2019年7月14日日曜日

Vocal larga

カスティリャ語固有名詞のカナ表記で音引き「ー」を使わない実験を続けている (実は今、「カスティーリャ」と書いたことに気づいて後から「ー」を消した)。さすがに幾つかは「ー」を入れたほうが断然良いと感じられるのだが、もう少し続けてみたい。

さて、カスティリャ語やカタルニャ語には母音の長短の区別がない。したがって、カナ表記で長母音を表す「ー」を使う必要は、原則として、ないはずだ。しかし、実際には「ー」が多用されている。なぜだろうか。

一番分かりやすい理由は「そう聞こえるから」というものだろう。実際、そう感じている人は多いかもしれないが、実は音声学的データは必ずしもそれを裏付けてくれない。

安富 (1992) は、日本人学習者がカスティリャ語の単語を聞いて「聞こえた通りに片仮名で書く (82)」という実験をしている。その結果を見ると、「ー」を使わない例が多い。同じ単語でも人によって「ー」を使う使わないの揺れが見られるものがあるが、使わない方が多い。11人のうち、例えば tapa は全員が「タパ」、caro は「カロ」が9人、「カーロ」が2人、という具合だ。唯一「ー」派の方が多かったのが vino で「ビーノ」が8人だった。この実験はカスティリャ語を大学で専門に勉強している3・4年生の学生が対象なので、その学習歴が結果に影響した可能性はあるが、長くは聞こえないという傾向があるとは言えるだろう。

また、木村 (1989) はカスティリャ語固有名詞のカナ表記について提案をしているのだが、そこでナバロ・トマスの有名な本のデータを紹介している。木村の言い方によれば「強勢母音の長さと、その音節タイプ・語内での位置との関係 (196)」だ。

  1. 長い:
    • Aguda の語 (n, l で終わる語を除く) papá, matar
  2. 半長:
    • Aguda の語で n, l で終わる語 sultán
    • Llana の語で、開音節 pasa
  3. 短い:
    • Llana の語で、閉音節 pardo
    • Esdrújula の語 páramo

ここで aguda は最後の音節にアクセントがある語、llana は最後から2番目の音節、esdrújula は最後から3番目の音節にアクセントのある語のこと。つまり、アクセントのある音節の母音と言っても、単語のどの位置にあるか、開音節か閉音節かによって長さが異なるわけだ。また、母音の長さを単語内部の位置と強勢の有無で分類したデータ (同じナバロ・トマスの本からのもの) も紹介している。

無強勢・語頭音節64ms
無強勢・語中・強勢より前58ms
強勢106ms
無強勢・語中・強勢より後50ms
無強勢・語末音節114ms

木村は「強勢音節の母音と語末音節の母音が長く、他が短いというはっきりした特徴が見られる。その長さの比率はほぼ2対1である (196)」と言っていて、確かにその通りなのだが、語末の無強勢母音が一番長いという点に注意が必要だ (木村はこの点には何故か言及していない)。だから、それに従えば Castilla は「カスティーリャー」と書いてもいいんじゃないか、ということになる (もちろん誰もそんな主張はしていない)。

これらのデータを踏まえて、木村は「語末・強勢・開音節は長音で表記する (196)」という規則を立てる。つまり、安心して長いと言えるのは最後の音節にアクセントがあってしかも母音で終わっているとき、ということだ。これに従えば Panamá, Perú は「パナマー」「ペルー」ということになる。確かに「ペル」は僕も書きたくない。

木村の提案の特色は、しかし、カスティリャ語の母音の長さと日本語表記における「ー」の使用をある意味で切り離す点にある。彼が依拠するのは、日本語における外来語のアクセントパタンだ。大雑把言うと、これらの語では終わりから3番目の拍にアクセント核があるという傾向がある。「アクセント核」というのは日本語の音韻論で使われる用語だが、大雑把に言うと、これがある拍までは高く発音され、その後は低くなる。この傾向に合わせて「言語の強勢音節の核母音を含む拍が、終わりから3拍目に来るように (198)」長音のしるしを入れるというのが彼の提案だ。

例えば Gómez は「ゴメス」で「ゴ」が高くその後下がる「ゴ↓メス」になる (アクセント核の直後、下がり目に「↓」を入れて示す)。一方 Felipe を「フェリペ」と書くと「フェ↓リペ」と読む人が続出することが予想されるが、「フェリーぺ」にすると「フェリ↓ーぺ」と発音してもらえるだろう。「ー」を入れることで「リ」を終わりから3拍目にした効果だ。

木村の提案はより詳細で、具体例に対応するための細則もあるので、興味のある人は現物を見て欲しい。僕は、これを見たときは巧みだと思って随分感心したのだが、今では基本的な考え方を共有していない。つまり、日本語なのだから「フェ↓リペ」で構わないと思っている (僕自身は「フェリ↓ペ」と発音するが、異なるアクセントパタンが問題になるとは思えない)。木村は「日本人がスペインの首都の名前を言っているのに、それを聞いたスペイン人が一体どこの話なのだろうなどと考えこむようでは困るのだ (193)」と言うのだが、日本語なんだから構わないのではないだろうか。木村は「マ↓ドリ」を念頭においているようだが、「マドリ↓ード」でも他の言い方でも、日本語ではこう言うのだと学び、慣れてもらえば良いだけのことだ。

もう1つ問題なのは、日本語のアクセント核とカスティリャ語の強勢を同じようなものと考えて良いのかということだ。日本語のアクセントは下降によって表現される。そして、最後に高いところを核と呼んでいるので、そこが「強い」ように思えるかもしれないが、それが果たしてカスティリャ語の強勢のように強く発音されているのか、おそらく検証されたことはない。僕は、日本人学生のカスティリャ語発音を聞いていて、アクセントのあるところを高く発音していても、それが必ずしも強く聞こえないという印象を持っているが、カスティリャ語のネイティブがどう感じるのか、興味のあるところだ。

石橋 (2006: 19) は「スペイン語のアクセント付音節は英語のそれとは異なり、(他の音節と比べて) つねに「長く、高いピッチで」発音されるとは限らない」と述べて、「ー」の使い方について独自のルールを用いている。常に長く高く発音されるとは限らないというのは英語でもそうだから、その点は修正する必要があるけれども、特にアクセントのあるところが周りの音節より低いことがあるという指摘は重要だ。単語単独の発音だと、平叙文の、最初のアクセントで上がり、最後のアクセントで下がるというイントネーションに近いパタンになる。アクセントが1箇所しかないので、そこで上がって後は下がるということになり、たまたま強勢音節が1番高くなるというだけの話だ。

さらに、木村も認める通り、「ー」の使用が全てを「解決」する訳でもない。例えば「ペルー」は「ペ↓ルー」になり、アクセント核は「ルー」とは一致しない。こういう場合、「ぺ」の高さと「ルー」の長さのどちらがカスティリャ語ネイティブのアクセント知覚に寄与するか、調べる価値はあるかもしれない。

というわけで、「ー」によってアクセント核・下降の位置をコントロールすることでカスティリャ語の単語のアクセントを「再現」する試みは、それほど有意義だとは思えない。もちろん、日本語の表記として無理がなく、カスティリャ語の発音に近いものが得られるのならば、「ー」の使用を妨げる理由もないのだが。

  • 石橋純, 2006, 『太鼓歌に耳をかせ –カリブの港町の「黒人」文化運動とベネズエラ民主政治』, 松籟社.
  • 木村琢也, 1989, 「フアンとマリーア –スペイン語固有名詞のカタカナ表記に関する二つの問題点–」,『吉沢典夫教授追悼論文集』, 191-199.
  • Navarro Tomás, Tomás, 1985, Manual de pronunciación española, 22.ª, CSIC.
  • 安富雄平, 1992, 「スペイン語の母音の持続時間: 日本語の長音との比較において」,『ロマンス語研究』, 25, 81-86.

2019年6月4日火曜日

Calamares

先日、某ファミリーレストランで食事をした時に、メニューに「カラマリフリット」というのがあるのに気づいた。イカを輪切りにしたのを揚げたやつのことだが、イタリア語で calamari は calamaro の複数形、fritto は単数形なので、輪切りにされた複数のそれのうち1つだけが揚げてあるのだろうかという議論になった。申し訳ないことに、この仮説を検証することはしなかったが、期待が裏切られて calamari fritti が出て来る可能性が高い。

だが、本当の問題は、この複数形は何の複数なのかということだ。スペイン語でも calamares fritos と複数形で言うので、これ以降 calamar / calamares の話にする (イタリア語の複数形とスペイン語の複数形が同じ理由で表れているとは限らないので)。さっきは、輪切りになった「それ」の複数形だというような書き方をしたが、実際そうだという保証はない。もしそうならば、その輪っかを1つつまんで un calamar とか、2つ食べて me he comido dos calamares と言えておかしくないはずだが、どうなんだろうか、という問題だ。ネット上の画像で見ると、calamar と単数形で言っているのは輪切りになっていないやつだ。

複数形というのは、単純なようでいて実は難しい。ネイティブには当たり前に思えるらしく、具体的で詳しい研究が見当たらない。Calamares fritos は何となく複数っぽい感じがするけれど、輪切りとは別のところに理由がないと断定はできない。あるいは puré de patatas とかはどうだろうか。直接見えるわけではないが、材料に複数のジャガイモを使っているのだろうか。それとも何か別の要因があるのだろうか。幸い、この辺りのことを調べている人がいるので、僕は何もしなくて良さそうだ。その人の研究成果が美味しい論文になるまでお腹を空かせて待つことにしたい。

2019年6月2日日曜日

Pasión

Pasión さて、『情熱でたどるスペイン史』の話も、そろそろ終わりにしたい。なので、最後を飾るに相応しいテーマが欲しい。導入として、フラメンコの歌について語ったこれなんかはどうだろうか。

愁訴(しゅうそ)するようなしゃがれ声、エネルギッシュに押し出される言葉。最初ごく小さく音節が長くのばされたうめき声が、やがて耳をつんざく悲嘆の声へと増大し、ついで急速なテンポに押しせまってきます。しかし最後には臆病風(おくびょうかぜ)にとらわれたかのようにおとろえ、くずれていくのです。怒りと憤懣(ふんまん)が悲哀とあきらめに交替し、荒涼たる悲しげな感情が歌い手をつらぬいていきます。(池上 2019: 184-185)

いやはや、想像力の豊かなこと。僕はカンテを聞いてこんな感想を持ったことはない。まあ、踊りの中には前半ゆっくりで後半テンポが上がる構成になっているものがあるので、それを拾っている部分があるのかもしれない。だが、最後の臆病風や悲哀とあきらめはどこから来たのだろうか???

前にも書いたが、フラメンコの歌詞の内容は多様だ。悲嘆と怒りと憤懣と悲哀とあきらめと荒涼たる悲しげな感情みたいな単純な分類に収まったりはしない。「ジプシーの魂のさけびのようなほの暗いカンテ形式 (池上 2019: 186)」と形容されたりするシギリジャでさえ、こんな歌詞で歌われることがある。

Delante de mi mare
no me digas na,
porque me dice muy malitas cosas,
cuando tú te vas.

「お母さんの前では話しかけないで。あなたが行った後ひどいこと言うんだから」ぐらいの意味だと思うが、母親が自分の恋人を気に入っていない時の魂の叫びなのだろう。こんな歌詞が、例えば「俺は今誰にも看取られずに病院で死んでいく」みたいな歌詞と同じメロディーで歌われるのが、フラメンコの面白いところ。カンテを味わうには形式だけ分かってもだめ、歌詞だけ分かってもだめ、ということなんだけど、それを悲嘆とか叫びとか臆病風とかで纏めないで欲しいと切に願う次第だ。

さて、今回のテーマはフラメンコではない。次の例を見るためにこの本の冒頭に戻る。

皆さんは、スペイン人というとどんなイメージを思い浮かべるでしょうか? 何と言っても情熱的な民族ということではないでしょうか。のんびりと悠長(ゆうちょう)で質素な生活をしている人たちが、ある時、いきなり情念のとりことなって大それた行動に走るのを目にすると、だれもが一驚(いっきょう)してしまいます。(池上 2019: iii)

僕はこの文章を見て一驚した。前半の「情熱的な民族」というステレオタイプが出てくるところは、一般的にそうなのかもしれないので良いとして、「のんびりと」以下は何の話をしているのか全然見当もつかない。そういう人を見たら誰もが一驚するのかもしれないが、これってスペイン人のことなのか??? こんな人いたっけ???

もちろん、多くない僕の知り合いの中に普段は悠長で質素な生活を送っているのに突然情念の虜になって大それたことをしでかすようなスペイン人がいないことは、そういうスペイン人が存在しないことを意味しない。しかし、著者はこのスペイン人像を本の冒頭に置いたわけだから、それなりに広く受け入れられたイメージだと考えているはずだが、僕はイメージのレベルでもこういうのには馴染みがない。

さっきの臆病風にせよ、この大それた行動に走る人にせよ、僕にとってかなり不思議なスペイン像は、「スペインとスペイン人を創っていった歴史は、フラメンコや闘牛に表れた情熱だけではなく、より深い意味での情熱の生成とともにあった (池上 2019: v)」という著者の考えに基づくものであるわけだが、その種明かしが本の最後の方にある。

それはサルバドール・デ・マダリアーガという現代スペインの作家・外交官が唱えている特性に近いものです。彼は『情熱の構造』(1929年) という書物で、フランス人が「思考の人」、イギリス人が「行動の人」であるのに対し、スペイン人の最大の特徴が「情熱の人」であるところにあるとしています。そしてその情熱とは、興奮を覚えながらも自分たちの内部を通り過ぎるままに放置する「生の流れと一致した感情」です。(池上 2019: 232)

なるほど、というわけでマダリアガの本を探した。勤め先の図書館には、池上が参照した邦訳版はなかったが、スペイン語版 (Ingleses, franceses, españoles) があったのでそれを借りて読んだ。僕の読んだ版は1969年にブエノス・アイレスで出たものだが、もともと1928年に英語で出版され、翌1929年にスペイン語版が出たのだそうだ (Wikipediaによる)。で、引用にある通り、イギリス人は hombre de acción フランス人は hombre de pensamiento そしてスペイン人は hombre de pasión という話なのだが、ここでの pasión は acción と対比的に用いられていて、能動に対する受動に力点が置かれている。読んだ印象としては「受動の人」、「成り行きまかせ (=「自分たちの内部を通り過ぎるままに放置する」)」だ。それは、悲嘆の叫びを上げたと思ったら臆病風に吹かれてしまうとか、突然大それたことをしでかすとかいうイメージと親和性がある。つまり、これらの「スペイン人」は実際に著者が出会った人ではなくて、マダリアガの考えに影響を受けた空想の産物なのだと考えれば辻褄が合う。

で、マダリアガの本だが、率直な感想を言えば、トンデモ本。1928年の時点では、当時のスペイン知識人のスペイン探しや raza (人種とか民族とか訳される) の概念の通用度からして、普通に受け入れられたのだろうけれど、今真面目に取り合うべきレベルの本ではない。邦訳でどう訳しているのか分からないが、raza española なんてものを自明視して、その carácter nacional の実在性を主張する本から、何が期待できるだろうか。でも、ステレオタイプの特徴は、何かしら「ああ、そうだよな」と思わせる部分があることなので、これを読んで感心する人はいるんだろうな。んー。

  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • Madariaga, Salvador de, 1969, Ingleses, franceses, españoles, Editorial Sudamericana.

2019年5月30日木曜日

Cante, baile, toque

『情熱でたどるスペイン史』がフラメンコを扱った部分、もう少し。

完成した形では、歌 (カンテ)、ダンス (バイレ)、ギター (トーケ) の三要素が不可欠です。それらの三要素の相乗効果により、人間の体験の根っこにあるものをまざまざと表現するのです (池上 2019: 184)。

これは完全に間違っている。どのように間違っているのかというと、3要素が「不可欠」なんてことはない、というごく単純な話だ。だが、なぜかこんな風なことを言ったりする人が時々いる。さらに、最近はほとんど聞かなくなったが、カンテ・バイレ・トケの「三位一体」なんていう言い方がされていたこともある。なので、それを真に受けてこんなことを書いてしまった著者はむしろ可哀想だと思う。でもちょっと考えれば分かることなのにな。

カンテの完成した形はカンテだ。ギターの伴奏がつくことが多いが、無伴奏の形式 (トナ、マルティネテ) もある。カンテがカンテとして成立するためにバイレは必要ない。というか、バイレが無い方がカンテとしての完成度は高い。フラメンコの愛好者たちは、カンテ1人ギター1人で繰り広げられるカンテのリサイタルを好んで聴く。このような歌が主役のカンテと、踊りの伴唱は、心構えの点でも表現性の点でも、かなり異なる。前者を「前に出て歌う歌 cante p’alante」後者を「後ろで歌う歌 cante p’atrás」と言うこともある。当然、前に出て歌える人と後ろでしか歌えない人とでは格が違うということになっている。とは言え、これも向き不向きがあることで、ソロで才能を発揮しても踊り歌に必要なリズムがいまいちなんて人もいるという話だし、ソロでは大したことないけれど泣ける踊り歌を歌うカンタオルもいる。

ギターも、カンテやバイレの伴奏とギターソロの間に似たような違いがあるだろう。ギターソロが、要素数が少ないから完成度が低いと考える人はいない。たった1人で「人間の体験の根っこにあるものを」表現できるギタリストはいるわけだ。もちろん、伴奏の名手達がフラメンコ史を作ってきたことも忘れてはいけない。フラメンコ史はカンテを中心に語られるのが普通なので、カンテ伴奏の方がソロより扱いが大きいぐらいだ。そして、そういう名手達の伴奏は本当に本当に深い。

バイレも、完全な無伴奏で踊ることは可能だが、多くの場合ギターとカンテを伴う。想像するに、「三位一体」みたいな考え方はバイレのあり方として出て来たのだろう。つまり、バイレにとって普通と言って良いフォーマットにおいて演者間の関係が持つ重要性を指摘した言い方だったのではなかろうか。演者同士がうまい具合に助け合い刺激し合って良いパフォーマンスができるということはある。逆に、協働が上手くいかなければ、それぞれが十分に力を発揮できなかったりする。まあ、バイレに限った話でもフラメンコ固有の性質でもないはずだが。

あ、あとはパルマ (手拍子) は打楽器の一種と考えられる。だから三位一体じゃなくて四位一体だ。パルマのソロというのはないが、パルマだけの伴奏で歌うことも踊ることもできる。ギター1本の演奏にパルマが加わることもある。

クラシック音楽なら、ピアノソナタがピアノ協奏曲より完成度が低いという人はいないだろうと思う。『白鳥の湖』を観に行って歌がなかったのが残念と言う人もいないだろう。なぜ、フラメンコについては最初に挙げたような不思議な発言がまかり通るのだろうか。僕には、日本のフラメンコ受容がバイレ中心だったこと以外の説明が思いつかない。

浜田 (1983: 12) は「踊り、ギター、歌 –あるいは歌、ギター、踊り。ともかくフラメンコの小宇宙は、この三つでできあがっている。どれかひとつでも欠けたら、このジャンルは淋しくなってしまう」と言っているのだが、これは「ジャンル」の話をしているのだ。オーケストラの曲だけしかなかったら、クラシック音楽のジャンルは随分淋しいものになるだろうと言うのと同じことだ。浜田は続けて「と言っても、矛盾するようだが、この三つはそれぞれ独り立ちもできる」と言っている。いや、全然矛盾しないのだが、浜田は当時の日本のフラメンコの状況を念頭に、バイレのことしか頭にない読者を想定してこんな書き方をしたのかもしれない。近年はカンテについての知識が広まって来ているので、もう、こんな書き方をしなくて良くなっている (と思いたい) が、フラメンコに触れたことのない人たちにとっては、まだまだ「ジプシーのダンス」みたいなイメージなのだろうか。

  • 浜田滋郎, 1983, 『フラメンコの歴史』, 晶文社.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.

2019年5月18日土曜日

Voz afillá

歌は一般的に声を使って遂行するものなので、それぞれのジャンルで声についていろいろな議論があることだろう。フラメンコのカンテについては、いわゆる美声でないものを尊ぶ伝統がある。『情熱でたどるスペイン史』の著者も、その点に気づいて「(たましい)の奥底からしぼり出されるようなしゃがれ声 (池上 2019: iii)」と言っているのだが、前半の魂云々は措いといて、「しゃがれ声」がフラメンコ的な声だと見なされているのは事実だ。

Molina & Mairena は、オペラで評価される声はフラメンコではむしろ欠点と見なされると言う。

Tiene el cante su “voz propia”. La del tenor o el barítono, del contralto o la tiple educados en el Conservatorio no sólo no sirve, sino que es incompatible con él. Exige una calidad especial y una manera característica de emitirla, calificada certeramente por Georges Hilaire de voz de arriére (sic) gorge o gutural, pero no basta con eso: la voz debe adquirir una peculiar tensión, hay que saber “estirarla”, como dicen algunos aficionado. Limpidez, transparencia, pureza, calidades tan estimadas en la ópera –y el canto en general– constituyen inadmisibles defectos en el arte flamenco (Molina & Mairena 1979: 82).

喉声、というだけでなく、独特の張りが必要だと言うのだが、僕もイメージとしては分かる。もちろん、Molina & Mairena が長くない引用の中で繰り返し強調しているように、クラシック音楽の声とは美意識がはっきり異なる。だが、これは声の使い方の問題で、「しゃがれ声」みたいな声質の話をしているのではないことに、注意が必要だ。Molina & Mairena は、続けて声の分類をしている。どう訳していいのか分からないので、日本語はつけない。それぞれの声の代表が挙げられているので、参考になるかもしれない (idem: 82-83)。

  1. Voz afillá (Manolo Caracol, María Borrico)
  2. Voz redonda (Tomás Pavón, La Serrana, Merced la Serneta, Pastora Pavón)
  3. Voz natural (Manuel Torre)
  4. Voz fácil (Paquera, Perla de Cádiz)
  5. Voz de falsete (Pepe Marchena, Chacón)

最初の voz afillá がタイトルに挙げたやつで、例えば、浜田 (1983: 364) が「マノロ・カラコールは、生来、またとない“ボス・アフィジャー”、つまりフラメンコ風なしわがれ声の持ち主であった」と述べている。性質としては «ronca, rozada y recia» で、19世紀のカンタオル El Fillo にちなんで、エル・フィジョ風と言ったわけだ。Molina & Mairena によれば19世紀に最も評価された声だという (何を根拠に「最も」だと判断したのか不明だが、とりあえず、時代による好みの変遷があるという点は重要だ)。ただし、カラコルの声は、僕の語彙力ではあまり「しわがれ」という印象でもないのだが。

2番目の voz redonda は «dulce, pastosa y viril» なのだという。名前が挙がっている4人のうち3人が女性だが、これはむしろ「男性的な」という記述に対する注釈的な意味を持つ。そしてこれが «voz flamenca» とも呼ばれるというから、この本が書かれた1960年代には、これがフラメンコの典型的な声というイメージがあったのだろう。録音を聞いてみて、パストラ・パボンつまりニニャ・デ・ロス・ペイネスは、もしかしたら「しゃがれ声」だと思う人がいるかもしれないが、弟のトマス・パボンの声は全然しゃがれていない。

3つ目のは voz de pecho とか voz gitana とか呼ばれたりもするそうで、voz redonda に近いが «rajo» という特徴を持っている点が voz afillá に近いのだという。僕の印象ではマヌエル・トレの声は嗄れていない。

Voz fácil は voz cantaora とも呼ばれ «fresca y flexible» で、フィエスタ向きの軽目の歌に合うらしい。パケラもペルラもしわがれ声ではない。

最後のは直訳するとファルセット、裏声ということになる。細かい装飾的なメリスマに適した声で、チャコンがレバンテ系のカンテに使ったというのだが、チャコンの録音を聞く限り、裏声で歌ってはいない (晩年の最後の録音では、部分的にもしかしたらという所はあるが)。マルチェナも、もし使ったとしても部分的だろう。言いたいことが本当の裏声ではなくてそれっぽい声質のことだったとしても、チャコンについての記述は明らかに声の使い方の話で、分類が一貫していないということが分かる。

まあ、この分類も Molina & Mairena の独断と偏見に基づくものだろうから、本来目くじらを立てるほどのものではないのだが、この本が持った影響力の大きさを考えると、フラメンコ史の一コマとして批判的に見ておくことに意味はある。また、挙げられているカンタオレスの名前が、最後のチャコンとマルチェナを除いてジプシーだというのも気になる。つまり、ここには「裏声が効果的な非ジプシー的な形式」対「ジプシーの声で歌う本格的なカンテ」という図式が透けて見えるわけだ。ちなみに、ジプシー的な声という概念があるが、僕には聞いただけでは歌い手がジプシーかどうか判別できない。

さて、フラメンコの声は、ある美意識で括ることが、もしかしたら出来るかもしれないが、その中では多様だということが分かった。また、時代ごとの流行りもある。1930年代の華やかなファンダンゴで競い合った高音・美声とか80年代90年代のカマロン声とか、いろいろだ。フラメンコを聞き慣れない人が「しゃがれ声」という言い方に頼る気持ちは分かるが、一旦その日本語を忘れて聞いてみることをお勧めする。

  • 浜田滋郎, 1983, 『フラメンコの歴史』, 晶文社.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • Molina, Ricardo & Mairena, Antonio, 1979, Mundo y formas del cante flamenco, 3.ª, Librería Al-Andalus (1.ª edición publicado en 1963, Revista de Occidente).

2019年5月12日日曜日

Penas

今回はカンテ (フラメンコの歌) の歌詞が「民族の悲哀を訴える (池上 2019: iii)」ものなのかどうかを考える。前回に引き続き、「民族の悲哀」は「〇〇民族の悲哀」と読み替え、「〇〇民族」は「ジプシー」のことと想定して議論を進める。

とりあえずの結論めいたことを先に書くと、カンテ・フラメンコには、ジプシーであることに起因する悲哀と呼んで良いものを表現した歌詞は存在するが、極めて少ない。

テーマとして最も多いのは (やっぱり) 愛だという: «Hemos repasado nuestra experiencia y las principales colecciones de letras y hemos comprobado que no sólo las amorosas son las más abundantes, sino que el resto (incluso las de inspiración religiosa) están en conexión con el amor (Molina & Mairena 1979: 100-101)». そして Molina & Mairena はテーマの分類をしている (idem: 101)。多い順かどうかは不明なのだが、少なくともその中に「民族の悲哀」はない。

  1. Letras amorosas.
  2. Maldiciones, denuestos y amenazas.
  3. Tema de la madre.
  4. Tema del padre.
  5. Dinero y pobreza.
  6. Saber y experiencia inútiles ante el amor y la muerte.
  7. Sentencias morales.
  8. La muerte.
  9. Fatalismo y destino.
  10. Honra y deshonra.
  11. Religiosidad e irreligiosidad.
  12. Burla y humor.
  13. Vanidad de las cosas mundanas.
  14. Astros y fuerzas naturales.
  15. Paisajes y criaturas naturales.

このことは、共著者の1人であるアントニオ・マイレナがジプシーのカンタオルであり、ジプシー的カンテの徹底的な擁護者であったことを考え合わせると、さらに大きな意味を持つ。

一方、飯野 (2002: 2) は「発生以後200年以上が経過した現在では、当然の事ながらコプラの中で歌われているテーマは多種多様となっており、フラメンコの本質を見誤らせかねない」と述べ、「フラメンコの発生にもっとも大きなインパクトを与えたであろうと見られる彼らの迫害の記憶が歌われている歌詞」を考察している。その中には、確かに gitano, caló, calorró といった「ジプシー」を表す語が明示されつつ、彼らが被る迫害や差別を歌った歌詞がある。ひとつだけ、飯野が「弱小民族としての嘆き」(!) と題したところから紹介しよう (idem: 12)。

En el barrio de Triana
se escuchaba en alta voz,
pena de la vida tiene
todo aquel que sea caló.

トリアナ地区で、ジプシーはみんな死刑だという声が響いた、ぐらいの意味で、この内容に対して「悲哀」という言葉は軽すぎるかもしれない。

それはともかく、現在の歌詞の多様性から見れば少数派だから取るに足らない、というわけにはいかない、というのが飯野の立場だ。

取り上げた歌詞の多くは、tonás, martinetes, carceleras などという名前で呼ばれる無伴奏のカンテ、および、嘆き節たる seguiriyas –かつては plañideras > playeras とも呼ばれた– に現れるものである。従ってフラメンコの最古層を成しており、その歌詞のもつテーマや響きが、その後に続くフラメンコの発展に際しても、フラメンコの根幹を特徴づけることになった。 (飯野 2002: 25)

確かにそうだと言えるのだが、ちょっと注釈が必要だ。ジプシーの迫害という歴史的事実があり、現在まで差別はなくなっていない。それがカンテに歌い込まれることがあるのも事実だ。また、飯野が言うように、「カンテの古層」に詠み込まれた歌詞がその後のこのジャンルの発展に一定の方向性を与えたというのもそうだろう。だが、これらの歌詞が、本当に本当のジプシーである迫害の当事者が歌ったものが伝えられてきたのだと思うのはナイーブすぎる。マイレナのカンテ・ヒタノ論が影響力を持っていた頃は、フラメンコというジャンルが確立するまでの何世紀かの間、ジプシーたちは内輪で (非ジプシーに知られない形で) 自分たちの歌を歌い・伝承していたという説が信じられていたこともあった。しかし、近年の研究で明らかになって来ているのは、19世紀半ばに芸能としてのフラメンコの成立に大きな役割を果たしたのは、「ジプシー」のイメージだったということだ。それ以前はモリスコたちが理想化されて文学的想像力の源泉になっていたのが、19世紀にジプシーがそれを受けつぐ。

Como sucedió con la materia morisca, cuando Ginés Pérez de Hita quiso pasar por originalmente musulmanes ciertos romances que eran sencillamente castellanos, también ahora se defendió la existencia de una poesía gitana “auténtica”. De ella habla un George Borrow y la creencia llega hasta Antonio Machado y Álvarez, Demófilo, cuando apunta la idea –que tanta fortuna posterior ha tenido– de que el cante flamenco no es sino una degradación, al andaluzarse y agachonarse, de un supuesto cante gitano primitivo. El hecho cierto, como demostraron ya Hugo Schuchardt y otros, es que ni este cante ni esta poesía “auténticamente” gitana han existido con anterioridad a la acuñación en e siglo XIX, del gitanismo idealizante. (Baltanás 1998: 213)

Baltanás は「ジプシーが密かに連綿と受け継いできたカンテ」は19世紀に創作されたものだと言っているわけだ。つまり飯野が挙げた歌詞は、19世紀以降にジプシーが理想化され神秘化され文学的なテーマとなった、その結果生み出されたものだということになる。

研究者の中には、18世紀の段階でジプシーという民族はすでにフィクションだっと言う人もいる: «la existencia de una raza gitana ya era una ficción en el siglo XVIII: Ser gitano significó menos pertenecer a un grupo étnico entre otros que pertenecer a las clases más bajas y despreciadas de la sociedad andaluza (Steingress 2005: 222)»。演じ手としてフラメンコの成立に寄与したのは、スペインの下層社会の人たちであって、特にジプシーを分けて考えることはできないというわけだ。だが、受け手が期待したのは「ジプシーの」芸能だった。特に外国からの旅行者たちの存在は大きい。そうなると、本物偽物取り混ぜて、演じ手たちは「ジプシーらしい」芸を見せ・聞かせることに精を出すことになるだろう。

フラメンコがジプシーなしには成立しなかったというのは本当だろう。だが、正確には理想化された (創作された) ジプシーのイメージなしには、と言うべきだ。「民族の悲哀」も、その過程でテーマ化され表現されたものなのだろう。もちろん、この「創作」が全然現実との接点を持たないものだと言っている訳ではないし、これでフラメンコの価値が下がる訳でもない。また、このイメージが今に至るまでフラメンコのあり方に大きく影響を与えて来たことも事実だ (僕は、作られた伝統は作られた時点で現実を動かす力を得る、とかなんとかどこかに書いた覚えがある。つまりそういうことだ)。

僕は個人的に、フラメンコの歌詞の多様性がフラメンコの良いところだと思う。ジプシーが出てくる歌詞は少なくないが、彼らが受けた迫害を歌ったカンテを生で聞いた明確な記憶はない。悲哀や苦悩を語る歌詞も少なくないが、それはジプシーかどうかに拘らず誰もが持ちうる感情だ。そして、人だから恋もするし、可笑しければ笑うし、Molina & Mairena が挙げたようないろいろな感情がテーマになる。フラメンコを聞いて、もし「民族の悲哀」しか聞こえてこないようだったら、耳の精度を疑ってみた方が良いだろう。

  • Baltanás, Enrique, 1998, «La gitanofilia como sustituto de la maurofilia: del romancero morisco al Romancero gitano de Federico García Lorca», en Steingress, Gerhard and Baltanás, Enrique (coord. y ed.), Flamenco y nacionalismo. Aportaciones para una sociología política del flamenco, 207-222.
  • 飯野昭夫, 2002, 「フラメンコの歌詞におけるジプシー的要素に関する考察 –迫害の痕跡を求めて」, 『語学研究』99, 拓殖大学言語文化研究所, 1-27.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • Molina, Ricardo & Mairena, Antonio, 1979, Mundo y formas del cante flamenco, 3.ª, Librería Al-Andalus (1.ª edición publicado en 1963, Revista de Occidente).
  • Steingress, Gerhard, 2005, Sociología del cante flamenco, 2.ª, Signatura Ediciones.

2019年4月27日土曜日

Modo de mi

『情熱でたどるスペイン史』における「高速タップ」の分析は終えたので、続きを見るために「はじめに」の部分を再引用する。

スペイン人の情熱が集約されたような芸能に、フラメンコがあります。激しいリズムの舞踏(ぶとう)と高速タップ、民族の悲哀(ひあい)を訴えるメロディーと歌詞、(たましい)の奥底からしぼり出されるようなしゃがれ声、薄暗いホールのなかで演じられる情熱のパフォーマンスに感化され、私たち観客の体内でもしだいに電流のボルトが上昇して、胸がいっぱいになってきます。私はこれまで、二度フラメンコを見る機会に恵まれましたが、いずれも圧倒的な感銘(かんめい)を受けました。(池上 2019: iii)

まず意味不明なのが「民族の悲哀」だ。例えば「人生の悲哀」と言えば、生きることが内包する、生きる人が経験する悲哀のことだろう。「サラリーマンの悲哀」はサラリーマンであることに起因するものだろうか。だが、「民族」はどうか。民族であることが内包する、民族が経験する、民族であることに起因する、という言い方が変なことから分かるように、「民族の悲哀」は意味をなさない。

ここまで読んで「そんなことはない、意味が通じる」と思った人は、おそらく具体的な「〇〇民族」を念頭に置いている。「あなたはサラリーマンですか」という問いが成立するのに対して「あなたは民族ですか」は成り立たないが、「あなたは〇〇民族(の人)ですか」はOKだ。心優しい読者つまりあなたは、「〇〇」を補って読んでいるのだ。研究者は意地悪な読者になる訓練を受けているので、こういう書き方にはツッコミを入れる。あなたは「〇〇」に何を入れただろうか? 「スペイン」? それとも「ジプシー」? それは著者の意図と一致しているだろうか? と言うか、なぜ著者は「〇〇」を書かなかったのだろうか?

一方、「人生の悲哀」は人生特有のもので、人ではない神や猫は人生の悲哀を持たないと考えられる。自営業者はサラリーマンの悲哀を経験しない。まあ、「悲哀」は専門用語ではないので、厳密に考えるとかえって現実から遠ざかることになるかもしれないが、意味の方向性は大体そういうことだ。そうなると、仮に「〇〇民族の悲哀」なんてものがあるとしたら、それは「××民族」にとっては無縁のものだろう。つまり〇〇民族であるからこその悲哀であるはずで、でなければわざわざそんな言い方はしない。

まあ、「〇〇」の想像はつく。それは多分「ジプシー」だ。実際、「ジプシーの悲哀」はネット上でもゴロゴロしていて、言い古された陳腐な表現だと言って良い。もちろん、その陳腐さは意味不明な省略を許す理由にはならない。

さて、とりあえず「民族の悲哀」を「〇〇民族 (多分ジプシー) の悲哀」と解釈することにして、さらにそれが何を意味するか深く考えないことにするが、その「悲哀を訴えるメロディーと歌詞」も、やはり意味不明だ。メロディに何の訴えを聞き取るのも自由だし、2回ぐらいのショー見物でステレオタイプ的なイメージを発見して喜んでいる人に説教するのは本意ではないが、これは研究者が異文化に言及する時に使うべき表現ではなかろう。

伝統的なフラメンコには曲という概念がない。あるのは「形式」で、スペイン語では estilo とか palo とか言う。例えばソレアとかアレグリアスとかタンゴとか言っているものがそれだ。大雑把に言うと、これらはリズム、調性、メロディなどによって特徴づけられる。ソレアもアレグリアスもリズム的には12拍子だが、調性の上では前者がミの旋法 (後述)、後者が長調という点で異なり、それぞれ複数のメロディが伝承されている。アレグリアスは12拍子・長調のカンティニャスというグループに属するが、同グループ内の他の形式とはメロディで区別できる。そして、いくつか例外と言ってよい場合はあるものの、メロディと歌詞は1対1対応しない。つまり、同じメロディで色々な歌詞を歌うのが普通だし、ある歌詞が異なるメロディで歌われることも珍しくない。さらには、複数の形式で歌われる歌詞さえある。

ここから言えることは、メロディや形式は具体的な意味を持たないということだ。つまり、メロディは〇〇民族の具体的な状況を、悲哀であれ何であれ、表現していない。同じメロディが、人生の悲哀を表現した歌詞で歌われることもあれば、恋心を訴える歌詞で歌われることもある。形式という器が、歌詞が扱う範囲も含めて基本的な「気分」を持ってはいるが、そしてそれは形式の理解にとって重要ではあるが、メロディが何かを訴えるようなこととは全然別の話だ。

もし彼が「民族の悲哀を感じさせるメロディー」とか言ったのであれば、個人の感じ方の問題でしかないので、こんな文章を書く必要もなかったのだが、フラメンコを聞いて悲哀とか哀愁を感じる人は少なくないようだ。これには恐らく、ミの旋法が関わっている (「ミの旋法」は modo de mi の訳だが、別の言い方もある)。浜田 (1983) が1章割いて論じているほどのテーマで、僕もその内容を十分に理解している訳ではないが、とりあえず、長調でも短調でもない旋法だ。長調がドを主音にし、短調がラを主音にするのに対して、ミの旋法はミを主音とする。試しに音階が出せるものでミファソラシドレミを出してみたら、ドレミファソラシドよりはラシドレミファソラに近いという印象を持つ人が多いのではなかろうか。これがフラメンコが感じさせる哀感の原因のひとつであることは間違いない。

ミの旋法を東洋的と感じる人もいて、アラブの影響が考えられたりした時期もあったようだ。しかし、ミの旋法「を地中海諸国にひろめたのがアラビア人ではなく、それより古い –おそらく遥かに古い– 時代から普及して (浜田 1983: 91-94)」いたようで、「少なくとも南欧 (ことにスペイン) では、「長・短両調型」ではない、いわゆる「古代旋法」の昔風な民謡群のうち、いちばん普遍的でかつ歴史が古い、強力なもの (idem: 94)」だという。実際、長調・短調の体系は比較的新しく、ヨーロッパの「1600年頃までの音楽はいわゆる「教会旋法」に基づいてい (東川 2017: 191)」た。しかも、教会旋法の中のフリギア旋法と呼ばれるものがミの旋法とよく似ている (似てはいるが違うらしい。どう違うのか僕は理解していない)。つまり、ミの旋法は古くから西洋で使われていた旋法の一種で、特に東洋的なわけでもないし、この旋法自体に特定の「民族の悲哀」が込められていたりもしないわけだ。

メロディと旋法についてはこのくらいで切り上げて、「民族の悲哀を訴えるメロディーと歌詞」の後半、歌詞については次回 (多分) 取り上げることにしよう。

  • 浜田滋郎, 1983, 『フラメンコの歴史』, 晶文社.
  • 池上俊一, 2019, 『情熱でたどるスペイン史』, 岩波ジュニア新書, 岩波書店.
  • 東川清一, 2017, 『音楽理論入門』, ちくま学芸文庫, 筑摩書房.