2019年5月30日木曜日

Cante, baile, toque

『情熱でたどるスペイン史』がフラメンコを扱った部分、もう少し。

完成した形では、歌 (カンテ)、ダンス (バイレ)、ギター (トーケ) の三要素が不可欠です。それらの三要素の相乗効果により、人間の体験の根っこにあるものをまざまざと表現するのです (池上 2019: 184)。

これは完全に間違っている。どのように間違っているのかというと、3要素が「不可欠」なんてことはない、というごく単純な話だ。だが、なぜかこんな風なことを言ったりする人が時々いる。さらに、最近はほとんど聞かなくなったが、カンテ・バイレ・トケの「三位一体」なんていう言い方がされていたこともある。なので、それを真に受けてこんなことを書いてしまった著者はむしろ可哀想だと思う。でもちょっと考えれば分かることなのにな。

カンテの完成した形はカンテだ。ギターの伴奏がつくことが多いが、無伴奏の形式 (トナ、マルティネテ) もある。カンテがカンテとして成立するためにバイレは必要ない。というか、バイレが無い方がカンテとしての完成度は高い。フラメンコの愛好者たちは、カンテ1人ギター1人で繰り広げられるカンテのリサイタルを好んで聴く。このような歌が主役のカンテと、踊りの伴唱は、心構えの点でも表現性の点でも、かなり異なる。前者を「前に出て歌う歌 cante p’alante」後者を「後ろで歌う歌 cante p’atrás」と言うこともある。当然、前に出て歌える人と後ろでしか歌えない人とでは格が違うということになっている。とは言え、これも向き不向きがあることで、ソロで才能を発揮しても踊り歌に必要なリズムがいまいちなんて人もいるという話だし、ソロでは大したことないけれど泣ける踊り歌を歌うカンタオルもいる。

ギターも、カンテやバイレの伴奏とギターソロの間に似たような違いがあるだろう。ギターソロが、要素数が少ないから完成度が低いと考える人はいない。たった1人で「人間の体験の根っこにあるものを」表現できるギタリストはいるわけだ。もちろん、伴奏の名手達がフラメンコ史を作ってきたことも忘れてはいけない。フラメンコ史はカンテを中心に語られるのが普通なので、カンテ伴奏の方がソロより扱いが大きいぐらいだ。そして、そういう名手達の伴奏は本当に本当に深い。

バイレも、完全な無伴奏で踊ることは可能だが、多くの場合ギターとカンテを伴う。想像するに、「三位一体」みたいな考え方はバイレのあり方として出て来たのだろう。つまり、バイレにとって普通と言って良いフォーマットにおいて演者間の関係が持つ重要性を指摘した言い方だったのではなかろうか。演者同士がうまい具合に助け合い刺激し合って良いパフォーマンスができるということはある。逆に、協働が上手くいかなければ、それぞれが十分に力を発揮できなかったりする。まあ、バイレに限った話でもフラメンコ固有の性質でもないはずだが。

あ、あとはパルマ (手拍子) は打楽器の一種と考えられる。だから三位一体じゃなくて四位一体だ。パルマのソロというのはないが、パルマだけの伴奏で歌うことも踊ることもできる。ギター1本の演奏にパルマが加わることもある。

クラシック音楽なら、ピアノソナタがピアノ協奏曲より完成度が低いという人はいないだろうと思う。『白鳥の湖』を観に行って歌がなかったのが残念と言う人もいないだろう。なぜ、フラメンコについては最初に挙げたような不思議な発言がまかり通るのだろうか。僕には、日本のフラメンコ受容がバイレ中心だったこと以外の説明が思いつかない。

浜田 (1983: 12) は「踊り、ギター、歌 –あるいは歌、ギター、踊り。ともかくフラメンコの小宇宙は、この三つでできあがっている。どれかひとつでも欠けたら、このジャンルは淋しくなってしまう」と言っているのだが、これは「ジャンル」の話をしているのだ。オーケストラの曲だけしかなかったら、クラシック音楽のジャンルは随分淋しいものになるだろうと言うのと同じことだ。浜田は続けて「と言っても、矛盾するようだが、この三つはそれぞれ独り立ちもできる」と言っている。いや、全然矛盾しないのだが、浜田は当時の日本のフラメンコの状況を念頭に、バイレのことしか頭にない読者を想定してこんな書き方をしたのかもしれない。近年はカンテについての知識が広まって来ているので、もう、こんな書き方をしなくて良くなっている (と思いたい) が、フラメンコに触れたことのない人たちにとっては、まだまだ「ジプシーのダンス」みたいなイメージなのだろうか。

  • 浜田滋郎, 1983, 『フラメンコの歴史』, 晶文社.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.

2019年5月18日土曜日

Voz afillá

歌は一般的に声を使って遂行するものなので、それぞれのジャンルで声についていろいろな議論があることだろう。フラメンコのカンテについては、いわゆる美声でないものを尊ぶ伝統がある。『情熱でたどるスペイン史』の著者も、その点に気づいて「(たましい)の奥底からしぼり出されるようなしゃがれ声 (池上 2019: iii)」と言っているのだが、前半の魂云々は措いといて、「しゃがれ声」がフラメンコ的な声だと見なされているのは事実だ。

Molina & Mairena は、オペラで評価される声はフラメンコではむしろ欠点と見なされると言う。

Tiene el cante su “voz propia”. La del tenor o el barítono, del contralto o la tiple educados en el Conservatorio no sólo no sirve, sino que es incompatible con él. Exige una calidad especial y una manera característica de emitirla, calificada certeramente por Georges Hilaire de voz de arriére (sic) gorge o gutural, pero no basta con eso: la voz debe adquirir una peculiar tensión, hay que saber “estirarla”, como dicen algunos aficionado. Limpidez, transparencia, pureza, calidades tan estimadas en la ópera –y el canto en general– constituyen inadmisibles defectos en el arte flamenco (Molina & Mairena 1979: 82).

喉声、というだけでなく、独特の張りが必要だと言うのだが、僕もイメージとしては分かる。もちろん、Molina & Mairena が長くない引用の中で繰り返し強調しているように、クラシック音楽の声とは美意識がはっきり異なる。だが、これは声の使い方の問題で、「しゃがれ声」みたいな声質の話をしているのではないことに、注意が必要だ。Molina & Mairena は、続けて声の分類をしている。どう訳していいのか分からないので、日本語はつけない。それぞれの声の代表が挙げられているので、参考になるかもしれない (idem: 82-83)。

  1. Voz afillá (Manolo Caracol, María Borrico)
  2. Voz redonda (Tomás Pavón, La Serrana, Merced la Serneta, Pastora Pavón)
  3. Voz natural (Manuel Torre)
  4. Voz fácil (Paquera, Perla de Cádiz)
  5. Voz de falsete (Pepe Marchena, Chacón)

最初の voz afillá がタイトルに挙げたやつで、例えば、浜田 (1983: 364) が「マノロ・カラコールは、生来、またとない“ボス・アフィジャー”、つまりフラメンコ風なしわがれ声の持ち主であった」と述べている。性質としては «ronca, rozada y recia» で、19世紀のカンタオル El Fillo にちなんで、エル・フィジョ風と言ったわけだ。Molina & Mairena によれば19世紀に最も評価された声だという (何を根拠に「最も」だと判断したのか不明だが、とりあえず、時代による好みの変遷があるという点は重要だ)。ただし、カラコルの声は、僕の語彙力ではあまり「しわがれ」という印象でもないのだが。

2番目の voz redonda は «dulce, pastosa y viril» なのだという。名前が挙がっている4人のうち3人が女性だが、これはむしろ「男性的な」という記述に対する注釈的な意味を持つ。そしてこれが «voz flamenca» とも呼ばれるというから、この本が書かれた1960年代には、これがフラメンコの典型的な声というイメージがあったのだろう。録音を聞いてみて、パストラ・パボンつまりニニャ・デ・ロス・ペイネスは、もしかしたら「しゃがれ声」だと思う人がいるかもしれないが、弟のトマス・パボンの声は全然しゃがれていない。

3つ目のは voz de pecho とか voz gitana とか呼ばれたりもするそうで、voz redonda に近いが «rajo» という特徴を持っている点が voz afillá に近いのだという。僕の印象ではマヌエル・トレの声は嗄れていない。

Voz fácil は voz cantaora とも呼ばれ «fresca y flexible» で、フィエスタ向きの軽目の歌に合うらしい。パケラもペルラもしわがれ声ではない。

最後のは直訳するとファルセット、裏声ということになる。細かい装飾的なメリスマに適した声で、チャコンがレバンテ系のカンテに使ったというのだが、チャコンの録音を聞く限り、裏声で歌ってはいない (晩年の最後の録音では、部分的にもしかしたらという所はあるが)。マルチェナも、もし使ったとしても部分的だろう。言いたいことが本当の裏声ではなくてそれっぽい声質のことだったとしても、チャコンについての記述は明らかに声の使い方の話で、分類が一貫していないということが分かる。

まあ、この分類も Molina & Mairena の独断と偏見に基づくものだろうから、本来目くじらを立てるほどのものではないのだが、この本が持った影響力の大きさを考えると、フラメンコ史の一コマとして批判的に見ておくことに意味はある。また、挙げられているカンタオレスの名前が、最後のチャコンとマルチェナを除いてジプシーだというのも気になる。つまり、ここには「裏声が効果的な非ジプシー的な形式」対「ジプシーの声で歌う本格的なカンテ」という図式が透けて見えるわけだ。ちなみに、ジプシー的な声という概念があるが、僕には聞いただけでは歌い手がジプシーかどうか判別できない。

さて、フラメンコの声は、ある美意識で括ることが、もしかしたら出来るかもしれないが、その中では多様だということが分かった。また、時代ごとの流行りもある。1930年代の華やかなファンダンゴで競い合った高音・美声とか80年代90年代のカマロン声とか、いろいろだ。フラメンコを聞き慣れない人が「しゃがれ声」という言い方に頼る気持ちは分かるが、一旦その日本語を忘れて聞いてみることをお勧めする。

  • 浜田滋郎, 1983, 『フラメンコの歴史』, 晶文社.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • Molina, Ricardo & Mairena, Antonio, 1979, Mundo y formas del cante flamenco, 3.ª, Librería Al-Andalus (1.ª edición publicado en 1963, Revista de Occidente).

2019年5月12日日曜日

Penas

今回はカンテ (フラメンコの歌) の歌詞が「民族の悲哀を訴える (池上 2019: iii)」ものなのかどうかを考える。前回に引き続き、「民族の悲哀」は「〇〇民族の悲哀」と読み替え、「〇〇民族」は「ジプシー」のことと想定して議論を進める。

とりあえずの結論めいたことを先に書くと、カンテ・フラメンコには、ジプシーであることに起因する悲哀と呼んで良いものを表現した歌詞は存在するが、極めて少ない。

テーマとして最も多いのは (やっぱり) 愛だという: «Hemos repasado nuestra experiencia y las principales colecciones de letras y hemos comprobado que no sólo las amorosas son las más abundantes, sino que el resto (incluso las de inspiración religiosa) están en conexión con el amor (Molina & Mairena 1979: 100-101)». そして Molina & Mairena はテーマの分類をしている (idem: 101)。多い順かどうかは不明なのだが、少なくともその中に「民族の悲哀」はない。

  1. Letras amorosas.
  2. Maldiciones, denuestos y amenazas.
  3. Tema de la madre.
  4. Tema del padre.
  5. Dinero y pobreza.
  6. Saber y experiencia inútiles ante el amor y la muerte.
  7. Sentencias morales.
  8. La muerte.
  9. Fatalismo y destino.
  10. Honra y deshonra.
  11. Religiosidad e irreligiosidad.
  12. Burla y humor.
  13. Vanidad de las cosas mundanas.
  14. Astros y fuerzas naturales.
  15. Paisajes y criaturas naturales.

このことは、共著者の1人であるアントニオ・マイレナがジプシーのカンタオルであり、ジプシー的カンテの徹底的な擁護者であったことを考え合わせると、さらに大きな意味を持つ。

一方、飯野 (2002: 2) は「発生以後200年以上が経過した現在では、当然の事ながらコプラの中で歌われているテーマは多種多様となっており、フラメンコの本質を見誤らせかねない」と述べ、「フラメンコの発生にもっとも大きなインパクトを与えたであろうと見られる彼らの迫害の記憶が歌われている歌詞」を考察している。その中には、確かに gitano, caló, calorró といった「ジプシー」を表す語が明示されつつ、彼らが被る迫害や差別を歌った歌詞がある。ひとつだけ、飯野が「弱小民族としての嘆き」(!) と題したところから紹介しよう (idem: 12)。

En el barrio de Triana
se escuchaba en alta voz,
pena de la vida tiene
todo aquel que sea caló.

トリアナ地区で、ジプシーはみんな死刑だという声が響いた、ぐらいの意味で、この内容に対して「悲哀」という言葉は軽すぎるかもしれない。

それはともかく、現在の歌詞の多様性から見れば少数派だから取るに足らない、というわけにはいかない、というのが飯野の立場だ。

取り上げた歌詞の多くは、tonás, martinetes, carceleras などという名前で呼ばれる無伴奏のカンテ、および、嘆き節たる seguiriyas –かつては plañideras > playeras とも呼ばれた– に現れるものである。従ってフラメンコの最古層を成しており、その歌詞のもつテーマや響きが、その後に続くフラメンコの発展に際しても、フラメンコの根幹を特徴づけることになった。 (飯野 2002: 25)

確かにそうだと言えるのだが、ちょっと注釈が必要だ。ジプシーの迫害という歴史的事実があり、現在まで差別はなくなっていない。それがカンテに歌い込まれることがあるのも事実だ。また、飯野が言うように、「カンテの古層」に詠み込まれた歌詞がその後のこのジャンルの発展に一定の方向性を与えたというのもそうだろう。だが、これらの歌詞が、本当に本当のジプシーである迫害の当事者が歌ったものが伝えられてきたのだと思うのはナイーブすぎる。マイレナのカンテ・ヒタノ論が影響力を持っていた頃は、フラメンコというジャンルが確立するまでの何世紀かの間、ジプシーたちは内輪で (非ジプシーに知られない形で) 自分たちの歌を歌い・伝承していたという説が信じられていたこともあった。しかし、近年の研究で明らかになって来ているのは、19世紀半ばに芸能としてのフラメンコの成立に大きな役割を果たしたのは、「ジプシー」のイメージだったということだ。それ以前はモリスコたちが理想化されて文学的想像力の源泉になっていたのが、19世紀にジプシーがそれを受けつぐ。

Como sucedió con la materia morisca, cuando Ginés Pérez de Hita quiso pasar por originalmente musulmanes ciertos romances que eran sencillamente castellanos, también ahora se defendió la existencia de una poesía gitana “auténtica”. De ella habla un George Borrow y la creencia llega hasta Antonio Machado y Álvarez, Demófilo, cuando apunta la idea –que tanta fortuna posterior ha tenido– de que el cante flamenco no es sino una degradación, al andaluzarse y agachonarse, de un supuesto cante gitano primitivo. El hecho cierto, como demostraron ya Hugo Schuchardt y otros, es que ni este cante ni esta poesía “auténticamente” gitana han existido con anterioridad a la acuñación en e siglo XIX, del gitanismo idealizante. (Baltanás 1998: 213)

Baltanás は「ジプシーが密かに連綿と受け継いできたカンテ」は19世紀に創作されたものだと言っているわけだ。つまり飯野が挙げた歌詞は、19世紀以降にジプシーが理想化され神秘化され文学的なテーマとなった、その結果生み出されたものだということになる。

研究者の中には、18世紀の段階でジプシーという民族はすでにフィクションだっと言う人もいる: «la existencia de una raza gitana ya era una ficción en el siglo XVIII: Ser gitano significó menos pertenecer a un grupo étnico entre otros que pertenecer a las clases más bajas y despreciadas de la sociedad andaluza (Steingress 2005: 222)»。演じ手としてフラメンコの成立に寄与したのは、スペインの下層社会の人たちであって、特にジプシーを分けて考えることはできないというわけだ。だが、受け手が期待したのは「ジプシーの」芸能だった。特に外国からの旅行者たちの存在は大きい。そうなると、本物偽物取り混ぜて、演じ手たちは「ジプシーらしい」芸を見せ・聞かせることに精を出すことになるだろう。

フラメンコがジプシーなしには成立しなかったというのは本当だろう。だが、正確には理想化された (創作された) ジプシーのイメージなしには、と言うべきだ。「民族の悲哀」も、その過程でテーマ化され表現されたものなのだろう。もちろん、この「創作」が全然現実との接点を持たないものだと言っている訳ではないし、これでフラメンコの価値が下がる訳でもない。また、このイメージが今に至るまでフラメンコのあり方に大きく影響を与えて来たことも事実だ (僕は、作られた伝統は作られた時点で現実を動かす力を得る、とかなんとかどこかに書いた覚えがある。つまりそういうことだ)。

僕は個人的に、フラメンコの歌詞の多様性がフラメンコの良いところだと思う。ジプシーが出てくる歌詞は少なくないが、彼らが受けた迫害を歌ったカンテを生で聞いた明確な記憶はない。悲哀や苦悩を語る歌詞も少なくないが、それはジプシーかどうかに拘らず誰もが持ちうる感情だ。そして、人だから恋もするし、可笑しければ笑うし、Molina & Mairena が挙げたようないろいろな感情がテーマになる。フラメンコを聞いて、もし「民族の悲哀」しか聞こえてこないようだったら、耳の精度を疑ってみた方が良いだろう。

  • Baltanás, Enrique, 1998, «La gitanofilia como sustituto de la maurofilia: del romancero morisco al Romancero gitano de Federico García Lorca», en Steingress, Gerhard and Baltanás, Enrique (coord. y ed.), Flamenco y nacionalismo. Aportaciones para una sociología política del flamenco, 207-222.
  • 飯野昭夫, 2002, 「フラメンコの歌詞におけるジプシー的要素に関する考察 –迫害の痕跡を求めて」, 『語学研究』99, 拓殖大学言語文化研究所, 1-27.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • Molina, Ricardo & Mairena, Antonio, 1979, Mundo y formas del cante flamenco, 3.ª, Librería Al-Andalus (1.ª edición publicado en 1963, Revista de Occidente).
  • Steingress, Gerhard, 2005, Sociología del cante flamenco, 2.ª, Signatura Ediciones.

2019年4月27日土曜日

Modo de mi

『情熱でたどるスペイン史』における「高速タップ」の分析は終えたので、続きを見るために「はじめに」の部分を再引用する。

スペイン人の情熱が集約されたような芸能に、フラメンコがあります。激しいリズムの舞踏(ぶとう)と高速タップ、民族の悲哀(ひあい)を訴えるメロディーと歌詞、(たましい)の奥底からしぼり出されるようなしゃがれ声、薄暗いホールのなかで演じられる情熱のパフォーマンスに感化され、私たち観客の体内でもしだいに電流のボルトが上昇して、胸がいっぱいになってきます。私はこれまで、二度フラメンコを見る機会に恵まれましたが、いずれも圧倒的な感銘(かんめい)を受けました。(池上 2019: iii)

まず意味不明なのが「民族の悲哀」だ。例えば「人生の悲哀」と言えば、生きることが内包する、生きる人が経験する悲哀のことだろう。「サラリーマンの悲哀」はサラリーマンであることに起因するものだろうか。だが、「民族」はどうか。民族であることが内包する、民族が経験する、民族であることに起因する、という言い方が変なことから分かるように、「民族の悲哀」は意味をなさない。

ここまで読んで「そんなことはない、意味が通じる」と思った人は、おそらく具体的な「〇〇民族」を念頭に置いている。「あなたはサラリーマンですか」という問いが成立するのに対して「あなたは民族ですか」は成り立たないが、「あなたは〇〇民族(の人)ですか」はOKだ。心優しい読者つまりあなたは、「〇〇」を補って読んでいるのだ。研究者は意地悪な読者になる訓練を受けているので、こういう書き方にはツッコミを入れる。あなたは「〇〇」に何を入れただろうか? 「スペイン」? それとも「ジプシー」? それは著者の意図と一致しているだろうか? と言うか、なぜ著者は「〇〇」を書かなかったのだろうか?

一方、「人生の悲哀」は人生特有のもので、人ではない神や猫は人生の悲哀を持たないと考えられる。自営業者はサラリーマンの悲哀を経験しない。まあ、「悲哀」は専門用語ではないので、厳密に考えるとかえって現実から遠ざかることになるかもしれないが、意味の方向性は大体そういうことだ。そうなると、仮に「〇〇民族の悲哀」なんてものがあるとしたら、それは「××民族」にとっては無縁のものだろう。つまり〇〇民族であるからこその悲哀であるはずで、でなければわざわざそんな言い方はしない。

まあ、「〇〇」の想像はつく。それは多分「ジプシー」だ。実際、「ジプシーの悲哀」はネット上でもゴロゴロしていて、言い古された陳腐な表現だと言って良い。もちろん、その陳腐さは意味不明な省略を許す理由にはならない。

さて、とりあえず「民族の悲哀」を「〇〇民族 (多分ジプシー) の悲哀」と解釈することにして、さらにそれが何を意味するか深く考えないことにするが、その「悲哀を訴えるメロディーと歌詞」も、やはり意味不明だ。メロディに何の訴えを聞き取るのも自由だし、2回ぐらいのショー見物でステレオタイプ的なイメージを発見して喜んでいる人に説教するのは本意ではないが、これは研究者が異文化に言及する時に使うべき表現ではなかろう。

伝統的なフラメンコには曲という概念がない。あるのは「形式」で、スペイン語では estilo とか palo とか言う。例えばソレアとかアレグリアスとかタンゴとか言っているものがそれだ。大雑把に言うと、これらはリズム、調性、メロディなどによって特徴づけられる。ソレアもアレグリアスもリズム的には12拍子だが、調性の上では前者がミの旋法 (後述)、後者が長調という点で異なり、それぞれ複数のメロディが伝承されている。アレグリアスは12拍子・長調のカンティニャスというグループに属するが、同グループ内の他の形式とはメロディで区別できる。そして、いくつか例外と言ってよい場合はあるものの、メロディと歌詞は1対1対応しない。つまり、同じメロディで色々な歌詞を歌うのが普通だし、ある歌詞が異なるメロディで歌われることも珍しくない。さらには、複数の形式で歌われる歌詞さえある。

ここから言えることは、メロディや形式は具体的な意味を持たないということだ。つまり、メロディは〇〇民族の具体的な状況を、悲哀であれ何であれ、表現していない。同じメロディが、人生の悲哀を表現した歌詞で歌われることもあれば、恋心を訴える歌詞で歌われることもある。形式という器が、歌詞が扱う範囲も含めて基本的な「気分」を持ってはいるが、そしてそれは形式の理解にとって重要ではあるが、メロディが何かを訴えるようなこととは全然別の話だ。

もし彼が「民族の悲哀を感じさせるメロディー」とか言ったのであれば、個人の感じ方の問題でしかないので、こんな文章を書く必要もなかったのだが、フラメンコを聞いて悲哀とか哀愁を感じる人は少なくないようだ。これには恐らく、ミの旋法が関わっている (「ミの旋法」は modo de mi の訳だが、別の言い方もある)。浜田 (1983) が1章割いて論じているほどのテーマで、僕もその内容を十分に理解している訳ではないが、とりあえず、長調でも短調でもない旋法だ。長調がドを主音にし、短調がラを主音にするのに対して、ミの旋法はミを主音とする。試しに音階が出せるものでミファソラシドレミを出してみたら、ドレミファソラシドよりはラシドレミファソラに近いという印象を持つ人が多いのではなかろうか。これがフラメンコが感じさせる哀感の原因のひとつであることは間違いない。

ミの旋法を東洋的と感じる人もいて、アラブの影響が考えられたりした時期もあったようだ。しかし、ミの旋法「を地中海諸国にひろめたのがアラビア人ではなく、それより古い –おそらく遥かに古い– 時代から普及して (浜田 1983: 91-94)」いたようで、「少なくとも南欧 (ことにスペイン) では、「長・短両調型」ではない、いわゆる「古代旋法」の昔風な民謡群のうち、いちばん普遍的でかつ歴史が古い、強力なもの (idem: 94)」だという。実際、長調・短調の体系は比較的新しく、ヨーロッパの「1600年頃までの音楽はいわゆる「教会旋法」に基づいてい (東川 2017: 191)」た。しかも、教会旋法の中のフリギア旋法と呼ばれるものがミの旋法とよく似ている (似てはいるが違うらしい。どう違うのか僕は理解していない)。つまり、ミの旋法は古くから西洋で使われていた旋法の一種で、特に東洋的なわけでもないし、この旋法自体に特定の「民族の悲哀」が込められていたりもしないわけだ。

メロディと旋法についてはこのくらいで切り上げて、「民族の悲哀を訴えるメロディーと歌詞」の後半、歌詞については次回 (多分) 取り上げることにしよう。

  • 浜田滋郎, 1983, 『フラメンコの歴史』, 晶文社.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • 東川清一, 2017, 『音楽理論入門』, ちくま学芸文庫, 筑摩書房.

2019年4月20日土曜日

Braceo

『情熱でたどるスペイン史』の著者も「高速タップ」しか見ていないわけではない。

はなやかで不思議な高速リズム、緊張感あふれるダンスはどうでしょう。一瞬音楽に先立つように動く手には指先まで感情がこもっていて、手と胴があえて異なったリズム・動きをすることもあるそうです (池上 2019: 186)

やっぱり「高速」なのだが、そんなに速いですかね。ブレリアとかで本当に速いのはあるけど、一部だし、例えば踊りのソレアみたいに、これカンテの人よく歌えるなと思うぐらい遅いのもあったりする。あ、もしかしたら、著者が言っているのはテンポのことではなくて、刻みの細かさのことか。まあ、いずれにせよ、フラメンコがフラメンコであるためには、速い必要はないことに早く気づいてもらえたらと思う。

「不思議な」については、どうコメントしたものか。フラメンコで使われるリズム・パタンに不思議なものはない。馴染みがないものを「不思議」と言うのは、インフォーマルな話し言葉では許容されるかもしれないが、ここでこんなこと言うとフラメンコの神秘化に加担しかねないので、気をつけて欲しかった。

さて、「手」はスペイン語で mano で「腕」は brazo だ。前に書いた通り踊りには詳しくないので、バイレで mano を使うことを何と言うのか知らない。腕を使う方は braceo と言う。足と腕で zapateado と braceo になり、形が揃っていないのが気になる人のために言っておくと、実は zapateo という言い方もある。-eo の形も -eado の形も -ear で終わる動詞からの派生語として考えることが出来る。ついでにギターのラスゲアドにも似たような状況がある。

zapatearzapateozapateado
bracearbraceo
rasguearrasgueorasgueado

この2種類の形 (-eo と -eado) が区別なく同じように使われているのか、それとも何らかの違いがあるのか、僕は分からない。アカデミアの辞書では、どちらも «Acción y efecto de [xxx]ear» となっているのだが、それで直ちに使用上の区別がないとは断言できない。前回書いたように zapateado には踊りの種類としての使い方もあるので、その部分はもちろん重ならないのだが、rasgueado にはそういうことはなさそうだ。

実際の使い方がどうなのかは、ネイティブのフラメンコたちに聞いてみないことには分からないが、純粋に派生語の形態論の観点から言うと、zapateado が個々の足さばきではなくて踊りの種類を表せることについては説明がつくかも知れない。アカデミアの文法は «Se forman un buen número de sustantivos denominales que designan grupos o conjuntos con los sufijos -ado / -ada (RAE & ASALE 2009: §6.13g)» と言っている。つまり -ado の形は集合的な意味を表し得るのだ。そのページの例の中に zapateado はないので、僕の憶測に過ぎないのだが、まとまりを持った一連のサパテオがひとつの踊りを構成するという成り立ちなのかも知れない。僕の言語学者的先入観によれば、他の場面でも -eo が個別的で -eado が集合的という使い分けの傾向が期待されるが、そんな期待は裏切られることも多い。言語体系が提供する区別の可能性を、ネイティブスピーカーが利用する必要を感じないということなんだろう。

手の話に戻ろう。白状すると、池上が manos の話をしているのか brazos について語っているのか判断がつかない (最初読んだ時には braceo の話だと思い込んでいたのだが、そうとは限らないことに気づいた) し、彼が何を言わんとしているのかよく分からない。「一瞬音楽に先立つように動く手」については何となくイメージが湧くような気もするが、著者の意図が理解できている自信はない。「手と胴があえて異なったリズム・動きをする」と言われると、「不思議な」現代舞踊みたいなものが思い浮かんでしまうが、まさかそういう話ではないはずだ。誰か分かる人、教えてください。

その後「この足拍子はサパテアードとよばれ、一般のタップとちがって (池上 2019: 186)」という説明があり、サパテアドのことを知っていたんだと思ってちょっと安心する。しかし「一般のタップ」って何なんだろう。これに従えば、サパテアドは非一般のタップということになるわけだが、知っている人があったら教えて欲しい。

そして「足拍子のほか、指鳴らしや手拍子で調子を取ります (池上 2019: 187)」とのことだが、「指鳴らし (pitos)」や「手拍子 (palmas)」は踊り手の所作の一部なのだから、「調子を取る」みたいな表現はやめといたほうが良いのではなかろうか。

ところで、

Zapatear, no lo olvidemos, es incompatible con el braceo, de modo que su completo desenvolvimiento ha sido estigmatizado entre las mujeres, que se han visto limitadas a técnicas menores de pies: «marcar», «puntear», «escobillas» en momentos muy concretos del protocolo de los bailes, «pateos» o golpes en el suelo en los tránsitos entre sus partes consecutivas (Cruces Roldán 2003: 176)

という観察は興味深い。サパテアドとブラセオが両立しないというのは、踊ったことのない僕にとっては、言われて初めて気づいたようなものだが、サパテアドが男の踊りを特徴づけ、優雅なブラセオを見せるべき女の踊りには不似合いだとされてきたという点が重要だ。この論考は、タイトルからも分かる通り、ジェンダー論の視点から批判的にバイレにおける「女性らしさ」について考察しているもので、日本ではこの手の研究がほとんど紹介されていないから、ここに挙げておく。僕自身はちゃんと目を通していないので、そのうち読まなきゃとは思っているのだが、さて。

  • Cruces Roldán, Cristina, 2003, ««Cintura para arriba». Hipercorporeidad y sexuación en el flamenco», Más allá de la música. Antropología y flamenco (II), Signatura Ediciones, 167-204.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • RAE & ASALE, 2009, Nueva gramática de la lengua española, Espasa Libros.

2019年4月11日木曜日

Zapateado

カナ表記で音引きを使わない実験を少し続けてみようかと思う。ただ、カナ表記の話自体は、思ったより回数がかかりそうなので、一旦中断して『情熱でたどるスペイン史』に戻る。そう、終わっていなかったのだ。

僕は歴史が専門ではないので、例えば「カスティーリャ王国による半島全体の統一 (池上 2019: 79)」のような言い方に対してコメントするのはやめて、自分が少し勉強した分野についてちょっとばかり書いておきたい。タイトルから分かる通り、フラメンコについてだ。

スペイン人の情熱が集約されたような芸能に、フラメンコがあります。激しいリズムの舞踏(ぶとう)と高速タップ、民族の悲哀(ひあい)を訴えるメロディーと歌詞、(たましい)の奥底からしぼり出されるようなしゃがれ声、薄暗いホールのなかで演じられる情熱のパフォーマンスに感化され、私たち観客の体内でもしだいに電流のボルトが上昇して、胸がいっぱいになってきます。私はこれまで、二度フラメンコを見る機会に恵まれましたが、いずれも圧倒的な感銘(かんめい)を受けました。(池上 2019: iii)

これが、「はじめに」の最初のページに書いてある。う〜ん・・・

だが、タブラオのショーみたいなものを2回見たのが彼のフラメンコ経験の全てであるのなら、まあ許そう。その程度の経験でこれだけステレオタイプを羅列出来る度胸は別として、広く流布しているフラメンコのイメージはこんなもんだろうから、そこから一歩も出ていないからといって著者を責めてもしょうがない。

それにしても、なんでみんなそんなにサパテアド (!) が好きなんだろうな。フラメンコのバイレは、と言うかフラメンコに限らず踊りというものは、もちろん全身で踊るものだけれど、足さばきに目を奪われて全身の表現を見ないのは初心者にありがちなことだ。だが、スペイン人が撮った映像などでも、だんだん踊りが盛り上がって来て、さあここは全身を写して欲しい、という時に足だけアップになるというようなことは、残念ながら少なくない。僕はバイレにすごく興味があるわけでもないし、詳しくもないのだが、これじゃ表現 (つまりアルテ) が見えないじゃないかと思うわけだ。サパテアド習得用の教材ビデオじゃあるまいし。

歴史を遡ると、16世紀には既に zapateado という踊りがあったようだ。しかしフラメンコ的なバイレとしての zapateado は19世紀半ばに出て来たのだという。

Baile español muy antiguo, conocido ya en el siglo XVI, gracioso y vivo, de pasitos ligeros que a menudo se alternan con taconeo, generalmente realizado por mujeres o por parejas. Tiene poco que ver con el que se baila en la actualidad, del mismo nombre. // 2. Baile palpitante, sobrio de actitudes, de gran entidad flamenca, que surge a mediados del siglo XIX. Consiste en una combinación rítmica de sonidos que se efectúan con la punta, el tacón y la punta (sic; ¿planta?) del pie y es interpretado por hombres o, a veces por mujeres con el atuendo masculino de pantalón y chaquetilla corta. Actualmente el zapateado flamenco se intercala en la mayoría de los estilos, tanto por hombres como por mujeres, a veces quedando la guitarra en silencio, para resurgir junto a los demás elementos de acompañamiento en el momento de su mayor intensidad o remate. (Blas Vega & Ríos Ruiz 1990: s. v. zapateado)

検索するとメキシコでも zapateado が踊られているようだが、これがスペインに於ける16世紀以来のものや19世紀半ばからのものとどう関係するのか、僕は分からない。いずれにせよ、スペインでは19世紀の段階で zapateado は踊りの名前だった。そして男踊りだったわけだ。サラサテやグラナドスやトゥリナが作曲した zapateado は、これに発想の源があるのだろう。

で、この19世紀的な zapateado がどんな踊りだったのかが想像できる動画がある。zapateado Roberto Ximénez (あるいは Pilar López) で検索すると出てくるので、見てみて欲しい。名前の通りサパテアド中心と言うかそれしかしていないような踊りだが、Roberto Ximénez のこれは実に見事だ。«El Zapateado del perchel, que entra en los cánones más clásicos del flamenco, lo baila Roberto Ximénez con la limpieza y elegancia que transmite Pilar López a todos sus bailarines (Manuel Ríos Ruiz, 2002: II-263)» という評がある。もちろん、Ríos Ruiz が言うように、ピラル・ロペス舞踊団による上品で完成度の高い舞台作品であるということは忘れるわけにはいかない。普通に踊られていた zapateado は、もっと表面的な技見せ芸のようなものだったのではなかろうか。なお、「歌のつかないレパートリー (浜田 1983: 373)」に入るということは zapateado の特色のひとつだ。

さて、今のフラメンコでは、サパテアドは演目としてではなく技法として、踊りの形式や男女を問わず多用されている。しかし、今紹介したような歴史的変遷を見ても分かる通り、池上が「高速タップ」と呼んだような技法はバイレ・フラメンコの弁別的特徴ではない。つまり、それ無しでもバイレ・フラメンコは成立する。極端な例だが、試しにネット上で検索して Enrique el Cojo のバイレを見て欲しい。芸名の Cojo は、子どもの頃の病気がもとで脚が悪かったことからついた (Blas Vega & Ríos Ruiz 1990: s. v. Cojo, Enrique El) のだが、「高速タップ」は仮にやりたくてもできなかっただろう。しかし彼の踊りのなんとフラメンコであることか。僕は生で見ていないが、実際に見た人たちからその感動を聞いたことはある。せっかくだから活字になった賛辞を紹介しよう。実は、日本でグラン・アントニオと呼ばれることの多い Antonio el Bailarín についての文章なのだが。

思いのほか太りぎみで、ズボンもだぶだぶに見えた彼 (= Antonio: 引用者) が、舞台に立って初めの挨拶から絶妙の()をもってスッと横向きになり片手を挙げるポーズをしたとき……背筋を電気が走ったことを忘れない。いつも判で押したように技術で踊るバイラオールたちには出せない味、人間が踊るフラメンコの醍醐味が、この大家にはあった (ちなみに、もう一度、私はそのような醍醐味 —さらに深く、純な……— に思わず酔わされ、涙の出そうな感激をおぼえた。1981年、脚のわるいセビーリャの老匠エンリケ・エル・コホが日本へ来て踊ったときである)。(浜田 1983: 376)

横を向いて片手を挙げるだけで人を感動させるアントニオもすごいが、エンリケ・エル・コホはさらに深いということで、アントニオについて語っているところに入れるのはどうかと思わないでもないが、浜田さんよっぽどこれを言いたかったのだろうな。

もちろん、「高速タップ」に罪はない。足が動いて素晴らしい踊りをする人たちだっているわけだ。なので、床の速叩きしか能がない三流のバイラオレスは無視することにして、サパテアドを技法としてちゃんと評価することは必要だろう。それは、しつこいようだが、足さばきばかりに注目するのをやめることでもある。

なお、フラメンコの踊りを「舞踏」と呼んでいる例を時々見るけれども、「舞踊」が普通だろう。もちろん「踊り」で全然構わない。「舞踏」と聞くと、僕なんかは日本の現代舞踊の一種を思い浮かべてしまう (池上にとってはヨーロッパ中世の「死の舞踏」の方が近しいのかもしれない)。ブトーとフラメンコを掛け合わせたようなことをやってる人はいるかもしれないけどね。

  • Blas Vega, José & Ríos Ruiz, Manuel, 1990, Diccionario enciclopédico ilustrado del flamenco, 2.a, Editorial Cinterco.
  • 浜田滋郎, 1983, 『フラメンコの歴史』, 晶文社.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • Ríos Ruiz, Manuel, 2002, El gran libro del flamenco, Calambur.

2019年3月31日日曜日

Montsalvatge (3)

カタルーニャ語の固有名詞をカナで写そうとするときに出てくる問題を考えてみる。今回は母音を見ることにしたい。

まず確認しておくべきことは、この議論はあくまで日本語の表記に関わるものだということだ。カナ表記を巡っては「現地音主義」という不思議な用語があって、カナが他言語の発音を表すことができるかのような錯覚を与えかねないのだが、辞書などでカナを (出来の悪い) 発音記号として使う場合は別として、カナに出来ることは、日本語に借用された単語を日本語として表すことだ。「出来るだけ (その言語の) 実際の発音に近く」表記したいという気持ちは分かるが、日本語に出来る範囲でしか出来ないのだということは押さえておく必要がある。

もうひとつ確認しておくべきなのは、カタルーニャ語が持つ地域的多様性の問題だ。入門書などで解説している発音は、バルセロナを含む地域で話されている中部方言のものがベースになっている。これが伝統的に標準的発音と見なされているのだが、現代のカタルーニャ語規範は複中心的で、他の地域の発音も規範から排除されない。このことは、後で見るように、カナ表記問題に大きく影響する。

カタルーニャ語の方言区分については、立石・奥野 (2013: 48) あたりを見て欲しい。大きく東部方言と西部方言に分かれる。さっき出てきた中部方言は東部方言の下位方言で、紛らわしいけれどご容赦のほどを。で、東と西では母音体系が結構違うのだ。

そして、カタルーニャ語の母音体系は、強勢のある位置と無強勢の位置で分けて考える必要がある。まず強勢母音は7つある。バレアルス諸島では8母音体系だとか、フランスのルシヨン地方など5母音しかない所があるとか、ジロナあたりでは6母音だとか、異なる体系を持つ方言もある (Prieto 2014: §II.1.1.1) が、大勢は7母音なので、それだけを見ることにする。

iu
eo
ɛɔ
a

綴りについては、今の議論に関係する部分だけ大雑把に言うと、/i/, /a/, /u/ はそれぞれ i, a, u が対応し、/e/ と /ɛ/ は e で、/o/ と /ɔ/ は o で表される。ただし、狭い方 (/e/ と /o/) には鋭アクセント (´) を付け (é, ó)、広い方 (/ɛ/ と /ɔ/) には重アクセント (`) を付け (è, ò) て母音の別を表示することがある。しかしこれは、正書法上強勢の位置を示す必要がある場合だけで、そういう単語に関してたまたま母音の広狭が分かるというにすぎない。なお、強勢の位置を示すための í, ú, à もある。

単純に考えて5つしか母音のない日本語でカタルーニャ語母音の発音を再現することは不可能だ。だが、綴りの助けを借りれば簡単に対応を作ることができる。つまり /e/ と /ɛ/ の区別と /o/ と /ɔ/ の区別を無視すればよい。たとえば Pere /'peɾǝ/ と Cesc /'sɛsk/ は異なる強勢母音を持つが、同じ e で表記されていることもあり、日本語で同じエ段の文字で写して「ペラ」「セスク」とするのに抵抗はないだろう。同様に Ramon /rǝ'mon/ と Antoni /ǝn'tɔni/ の強勢母音はそれぞれ異なるが、同じ o で表記されており、日本語では「ラモン」と「アントニ」のようにオ段の文字で書いて誰も文句を言わない。

それから /u/ は日本語の「ウ」と結構異なる音だが、カナのレパートリーの中ではウ段の文字で表す以外の (単純な) 選択肢がない。

cat. 音素cat. 綴りカナ
/i/i, íイ段
/e/e, éエ段
/ɛ/e, è
/a/a, àア段
/ɔ/o, òオ段
/o/o, ó
/u/u, úウ段

なんだか不必要に面倒な話をしているように見えるかもしれないが、カナ表記が元の言語の音韻や発音をそのまま写したものではないことは確認できたと思う。さて、これからが本当に面倒な話、無強勢母音の扱いだ。

無強勢母音体系は、東部方言と西部方言で異なる。東に属するマリョルカ方言は両者の中間的性格を見せる (Prieto 2014: §II.1.1.4b) が、とりあえず措く。また、音韻論における中和という概念をどう扱うかという議論は素通りすることにする。表の書き方が厳密でないと思う人がいるだろうが、ご容赦願いたい。

cat. 強勢母音cat. 無強勢母音 (西)cat. 無強勢母音 (東)cat. 綴り
/i/[i][i]i
/e/[e][ǝ]e
/ɛ/
/a/[a]a
/ɔ/[o][u]o
/o/
/u/[u]u

西部方言では5母音で、この体系をカナに写すのは簡単だ。一方東部方言は3母音体系で、綴りとの関係で言えば、{i}, {e, a}, {o, u} に対応する。つまり同じ音を異なる文字が表す場合があるということだ。やり方としては、音に合わせて e も a も同じカナを充てる方向と、綴りに合わせて e と a に別のカナを対応させる方向が考えられる。前者が当たり前だと思う人が多いかもしれないが、英語の曖昧母音 ǝ に対応するカナはむしろ後者 (例えば Elizabeth [ɪ'lɪzǝbǝθ] エリザベスのザとベ) で、それをみんな普通に使っている。最初から問題外というわけではない。

音に合わせる方針にするなら、どの文字を使うかが問題になる。 [i] はイ段の文字で問題ない。[u] はウ段の文字で対応すれば良いだろう。[u] についてはオ段の可能性もあり、日本語話者がカナ表記を発音した時により元の音に近くなる場合も考えられるが、強勢母音と扱いを揃えた方が良いだろう。カタルーニャ語の [ǝ] は僕の耳にはアに聞こえることが多い。エ段とア段のどちらかということなら、ア段を選ぶのが穏当だろう。

綴りに合わせる方針なら、西部方言を写すのと同じことになる。カタルーニャ語の正書法は西部方言にも対応できるように考えられたもので、区別の多い方に合わせることで、結果的には東部方言では発音上の区別がない書き分けが生じたわけだ。したがって、綴りに合わせると言っても音声上の根拠を西部方言に求めることができる。どちらも「正しい」発音なので、理論的には対等だ。また、東部発音では ea の e が [ǝ] ではなくて [e] で発音される (例えば Balears [bǝle'ars]) なんてことを覚えておかなくても良いという (小さい) メリットもある。

というわけで、伝統的に標準音と見なされてきた東部の発音をベースにするという、多分多くの人が採る方式と、汎カタルーニャ語的な綴りを考慮に入れた方式があり、僕にとっては後者も捨てがたい。なので、ここではどちらかに決めることはせず、両方式の例を思いつくままに挙げて、皆さんに考えてもらうことにする。

cat. 3段式5段式
Barcelonaバルサロナバルセロナ
Carles Puigdemontカルラス・プッチダモンカルレス・プッチデモン
Carmeカルマカルメ
Castellóカスタリョカステリョ
Enricアンリックエンリック
Figueresフィゲラスフィゲレス
Illes Balearsイリャス・バレアルスイリェス・バレアルス
Jaumeジャウマジャウメ
Joan Corominesジュアン・クルミナスジョアン・コロミネス
l’Hospitalet de Llobregatルスピタレット・ダ・リュブラガットロスピタレット・デ・リョブレガット
Montsalvatgeムンサルバッジャモンサルバッジェ
Montserratムンサラットモンセラット
Penedèsパナデスペネデス
Pereペラペレ
Pompeu Fabraプンペウ・ファブラポンペウ・ファブラ

あ、あと音引き「ー」は必須ではないと思うし、入れると間が抜けることが多いと思うので、使っていない。僕自身は昔より「ー」を使わなくなっていて、今思い切って無しにしてみた。「カタルーニャ」は流石にこっちが見慣れた感じだが、「カタルニャ」でも良いような気がしてきた。「ー」の扱いはカスティリャ語とも共通したテーマなので、項を改めて論じたい。

  • Prieto, Pilar, 2014, Fonètica i fonologia. Els sons del català, priera edició en format digital, Editorial UOC.
  • 立石博高・奥野良知 (編), 2013, 『カタルーニャを知るための50章』明石書店.

付記 (2019/04/01): Prieto 2014 への参照セクションを修正。章番号をローマ数字で付け加えた。Prieto 2014 は Kindle と Google Play で売っていて、G の方が安かったのでそれを買ったのだが、Google Play の電子書籍リーダー (iOS版) の出来はかなり改善の余地ありで、知的営みのための投資をケチったことを後悔している。