2022年12月9日金曜日

Tilititlán

いや、アステカ文明の話ではなくて、日本語話者のスペイン語発音の話。

日本に来たフラメンコ達への聞き書きを中心に構成した本 (López Canales 2020) を読んだ。かなり面白かった。この本の全体的なトーンとしては、フラメンコ達の発言も、著者の態度も、日本や日本のフラメンコに対するリスペクトが基調をなしているが、ところどころ、否定的な観察や辛辣なコメントが出てくる。例えば、あるカンタオルによる次の発言。これなんか、日本人が読むことを想定せずに言った (書いた) んだろうな (誰の発言か知りたい人はオリジナルを読んでね):

Eso es lo único que no pueden hacer: cantar. Ni lo han hecho ni lo van a hacer en la vida. Yo les digo a ellos que en España no vale solo con ser español, que no canta todo el mundo. Y ellos se escuchan un disco y ya quieren cantar... ¡Pero les suena la voz a perro! Los que se dedican a ello saben cantar a compás, pero con esa misma voz de perro. Sabor, ninguno. ¿Qué sabor puede tener un japonés cantando flamenco? ¡Lo primero es saber el idioma! ¿Qué es eso de decir tilititlán, tlan, tlan? (López Canales 2020: 181)

日本人にカンテが歌える日が絶対に来ないかどうかは措いておいて (著者は «Pero el cante flamenco era la frontera imposible de cruzar. O la última frontera (ibid.)» と言って、このカンタオルの意見を相対化している)、歌うためにはまずスペイン語を、というのはその通りだ。と言うか当たり前すぎて、こんな事を言われるようじゃ恥ずかしいよな、と思うのだが、まあ現実は tilititlán からすごく遠いわけではない。

僕は、アマチュアが仲間内で楽しんで歌うだけなら堅いこと言う必要はないと思っている。特に年齢の進んだ人に対して、文法や発音の勉強を強いるのは意味がない。中にはスペイン語がまったく喋れないのに感動的な歌を歌う人もいる。そういう人が歌うことを楽しめる環境を壊してはいけないと思う。もちろん、みんながスペイン語をきちんと身につける努力をするのであればその方が良い。そして学習意欲のある人をサポートする必要はあって、歌詞の解釈を巡る質問や発音指導の希望には、できる範囲で応えたいと思っているところだ。

でも、人前で歌いたい、プロになりたいという場合は話が別だ。たとえば日本フラメンコ協会がやっている「新人公演」のカンテ部門の出場者たちのスペイン語レベルは高いとは言えなくて、審査委員をやった時の講評に l と r の区別に気をつけましょうと書いたことがある。もちろん、スペイン語力というのは全体的な運用力が問題で、歌詞を理解するための読解力は結構なレベルが必要なのだ (そして読解の結果は歌の表現に出るはずだ) が、聴く者に直接見えるのは発音なので、発音の習得にはしっかり取り組んでほしいと思う。

とは言え、アマもプロ志望も、発音が出来るようになりたいと思っていない人はごく少数だろう。問題は、その方法が分からないということなのかもしれない。あるいは、最近僕が「認知の地平」という用語で認識している問題があるのかもしれない。具体的な例で言うと、スペイン語には l と r の区別があると知っていて、本人は tirititrán と言っているつもりだが実際の音声は tilititlán になっているような場合だ。つまり、その学習者の認識では r なのだが、実は l で発音していることに気づいていない。実は、まあ秘密でもなんでもないので言うけれど、こういう例は学習者だけでなく、教えている人の中にも見られる。そう、自分が r を発音すべきところで l と言っていることに気づいていない先生が存在するのだ。

したがって、これは日本におけるスペイン語教育業界が抱える問題であって、フラメンコを歌いたい人だけが批判される筋合いのものではないのだ。僕も30年以上教壇に立っているが、正直、学習者が l/r の区別を習得することを含めて発音教育全体を諦めているところがある。その責任は免れないと思っているが、やはり学習者が自分の認知の地平を超え出て新たな地平を獲得するのは、発音面でも文法面でも簡単なことではない。

しかし言い訳ばかりしていてもしょうがない。Tilititlán の問題点を少し考えてみよう。さっきも言ったように、学習者は l と r の区別があるということは知っていても、それぞれをどのように発音すれば良いのか分かっていないという事態が存在する。その原因の1つとして考えられるのが、日本語のラ行音が、実は [l] で実現されることが多いということだ。日本語のローマ字表記ではラ行は r で書かれるので、ラリルレロと言えば r になる (そして l を発音するためには何か特別なことをしなければいけない) と思っている学習者は少なくないだろう。ところが、残念ながらそうではなくて、意識して習得しなければいけないのはむしろ r [ɾ] の方だったりするわけだ (注意すべきなのは、これは人によって異なるということ。R の方は苦もなく出せるが l はからっきしという人もいるはずだ)。僕の印象では、-era で終わる単語が -ela になる人が目立つが、もちろん他の環境でも tilititlán は起こり得る。

では、この意識して習得すべきスペイン語の r [ɾ] はどういう音か。寺﨑 (2017: 60) は「調音する際は、舌尖が急速に持ち上がって上の歯茎を1回だけ軽くはじくように当たる」と言っているが、これで分かるだろうか。僕は、この説明は記述的には妥当かもしれないが発音習得にとっては問題があると思う。それは、学習者が舌先を「急速に持ち上」げようと意識してしまうと、むしろ [l] になる危険があると思うからだ。一方、上田 (2011: 24) の「[l] の発音では舌先を上の歯茎にしっかりとつけて、舌の両側から息を通して「ルー」と発音します。[r] は舌先を軽く上の歯茎にぶつけて一瞬の間に「る」と言います。実験音声学の資料によれば、[l] の調音の長さの平均は100分の6秒であり、[r] の調音の長さの平均は100分の2秒です (上田は [ɾ] を [r] と表記している)」は役に立つ情報を多く含むが、「上の歯茎にぶつけ」るという意図的な動作が [l] を招来しないかちょっと心配だ。「一瞬の間に「る」と言う」のも難しいだろう。

それに対して、原 (1979: 32) の「舌先を上の歯茎に接近させておいて呼気の勢いを利用して舌先で歯茎を1回はじく」という説明は、舌を意図的に上に向けて動かす動きを避けている点で優れていると思う。とは言え、これでピンとくる人がどれだけいるかという問題は残る。思うに [ɾ] で大事なのは舌の上への動きではなくて舌が弾かれて歯茎から離れる感覚なのだが、これを言葉で伝えるのは難しい。

別のアプローチをしているのが福嶌&ロメロ (2021: 22) だ。彼らは「舌先で上の前歯の歯茎を軽く弾いて出す。日本語の「からだ」「ころころ」のラ行音は [ɾ] に近い単音で発音されることが多い」と言うのだが、日本語話者が日本語で [ɾ] を発音することがあり、それが多数派である環境があるということを利用した説明だ。確かに、「からだ」や「ころころ」はナチュラルスピードで発音すれば [ɾ] に近い音になる人が多いだろう (ゆっくり発音すると [l] になる確率が高まる)。問題は、自分の「からだ」が [ɾ] なのかどうか、それをどうやって確かめるのかということだ。つまり、これは聞いて区別のつく人に教えてもらうしかない。僕は昔 [ɾ] に対しては「アレッ?」を、[l] に対しては「アッラ、マア」を推奨したことがあるが、これも自分で確かめられない人にとっては役に立たない情報だ。結局、音声学の素養がある人やセンスのある人は別として、独学は限りなく難しいということになる。

なお、López Canales は «Ore, ore» のような tilititlán とは逆の現象も拾っている。日本語話者は [l] や [ɾ] が発音できないわけではない。これらを区別して適切に使い分けるのが難しいのだ。

やれやれ。

  • 福嶌教隆 & フアン・ロメロ・ディアス, 2021, 『詳説スペイン語文法』, 白水社.
  • 原誠, 1979, 『スペイン語入門』, 岩波書店.
  • López Canales, David, 2020, Un tablao en otro mundo. La asombrosa historia de cómo el flamenco conquistó Japón, Alianza Editorial.
  • 寺﨑英樹, 2017, 『発音・文字』, スペイン語文法シリーズ2, 大学書林.
  • 上田博人, 2011, 『スペイン語文法ハンドブック』, 研究社.

2022年11月21日月曜日

Tengo que no reconocerla

今年 (2022年) の外語祭のスペイン語劇は『血の婚礼 (Bodas de sangre)』。

なので (一部だが) 読み返した。改めてロルカの紡ぎ出す言葉の力に感嘆し、外国語学習においても文学を読むことは大きな意義があるよな、と思ったのだった。あまり知られていないと思うが、今のCEFRは文学を読むことも言語活動のひとつとして能力記述の対象にしている。そう、契約書が読めるとか論文が書けるとかだけが言葉の使い道ではないのだから。

さて、この作品の終わり近く、母親と村の女がいるところに花嫁が現われる。すると:

Vecina: (Viendo a la novia, con rabia.) ¿Dónde vas?

Novia: Aquí vengo.

Madre: (A la vecina.) ¿Quién es?

Vecina: ¿No la reconoces?

Madre: Por eso pregunto quién es. Porque tengo que no reconocerla, para no clavarla mis dientes en el cuello.

母親の台詞はさらに続くのだが、ここで面白いのが tengo que no reconocerla の語順だ。教科書にはこういうのは出てこない。僕もこの作品との付き合いは40年近くになるが、今回初めて意識した。

とは言え、すでに deber についてはそういう例を見ていたので、別に驚きはしなかった。ちょっと長くなるが、引用しよう:

Tal vez esta disertación suscite críticas y contradicciones. Pero los españoles somos proclives a las aventuras quijotescas y nunca me ha detenido en mi camino el temor a enfrentar discusiones y censuras, cuando he estado convencido de que me asistía la razón. Amo, además, tan férvidamente a Europa, mi gran patria, que no puedo vacilar en arriesgar cualquier peligro si puedo contribuir a evitar la crisis previsible de la civilización por ella creada y del hombre en ella forjado. Destronada de su función rectora, aun puede y debe servir a la humanidad como guía espiritual. Mas, para seguir cumpliendo esa misión, debe no olvidar una de las lecciones de la historia: el hombre es libertad; dejará de serlo, dejará de ser hombre, si la pierde, y conservándola puede alcanzar lo que he llamado y vuelvo a llamar su plenitud histórica. (Sánchez-Albornoz 1977: 129)

内容はともかく、最近多い気取り (かっこつけ) ばかりが目立つ文章とは異なり、落ち着いて均整のとれた文章だと思う。そこで debe no olvidar 「忘れないことをしなければならない」が目を引くわけだが、no debe olvidar で済むところを敢えて「することの禁止」ではなく「しない義務」の存在を際立たせようとしたのだろう。

『血の婚礼』の母親の言葉もおそらくそうで、私は no reconocerla しなければいけない、つまり彼女が誰か分らないでいる必要がある、ということだ。母親は、花嫁が入って来たのを見て「あれは誰?」と尋ねる。村の女が「分らないの?」と返す。それに対して「だから (=分らないから) 誰だって聞いてるのさ」と答える。なぜなら花嫁だと分っていたら彼女の首に噛み付くだろうから、それをしないために分らないでいなければならないからだ。本当は花嫁だと分っているのだが、分らないことにしているわけだ。

ところが、長南実訳は「そいつの首っ玉に、食らいつかないためには、だれなのか知らなきゃならんのさ」で、no が無視されたような訳になっている。もちろん誤訳だ。一方、牛島信明訳は「本当は、誰なのか知らずにいなけりゃいけないの、さもないとその女の喉もとにあたしの歯を突き立てることになるからね」で、本当は分っているけどというところまで訳で表現しようとしているが、「本当は」のせいで、かえってちょっと分りづらくなっている。

さて、「法動詞 verbos modales」の中には poder のように no の位置が明瞭に意味の違いを表すものがある:

  1. Juan no puede estar en su habitación.
  2. Juan puede no estar en su habitación. (Bravo 2017: 58. 一部改変)

1は「いてはいけない」で2は「いなくてよい」、あるは「いるはずがない」と「いない可能性がある」という対立がある。

一方 deber や tener que の場合は no がこれらの動詞の前にあるときに2通りの解釈が可能だ:

  1. Juan no debe hablar francés. (Bravo 2017: 59)

Bravo によれば、3は「話してはいけない」の他にも、文脈によっては「話さなければいけないということはない」という読みも成り立つらしい。後者の解釈は、教科書などには載っていないが、Bravo の説明を読むと、確かにそういう場合もありそうだ (文脈は限られそう)。

No tener que は、「しなくてよい」しか載せていない教科書もあるが、「してはいけない」の例もある。

  1. Los estudiantes no tienen que matricularse tarde (si quieren tener plaza). (Bravo 2017: 59)

これは、遅れて履修登録しちゃいけない (遅れずに登録しないといけない) と読まないと通じない。

日本の学習書で no tener que が「してはいけない」になり得るという記述をしている例を1つだけ挙げておこう。

否定形については、no deber は「〜してはいけない」という意味ですが、no tener que と、no hay que には「〜してはいけない」という意味と、「〜する必要がない」という意味があります (上田2011: 241)。

というわけで、no tener que (や no deber) の解釈は文脈に依存することが分かった。この事実は、さっき言った「しない義務」を明示するために tener que no (deber no) という語順を選択する可能性を開く。そうしなくても、文脈があるから聞き手が解釈に困ることはまずないだろうが、選択肢があることは話し手にとって重要になり得る。Bravo (2017: 59) は deber no と haber de no の例を挙げているが、tener que no もありますよ、という話。

あ、語劇は11月23日16:00から。お時間のある人は是非どうぞ。

  • Bravo, Ana, 2017, Modalidad y verbos modales, Arco Libros.
  • Sánchez-Albornoz, Claudio, 1977, Siete ensayos, Planeta.
  • 上田博人, 2011, 『スペイン語文法ハンドブック』, 研究社.

2022年11月14日月曜日

Les niñes

Jidequín 氏による記事に les niñes という表現が引用されている:
https://note.com/jidequin/n/n56e962773d48

そこで氏が les niñes を「トランスジェンダーの子供たち」と書いていたので、違うんじゃないかとコメントしたら、早速対応してくれた。今 (2022/11/13:11:26) は「男でも女でもない子供」と「どちらの性でもないこども」になっている。

実は、これを見て最初は「これでも不足」と思ったのだった。僕の理解では les niñes は男も女も、どちらでもない場合もどちらでもある場合も含むからだ。しかし、今のスペイン語の記述的観点から事態はもっと複雑だということが判ったので、以下報告しよう。

スペイン語の名詞は必ず男性か女性か、性 (género) という文法的属性を持つ。本 libro が男性でテーブル mesa が女性という具合で、これは性の一致という文法現象として現れる。定冠詞をつけると、それぞれ el libro, la mesa になるというのがその例だ。これだけなら学習者にとって面倒な暗記事項のひとつでしかないが、自然の性 (sexo) やジェンダーを持つ存在を指す名詞も文法的な性を持つので、この文法現象が例えばLGTBQな人たちにとって問題だという議論が出てきている (もちろん全然問題じゃないという人も多い) わけだ。これは大きく lenguaje inclusivo という観点から論じられている。

たとえば生物学的な sexo は男性だが性自認が女性で、自分を niño と言わなければならないのが辛い、niño と呼ばれるのが苦痛だという場合がある。あるいは男か女か揺れ動いたり決らない場合もある。しかし、今のスペイン語では niño か niña のどちらかにしないと文法的にまともな表現が産出できない。そこで色々な工夫が登場することになるのだが、les niñes はそのひとつで、最近よく目にするようになった。

それより前に多かったのが o と a を合わせたような格好に見える @ を使うもの (l@s niñ@s) や x を使うもの (lxs niñxs) だが、これらの手段の弱点は発音ができないということだ。なので、これらは (インフォーマルな) 書き言葉専用ということになる。それに対して les niñes は発音できるので、インクルーシブな流れに敏感な政治家がスピーチで使ったりすることで世間の注目を浴びることになる。

その筆頭がアルゼンチンの大統領 Alberto Fernández だろう。彼は2019年、大統領候補だった時に «cada chico, cada chica, cada chique» と言って話題になった。今年の9月には、彼がツイッターで «un chique» と書き、それを RAE に「通報」した人がいて、当然 RAE は lenguaje inclusivo として e を使うことに批判的だから、男性形が「包括性」を示すと答えるという事件があった。

Alberto Fernández のツイートは «Que un chique no pueda estudiar porque no cuenta una computadora, la verdad es postergarlo, frustarlo (sic)» となっていて、直前の un から chique が男性名詞として使われていることが分る。そして、文脈からは un chique が男女を問わない (男も女もそれ以外も含めた) 包括的 (総称的) な意味で使われていることも分る。一方、このツイートに対して chique って何?、という反応 (多分大部分は修辞疑問) があるのだが、それに対して次のような「真面目」な回答が見つかる: «Un chique o niñe es un sujeto que no se siente representade por el sexo masculino o el femenino, es decir que no se identifica con los pronombres El ó ELLA»。この回答は「男でも女でもない」という Jidequín 訳に沿ったものだ。また、件のツイートに載っている動画で Fernández は un chico, una chica, un chique を並べて使っていて、「男でも女でもない」読みが可能だ。ということは、 chique には、男性女性の区別に関与しない非性の用法と、男性・女性・非性という対立する3項の1つという用法があるということになる。

スペイン語の文法的性の体系は、男性優位にできている (言語学的には男性が無標だと言うわけだが)。「男」を表わす el hombre が「人間」を意味できたり、男性複数形が男女の混ざった集団を表わせたりする。後者については、たとえば novios = novio + novia (カップル、新郎新婦) とか -o と -a で男女が区別されるペアに限らず padres = padre + madre (両親) のように語基が異なる場合にも適用される。

実際のテクストから1つだけ例を挙げると、«tanto el profesor como el alumno son agentes activos del proceso de enseñanza-aprendizaje (Wikipedia: «Profesor»)» に出てくる el profesor と el alumno は男女を問わない「先生と生徒」を表している。こういう例はけっこう多い。

今のところのスペイン語:
chico
chicochica

さて、このような言語的特徴に対して、スペイン語世界は伝統的に女性を表すという形で対抗してきた。20世紀前半から、職業名詞の女性形を作る動きが盛んで、それは今のアカデミアの姿勢にも受け継がれている。男の大統領が el presidente なのに対して女の大統領は la presidenta で、-e と -a で男女が対応するという比較的少ないパタンではあるが、標準的な形として定着している (この形に文句を言う人もいないわけではない)。また、いつ頃からの現象なのか僕はよく分からないのだが、たとえば los ciudadanos で「市民」全体を表現できるところに los ciudadanos y las ciudadanas と言うことがある。このパタンについてはアカデミアは los ciudadanos だけで十分という立場だが、アカデミアが明示的に「人工的で不必要」と言っているということは、それなりに広まっているということだ。女性を表示することによって男性の無標性という名の優位性を相対化しようというわけだ。

ところが、昨今のLGTBQを巡る動きでは、男にせよ女にせよ性の表示自体が問題視される。性を表示しようとしてきた20世紀からの動きと、それを否定する最近の動き。これらがどう衝突してどう折り合うのか、記述者にとっては大変興味深い。そして、3つ目の項としての非性の表示というのが、その鬩ぎ合いのひとつの結果なのではないだろうか。

chique を含む体系:
chique
chicochicachique

もちろん、ここで非性名詞の誕生を予言したいわけではない。文法的な性の体系は強固だから、les niñes が一時的な現象に終わって跡形も残らず消える可能性もある。男性が無標であるという「純粋に体系的」な話も良く分かる。しかし、言語は人が使うことを通じて変化する。Les niñes がスペイン語の体系にどういう影響を与えるのか、与えないのか、僕が生きているうちに結果を見ることは出来ないだろうけれど、何と言うか、楽しみだ。

2022年9月24日土曜日

O rromano kòdo

角悠介, 2022,『ロマニ・コード』, 夜間飛行。
著者は言語学者、ロマニ語の研究が専門で、ルーマニアでロマにロマニ語を教えている。とはいえ言語学的な話はほとんどなく、彼が出会ったロマ達の話が中心だ。それがとにかく面白い。本当に面白い。

中身は各自読んでもらうことにして、本のタイトルにある「ロマニ」はロマニ語のロマニだが、もともと「ロマの」という形容詞の女性単数形だ。つまりここでは「コード (行動規範みたいな意味だろうか?)」にかかる形容詞 (日本語としては「形容詞」とは言わないが) だ。面白いのは、表紙にはロマニ語のタイトルも書いてあって、それが上に掲げた o rromano kòdo で、そう、「ロマニ」ではなくて「ロマノ」になっているのだ。これは同じ形容詞の男性単数形なので kòdo が男性名詞だということが分る (o は定冠詞男性単数形)。じゃあ何故「ロマノ・コード」にしなかったのか?

「ロマニ」は「ロマニ語」という形で言語を指すのに使われていて、それなりに定着している。スペイン語の romaní や英語の Romani (Romany) も同様だ。ロマニ語でロマニ語を意味する rromani ćhib (ćhib は「舌・言語」を意味する女性名詞) から来ているのかも知れないが、良く分らない。いずれにせよ、「ロマノ」より「ロマニ」の方が馴染があるわけだ。ロマニ語では形容詞が性数変化するが、日本語でいちいちそれに対応するわけにもいかない。ということで「ロマニ」で統一するのは理解できる解決方法だ。

さて、やっぱりちょっとだけ中身を紹介すると、伝統的なロマのグループには「ロマニ・クリス (ロマ法廷)」というのがあるのだという (rromani kris で kris は女性名詞ということになる)。詳しいことは読んでもらうことにして、法廷なので証人が出てくる。

証人は証言をする前に「誓い」をするが、この「誓い」は「呪い」にほかならない。もっとも一般的なものは「もし私が嘘をついたら、神が私を打ちのめすように!」といったものである (角 2022: 161)。

これを読んで思い出したのが、トナ・マルティネテの締めで歌われることのある歌詞だ。勿論バリエーションはあるが、例えばこんな感じ: Si no es verdad, / que Dios me mande un castigo, / si me lo quiere mandar (飯野1994: 71).

ただし、この歌詞が「ヒタノ法廷」の名残りを示すものなのかどうかは分らない。Antonio Mairena (1909-1983) の全集では上のを含めて4つ確認できるが、Machado y Álvarez (1881) はトナ・マルティネテ系の歌詞としては拾っておらず、1例だけ4行のソレアに次のものがある (ただし神は出てこない): Jasta el arma m’ha yegao / La rais e tu queré / Si no es berdá lo que digo / Mala puñalá me den (Machado y Álvarez 1881: 89). これは一応標準語に直しておくと: Hasta el alma me ha llegado / La raíz de tu querer. / Si no es verdad lo que digo / Mala puñalada me den. になる。というわけで、Mairena の歌った歌詞の古さを手元の資料で確認することはできなかった。

  • 飯野昭夫, 1994, 『マイレーナ・フラメンコ全歌詞集』, アクースティカ.
  • Machado y Álvarez, Antonio, 1881, Colección de cantes flamencos, edición facsímil, Extramuros, 2007.
  • 角悠介, 2022,『ロマニ・コード』, 夜間飛行.

2021年8月19日木曜日

El día lunes

前の記事で取り上げた medirse a だが、実例を見たのは多分あれが最初ではない。言っていることは分かるので、頭の片隅で引っかかることはあったかもしれないが、そのまま通り過ぎていたんじゃないかと思う。今回この表現を意識したのは、多分 se medirá a Hungría の á-a-u という音の連なりが原因だ。無強勢の a が埋没しがちな環境が、かえって a を意識させることになったのではないかと思う。

意識するしないということで思い出す経験が、今回のタイトルにあるパタン。曜日の言い方は、定冠詞と曜日名の名詞で成り立つ: el lunes で「月曜日に」になるので、前置詞は要らない。というのが教科書に書いてあることで、僕も教室でそういう風に言い続けている。しかし、もう随分前のことだが、アカデミアの文法にこんなことが書いてあるのを見つけたのだ:

En Chile, los países andinos, los del Caribe continental y en algunos de las áreas centroamericana y rioplatense, es frecuente incorporar el sustantivo día a la designación de los días de la semana, formando una estructura apositiva del tipo «artículo + sustantivo + sustantivo», como en el día lunes (RAE & ASALE 2009, §14.8e)

へぇ〜そんなことがあるのか、と思った数日後、非常勤講師で来てもらっているチリ人がこのパタンを使っているのに気がついた (具体的な曜日名は覚えていない)。この人とは大体週1回顔を合わせていたので、それまで el día lunes を聞いていなかったはずはないのだが、このパタンの存在を知らなかったために、意識化されることがなかったのではないかと思う。

さて、それから何年も経っているわけだが、最近『83歳のやさしいスパイ』という映画を観てきた。映画に出ているのは普通のチリ人たちで、彼らの喋りを聞き取るのはやっぱり骨が折れるが、字幕も見えるから一応話は分かった。その中で el día lunes のパタンが聞こえたので (具体的な曜日名は覚えていない)、あ言ってるな、と思ったという次第。

なお、el día lunes が使われるところでは día のないパタンもあるのに対して、スペインでは día がないパタンしか使われない («Esta construcción alterna con la variante no apositiva, en la que no aparece el sustantivo día (el jueves, el martes, etc.) [...] La construcción no apositiva es la única que se usa en el español europeo (RAE & ASALE 2009, §12.13w)»)。また、中世には el día de lunes も存在したが、現在は使われていないという («En la lengua medieval se registra la variante con de, hoy perdida: el día de lunes, el día de martes, etc. (ibid.)»)。

  • RAE & ASALE, 2009, Nueva gramática de la lengua española, Espasa Libros.

2021年8月8日日曜日

Medirse a

スペイン国営放送のラジオニュースをPodcastで聞いていたときのこと。

オリンピックもいよいよ最終日、メダルがもう1つとれるかもしれないという話で «La selección masculina de waterpolo luchará por el bronce. España se medirá a Hungría (Boletín RNE, 2021/08/08, 00:00H)» と言うので、あれっと思った。Medirse を「対戦する」という意味で使うのは知っていたが、前置詞は con だと思っていたので、そっか a でも使うんだ、と思ったわけだ。

ちなみに『西和中辞典』は「《con... ・・・と》競う、張り合う」、『現代スペイン語辞典』と『スペイン語大辞典』は「[+con と] 力を競う、戦う; 雌雄を決する」だ。3つとも例句の訳に「対戦する」を載せている。共起する前置詞については、明示的に con を載せているが、a への言及はない。

María Moliner の DUE の第3版には «(con) *Competir» という語義があり、ここでも示されているのは con だけだ (第4版は未見)。

なので medirse a は比較的新しい言い方なのかも知れないが、ちょっとgoogleってみると:

  • "España se medirá con": 約24,000件
  • "España se medirá a": 約49,400件

という結果。Medirse a が約2倍だが、問題としている構造とは違う例が含まれている可能性もあるし、同じ文章が繰り返し引用されている可能性もあるから、考えるきっかけ程度の数字だ。でも、a が普通に使われている状況だということは想像できる。まあ国営放送のニュースで使うぐらいの表現なわけだけど。

Medir は「測る」がもとの意味だから、medirse con の con は「たけくらべ」の相手を指すのだろう。でも、con だと「対立感」が出にくいと感じるのはネイティブでも同じなのかもしれない。それで a の登場ということになったのだろうかと思う。

そのうち medirse a が辞書に普通に載るようになるか (既に載せているものもあるかもしれない)、あるいは結局採録されずじまいになるか、僕には分からない。辞書編纂者の判断ということになるが、大変な仕事だなと思う。Medirse だけ追っかけていれば良いわけではないし、言語は絶えず変化するから、広く目配りしながら日々地道に観察を続けなければいけない。3日単位で仕事している僕にはとてもじゃないが無理だ。

  • 宮城昇ほか (編), 1999, 『現代スペイン語辞典』改訂版, 白水社 (iOS版, LogoVista 電子辞典 2013-2016, ロゴヴィスタ).
  • Moliner, María, 2007, Diccionario de uso del español, 3.ª edición, Gredos.
  • 高垣敏博 (監修), 2007, 『西和中辞典』第2版, 小学館 (iOS版, 物書堂, 2010, ver. 2.6.3)
  • 山田善郎ほか (監修), 2015, 『スペイン語大辞典』, 白水社 (iOS版, LogoVista 電子辞典 2017-2018, ロゴヴィスタ).

2019年12月10日火曜日

Parecer (2)

前回、『現代スペイン辞典』と『スペイン語大辞典』における parecer のヘンテコな記述について議論した。その後すぐに、そのヘンテコ性の原因は分かったのだが、記事にする時間が取れなかった。ちょっと間があいて間が抜けた感じではあるが、報告しておく。

その原因は María Moliner だ。

Moliner (1981: s. v. parecer) の2番目の語義:
Tener una cosa el mismo aspecto que otra que se expresa, *parecerse a ella: ’Tienen una casa que parece un palacio’. ⦿ Tener una cosa cierta apariencia con la que *engaña haciendo creer que es otra o de otra manera: ’Con los espejos, la tienda parece mucho más grande. Con esa cara parece una santita’. ⦿ («a»). En la frase proverbial ’el que [quien] a los suyos parece honra merece’, «parecer» equivale a «parecerse».
で、明示的に parecerse を使って説明している。これを見て「似ている」という語義をつけてしまったのだろう。例文を見ても、ここを参照しているのは確実だ。

ちなみに * 印は «Indica que le artículo encabezado por la palabra a que afecta contiene un catálogo de palabras afines y relacionadas (Moliner 1981: tomo 1, LV)» で、この場合 parecerse の項目中に関連語彙が集められている。最初の方だけ挙げておくと:
Tener [Darse] un aire, aproximarse, asemejar[se], asimilar[se], evocar, estar hablando –hablar–, igualar, imitar, inclinarse, madrear, darse la mano, oler a, padrear, correr parejas, rayar en, recordar, rozarse, oler a, salir a, semblar, semejar[se], sugerir, tirar a (s. v. parecerse)
という具合だ (oler a が2回出てくるのはご愛敬)。これらの語を見て分かるように、星印は必ずしも同義関係を表すわけではない。しかし、上の parecer に出てくる parecerse は直接の語義説明だし、しかも注意を引く印がついている。まあ、これに引きずられたのだろうな。

なお、第1版には parecer とは別に parecerse という見出しがあり、上の関連語彙はその中にあるが、第2版では parecerse は独立した見出しではなく、parecer の中で再帰動詞の用法が説明されている。だとすると、見出し語ではない parecerse に * はつかないはずだが、第2版でも第3版でも * は取れていない (oler a の重複もそのまま)。

さて、María Moliner の辞書は大変評価の高い優れたものだが、もちろん完璧な辞書は存在しない。ここで parecer の意味を parecerse で説明するのは不適切だ。彼女が parecerse の意味で parecer が使われているとして挙げている諺の例は、むしろこの2つが少なくとも現代のスペイン語では意味が異なることの傍証になる。試しに el que a los suyos parece で検索すると約3,420件、el que a los suyos se parece だと約25,800件で、現代スペイン語としては parecerse を使った方が落ち着くようだ。

というわけで、かつては parecer が「似ている」で使われることがあったにせよ、今のスペイン語の記述としては、特に学習者向けの辞典においては、parecer と parecerse が別物だということが明確に示すべきだ。Moliner に遠慮することはない。と言うか、批判すべきところを批判するのが著者に対する礼儀だろう。

あ、それから前回「ゴリラに似ている」は parecerse で言えそうだと言った。これは特定のゴリラではなくてカテゴリーが対象になっている場合の話で、実際そういう例を見つけたからそう書いたのだが、2人のネイティブに聞いたら、どうも難しいようだ。1人は、自分は絶対そういう言い方はしないと言い、もう1人は「あの人何に似てる?」みたいな質問に対してなら言えるだろうけど普通言わない、と答えてくれた。2人はイベリア半島のスペイン語を喋る人たちで、見つけた例は中南米のスペイン語のようなので、もしかしたら地域差があるかもしれないが、個人差や別の要因が絡んでいるのかもしれない。

というわけで、とりあえず parecerse は特定の個体に似ている場合に限って使うのが無難みたいだ。


  • 宮城昇ほか (編), 1999, 『現代スペイン語辞典』改訂版, 白水社 (iOS版, LogoVista 電子辞典 2013-204, ロゴヴィスタ).
  • Moliner, María, 1981, Diccionario de uso del español, reimpresión, Gredos (primera edición 1966-67).
  • Moliner, María, 1998, Diccionario de uso del español, 2.ª edición, Gredos.
  • Moliner, María, 2007, Diccionario de uso del español, 3.ª edición, Gredos.
  • 山田善郎ほか (監修), 2015, 『スペイン語大辞典』, 白水社 (iOS版, LogoVista 電子辞典 2017-2018, ロゴヴィスタ).