2019年9月18日水曜日

Ll / y

前回の記事で原ほかが Valladolid を「バヤドリー」と書いているのに対して僕は「バリャドリッド」等と書いた。この点について説明しておこう。

スペイン語の ll という綴りは、伝統的に音素 /ʎ/ に対応する。それに対して y が /ʝ/ を表す。例えば callar の単純過去3人称単数形 calló と caer の単純過去3人称単数形 cayó に見られる綴りの違いは、異なる発音を表す。
calló [ka'ʎo] vs. cayó [ka'ʝo]
/ʎ/ はカタルニャ語の ll (millor)、ポルトガル語の lh (melhor)、イタリア語の gli (meglio) に対応する音でもあり、伝統的にリャ行で表記される。それに対して y に対してはヤ行が使われる。

しかし現在では /ʎ/ と /ʝ/ の区別を保っている話者は少数派で、calló も cayó も同じ発音になる人の方が多い: «El más extendido en el español actual es el subsistema no distinguidor entre /ʎ/ y /ʝ/ (RAE & ASALE 2011: §6.2a)»。僕も自然な発話で区別を保っている人の喋りを聞いたのは本当に数えるほどだ。区別をしない人の発音は、ll が y に合流する形になるので、この現象を yeísmo と呼ぶ (y の発音自体は地域によって [j, ʝ, ʒ, ʃ] など色々なのだが)。

この yeísmo が一般化した状況を踏まえて、原ほか (1982: vi) は次のようなルールを立てる。
ll, y はヤ行のカタカナで表記する。lli, yi は「ジ」とする。ただし、19世紀までの人名などについては、ll + 母音はリャ、リ、リュ、リェ、リョとする
Castilla カスティーヤ、Viscaya ビスカーヤ、Lazarillo de Tormes ラサリーリョ・デ・トルメス
このルールにしたがって ll と y をヤ行で表記する人はそれなりの数いるのだが、実は僕はこの方法は嫌いだ。理由は、ヤ行の響きがスペイン語の ll/y に対して緩すぎると感じるからで、特に「ー」と併用されると全身から力が抜けていくような気さえする。個人的な感覚だから、全然そう思わない人がいても不思議ではないのだが、音声学的には、少なくとも僕が聞きなれているスペイン語においては ll/y の発音の子音性は日本語のヤ行のそれよりも高い。摩擦的噪音がほぼ聞こえないとしても、狭めの度合いは明らかに大きい (つまり狭い)。実際にはより狭めのゆるい [j] や音節副音母音 [i̯] が現れる地域もある (メキシコの一部など –RAE & ASALE 2011: §6.4h) ので、そういう発音に慣れた人は脱力したりしないのだろうけれど。

20世紀前半のスペインの発音に関して Navarro Tomás (1985: §120) は «la forma más frecuente en la pronunciación correcta, por lo que se refiere a la posición de la lengua, es suficientemente cerrada para que no haya duda en considerarla como consonante fricativa. La articulación de la y normal española es, en efecto, algo más cerrada que la que se observa en al. ja, jung; fr. hier, piller; ingl. yes, young» と言っている。ドイツ語やフランス語や英語の [j] の音と一緒にしてはいけないのだ。

僕は授業で ll/y の発音を「ヤとジャの中間」と説明することが多い。そういう音なので、カナ表記の候補としてヤ行の他にジャ行が考えられる。現に原ほかは lli, yi には「ジ」をあてている。ジャ行子音の方がヤ行子音よりも子音らしい子音だということは言うまでもない。また、「ヤ、ジ、ユ、イェ、ヨ」という一貫しない表記法はヤ行の弱点のひとつだが、ジャ行ならその問題もない。さらに、ジャ行なら [ʒ] の発音もカバーできる。断然ジャ行の方が有利だと思うのだが、やはり y の文字はヤ行という伝統が強かったのだろうか。

聴覚印象と言語学的根拠に基づいてジャ行を優先させたのは石橋 (2006) だ。
「y」「ll」はなるべくジャ行音に統一する。 ただし、筆者が現地の発音を聴いた経験上あえて「ヤ」行音を採用した場合もある (【例】Puerto Cabello プエルトカベージョ、Guayana グアヤナ) (石橋 2006: 20)。
場合によって使い分けているということだが、
いずれにせよ、「ジャ行音表記」「ヤ行音表記」のどちらが「正しいか」という議論はまったく無意味である。なぜならスペイン語にはこの両者の音韻上の区別が存在しないからである (ibid.)
という指摘は重要だ。正確には「スペイン語にはこの両者 (=日本語の「ジャ行音」と「ヤ行音」) の区別に相当する音韻上の区別が存在しない」ということだろうけど、言っていることは間違っていない。スペイン語の /ʝ/ の音声的実現領域が日本語の /y/ と /zy/ の音声的実現領域にまたがっているので、スペイン語人が日本語の「ヤ」と「ジャ」の区別が苦手だという現象が起きる (日本語人が l と r の区別が下手なのと同じメカニズムだ)。裏を返せば、日本語で「プエルトカベージョ」と言っても「プエルトカベーヨ」と言ってもスペイン語人の耳には大して違わないと予想できるということだ (実験で確かめたら予想を裏切る結果になる可能性はあるけれども)。その上で、石橋が基本的にはジャ行を使うことにしたのは、彼の耳にはジャ行の方がしっくり来るということだったに違いない。

さて、僕も、ll と y を区別せず表記するならジャ行が良いと思う。しかし、正直に言うと、「ジュカタン半島のマジャ遺跡」とか「ジェペスが弾いたファジャの曲」とか書く勇気が出ない。現実には、フラメンコ関係のものを書くときはジャ行で表記している (「セビージャ (Sevilla)」「バジェホ (Vallejo)」「シギリージャ (siguiriya)」「アマジャ (Amaya)」など) が、それ以外では ll と y をリャ行とヤ行で書き分ける保守的な表記を使っている。だから前回の記事で「バリャドリッド」と書いたわけだ。

一方、「イェペス (Yepes) が弾いたファリャ (Falla) の曲」的な表記は「原語のスペリングがわかるような書き方 (木村 1989: 193)」なので、それなりのメリットはある。少数派ではあるが、実際に区別して発音している人たちもいるので、音声的な現実の支えもある。従って、リャ・ヤ方式を排除する理由は特にない。

まあ、でも、折角だからジャ行で統一する実験をやってみようかな。ちょっと考えます。

  • 原誠ほか (編), 1982, 『スペイン ハンドブック』, 三省堂.
  • 石橋純, 2006, 『太鼓歌に耳をかせ –カリブの港町の「黒人」文化運動とベネズエラ民主政治』, 松籟社.
  • 木村琢也, 1989, 「フアンとマリーア –スペイン語固有名詞のカタカナ表記に関する二つの問題点–」,『吉沢典夫教授追悼論文集』, 191-199.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • RAE & ASALE, 2011, Nueva gramática de la lengua española. Fonética y fonología, Espasa Libros.

2019年9月14日土曜日

Consonante final

前々回予告した、「ッ」の使い道について考えてみたい。

原ほか (1982: vii) は「語末の -d, -t は表記しない」として「Valladolid バヤドリー、Ortega y Gasset オルテーガ・イ・ガセー」という例を挙げている。しかし、これらを表記しない理由の説明はない。スペイン語を勉強したことのある人なら、語末の -d は発音しなくて良いと習ったかも知れないので特に不思議に思わないかも知れないが、規範として -d や -t を発音しないことになっている訳ではない。なので、これらをカナ表記で無視するというのは原ほかの判断による。

まず -d についてアカデミアの記述を見てみよう。

Fuera del imperativo, la pérdida de -d es hoy general en español, incluso entre las personas instruidas (paré, usté, verdá), sobre todo ante pausa, aunque muy frecuentemente se repone en el plural (paredes, ustedes, verdades). La ausencia de la /d/ en el plural, en realizaciones como parés o verdás, suele estar estigmatizada, a diferencia de las formas de singular, que se consideran coloquiales. La pronunciación cuidada recupera el alófono oclusivo o el aproximante, [la.βeɾ.'ðad] ~ [la.βeɾ.'ðað] la verdad, o un alófono aproximante relajado y ensordecido [ð̥], [la.βeɾ.'ðað̥], aunque en el área leonesa y en el centro y norte de Castilla (España), especialmente en las ciudades de León y Madrid, es muy frecuente la solución interdental: [pa'ɾeθ] ~ [pa'ɾeθ] pared (RAE & ASALE 2011: §4.7ñ).

語末の -d はそれなりの教育を受けた人でも落とすことが多い (vosotros/as に対する命令形では落とさない)。だから、授業で usté で構わないと教えるのは正当化される。しかし、それは話し言葉的な特徴であり、注意深い発音では -d が保たれる (保たれ方にはいくつか種類 –異音- がある)。この記述からは、語末の -d を表記する方が穏当のように思えるが、原ほかは一般的に見られる口語的特徴を拾ったわけだ。まあ、それはそれで一つの態度ではある。

一方、現代のスペイン語では:

Los segmentos consonánticos que aparecen en esta posición son coronales, fundamentalmente dentales y alveolares: /d/, /l/, /n/, /ɾ/, /s/ en el subsistema seseante y /d/, /l/, /n/, /ɾ/, /s/, /θ/ en el subsistema distinguidor (RAE & ASALE 2011: §8.7a)

で、語末の -t は外来語にしか現れない。そして、語末の /p/, /b/, /t/, /k/, /g/ については、発音される場合もあるし、されない場合もあり、時には子音を保った上で -e を付け加える場合もあるという (idem: §8.7c)。

興味深いのは、次の観察だ。

Existe, además, algunas voces en las que el uso ha generalizado la forma adaptada sin consonante final, como cabaré, carné o parqué, del francés cabaret, carnet y parquet, respectivamente. Este es el modo tradicional de adaptación de los préstamos que poseen la consonante /t/ en posición final de palabra: bidé, del francés bidet; caché, del francés cachet; corsé, del francés corset; chaqué, del francés jaquette. A pesar de ello, se pueden encontrar también pronunciaciones con conservación de la consonante final en algunas de estas voces (idem: §8.7c)

伝統的には -t を持つ外来語の -t を落として取り入れていた、というのだが、jaquette を除けば皆フランス語でも最後の -t は発音しない。だから、アカデミアのこの記述は、音と綴りを見事に混同した、ごくごく初歩的な誤りを含む。今の議論に即して言えば、むしろ、元の言語で発音していなかった -t を発音することさえあるという点が重要だ。発音されたりされなかったりなので、どちらかに決めれば良いということになる。原ほかの扱いは -d と同じで一貫性がある。僕は、書いてあるなら表記する方が無難だろうと思う。

原ほかが挙げている例は Valladolid と Ortega y Gasset、それから Ganivet だ (Madrid は原則通りなら -d を表記しないはずだが、慣用に従って「マドリード」を採っている)。試しに YouTube で聞いてみると、少ない例だが、これら4例の語末子音はだいたい発音されている印象だ (Gavinivet の -t を発音していない明らかな例が一つあったが)。ただ、日本語話者の耳にはその子音が聞こえないことが多いかもしれない。つまり舌先が歯に届いているけれども、その後の解放・破裂が (ほぼ) ない発音だ。

子音はあるのだが日本語人には聞こえにくい、この聴覚印象を尊重して、表記しないというのは理解できる態度だが、確かにそこにあるので、僕は特に「オルテーガ・イ・ガセー」はちょっとな、と思うのだ。

では、表記するとしたらどうするか。いくつか方法がある。

123
Valladolidバリャドリドバリャドリードバリャドリッド
Madridマドリドマドリードマドリッド
Gassetガセトガセートガセット
Ganivetガニベトガニベートガニベット

上に挙げたオプションのうち、ガニベート以外はネット上で使用が確認できる (「ガニベート」も検索すると出てくるのだが、原ページに行くと見つからない)。どれも聴覚印象や原語音から距離があるが、それはもう、子音終わりの語を表記するのであれば避けられない。語中だって「マドリー madorii」の o をどうしてくれる、という話になる。だから、どれが元の音に近いかを考える必要はないだろう。

そこで、記号の機能に注目すると、「ッ」の有用性が明らかになる。スペイン語の場合、閉鎖子音で終わる語に限って「ッ」を使えば、直後の「ド」や「ト」が do や to ではなく d や t であることを示すことが出来る。木村 (1989: 193) の「原語のスペリングがわかるような書き方をする」に沿ったやり方になるわけだ。

僕は普段「マドリード」と書く。喋るときは「マドリー」と言うこともある (スペイン語を喋るときには -d を落とすことは多分ないが)。「マドリッド」は一番馴染みのない形だが、メリットがあることが分かった。これからこれを使うようになるかもしれない。Ortega y Gasset は「オルテガ・イ・ガセット」が落ち着く。

「ッ」に子音終わりを示す機能を持たせた、別の表記法を考えることも出来る。僕の知り合いに David という名前の男がいて、彼の名刺には「ダビッ」と書いてある。これは「ダビッド」よりもオリジナルの聴覚印象に近い。悪くない方法だと思うが、難点は、どの子音で終わるかが明示されないこと。「オルテガ・イ・ガセッ」とか「アラルコス・リョラッ (Alarcos Llorach –これは k の音)」とかと区別がつかなくなる。とは言え、「マドリッド」と「バリャドリッド」の「ドリ」だって全然違う2種の発音を区別していないわけだから、大した問題ではないのかもしれない。選択肢のひとつにはなるだろう。

  • 原誠ほか (編), 1982, 『スペイン ハンドブック』, 三省堂.
  • 木村琢也, 1989, 「フアンとマリーア –スペイン語固有名詞のカタカナ表記に関する二つの問題点–」,『吉沢典夫教授追悼論文集』, 191-199.
  • RAE & ASALE, 2011, Nueva gramática de la lengua española. Fonética y fonología, Espasa Libros.

2019年9月12日木曜日

Consonante larga vs. vocal larga

前の記事にいつくかコメントをもらった。予定を変えて「ッ」対「ー」の話を続けることにしたい。

僕を含めて、大学でスペイン語を専攻したあげくスペイン語で糊口をしのぐようになった人たちというのは、スペイン語の響きに対するイメージが身体感覚としてあって、それに基づいた美意識を持っている。その美意識に合わないものを受け入れるのは難しい。もちろん、イメージや美意識には個人差があるから、「ー」を多用してスペイン語の強勢のイメージをカナ書きにマッピングしたい人もいるし、僕みたいに「ー」は自分の頭の中で響いているスペイン語と似ていないことが多いからカッコ悪いと思う人もいる。

こういうイメージや美意識は、決してスペイン語そのものに内在しているのではなくて、我々が受けた教育に大きく影響を受けている。僕らの業界内での「ッ」に対する拒否反応は、僕ら自身が思っているほど客観的な事実に基づくものではない、というのが前の記事で言ったこと。正直に告白すると、僕は「オッホ」とか「セビッチェ」とかいう表記を見ると「ああ、素人さん」と思ってしまう。この感想は、スペイン語学の専門家に「ッ」を使う人はまずいない、という社会言語学的事実の反映ではあるけれども、そのように聞いてそのように表記する人がいるという言語学的事実に向き合うことを妨げる偏見でもある。今回、この年になってようやくそのことに気づいたので、反省を込めて前の記事を書いたという側面がある。

「オッホ」と「オーホ」と「オホ」がスペイン語話者にどう聞こえるかを誰か精密に研究してくれないかなと思っているところだ。

さて、そういう経緯があるので、前回の記事は少し「ッ」に肩入れした書き方をしたかなと思う。そこで、今回は「ー」派に有利にな情報を少し書いておこう。

まず、スペイン語の強勢母音が長くない、しかも日本語話者に長く聞こえないというデータは、スペイン人の、語単独の発音に基づくものだ。Navarro Tomás の本に出ている数値は元の論文 (Navarro 1916) を見ると自分自身が単語を区切って発音していたことが分かる。安富 (1992) は明示的に説明していないが、使った録音が出版物の付属テープということで、それは僕も見た (聞いた) ことがある。多分、語単独の発音の部分を使ったのだろうと思う。

スペインのスペイン語は母音が短いというのは多くの人が持っているイメージだろう。Troya Déniz (2008-2009: 309) は、カナリアスの母音はイベリア半島のより長く、プエルトリコのより短いと述べている (それでも長母音と言えるほど長くはないと言ってはいるが)。

また、語単独の発音ではなく、実際の喋りや文の読み上げでは、イントネーションや強調などの影響を受けて、母音の長さも変わり得る。«Digo la palabra ...» みたいなのの読み上げも含めて、単純に単独の語だけではない発音を材料にした研究で、強勢母音が無強勢母音より長いという報告をしているのは、Marín (1994-1995)、Cuenca (1996-1997)、García (2016)。この最後の García は、ペル (!) のアマゾン流域の方がリマよりも母音が長いとも言っている。また、語単独の発音だが、Krohn (2019) がコスタリカの発音について強勢母音が無強勢母音より長いと報告している。

ちょっとgoogleaっただけで見つかった論文がこういう結果を出していて、なあんだ、という感じではあるが、あくまで無強勢母音よりちょっと長いという話。「ー」を使いたくなるかどうかは、やはり人によるだろう。

というわけで、「ー」も「ッ」も現実をある程度反映していると言えるだろう。各自 (使うのであれば) 好きな方を使えば良いと思う。

あと、気持ちが入った発話だと臨時的に母音が長くなるという現象もある。ただし、これは強勢母音だけではなく、最後の無強勢母音が長くなることが多い。表記にもそれは反映されていて、ちょっと検索してみると «qué riiico» が81,900件、«qué ricooo» が895,000件、«qué riiicooo» が35,900件と、表記の点では最後の母音だけ伸ばすのが圧倒的だ。ちなみに «qué riiicccooo» は247件。

子音を長くするのは、僕の印象だと語頭で起こることがある。検索すると、こんなのが見つかった (セサル・アイラの Cómo me hice monja)。母音の引き伸ばしの例もふんだんにあるので、ちょっと長めに引用するが、子音のは最後の行に出てくる。

–Dingan “sí señorita”.
–¡Sí, señorita!
–¡Más fuerte!
–¡¡Síí seeñooriitaa!
–Digan “ñi sisorita”.
–¡Ri soñonita!
–¡Más fuerte!
–¡¡Ñoorriiñeesiireetiitaa!!
–¡Mááás fueeerteee!!
–¡¡Ñiiitiiiseetaaasaaañoooteeeriiitaaa!!
–Mmmuy bien, mmmuybien.


  • Cuenca, Mary Hely, 1996-1997, «Análisis instrumental de la duración de las vocales en español», Philologia hispalensis, 11, 295-307.
  • García, Miguel, 2016, «Sobre la duración vocálica y la entonación en el español amazónico peruano», Lengua y sociedad 14.2 (2014), 5-29.
  • Krohn, Haakon S., 2019, «Duración vocálica en el español de la gran área metropolitana de Costa Rica», Filología y lingüística de la Universidad de Costa Rica, 45.1, 215-224.
  • Marín Gálvez, Rafael, 1994-1995, «La duración vocálica en español», Estudios de lingüística de la Universidad de Alicante, 10, 213-226.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1916, «Cantidad de las vocales acentuadas», Revista de filología española, III, 387-408.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • Troya Déniz, Magnolia, 2008-2009, «La duración de las vocales tónicas en la norma culta de las Palmas de Gran Canaria», Philologica canariensia, 14-15, 297-312.
  • 安富雄平, 1992, 「スペイン語の母音の持続時間: 日本語の長音との比較において」,『ロマンス語研究』, 25, 81-86.

2019年9月9日月曜日

Consonante larga

長母音と対になる概念が長子音だ。とは言え、聞きなれない人が多いかもしれない。別の言い方に重子音というのがあって、そっちなら「あああれね」と思う人も多いだろう。日本語だと小さい「ッ」(促音) が音声的には長子音 (の前半部分)に当たる。それと「ン」(撥音) の後にナ行・マ行が続く時。国際音声記号で書く場合は、長いことを表す [ː] を使う (「行った」[itːa]) か、子音の文字を2つ書く ([itta])。

さて、カスティリャ語固有名詞のカナ表記についての提案の中に、「ッ」について興味を引くものがある。

  • 〔原則1〕スペイン語音についての音声学的観察結果を尊重する。
  • 〔原則2〕日本語のカタカナで表わしうるかぎり、なるべく日本人の耳に聞こえるとおりに表記する。ただし、日本人はスペイン語の発音に日本語の促音的なものを聞きがちであるが、スペイン語はそれを極端に嫌うので、この場合は原則1を優先させ、促音表記は用いない。 (原ほか 1982: vii)

この「促音表記は用いない」つまり小さい「ッ」を使わないというのは、我々の業界では割と浸透していて、これに従っている人は多いだろう。特にスペイン語学をやっている人はまず「ッ」は使わないんじゃないだろうか。

しかし、「日本人はスペイン語の発音に日本語の促音的なものを聞きがち」という観察から期待される通り、「聞こえるように」書いたであろう例がネット上で色々見つかる。順不同、思いつくままに固有名詞普通名詞取り混ぜて紹介すると: オッホ (ojo)、オルッホ (orujo)、バジェッホ (Vallejo)、アレッホ (Alejo);ケッソ (queso)、ベッソ (beso)、バルドッサ (baldosa);サラゴッサ (Zaragoza)、イビッサ (Ibiza)、チョリッソ (chorizo);ヒラッファ (jirafa);アレキッパ (Arequipa)、アレッパ (arepa)、グアッパ (guapa);アヤクッチョ (Ayacucho)、セビッチェ (ceviche)、シロッコ (siroco)。また、「リッコ」はイタリア語の ricco を写したものが多いが、スペイン語の rico に当たる例も見える。それから、スペイン語として意識されているかどうかは別として、マッチョ (macho) やチュッパチャプス (Chupa Chups) も入れておこうか。

これらの例ににおける「ッ」は音声学的に子音の長さを反映しているのかもしれない: «En posición intervocálica, inmediatamente detrás de la vocal acentuada, paso, pala, las consonantes son más largas que en ninguna otra posición (Navarro Tomás 1985: §179)。つまり、「ッ」が入っているところの子音は強勢母音の直後にあって、「長子音」と呼べるほどではないにしても、他の環境より長目なのだ。まあ、それに合わない例を挙げなかっただけの話ではあるが、パッと思いつくのはだいたいこのパタンだ (合わない例として今思いつくのは「カッシェロ (Casillero)」ぐらいで、これには別の要因が考えられる)。

というわけで、「ッ」の使い方も「ー」のそれと同じくらい合理的だということが分かった。しかし、スペイン語の専門家たちは「ッ」に対して冷淡だ。その理由を、引用では「スペイン語はそれを極端に嫌う」からとしているのだが、これは意味不明だ。日本語におけるカナ表記なのだから、聞こえるように書くということなら促音を拒否する理由はない。仮に、スペイン語としても受け入れられるような日本語表記を目指すということだとしても、日本語話者がスペイン語を喋っていて「オッホ」と言っても、生き物ではないスペイン語が「それ嫌い」とか言うはずもない。

もう少し真面目に言うならば、「スペイン語はそれを極端に嫌う」を定義してもらわないと、コメントのしようがない。ちなみに、日本語話者が「オッホ」と「オーホ」と「オホ」と言ったうちのどれが、スペイン語話者の耳に一番 ojo に近く聞こえるかという実証的研究があるという話を聞いたことがないので、僕はスペイン語話者による評価についても何も言えない。

もちろん、ああいう表現が出てきた背景を想像することはできる。スペイン語には母音の長短の区別がないのと同様、子音の長短の区別がない。そして、同じ子音が続くのは、単語の中ではごく少ない (innato, obvio...)。また、単語の連続によって同じ子音が隣り合う場合、子音1つ分しか発音されないこともある (tres salas ['tɾe.'salas], RAE & ASALE 2011: §8.8j)。つまり、同じ子音の連続を長子音としてではなく短子音で実現するというプロセスが存在する。なので、スペイン語の音韻構造には長子音を避ける傾向があるとは言えるだろう。しかし、短子音化は義務的ではない。「極端に嫌う」の根拠としてはまだまだ弱い。

原ほか (1982: viii) は、「最後から2番目の音節に強勢のある語では、その音節が開音節なら長音表記」というルールを立てている (例は「バルセローナ (Barcelona)」) ので、ojo は「オーホ」になるはずだ。でも、この表記は僕には「オッホ」とどっこいどっこいに見える (「オホ」が一番良い)。

彼らの原則1「スペイン語音についての音声学的観察結果を尊重する」に従うならば、スペイン語の強勢母音が必ずしも長くないという事実 (前の記事参照) は、上の「ー」の使用ルールを正当化しない。また、日本人学習者の耳にはスペイン語の強勢母音が長く聞こえない傾向がある (これも前の記事参照) のだから、原則2の「日本人の耳に聞こえるとおり」も「ー」の多用を支持しない。一方、「ッ」の使用は、もしかしたら Navarro の観察を繊細に拾い上げている可能性があるので原則1から外れていないかも知れないし、「促音的なものを聞きがち」な「日本人の耳に聞こえるとおり」である点で原則2に合っているかも知れない。となると、どっこいどっこいどころか「ッ」の方が良いということになりはしまいか。

正直に言えば、僕は「ッ」を使った表記はピンとこない。だが、これも恐らく慣れの問題だろう。まあ、「ー」を使わない実験中で、当然「ッ」も使わない派だから、「ッ」に慣れる機会があるかどうか分からないが。あ、でも、「ッ」には「ー」にはない使い道が考えられるので、その検討を次回することにしたい。


  • 原誠ほか (編), 1982, 『スペイン ハンドブック』, 三省堂.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • RAE & ASALE, 2011, Nueva gramática de la lengua española. Fonética y fonología, Espasa Libros.

2019年7月14日日曜日

Vocal larga

カスティリャ語固有名詞のカナ表記で音引き「ー」を使わない実験を続けている (実は今、「カスティーリャ」と書いたことに気づいて後から「ー」を消した)。さすがに幾つかは「ー」を入れたほうが断然良いと感じられるのだが、もう少し続けてみたい。

さて、カスティリャ語やカタルニャ語には母音の長短の区別がない。したがって、カナ表記で長母音を表す「ー」を使う必要は、原則として、ないはずだ。しかし、実際には「ー」が多用されている。なぜだろうか。

一番分かりやすい理由は「そう聞こえるから」というものだろう。実際、そう感じている人は多いかもしれないが、実は音声学的データは必ずしもそれを裏付けてくれない。

安富 (1992) は、日本人学習者がカスティリャ語の単語を聞いて「聞こえた通りに片仮名で書く (82)」という実験をしている。その結果を見ると、「ー」を使わない例が多い。同じ単語でも人によって「ー」を使う使わないの揺れが見られるものがあるが、使わない方が多い。11人のうち、例えば tapa は全員が「タパ」、caro は「カロ」が9人、「カーロ」が2人、という具合だ。唯一「ー」派の方が多かったのが vino で「ビーノ」が8人だった。この実験はカスティリャ語を大学で専門に勉強している3・4年生の学生が対象なので、その学習歴が結果に影響した可能性はあるが、長くは聞こえないという傾向があるとは言えるだろう。

また、木村 (1989) はカスティリャ語固有名詞のカナ表記について提案をしているのだが、そこでナバロ・トマスの有名な本のデータを紹介している。木村の言い方によれば「強勢母音の長さと、その音節タイプ・語内での位置との関係 (196)」だ。

  1. 長い:
    • Aguda の語 (n, l で終わる語を除く) papá, matar
  2. 半長:
    • Aguda の語で n, l で終わる語 sultán
    • Llana の語で、開音節 pasa
  3. 短い:
    • Llana の語で、閉音節 pardo
    • Esdrújula の語 páramo

ここで aguda は最後の音節にアクセントがある語、llana は最後から2番目の音節、esdrújula は最後から3番目の音節にアクセントのある語のこと。つまり、アクセントのある音節の母音と言っても、単語のどの位置にあるか、開音節か閉音節かによって長さが異なるわけだ。また、母音の長さを単語内部の位置と強勢の有無で分類したデータ (同じナバロ・トマスの本からのもの) も紹介している。

無強勢・語頭音節64ms
無強勢・語中・強勢より前58ms
強勢106ms
無強勢・語中・強勢より後50ms
無強勢・語末音節114ms

木村は「強勢音節の母音と語末音節の母音が長く、他が短いというはっきりした特徴が見られる。その長さの比率はほぼ2対1である (196)」と言っていて、確かにその通りなのだが、語末の無強勢母音が一番長いという点に注意が必要だ (木村はこの点には何故か言及していない)。だから、それに従えば Castilla は「カスティーリャー」と書いてもいいんじゃないか、ということになる (もちろん誰もそんな主張はしていない)。

これらのデータを踏まえて、木村は「語末・強勢・開音節は長音で表記する (196)」という規則を立てる。つまり、安心して長いと言えるのは最後の音節にアクセントがあってしかも母音で終わっているとき、ということだ。これに従えば Panamá, Perú は「パナマー」「ペルー」ということになる。確かに「ペル」は僕も書きたくない。

木村の提案の特色は、しかし、カスティリャ語の母音の長さと日本語表記における「ー」の使用をある意味で切り離す点にある。彼が依拠するのは、日本語における外来語のアクセントパタンだ。大雑把言うと、これらの語では終わりから3番目の拍にアクセント核があるという傾向がある。「アクセント核」というのは日本語の音韻論で使われる用語だが、大雑把に言うと、これがある拍までは高く発音され、その後は低くなる。この傾向に合わせて「言語の強勢音節の核母音を含む拍が、終わりから3拍目に来るように (198)」長音のしるしを入れるというのが彼の提案だ。

例えば Gómez は「ゴメス」で「ゴ」が高くその後下がる「ゴ↓メス」になる (アクセント核の直後、下がり目に「↓」を入れて示す)。一方 Felipe を「フェリペ」と書くと「フェ↓リペ」と読む人が続出することが予想されるが、「フェリーぺ」にすると「フェリ↓ーぺ」と発音してもらえるだろう。「ー」を入れることで「リ」を終わりから3拍目にした効果だ。

木村の提案はより詳細で、具体例に対応するための細則もあるので、興味のある人は現物を見て欲しい。僕は、これを見たときは巧みだと思って随分感心したのだが、今では基本的な考え方を共有していない。つまり、日本語なのだから「フェ↓リペ」で構わないと思っている (僕自身は「フェリ↓ペ」と発音するが、異なるアクセントパタンが問題になるとは思えない)。木村は「日本人がスペインの首都の名前を言っているのに、それを聞いたスペイン人が一体どこの話なのだろうなどと考えこむようでは困るのだ (193)」と言うのだが、日本語なんだから構わないのではないだろうか。木村は「マ↓ドリ」を念頭においているようだが、「マドリ↓ード」でも他の言い方でも、日本語ではこう言うのだと学び、慣れてもらえば良いだけのことだ。

もう1つ問題なのは、日本語のアクセント核とカスティリャ語の強勢を同じようなものと考えて良いのかということだ。日本語のアクセントは下降によって表現される。そして、最後に高いところを核と呼んでいるので、そこが「強い」ように思えるかもしれないが、それが果たしてカスティリャ語の強勢のように強く発音されているのか、おそらく検証されたことはない。僕は、日本人学生のカスティリャ語発音を聞いていて、アクセントのあるところを高く発音していても、それが必ずしも強く聞こえないという印象を持っているが、カスティリャ語のネイティブがどう感じるのか、興味のあるところだ。

石橋 (2006: 19) は「スペイン語のアクセント付音節は英語のそれとは異なり、(他の音節と比べて) つねに「長く、高いピッチで」発音されるとは限らない」と述べて、「ー」の使い方について独自のルールを用いている。常に長く高く発音されるとは限らないというのは英語でもそうだから、その点は修正する必要があるけれども、特にアクセントのあるところが周りの音節より低いことがあるという指摘は重要だ。単語単独の発音だと、平叙文の、最初のアクセントで上がり、最後のアクセントで下がるというイントネーションに近いパタンになる。アクセントが1箇所しかないので、そこで上がって後は下がるということになり、たまたま強勢音節が1番高くなるというだけの話だ。

さらに、木村も認める通り、「ー」の使用が全てを「解決」する訳でもない。例えば「ペルー」は「ペ↓ルー」になり、アクセント核は「ルー」とは一致しない。こういう場合、「ぺ」の高さと「ルー」の長さのどちらがカスティリャ語ネイティブのアクセント知覚に寄与するか、調べる価値はあるかもしれない。

というわけで、「ー」によってアクセント核・下降の位置をコントロールすることでカスティリャ語の単語のアクセントを「再現」する試みは、それほど有意義だとは思えない。もちろん、日本語の表記として無理がなく、カスティリャ語の発音に近いものが得られるのならば、「ー」の使用を妨げる理由もないのだが。

  • 石橋純, 2006, 『太鼓歌に耳をかせ –カリブの港町の「黒人」文化運動とベネズエラ民主政治』, 松籟社.
  • 木村琢也, 1989, 「フアンとマリーア –スペイン語固有名詞のカタカナ表記に関する二つの問題点–」,『吉沢典夫教授追悼論文集』, 191-199.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • 安富雄平, 1992, 「スペイン語の母音の持続時間: 日本語の長音との比較において」,『ロマンス語研究』, 25, 81-86.

2019年6月4日火曜日

Calamares

先日、某ファミリーレストランで食事をした時に、メニューに「カラマリフリット」というのがあるのに気づいた。イカを輪切りにしたのを揚げたやつのことだが、イタリア語で calamari は calamaro の複数形、fritto は単数形なので、輪切りにされた複数のそれのうち1つだけが揚げてあるのだろうかという議論になった。申し訳ないことに、この仮説を検証することはしなかったが、期待が裏切られて calamari fritti が出て来る可能性が高い。

だが、本当の問題は、この複数形は何の複数なのかということだ。スペイン語でも calamares fritos と複数形で言うので、これ以降 calamar / calamares の話にする (イタリア語の複数形とスペイン語の複数形が同じ理由で表れているとは限らないので)。さっきは、輪切りになった「それ」の複数形だというような書き方をしたが、実際そうだという保証はない。もしそうならば、その輪っかを1つつまんで un calamar とか、2つ食べて me he comido dos calamares と言えておかしくないはずだが、どうなんだろうか、という問題だ。ネット上の画像で見ると、calamar と単数形で言っているのは輪切りになっていないやつだ。

複数形というのは、単純なようでいて実は難しい。ネイティブには当たり前に思えるらしく、具体的で詳しい研究が見当たらない。Calamares fritos は何となく複数っぽい感じがするけれど、輪切りとは別のところに理由がないと断定はできない。あるいは puré de patatas とかはどうだろうか。直接見えるわけではないが、材料に複数のジャガイモを使っているのだろうか。それとも何か別の要因があるのだろうか。幸い、この辺りのことを調べている人がいるので、僕は何もしなくて良さそうだ。その人の研究成果が美味しい論文になるまでお腹を空かせて待つことにしたい。

2019年6月2日日曜日

Pasión

Pasión さて、『情熱でたどるスペイン史』の話も、そろそろ終わりにしたい。なので、最後を飾るに相応しいテーマが欲しい。導入として、フラメンコの歌について語ったこれなんかはどうだろうか。

愁訴(しゅうそ)するようなしゃがれ声、エネルギッシュに押し出される言葉。最初ごく小さく音節が長くのばされたうめき声が、やがて耳をつんざく悲嘆の声へと増大し、ついで急速なテンポに押しせまってきます。しかし最後には臆病風(おくびょうかぜ)にとらわれたかのようにおとろえ、くずれていくのです。怒りと憤懣(ふんまん)が悲哀とあきらめに交替し、荒涼たる悲しげな感情が歌い手をつらぬいていきます。(池上 2019: 184-185)

いやはや、想像力の豊かなこと。僕はカンテを聞いてこんな感想を持ったことはない。まあ、踊りの中には前半ゆっくりで後半テンポが上がる構成になっているものがあるので、それを拾っている部分があるのかもしれない。だが、最後の臆病風や悲哀とあきらめはどこから来たのだろうか???

前にも書いたが、フラメンコの歌詞の内容は多様だ。悲嘆と怒りと憤懣と悲哀とあきらめと荒涼たる悲しげな感情みたいな単純な分類に収まったりはしない。「ジプシーの魂のさけびのようなほの暗いカンテ形式 (池上 2019: 186)」と形容されたりするシギリジャでさえ、こんな歌詞で歌われることがある。

Delante de mi mare
no me digas na,
porque me dice muy malitas cosas,
cuando tú te vas.

「お母さんの前では話しかけないで。あなたが行った後ひどいこと言うんだから」ぐらいの意味だと思うが、母親が自分の恋人を気に入っていない時の魂の叫びなのだろう。こんな歌詞が、例えば「俺は今誰にも看取られずに病院で死んでいく」みたいな歌詞と同じメロディーで歌われるのが、フラメンコの面白いところ。カンテを味わうには形式だけ分かってもだめ、歌詞だけ分かってもだめ、ということなんだけど、それを悲嘆とか叫びとか臆病風とかで纏めないで欲しいと切に願う次第だ。

さて、今回のテーマはフラメンコではない。次の例を見るためにこの本の冒頭に戻る。

皆さんは、スペイン人というとどんなイメージを思い浮かべるでしょうか? 何と言っても情熱的な民族ということではないでしょうか。のんびりと悠長(ゆうちょう)で質素な生活をしている人たちが、ある時、いきなり情念のとりことなって大それた行動に走るのを目にすると、だれもが一驚(いっきょう)してしまいます。(池上 2019: iii)

僕はこの文章を見て一驚した。前半の「情熱的な民族」というステレオタイプが出てくるところは、一般的にそうなのかもしれないので良いとして、「のんびりと」以下は何の話をしているのか全然見当もつかない。そういう人を見たら誰もが一驚するのかもしれないが、これってスペイン人のことなのか??? こんな人いたっけ???

もちろん、多くない僕の知り合いの中に普段は悠長で質素な生活を送っているのに突然情念の虜になって大それたことをしでかすようなスペイン人がいないことは、そういうスペイン人が存在しないことを意味しない。しかし、著者はこのスペイン人像を本の冒頭に置いたわけだから、それなりに広く受け入れられたイメージだと考えているはずだが、僕はイメージのレベルでもこういうのには馴染みがない。

さっきの臆病風にせよ、この大それた行動に走る人にせよ、僕にとってかなり不思議なスペイン像は、「スペインとスペイン人を創っていった歴史は、フラメンコや闘牛に表れた情熱だけではなく、より深い意味での情熱の生成とともにあった (池上 2019: v)」という著者の考えに基づくものであるわけだが、その種明かしが本の最後の方にある。

それはサルバドール・デ・マダリアーガという現代スペインの作家・外交官が唱えている特性に近いものです。彼は『情熱の構造』(1929年) という書物で、フランス人が「思考の人」、イギリス人が「行動の人」であるのに対し、スペイン人の最大の特徴が「情熱の人」であるところにあるとしています。そしてその情熱とは、興奮を覚えながらも自分たちの内部を通り過ぎるままに放置する「生の流れと一致した感情」です。(池上 2019: 232)

なるほど、というわけでマダリアガの本を探した。勤め先の図書館には、池上が参照した邦訳版はなかったが、スペイン語版 (Ingleses, franceses, españoles) があったのでそれを借りて読んだ。僕の読んだ版は1969年にブエノス・アイレスで出たものだが、もともと1928年に英語で出版され、翌1929年にスペイン語版が出たのだそうだ (Wikipediaによる)。で、引用にある通り、イギリス人は hombre de acción フランス人は hombre de pensamiento そしてスペイン人は hombre de pasión という話なのだが、ここでの pasión は acción と対比的に用いられていて、能動に対する受動に力点が置かれている。読んだ印象としては「受動の人」、「成り行きまかせ (=「自分たちの内部を通り過ぎるままに放置する」)」だ。それは、悲嘆の叫びを上げたと思ったら臆病風に吹かれてしまうとか、突然大それたことをしでかすとかいうイメージと親和性がある。つまり、これらの「スペイン人」は実際に著者が出会った人ではなくて、マダリアガの考えに影響を受けた空想の産物なのだと考えれば辻褄が合う。

で、マダリアガの本だが、率直な感想を言えば、トンデモ本。1928年の時点では、当時のスペイン知識人のスペイン探しや raza (人種とか民族とか訳される) の概念の通用度からして、普通に受け入れられたのだろうけれど、今真面目に取り合うべきレベルの本ではない。邦訳でどう訳しているのか分からないが、raza española なんてものを自明視して、その carácter nacional の実在性を主張する本から、何が期待できるだろうか。でも、ステレオタイプの特徴は、何かしら「ああ、そうだよな」と思わせる部分があることなので、これを読んで感心する人はいるんだろうな。んー。

  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • Madariaga, Salvador de, 1969, Ingleses, franceses, españoles, Editorial Sudamericana.