう。
  1. Es obligatorio escribir sin tilde el adverbio solo en contextos donde su empleo no entrañe riesgo de ambigüedad.
  2. Es optativo tildar el adverbio solo en contextos donde, a juicio del que escribe, su uso entrañe riesgo de ambigüedad.

基本的に同じルールが指示詞にも適用される。
  1. Es obligatorio escribir sin tilde los demostrativos este, ese, aquel (y sus femeninos y plurales) en contextos donde su uso no entrañe riesgo de ambigüedad.
  2. Es optativo tildar los usos pronominales de los demostrativos este, ese, aquel (y sus femeninos y plurales) en enunciados donde, a juicio del que escribe, su empleo entrañe riesgo de ambigüedad.

予告通り、solo の場合は副詞と形容詞 (指示詞の場合は代名詞と形容詞) の間の曖昧さが生じない場合はアクセント記号をつけてはいけない、そして曖昧な場合は副詞の solo に (代名詞の este, ese, etc. に) tilde をつけても良い (つけなくても良い) ということだ。つまり、どんな場合でもアクセント記号をつけなくていいので、学習者は安心して欲しい。教える側としては、学習者が「書き手たる私が曖昧だと判断したのでアクセント記号をつけた」と言い張ったときにどうするかの方針を決めておいた方が良いかもしれない。

  • Real Academia Española y Asociación de Academias de la Lengua Española: Diccionario panhispánico de dudas (DPD) [en línea], https://www.rae.es/dpd/tilde, 2.ª edición (versión provisional). [Consulta: 2023/07/24].

2023年7月19日水曜日

La bebé

ネット上で新聞を読んでいたら、la bebé という表現を見た。男の子でも女の子でも el bebé だったはずだが、と思って RAE のサイトで確認すると、
で、«m.» だからやっぱ男性名詞だなと思ったのだが、いや待て、«U. t. c. m. y f.» じゃないか。つまり女性名詞としても使われると書いてあるのだ。これを見落としたのだろうが、紛らわしい書き方だと思い、とりあえず Fundéu が何と言っているかをチェックした。

すると «la bebé, femenino válido» という記事 (2018/12/27) に次のような記述があった。
Aunque en los principales diccionarios de lengua española bebé aparece solo como masculino (el bebé, sea niño o niña), en el español contemporáneo, especialmente en los países hispanohablantes de América, esa voz se ha transformado en común en cuanto al género. Así, y conforme a la Nueva gramática de la lengua española, son válidas las formas la bebé y una bebé cuando nos referimos a una niña.
(https://www.fundeu.es/recomendacion/bebe-sustantivo-de-genero-comun/)

なるほど。実際 iOS 上の『西和中辞典』、『現代スペイン語辞典』、『スペイン語大辞典』、Oxfort Spanish Dictionary では bebé は男性名詞としか書かれていない。

そして一応 DLE のアプリも見てみたら、なんと «U. t. c. m. y f.» が無い (Actualización 2022. 2023/07/19現在)。RAEのサイトのやつも同じバージョンのはずだが、人知れずアップデートしているみたいだ。

  • 宮城昇ほか (編), 1999, 『現代スペイン語辞典』改訂版, 白水社 (iOS版, LogoVista 電子辞典 2013-2016, ロゴヴィスタ).
  • Oxford University Press, 2008 (2017) Oxford Spanish Dictionary, MSDict Viewer Version 1.0.18.169
  • RAE, 2014 (2022), Diccionario de la lengua española, 23.ª edición (actualización 2022). https://dle.rae.es/
  • 高垣敏博 (監修), 2007, 『西和中辞典』第2版, 小学館 (iOS版, 物書堂, 2010, ver. 2.6.3)
  • 山田善郎ほか (監修), 2015, 『スペイン語大辞典』, 白水社 (iOS版, LogoVista 電子辞典 2017-2018, ロゴヴィスタ).

2023年7月11日火曜日

No solo es que

Jidequín 氏の記事:
https://note.com/jidequin/n/nc249535a01c5
に興味深いスペイン語が引用されている: «No solo es que estén lejos de lo que defiende el PP, sino que en un porcentaje muy alto son un delirio».

スペインの総選挙で Partido Popular (PP) と Vox の関係が注目されている中、PPの Borja Sémper が Vox のプログラムについて論評したもので、大雑把に言うと Vox の選挙公約は「PP の主張とかけ離れているだけでなく、妄言度が高い」ということになる。

もちろん、興味深いのは PP と Vox がどうなるかではなくて、ここに estén という接続法の形が使われているということだ。接続法が現れたのは no があるから、もう少しちゃんと言うと es que が否定のスコープに入っているからで、特に珍しいことはない (学習者は «no es que 接続法» と覚えよう) のだが、solo があるおかげで que 以下の内容は否定されていない。今 es que が否定のスコープに入っていると言ったが、no は solo だけを否定している (es que 以下は否定のスコープに入っていない) のではないか、とあなたは思わなかっただろうか。僕は思った。で、検索してみた。

Google で "no solo es que" を見てみると、直説法の例もあるが、接続法の方が多そうな印象だ。だが、もう少しちゃんと数を見たいので RAE の CORPES XXI を見てみる。そうすると "no solo es que" は62件、うち接続法が44、直説法が18で、やはり接続法の方が多い。直説法の例を1つだけ紹介しよう:

  1. Y esto nos parece que está muy bien, aunque está claro que no sirve para nada, como la tozuda realidad nos demuestra: no sólo es que persisten los conflictos armados, sino que basta mirar a nuestro alrededor para comprobar que vivimos en una sociedad cada día mas crispada, más violenta y agresiva, donde poder vivir juntos y en paz es cada día mas complicado.

数は少ないが直説法の例はあるので、論理的には否定されていない内容を「事実だと断定し、聞き手にむけて主張する (福嶌 2019: 29)」直説法で表すことはできるわけだ。しかし、テクスト的には、その後に来る sino que 以下の方が情報価値が高いだろうから、前半は「事実だという断定・主張をしない (ibid.)」接続法を使った «No (solo) es que 接続法 sino que 直説法» というパタンが定着しているのかもしれない。この接続法を否定のスコープで説明するか、否定に頼らず情報構造で説明するかだが、僕は no の存在が大きいと思うので、否定がらみで考えてみたい。

ついでに «no solo creo que» を CORPES XXI で見てみると5件ヒットした。重複があるので実質4件だが、直説法2、接続法2という結果。それから «no solo es cierto que» は1件だけ見つかり、これは直説法だった。前者を Googlea ってみると、194,000件という数字が出るのだが、最初のページだけ重複を除いて数えると、直説法が5、接続法が1。後者の Google 検索はなんと5,900,000件という数字が出るのだが、実際には1ページ目の8つしか確認できない。そのうち7つが直説法だった。というわけで、数が少ないので断定はできないが、creer や ser cierto の場合は直説法の方が多いのかも知れない。同じ «no solo .... que» の環境でも接続法の出現度が異なる可能性があるということだ。

  • REAL ACADEMIA ESPAÑOLA: Banco de datos (CORPES XXI) [en línea]. Corpus del Español del Siglo XXI (CORPES). <http://www.rae.es> [2023/07/11]

  • 福嶌教隆, 2019, 『スペイン語のムードとモダリティ』, くろしお出版.

2023年7月5日水曜日

Esperar que ind.

数日前のこと。職場で、ある教科書に Espero que trataréis みたいな «esperar que 直説法» の例が登場しているということが話題になった。普通 esperar は接続法を導入する動詞として教科書に出てくるが、直説法が現れることもあるということを知らない学習者は多いだろう。しかし、たとえば福嶌 (1995: 341) は esperar について「+接続法: 「期待する」という願望の意味」、「+直説法: 「好ましい出来事が起こると思う」という意味」で、「ただしその違いが微妙な場合もある」としている。その上で次の例を示している。
  1. Espero que vengan a verme. 彼らが私に会いに来てくれることを願っている。
  2. Espero que vendrán a verme. 彼らが私に会いに来てくれると思う。

また、RAE & ASALE (2010: §25.3.3b) は pensamiento / intención の違いによる直説法・接続法の交代を次のように説明している:
Pensamiento > intención: Con el indicativo, el contenido de la oración subordinada manifiesta lo que se cree o se piensa: Yo pensaba que tenía tiempo de escapar (Hernández, F., Nadie); con el subjuntivo, por el contrario, expresa una toma de postura o una decisión: Inicialmente estaba pensado que participaran los dos equipos sevillanos con un tercer rival (Razón [Esp.] 2/9/2002). Podría vincularse también a este proceso la alternancia modal con los verbos confiar (en) y esperar, visible por ejemplo en Espero que tendremos el gusto de verlo otra vez (Quiroga, H., Amor), frente a Espero que vuelva (Martín Gaite, Visillos). Cabe pensar en estos casos en una traslación semántica desde la afirmación de lo que se cree o se presenta como cierto, aunque sea en el futuro, hasta la expresión de un sentimiento de esperanza, que constituye una noción intencional.

なお、日本では esperar を「願望」の動詞に分類するのが一般的だが、スペインでは「感情」の動詞とするのが普通。たとえば Borrego et al. (1985: 104) は esperar と接続法の組み合わせを «‘tener esperanza’: sentimiento» とし、直説法との組み合わせを «‘creer’: percepción» と説明している。

さて、僕は «esperar que 直説法» の例を García Lorca の書簡の中で見たことがあり、実際に使われた例を知っていたけれど、スペイン人に尋ねてみたら esperar は接続法でしょ、と言われた経験がある。なので、件の教科書がどういう意図で «esperar que 直説法» を採用したのか分らないが、初級レベルでこのパタンを学習者に見せる必要はないと思っている。

それはそれとして、久しぶりにこのパタンのことを思い出したので、ロルカの実例を確認することにした。彼の1986年版の全集の cartas の部分、手入力でデータは作ってあるので、
/[Es]spero que/
で検索してみた。その結果、直説法が37件、接続法が5件見つかった。なんとロルカは直説法派だったのだ。

直説法の例を見てみよう。
  1. Espero que me escribirás en seguida. (710)
  2. Espero que pronto podré ir a Barcelona. (966)
  3. Espero que no habéis olvidado mis señas: (829)
  4. Yo espero que me escribiréis todos y que vuestras cartas sean largas y tendidas, que me escribirán las niñas, y que tendrá noticias de todos. (828)
3は、手紙によく出てきそうな (実際ロルカがよく書いている) パタン。4は従属節動詞の主語が主節の主語と同じな例。また、従属節動詞の時制は未来が多いが、5は現在完了という珍しい例。そして6は直説法と接続法が並んで出てくる例。

今回は例だけ紹介。個々の例、とくに6の分析は面白くなると思うが、老後の楽しみのために取っておくことにしたい。

  • Borrego, J; Asencio, J. G. & Prieto E. 1985, El subjuntivo. Valores y usos, SGEL.
  • 福嶌教隆, 1995, 「動詞—法」, 山田善郎 (監修) 『中級スペイン文法』, 白水社, 18章, 332-351.
  • RAE & ASALE, 2010, Nueva gramática de la lengua española. Manual, Espasa Libros.

  • García Lorca, Federico, 1986, Obras completas, Tomo III, Edición del cincuentenario, Aguilar.

2023年5月10日水曜日

Tío abuelo

フラメンコに関わる美意識を共有し、その判断が信頼できる人たちのお薦めがあったので、Juana Amaya を観にガルロチに行ってきた (2023/05/06/13:00)。良かった。僕はバイレはよく分からないので彼女の踊りを形容する語彙がないのだが、何と言うか、力んでいないのに体からエネルギーがワーッと出てくる感じに触れて、やっぱり来て良かったと思ったのだった。

Juana Amaya のことは何も知らなかったので、行く前にネットで検索してみた。本名 Juana García Gómez、1968年 Morón de la Frontera の生まれというのが多数派 (異なる情報も存在する)。Morón は、ある種のフラメンコが好きな人にとっては、今の日本語で言えば聖地みたいな所だが、その聖性を代表する存在がギタリストの Diego del Gastor (Diego Amaya Flores, 1908-1973) だ。そして Juana にとって Diego は tío abuelo に当たるのだという。

Tío abuelo はアカデミアの辞書によれば «tío, a abuelo, la: 1. m. y f. Hermano de uno de los abuelos de una persona (RAE 2014 (2022), s. v. tío)» で、「おおおじ (大伯父・大叔父)」のことだ。Diego から見て Juana は sobrina nieta ということになる («sobrino, na nieto, ta: 1. m. y f. Nieto del hermano de una persona (RAE 2014 (2022), s. v. sobrino)»)。実は sobrino nieto は日本語で「てっそん (姪孫)」と言うのだということを、つい最近知った。

さて、フラメンコ関係のものを読むと tío abuelo がそれなりの頻度で出てくるのだが、単に tío と書かれることがある。最初は情報が混乱しているのかと思ったりしていたのだが、どうもそうではない。たとえば Juana Amaya を扱ったこのページ
https://elartedevivirelflamenco.com/bailaores77.html
には2008年の新聞記事らしきもののコピーがあり、記事の見出しは «Juana Amaya rinde hoy homenaje a su tío Diego del Gastor en la Fundación Cajasol» だが、本文中には «el guitarrista «Diego del Gastor», tío abuelo de la bailaora» というパッセージが見える。オリジナル記事は検索で出てこなかったが、コピーが正確だとすると、書き手は tío abuelo と分かった上で tío と書いていることになる。

というわけで、既に分かっている場合は abuelo を補って読めば良いのだが、おおおじなのかおじなのか分からない状態で tío とだけ言っているこのページ
https://elcorreoweb.es/historico/amaya-ensalza-al-gran-diego-del-gastor-IFEC127197
を見たら混乱するかもしれない。

ちなみに、こちらの記事は Juana が Diego の «Sobrina-nieta» だと言い (ハイフンはアカデミア的には不要)、
https://elpais.com/diario/2000/09/10/andalucia/968538141_850215.html
こっちは «sobrina» だと言っている。
http://www.buenosairesflamenco.com/tia-juana-la-del-pipa-remedios-amaya-y-juana-amaya-gitanas-al-arte-de-su-vuelo-xx-edici-n-2926

なので tío や sobrina が出てきなら気をつけないといけないわけだが、今回この記事を書くためにアカデミアの辞書を確認していたら、tío は «m. y f. Hermano de uno de los padres de una persona» や «m. y f. Cónyuge del tío de una persona» (この辺は日本語の「おじ・おば」に当たるだろう。«cónyuge del tío» はおじさんの配偶者だけでなく、おばさんの配偶者も含んだ言い方だ) の他に «m. y f. tío segundo» や «m. y f. tío abuelo» という語義も載っている (ちなみに tío segundo は «m. y f. Primo de uno de los padres de una persona» つまり親のいとこ)。

ここまで読んでスペイン語は緩いとかいい加減だとか思った人もいるだろう。気持ちは分かるし実際ちょっと不便なのだが、これは基本的には言語ごとに概念化の仕方が異なるということの反映なのだと思う。つまり、スペイン語の tío は日本語の「おじ」より意味の範囲が広くて、tío abuelo や tío segundo は tío の一種 (下位区分) なのではないか、ということだ。そこで、スペイン語のネイティブに tío abuelo は tío か、言い換えれば tío の下位範疇か、と尋ねてみた。答えは、違う、tío abuelo は tío abuelo だ、ということで、こちらの期待通りには行かなかったのだが、tío abuelo は abuelo よりは tío に近いという答えは得られた。もう少し粘ってみる価値はあるかも知れない。

親族名称は決して「自然な」区分を表しているわけではない。池上嘉彦がポリネシアの言語の例を紹介して「このような言語では〈父〉と〈父方のおじ〉、〈母〉と〈母方のおば〉はそれぞれわれわれの言葉での「チチ」、「ハハ」なみに扱われ、一方、同じように〈おじ〉や〈おば〉であっても、〈父方のおば〉と〈母方のおじ〉とは別扱いで、〈父〉や〈母〉なみには扱われない (池上 1978: 213)」と言っている。日本語に置き換えると、お父さんもお父さんの兄弟も「お父さん」で、お父さんの姉妹は「おばさん」、お母さんとお母さんの姉妹が「お母さん」で、お母さんの兄弟は「おじさん」という感じだろうか。これだけの情報だと、「おじさん」「おばさん」の範囲が日本語より狭いということになる (本当にそうかは分からない)。そのかわり「お父さん」と「お母さん」の範囲が広いわけだ。一方、ラテン語では父方のおじ・おば patruus, amitia と母方のおじ・おば āvunculus, mātertera を区別する。こういう言語の話者は「日本語って緩い」と思うのかもしれない。

  • 池上嘉彦, 1978, 『意味の世界』NHKブックス330, 日本放送出版協会.
  • RAE, 2014 (2022), Diccionario de la lengua española, 23.ª edición (actualización 2022). https://dle.rae.es/

2023年4月26日水曜日

No solo

学生に次の文を解釈してもらうと:
No me gusta solo lo que dice, sino también su manera misma de hablar.

大抵、言ってることも喋り方も好きじゃない、という答えが返ってくる。で、いやいや両方好きなのよ、と説明することになる。もしかしたらあなたも学生たちと同じ間違いをしたかもしれないが、Me gusta no solo ... なら難なく解釈できるはずで、上の語順は「ひっかける」ためにわざとそうしてあるわけだ。つまり、あなたが習った «no solo ... sino (también) ...» というパタンは no と solo の間に他の要素が来ても良いのだ。

もう少し類似の例を見てみよう。
  1. No me gusta sólo el proceso de grabar, sino también componer, estar con los músicos, ensayar. Luego me encanta el proceso de grabar, las mezclas. (www.mondosonoro.com)
  2. Y cuando hablo de educadores no hablo solo de docentes sino de docentes y no docentes, de todos los que estamos en educación trabajando en las escuelas y en los centros educativos comunitarios. (www.maristacruzdelsur.org)

どちらも文脈から solo の直後の要素が否定されていないことが明白だ。

さて、ではこっちもそっちも否定したいときはどうするか。答えは簡単で、今見ているパタンを no で否定すれば良い。とは言え «No no me gusta solo ...» は苦しいだろう。実例を見てみよう。

  1. Para despejar cualquier fantasma, que no solo no está dentro de nuestro programa, sino tampoco dentro de nuestras intenciones (prensa.presidencia.cl)
  2. Sobre la renuncia de Marías al Premio Nacional de Literatura, el catalán afirma que «me parece muy respetable, aunque yo seguramente no lo hubiera hecho, hubiera ido corriendo a coger el dinero». Y continúa: «Sé que es un hombre muy consecuente que no quiere no solo premios sino tratos institucionales, mantiene esa independencia y yo lo respeto muchísimo». (www.informacion.es)

3番の «no solo no» のパタンは分り易い。4番の «no ... no solo» も文脈から両方否定されていることが明かだ (ちなみに Marías は Julián Marías で el catalán は Eduardo Mendoza)。どちらも no solo をくっつけて使い、もう1つの no が動詞の前に置かれている。

というわけで、肯定と否定の関係を以下のように整理することができる:

    1. no solo ... sino (también)
    2. no solo no ... sino (tampoco)
    1. no ... solo ... sino (también)
    2. no ... no solo ... sino (tampoco)

しかし、こんな風に整然と話がまとまってしまったら面白くないだろう。で、期待どおりこんな例が見つかる。

  1. Si bien dentro de los requisitos para que los canteranos puedan acceder al proyecto no son no solo deportivos sino también académicos, ya que según González “el inglés es una parte muy importante del proceso”, LaLiga apoya a los jugadores y sus familias en todo momento para que ningún jugador “tenga el impedimento” de ser fichado. (www.eurosport.es)
  2. Al salir de cuarto medio eligió ingeniería, y dice que no fue no sólo por su amor a los números, sino “también fue un poco por contreras... era una época en la que estaba instalado que sólo los hombres estudiaban esa carrera, y yo quería demostrar lo contrario”, afirma. (www.litoralpress.cl)

これらは否定のパタン6b «no ... no solo ...» に見えるが、肯定で読まないと意味が通じない。後半が «sino también» になっていることも肯定読みを支持する。

問題は、7番8番がたまたま起きた「うっかりミス」なのか、それとも6bに2通りの解釈があり得るのか、ということだ。肯定読みにとっては no が1つ余分にあるように見えるので、「うっかり間違った」と思いたくなるのも分るが、言語は必ずしもそういう風に機能しているわけではない。出発点はうっかりミスかもしれないが、そのミスを誘発する原因があって、それが頻繁に起るようになれば、そのうちミスではなくなったりするわけだ。我々の例では、no solo という連続する要素の結びつきの強さが原因のひとつだと考えることができるだろうが、現状はうっかりレベルなのか、パタンとして成り立っているのか、誰か調べてくれないだろうか。

2023年3月12日日曜日

Solo (3)

このタイトルで tilde について別のことを書こうと思っていたのだが、AML (Academia Mexicana de la Lengua) が副詞の solo に tilde を付けることを推奨している (いた?) ことが分かったので、とりあえず報告しておきたい。
https://www.academia.org.mx/consultas/consultas-frecuentes/item/solo-y-solo

前回まで「アカデミア」と言っていたのは RAE (Real Academia Española) と言うべきだったので、訂正しておきたい。

このテクストの日付は不明だが、2010年の正書法より後であることは確かで、前回僕が確認したような、副詞の solo には形容詞の solo としても解釈可能な場合に限らず tilde を付けることができるという読みをしているようだ。

«¿Sólo aún puede escribirse con tilde cuando significa solamente?» という質問に対して、まず «Sí, puede escribirse con tilde. Asimismo, la Academia Mexicana de la Lengua está a favor de conservar la tilde diacrítica en el adverbio sólo» と明言している。そして «La Ortografía indica, entonces, que el uso de este acento es una elección del hablante que éste tomará de acuerdo con su juicio» という部分は、前回見た正書法の素直な解釈によっていると読める。

AML は2023/03/08のツイートで «La @AMLengua recomienda que se acentúe “sólo” cuando funciona como adverbio, para distinguirlo de su función adjetiva: "Me dijo que le costó tan sólo diez pesos" vs. "Me dejó solo, con diez pesos"» と言っていて、これは RAE の騒ぎを受けたものだろう。しかし、2023/03/09以降のツイートにはこの件についてのものは見当たらない。今、どうするか考え中なのかもしれない。

DPD の著者は RAE と ASALE (Asociación de Academias de la Lengua Española) で、AML も RAE も当然 ASALE のメンバーだ。共著者の間で意見の相違があるとしたら、改訂版の文面はどうなるのだろうか。

この話、もう少し続くかもしれない。

2023年3月10日金曜日

Solo (2)

前回の記事は、2023/03/09のアカデミアの総会の結果を踏まえた続報が出る前に出したかったので、僕の解釈と Gutiérrez Ordóñez (2016) による解説との異同にも深入りせずにアップロードした。今回のは、やはり出た続報を見た上での続編。

マスコミの記事もいくつか出ているが、アカデミア自身がホームページ上で発表した文章があるので、それを紹介しよう。
https://www.rae.es/noticia/nota-informativa-sobre-la-tilde-en-solo

結論としては、アカデミアとしては2010年の正書法が変るわけではなく、より明確にするための表現を考えたということだ。これは充分に予想されたこと。しかし、僕にとって興味深かったのは以下の点だ。

まず2010年の正書法について次のような記述がある:
En la Ortografía de 2010 y en obras posteriores se determina la norma siguiente: escribir sin acento el adjetivo solo y los determinantes demostrativos (como siempre), a la vez que se permite escribir sin tilde el adverbio solo y los pronombres demostrativos este, ese, aquel incluso en casos de posible ambigüedad.
これを読むと、Gutiérrez Ordóñez のまとめ方 (副詞の solo については tilde は文脈に拘わらず常に prescindible) が正しいように見える。

一方、DPD 改訂版に載せる記述は以下のようになるようだ:
  • Es obligatorio escribir sin tilde el adverbio solo en contextos donde su empleo no entrañe riesgo de ambigüedad.
  • Es optativo tildar el adverbio solo en contextos donde, a juicio del que escribe, su uso entrañe riesgo de ambigüedad.
これは僕の解釈と合致している。これは2010年の正書法からの変更にはあたらないというのがアカデミアの立場だが、ならば僕の読み方が間違っていたわけではないということで一安心だ。

とは言え、2010年の正書法は Gutiérrez Ordóñez の解釈を許す、というか、彼はこの正書法編纂のトップだったので、彼の読みの方が自然なのではないかという疑いが残る。つまり僕が読むときに見落したポイントがあるのではなかろうか。というわけで、検証のために正書法の記述を再掲する。
  • La palabra solo, tanto cuando es adverbio (Solo trabaja de lunes a viernes) como es adjetivo (Está solo en casa todo el día), así como los demostrativos este, ese y aquel, con sus femeninos y plurales, funcionen como como pronombres (Este es tonto; Quiero aquella) o como determinantes (aquellos tipos, la chica esa), son voces que no deben llevar tilde según las reglas generales de acentuación (RAE & ASALE 2010: 268)
  • No obstante, las reglas ortográficas venían prescribiendo el uso diacrítico de la tilde en el adverbio solo y los pronombres demostrativos para distinguirlos, respectivamente, del adjetivo solo y de los determinantes demostrativos, cuando en un mismo enunciado eran posibles ambas interpretaciones (ibid.)
  • Sin embargo, puesto que ese empleo tradicional de la tilde diacrítica no opone en estos casos formas tónicas a otras átonas formalmente idénticas (requisito prosódico que justifica el empleo de la tilde diacrítica), ya que tanto el adjetivo solo como los determinantes demostrativos son palabras tónicas, lo mismo que el adverbio solo y los pronombres demostrativos, a partir de ahora se podrá prescindir de la tilde en estas formas incluso en casos de doble interpretación. (ibid.)

最初の引用では «son voces que no deben llevar tilde según las reglas generales de acentuación» と言っている。これを見て僕は「あ、付けちゃいけないんだな」と思ったのだが、粗忽な反応だった。何故かというと、アクセント付けの一般的規則に従えば付けちゃいけないということは、他の理由によって付ける可能性を排除していないからだ。前回例に挙げた él とか、2音節語の cómo や dónde とかは、アクセント付けの一般的規則に従えば付けちゃいけないのに、実際には付けなきゃいけない語たちだ。我々の solo については、品詞の区別という他の理由で tilde を付けることが行なわれてきたわけだが、最初の引用では、この「他の理由」への言及はない。つまり、この段階では solo に tilde を付けるなという話になっていないのだと解釈できる。

2番目の引用で「他の理由」の説明があり、3番目の引用の中で «se podrá prescindir de la tilde en estas formas incluso en casos de doble interpretación» と締めている。そして「2つの解釈が成り立つ場合も含めて (incluso)」という部分を素直に読めば、曖昧さのない場合も、つまりどんな文脈でも tilde を付けなくてよいということになり、逆に言えば、曖昧さのない場合でも付けてよいという読みが可能だ。

この最後の点は tilde 付けたい派にとっては有利な解釈だが、2010年正書法に反対した人の中にこう読んだ人はいなかったのだろうか。いずれにせよ、アカデミアはそういうつもりではなかった。DPD 改訂版では曖昧でない文脈では tilde を付けないで書くと明記されるので、付けて良いのは形容詞としての解釈も可能な場合だけになる。

まあ、でも、個々の例が副詞・形容詞の両方の読みを許してしまうかどうかは書き手の判断に委ねられるので、付けたもん勝ちということになるのかもしれない。

  • Gutiérrez Ordóñez, Salvador, 2016, «Sobre la tilde en solo y en los demostrativos», BRAE, Tomo XCVI, Cuaderno CCCXIV, 471-528. http://revistas.rae.es/brae/article/view/159/356
  • RAE & ASALE, 2010, Ortografía de la lengua española, Espasa